はじめに
隊 員
青年海外協力隊
協力隊参加の意義
海外協力活動

教 室
現場勤務型
本庁、試験所型
ポランティア
実践者
青年
立場と品位
実りと国益
あとがき

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1998〜2000 Shoichi Ban
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   ボランティア・スピリット 伴 正一 講談社 1978.3.30

 
 
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 13 実りと国益***********************************************************

 精神の荒廃が識者に叫ばれるようになってきた。しらけ、無気力といった類の言葉も〃荒廃〃を描写する言葉として氾濫している。それにもかかわらず、この事柄は、新聞の紙面をみても、国民の関心度からいっても、経済問題、物的環境問題に比して、取り上げられ方が刺身のツマ程度でしかない。しかもその中身をみてみると、問題を指摘して現状を憂えはするが、内容的には、たんなる願望の表明にとどまっているものがほとんどだ。

 これは〃国益〃の問題として深刻に考えていいことだと思う。国益も、また、海外市場や資源の見地から取り上げられすぎているのではあるまいか。

 かりに、国民の〃活力〃が国益の重要な構成要素として認られているとしたなら、無気力の瀰漫は、恐るべき〃国益の喪失〃としてもっと大きい形で問題化し、物価問題以上に〃施策に立ち入った〃論議が行われているはずである。散発的でなく持続的に、夜の席でなく昼間の時間帯に、一部によってではなく全体によって、論ぜられ煮つめられていなくてはならないはずである。そこまできていれば、心の問題を論ずることが現実味を帯び、いままでのような修辞的な美辞麗句の羅列では、事がすまないところまで論点が前進してきているにちがいないのである。しかし現状は明らかにそこまできてはいない。そこで、隊員と協力隊を軸に進めてきた、前章までの叙述の仕方からしばらく離れ、国益概念の再構築を試みながら、そこから協力隊に迫るという廻り道をしてみたいと思うのである。

 〃一億〃の桃源郷

 言葉はなくても、国益に該当する観念はかなり古くからあったものと推測ができる。

 外敵から集団を守るのは、生活のすべてと、それを支えるものすべてを守ることで、そのなかには、風俗、習慣から信仰、政治形態まで、多くの無形のものも包含していた。ところが今世紀後半、地上の一部に出現した豊かな社会は、対外、対内を問わず〃守るべきもの〃を不鮮明に」つつある。一方では史上空前の富を庶民のものにする反面、それらの人間社会が、長いあいだかかって育んできた多様な〃無形価値〃を自ら平気で踏みつぶしつつあるのである。

 人類がいまだかつて直面したことのない、歴史的局面だといわなくてはならない。

 富はもとより忌避すべきものではない。それは力量の増大であり、人間がなしうることの限界を拡げるものでもある。だが残念でならないのは、人々が、富をコントロールする能力を失い、生きるに必要なものを充足しえた後、富を投入すべき対象目的を見失っているのではないか、ということだ。意味のある投入目的をみいだしえないまま、たんに富を増量するだけの過程がくりかえされる。富がえたいの知れないものへと肥大化しつつあるのである。

 遊びの世界から趣味の世界ヘ、そして音楽や美術など、いわゆる〃文化〃の世界へと関心が向かうことは、富を活かすのに好ましい一傾向であろう。だが、豊かな社会の包蔵する問題は、こういう狭い意味での〃文化国家の建設〃をめざすだけでは解消しないと思う。なぜとならば、今日的な世界のなかで、ことに、今日的なアジアのなかで、他の貧困をよそに、日本列島上の一憶人だけが、一億のための〃桃源郷〃づくりに没頭などできるはずがないからである。

 富―そのたしかな意義

 富は、その帰属する集団を超えて、外にその使途を求めない以上、じゅうぶんな〃活路〃はみいだせないのではないか。ここまで考え方をつめてくると、いままでの国益概念にとらわれているかぎり、豊かな社会の、広汎な課題は、解明の緒もつかみえず、解決のメドも立たないと思われてならないのである。経済的な国益概念の行きづまりは、いまやはっきりしてきたような気がする。
「なにが国益か」
ということを、新しい世界史の局面から考え直さなくてはならなくなってきた。

 道義の通用しない世界、権謀術数に満ちた世界といわれている国際関係のなかでは空論の謗りをまぬがれないかもしれないが、日本の富を
「世界に有用なもの」
として、日本の国是の大黒柱とすることはできないものであろうか。日本の富が、〃守られるべきもの〃として人類社会の認可を受け、それを増量する一億の営みのなかにも、〃意味ある目的〃が設定されるではないか。〃生きがい〃を蘇らせる道は、貧乏に戻ることなどにありはしない。富を増量する営みのなかに〃確かな意義〃をみいだすことにあるのだ。げんに個人については、こういう人生観が多くの人によって持たれている。生きがいというものの内容は、多かれ少なかれ、こういう性質のものなのではないか。それが、個人では成り立っていて、どうして集団のばあいに成り立たないといいきれよう。力を合わせるということが加わるだけではないか。

 一億の活力

 ひるがえって考えるに、富は、雑草のように自然にはびこるものではない。人間の力によってはじめて、その増量が可能なのである。しかも、富はその増量過程において、恐るべき副作用、人間の活力と諸機能を退化させる要因、を内包している。活力といい人間機能というものを、維持し発達させるには、発達の段階に即応してこれを使わなくてはならない。にもかかわらず、富とその生み出すものが、人間機能を使うことを不要にし、結果的には人間機能を〃眠らせてしまう〃のである。げんにこの現象は、すでにわが国で顕著に出はじめている。

 富を増量する営みのなかに、前述のような〃確かな意義〃をみいだす、ということは、かくして蘇るであろう生きがいを通じて、人間機能の退化という富の副作用から、日本列島上の一億を救うであろう。新しい〃励み〃が生まれる。

 〃世界のため〃といってもいい、〃世界のためにも〃といってもいい、一億は健在であらねばならないのだ。一億の〃なしうることの限界〃が拡っていくなかで、父祖が口にしてきた大我の教えが生かせるようになってきている、というものではないか。

 現下の日本にとって急務なのは、「自らの富を世界に有用なものたらしめる」という国是の設定と並んで、「一億の活力と人間機能を維持し、再開発する」ということを、大きく国益のなかに織りこむことではないかと痛感するのである。

 大樹の芽

 そこで、こういう国益への展望を背景に、協力隊活動の成果を点検すると、隊員が肌で感じて帰ってくる人間形成の意味が、遠ざかって富士を望むときのように、大きく浮かびあがってくる。

 その働きは世界のためであった。しかも隊員は、協力活動の過程で自らの富の増量を企図していない点〃世界のため〃ということが直線的であった。具体的には、一つの国の国づくりへの参加だが、縦からみても横からみても、そして隊員個々の実感のうえでも、狭い日本の国益に奉仕したものではない。それが日本の国益に合致するのは、この章で提唱した新しい国益概念を前提としたときにおいてのみである。

 隊員は厳しい境遇のなかで生きた。豊かな日本では使わずじまいであったはずの人間機能を、向こうでは使いつづけることを強いられた。自分の力を、挫折や無力感にみまわれながら〃実践〃の場で試すことができた。試練への挑戦が、もう言葉だけのものではなくなっているはずである。

 豊かな社会で失われつつある、貴重な無形の価値が〃現地〃で生きていることに気がついたのも、隊員のいう収穫である。異民族の生き方にふれて〃価値の多元性〃に開眼した隊員たちは、日本民族の伝統価値のなかで、なにを残しなにを捨てるべきなのかの選択眼を、自然とその体験のなかで養ってきているにちがいない。

 感受性に富んだ、人格形成の重要時期のこれらの体験は、それから後のものの考え方を、決定的に方向づけることであろう。

 協力隊に参加した人々は、
「世界のために生き、そのために健在であらねばならぬ」
という、日本人一億の共通目的設定の意義を、もっとも早く、もっともよく、理解するグループになるであろう。彼らは相互に、方法論のうえで意見を異にし、支持する政党を異にしても、新しい国益概念構築の国民的作業の過程で、予想以上に大きい影響力を発揮するものと期待される。そして、もしそうなっていくならば、隊員は、二年が終わって日本の津々浦々に散った後も、生涯、日本と世界を結ぶかけ橋として〃世界に生きつづける〃であろう。

 二年の終了は、エンド・オブ・ザ・ビギニングにすぎない。

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