はじめに
隊 員
青年海外協力隊
協力隊参加の意義
海外協力活動

教 室
現場勤務型
本庁、試験所型
ポランティア
実践者
青年
立場と品位
実りと国益
あとがき

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1998〜2000 Shoichi Ban
All Rights Reserved.

   ボランティア・スピリット 伴 正一 講談社 1978.3.30

 
 
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 1 隊員
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 隊員の働いているのは、外国といっても概してふつうの日本人が行かないところである。そういう土地でポツンと一人でいる隊員に出会うと、たいていの日本人はいぶかしげな顔をする。それがカトリックの宣教師ででもあればあまり不思議がりはしないだろうが、そうでなくて、別に宗教などと関係のなさそうな日本の若者だから、出会ったほうが首をかしげるのである。「この国のお手伝いに来ている」と言われても、常識で直ぐには合点がいかない。

 こんな出会いから、驚きが感動になって、ひどく隊員をほめてくださる方もある。「いまどき日本にこんな青年がいるとは?」。時には「日本の将来も捨てたものではない」とまで言ってくださる方もあるが、概して青年海外協力隊は、予備知識のない人には分かりにくい。

 広尾(東京)の協力隊本都で、帰国した隊員に面接していると、つもる話はいいこと悪いこといろいろと出るが、さて協力隊に参加したことを、いまどう思っているか、という段になると、まず、百パーセント「行ってよかった」という答が返ってくる。参加者からみた協力隊観を知るうえで興味深いことである。

 日本に帰ったばかりの農業隊員が、友だちのなかでもとくに親しかった高校時代の同級生と、二年ぶりに酒をくみかわしていた。

「久しぶりだなあ」 
 やがて、メコンの流れ、タット・ルアンの祭り……と話がはずんでいく。
「仕事というのはながなかうまくいかないよ」 
「ラオスの人たちが何千年来やってきたやり方を、僕の説得で変えさせようなんてのはたいへんなんだ」
「でもよく考えてみれば、そういう在来のやり方のなかにも馬鹿にできないことがあってね。たとえば……」 
 しかし隊員の話が佳境に入っていくころ、友だちのほうは目が棚の上のテレビにひかれはじめていた。遠い国に住む異民族の、心の深層部に触れはじめようとしているのだが、これはまだいまの日本では特殊な人の関心事でしかない。こういう内容の話を膝を乗り出して聴くには程遠いのが、いまの日本人であり、いまの日本である。アジアやアフリカを旅行する日本人が、突然、隊員と出会ったときのいぶかしげな顔と、いまの話はどこかで軌を一にするものがありそうに思われる。

 生活を民衆とともに 
  
 隊員は質素な生活をしている。商社や進出企業でアジアやアフリカに勤務している同年輩の日本人が、現地の一般生活とはかけ離れて豪華な生活をしているのと対照的である。「民衆と生活をともにする」という協力隊のモットーは、かなりよく浸透していて、いまの日本人が持っている海外生活の通念からすると、隊員は、「よくもまあ」と感心されるくらい現地式の生活になりきっている。

 民衆と生活を共にする覚悟でいても、蝿が真黒にたかっている食べ物が、最初からやすやすとのどを通るはずがない。特別頑丈な胃腸の持ち主ででもない限り、はじめから、雨水をためた民家の水をガブ飲みすればやられるにきまっている。事実、現地の人々の食べている物が体に合わなくて苦労している隊員もいるにはいる。生活を現地民衆のレベルまで落としきることは、なかなかむずかしいことなのだ。だが気持ちの持ちようというものは恐ろしいもので、若い体の持つ抵抗力にも支えられているのだろうが、隊員たちの民衆への溶け込み方、適応ぶりは一応見事だと言っていい。しかもそれを、たいていの隊員は、別に苦にしているようでもない。そこらあたりがふつうの日本の旅行者には解せないのである。

 最近の帰国隊員で、こんなことを言っている女性がいた。
「日本に帰って来て、物の豊富なのを見ていると、なにか恐ろしくなります」 
  
 心ある者をハッとさせる言葉である。いったいこういう恐ろしい言葉がこの若い日本女性のどこから出てくるのであろう。二年の重みだなあと思う。

「二年くらいで本当に現地の民衆に溶け込めるはずはない」 
「隊員はどこかでお客様扱いをされているに違いない」 
  
 こう言われれば、それもその通りである。そのこともあって協力隊では、 
「ほめられて思いあがるなかれ」 
 と戒めている。しかし、遠い異境に生きた二年の体感から生まれる"豊かな社会"へのこの視線の鋭さはどうだろう。豊かになってまだ不満だらけの日常日本人の変態ぶりを衝きえて鮮やかではないか。

 若者の遊びという人もいるが 

 隊員は若い。ときたま四十に近い人もいるが、原則として三十五歳まで。平均年齢でいえば、日本出発の時点で二十五、六、帰国時で二十七、八歳である。なぜが年より若く見られがちで、協力隊は"はたち"そこそこと思いこんでいる人も少なくはない。そんな思い違いも手伝って、 

「感心は感心だが、その年で、本当に仕事らしい仕事ができるのだろうか」 
 と危ぶむ声をよく耳にする。

「きれいなことを言ってみても、つまるところは遊びではないのか。若い者には勉強になることだし、親善の面ではすばらしいことに違いないけれども……」 
 というわけである。たしかに、そういうことになりかねない。げんに協力隊自身が、 
「うっかりしていると、たいせつな二年が〃青春の優雅な休暇〃に終わってしまうぞ」 

 という戒めの言葉を繰り返している。職種のちがい、任地のちがいなどが重なって、隊員の職場環境は文字通り千差万別である。そのなかには、西洋人が統治していたころの厳しさが根づいていて、日本にいるときよりも厳格な職場規律が生きている場合もあるにはあるが、概して、日本での職場よりはノンビリしている。そのうえにお客様扱いされる面もある。

 職場環境がこういう具合で、自分の技術がまだしっかりしていないとなると、はじめはなんとかしなくてはと自分を励ましていても、そのうちに息切れがし、ノンビリ・ムードに感染しやすい。その日暮らしの日々を送るようになり、つい、投げ気味のまま無為に二年を過ごしてしまうことになりかねないのである。

 賞めた目で見つめる

 ところが協力隊では、一方でそのことを戒めながら、むしろそれとは逆のことを強調している。

「現地のぺースをたいせつにしろ」 

「事情ものみこめないうちから張り切るものではない」 

 そしてそれを〃協力活動〃の要諦の一つだと言いきっている。なぜか。この点は、協カ隊を理解するうえでのたいせつなポイントなので、すこし立ち入って説明をしておく要があろう。

 言葉の遊戯のようだが、〃技術の移転〃という概念で〃協力活動〃をとらえていると、やることがどうもおかしくなる。どんな具合におかしくなるかというと、隊員の持ち合わせている技術が中心(座標軸)となり、あたかも中世の天動説がそうであったように、自分中心の考えが展開していくのである。設備やシステムを考えるにあたっても、自分の技術を発揮したいという潜在的願望が先にたって、〃現地に根づきそうなものを〃というもっともたいせつな〃思考展開の基準〃がどこへやらいってしまう。

 設備やシステムを導入するばあい、自分がいる間だけは動かせるが、自分がいなくなれば、一回の故障で機能がとまってしまうようなものを平気で取り入れようとするのである。悪いことに、この傾向は、隊員の側に出やすいだけでなく、現場の実情にうとい先方のお偉方にも出やすい。彼らは権勢誇示、ときには国威発揚の気持ちも手伝って、民衆からみれば〃高嶺の花〃でしかない現在不相応なものを欲しがったり、非現実釣な目標を立てたがる。文字通り〃魚心に水心〃というところであろう。そういう心理的相互作用から足を洗って、地についた〃協力活動〃を進めていくためには、理想、情熱を否定するのではないが、〃覚めた目〃がいる。

 民衆の声

 隊員に民衆の〃せせら笑い〃が聞こえるゆとりがあるといいと思う。率先垂範して反当たり収量をあげてみても、民衆の反応は、 

「あんなに働けば、だれだってそれくらい作れるさ」 
 ということかもしれない。労働意欲の問題、もっとつきつめると生活意識の問題、価値観の問題である。

「あれほど金をかけ、肥料を入れれば、それくらいにはなるだろうよ。しかし、三年前のような洪水でもあったら、肥料代は丸損ではないか」 

 そんなに金のかかる改善は、資力の乏しいこの村には合わないことだ、と民衆が喝破しているのである。

「あんな混み入った機械は、あの日本人がいる間、その関係で部品も入ってくる間だけのものさ。おれたちだけになったら、直りっこないだろうな」 
  
 技術水準のことをチャンと見ている点でも、民衆の目の高さには侮りがたいものがある。

 意識と、資力と、技術と、この三つの面での現状をとらえ、その変わり具合と伸び具合をみながら、〃現地に根づくもの〃を求め続けていけば、一度は笑われることがあっても、やがて立ち直れる。現地の人の思いをくみ、それを身に感じとっていきたいものだと思う。

 現地に溶け込むということは、現地の人々が言葉にして言う前に、その目つきや態度でその反応をキャッチできるようになること、あるいはさきほどのような言葉を、自分が現地の人になったつもりで自分にブチつけてみられるくらいになることだと言うことができる。こう考えてくると、〃優雅な休暇〃になる心配よりも、独り相撲の勇み足になる心配のほうが大きい。むずかしい兼ね合いの問題だが、どちらかといえば勇み足になるなということのほうを、より強調せざるをえない。

 南北問題の核心 

 南北問題は先進国と後進国(その多くは第二次大戦以後独立、最近では開発途上国、または略して〃途上国〃とよばれる)の間に経済格差があり、しかもそれが拡大傾向を帯びているという事態を課題としてとらえたものである。その意味で南北問題はたしかに〃経済問題〃に違いないが、格差の原因を探れば探るほど実は〃マンパワーの質の問題〃であることがわかる。しかもそれが社会体質と深くかかわり合っており、さらには〃価値観〃を離れて考えられないものを包蔵しているのである。

 そのことを考えると、若者に避けがたい未熟さはあっても、望んで奥地に住み現地社会への溶け込みを特技とする隊員たちの存在を無視することはできない。十年そこそこしか経っていない協力隊は、まだ未知数だといわなくてはならないが、これからのやり方いかんで、〃青年の協力活動〃が途上国援助の重要な一翼を担う可能性は大きく、筆者は、歴史がこのことを証明する日のあることを、信じて疑わないのである。

 一匹狼 

 青年海外協力隊という名称は、部隊編成を想像させる。しかし、事実はさに非ず、げんに約五百名の隊員たちが、二十余りの途上国に展開しているけれども、そのほとんどは別れ別れの形で仕事に就いているのである。首都から行くのに、往復十日みておかないと危ういようなところにも隊員はいる。隊員の大部分は一匹狼的な存在なのである。

 さらに興味のあることは、実際がそうなっているだけでなく、そういう現実が隊員の気風に支えられているということだろう。青春の二年を〃棒に振って〃やって来た隊員にしてみれば、同じ職場に別の隊員がいるかいないかは、二年の意義を左右するほど大きい事柄なのである。日本語で話のできる同僚が一人でもいると、心理的には半分日本にいるのとおなじになるが、一人配置だとそういうことがない。当初は心細くても、気持ちの整理がついてしまうとかえってそのほうがサッパリした心境になる。

 こうした、その土地とその社会にドップリつかった境涯こそ、応募の段階から隊員が心に描き続けてきた、現地生活の〃絵図〃なのだ。げんに奥地転勤志願が跡を絶たないのに、都市への転勤志願はめったにみられない。たんに奥地とか都市というだけでなく、一匹狼になりたいという隊員の気風がよく現れていると思うのである。

「協力隊参加は、農業や小企業の後継者にはうってつけの修行だがなあ」 
 といつも思う。若くして孤独を味わわせることが、後日経営者となった場合、大変役にたつはずだ、という気がしてならないのである。これは仕事のうえだけではない。今の日本では、テレビをひねればドラマが出、手をのばせば新聞がある。別に自分で工夫などしなくても、高度に発達した社会のメカニズムが、人間を遊ばせてくれ、気を紛らわせてくれる。

 ところが隊員のいる現地では、そういう異常な世界はまだほとんど現出していない。遊ぶ遊び方まで自分で工夫する。日本のような受動の世界でなく、なにからなにまで自分の知恵袋との相談であり、よく考えると、それこそが人間生活の原点なのだ。

 孤独、そして、原点に立ち帰ること、その生涯的意義は、なにも後継者に限ったことではない。人間の思考力に新しい芽をふかせるという意味で、豊かな社会の中ではめったに得られない、よい機会だと思うのである。

 協力効果を高めるには、バラバラに隊員を送るよりも、チーム化したほうがいいという意見がある。それは理論的にいえば正しいのかもしれない。しかし〃協力活動〃は人間関係のうえに成り立つものなのだから、現地の人の意識構造に配慮すると同時に、協力する隊員相互の人間関係や意識構造にも同様の配慮をしなくてはならないのではあるまいか。

 日本平和部隊?

 これは日本国内でのことであるが、〃青年海外協力隊〃といって通じないとき、日本の〃平和部隊〃というと比較的よく通ずる。アメリカでケネディ大統領が平和部隊(ピース・コー)をはじめたことはよく知られていても、日本に青年海外協力隊というものの存在することはそれほど知られていない(実際には、平和部隊のように日本で知られてはいないが、現在先進国と名のつく国のほとんどからボランティアが途上国に出ていて、各国のグルーブは互いに国際的な姉妹団体の関係に立っている)。

 知名度のことはさておき、アメリカの平和部隊と日本の協力隊にはどういう共通点と差異があるのであろうか。共通点で大きいのはもちろんどちらもボランティアであることだ。自分の発意で参加していること、人のための奉仕活動であること、報酬を求めないことがそれである(おもしろいことには現地生活の実費として支給される海外手当の額が、他の先進国のばあいに比較してかなり低目におさえられている点でも、GNP一位のアメリカと二位の日本が共通している)。それでは差異のほうはどうか。

 一言で言うと、協力隊が水際立って技術協力指向型だ、ということだろう。平和部隊も最近はかなり技術協力的要素を重視するようになってきているが、その大宗は依然として文科系、とくに英語教師で、それも英語が母国語であることから、文科系の大学、大学院在籍者がかなりの数を占めている。

 プロ・社会人 

 それに比較すると協力隊はまさに〃プロ部隊〃〃専門屋集団〃である。日本語と理数科の二教育職種を除けばほとんどの隊員は学歴の面での専攻と隊員としての職種が一致している。職歴の面でも、自分が今まで日本で飯を食ってきた同じ職種で向こうでも働くのがふつうである。

 この差異は募集、選考の方法に大きく影響するのであって、平和部隊がどちらかといえば〃商品生産方式〃に似た見込み募集のパターンに立っているのにたいし、協力隊では徹底した〃受註生産〃の募集パターンをとることになる。〃註文取り〃業務が重要になるのである。どんな職場で、なにを担当する人を先方が求めているかを克明に調べてからでないと、募集にかかれない。

 選考に当たっても、予定されている配置先の職場状況や担当業務を念頭におきながら、志願者の専攻分野や実務経験を精査する。事前調査が完璧だとはまだまだいえないし、選考業務のうえで改善の余地は多いが、それでも〃受註生産〃方式からくるこまかい気の配りようは、平和部隊にはみられない特色だということができよう。

 技術協力指向から生まれる今一つの特色は、隊員の中に占める社会人の比率が高いということである。実務経験をやかましくいうと、そうなるのが当然で、協力活動期間の隊員の平均年齢が二十五、六から二十七、八歳という事実もこのことを裏書きしている。そこで思うのであるが、そこまでいけば、彼らは青年といってももう学生的な年頃ではない。

 国によっては、おなじ年配の人が大臣をしていることもある。日本でこそ半人前の扱いしかされていないが、その国生れでその国なみの格付けをされると仮定したら、いや応なしにかなりの要職についていい年頃だということになる。人も、物も、システムもそろっていないその国の現実を直視し、乱暴かもしれないが、日本国の年齢観を捨てさって、別の年齢観で思考し、行動したらどうだろう。

 協力隊の主人公は隊員である、という言い方がされている。それは隊員がボランティアであるということを構造図式で言い直したものなのだが、これはどういうことを意味しているのであろうか。

 国際協力事業団の行っている青年海外協力隊の仕事は俗に協力隊事業といわれ、国の事業であることに間違いはない。だが、その事業の実体は、隊員にたいする支援事業の性格を持つ。協力隊事業の主体は隊員一人一人であって、国でもなければ、国際協力事業団でもない。隊員が主人公だといわれているゆえんである。この点が明確になっていないと、あちらこちらで誤解と混乱が生ずるので、この点を軸にして協力隊システムの基本構造を説明しておきたいと思う。そして、それには協力隊発足の経緯や、その間にあった理念論争にも触れていかなくてはならないであろう。
 

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