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右か左かの踏み絵風(4)−「靖国問題」とはなにか

2006年06月28日(水)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
 ■コステルマノ軍人墓地

 次の外交紛争は、犠牲者や被害者の感情を傷つける可能性があれば、死者の尊厳の尊重という原則が制限される例である。

 北イタリア・ヴェローナ近郊のコステルマノ村に1967年に造成されたドイツの軍人墓地がある。ガルダ湖を眺望する丘陵にあるこの墓地に約二万二千名の兵士が埋葬されていて、その墓石には戦没兵士の名前と所属と階級が、また墓地の入り口の追悼施設にある金属製碑板「栄誉の書」に埋葬兵士全員の名前がそれぞれ刻み込まれている。昔からドイツの「国民哀悼日」の式典がコステルマノ軍人墓地で催されて、ミラノ駐在独総領事が追悼のあいさつをし、イタリア人関係者も参加することが伝統になっていた。

 1988年にイタリア人歴史学者編集の本が出版されたことがきっかけになって、この軍人墓地に無名とはいえない人物が埋葬されていることが判明し、この結果独伊間の外交問題に発展した。それは、ナチSS親衛隊員のクリスティアン・ヴィルト、フランツ・ライヒライトナー、ゴットフリート・シュヴァルツの三名である。ヴィルトはドイツ国内の障害者等を安楽死させる計画の実行者であり、大量殺人ためのガス利用の発案者といわれている。絶滅収容所でベウジェツ、ソビブル、トレブリンカの所長をつとめ排気ガスによる大量殺人を指揮し、ここで170万から190万人のユダヤ人が殺されたとされる。

 その後彼はトリエステ近郊の強制収容所所長になり、4千人のユダヤ人とイタリア人パルチザンを虐殺した。他の二人も(ライヒライトナーはソビブル絶滅収容所の副所長として、またシュヴァルツはベウジェツ絶滅収容所で副所長として)それぞれホロコースト実行にかかわっただけでなく、1943年からは「裏切り者」・イタリア人の拷問や、復讐のための非戦闘員銃殺の責任者であった。

 三人とも戦時下死ななかったら、ニュールンベルク継続裁判でユダヤ人虐殺のために「人道に対する罪」(C項目)で、また北イタリアでの行為で「通常の戦争犯罪」(B項目)で確実に死刑に処されたといわれる。このような人々のお墓が自国領土にあることが判明してイタリア人が複雑な気持になったの当然である。

 1988年彼らのお墓がコステルマノ軍人墓地にあることがわかると、マンフレート・シュタインキューラー独総領事(当時)は自分がその年の国民哀悼日にそこへ赴いて式典に参加することが「良心に反する」と表明し、ドイツ側にこの三人の名前を墓石ならびに「栄誉の書」から消すことだけでなく、三人の遺骨を掘り出してドイツに改葬することを要求した。元パルチザン・イタリア人の団体(ANPI)が怒っただけでなく、総領事というドイツの外交官までもがこのような要求を出したこともあって、その前年まで「国民哀悼日」の式典に出席していたイタリア人関係者(近隣の町の市長や公務員や軍人)も出席を拒んだ。

 その後独伊間で水面下の交渉があって、1992/93年にドイツ側は、1)金属製碑板「栄誉の書」の三人の名前(、ヴィルト、ライヒライトナー、シュヴァルツ)を削って消し、2)墓石の刻み込まれた三人の所属と階級表示を消して名前だけにして、3)この軍人墓地が戦没者追悼のためであることを内容とする碑板をつくるという措置をとって、その結果また以前と同じようにイタリア人関係者も「国民哀悼日」の式典に出席するようになった。

 死者の尊厳の尊重という原則のみにしたがえば、別に1)、2)の措置をとる必要がないことになる。とはいっても、例えば家族をトレブリンカ絶滅収容所で失ったユダヤ人にも、またトリエステ近郊のサン・サバ収容所でナカマを殺されて自分も拷問された元パルチザンのイタリア人にも、「クリスティアン・ヴィルトSS親衛隊少佐」を眼にしたら感情が傷つくのではないのだろうか。この事情を配慮して、死者の生前の活動を犠牲者に想起させる要素を消す措置がとられた。更に、ドイツ側に追悼以外の別の意図がないことを今一度強調する3)の措置がとられたことになる。

 私はドイツ側でこの種の問題を担当する人と話す機会をもったが、ここでとられた措置によって、彼の見解では、死者の尊厳と被害者の感情のどちらをも尊重することができたことになる。実際地元のイタリアも満足しているので彼がそう判断していいように思われる。またドイツの軍人墓地は至るところで似た問題を抱えているので、今後問題が発生したら似たような方式で解決ははかるつもりであると彼は語った。

 それでは、この独伊間の解決案を靖国神社に適用したらどうなるであろうか。中国外相だけでなく、多くの日本人も、日本の政治家の靖国神社参拝が「中国人民と、侵略戦争により損害を受けたその他国の人民の感情を傷つける」と述べている。また日本にも「A級戦犯」の分祀を求める声は跡を絶たない。

 それに対して、私たちは、すでに述べたが、次のような立場をとることができる。靖国神社も欧米の戦没兵士追悼文化と同じように反業績主義の立場をとり、そこに合祀されるのは「侵略戦争を発動し指揮した」という生前の業績のためではなく「戦没兵士と同然の扱い」をされたからで、こうして「A級戦犯」はそこにいない以上、存在しないものを除くことも論理的に不可能である。それだけではない。死者の名前を取り除くことは死者の尊厳の尊重という文明社会の原則に反する。

 私たちは以上のように主張することができるが、そうしない。どんな原則も別の重大な理由があれば制限されるべきであるという立場をとる。中国をはじめその他の近隣諸国の国民感情を傷つけてはいけないというのもそのような重大な理由になり、隣国の国民感情を傷つけないために私たちにできることがあればするべきである。ドイツ側は当時このように考えて碑板「栄誉の書」の三人の親衛隊員の名前を消した。日本も似たようなことをしてもいいはずである。

 ところが、そう思った瞬間に私たちのほうは途方にくれてしまうのではないのだろうか。というのは、名前を消すとは見えていた名前を見えなくすることであるが、周知のように霊璽簿(合祀名簿)に記入された名前ははじめから見えない。ということは、すでに問題が解決されているともいえるし、見えていないものを(これ以上)見えなくすることは余計なことである。そんな余計なことは、死者の尊厳の尊重という重要な原則を制限するべき重大な理由になりえない。
    
 ■私たちはどうしたらのいいのか

 戦没兵士追悼と関連した紛争をここに紹介したが、最後の例からわかるように外交問題の「靖国問題」は、本当に実体のある問題とはいえない。というのは、戦没兵士の名前を隠すという靖国神社の反顕彰的性格のために問題が解決されているからである。とすると、多くの人々は本物の靖国神社についてでなく、自分の頭の中にあるファントム(亡霊)のような存在の「靖国神社」に賛成したり、反対したり、身勝手な期待をしたり、怒ったりしているとしか思えない。

 大江健三郎をインタビューして「日本の戦争犯罪人が(靖国神社に)葬られている」と思っているドイツ人記者や、また「ドイツの政治家のヒットラー追悼」にたとえる李中国外相の頭の中にあるものもそのようなファントムの「靖国神社」である。彼らが問題とする「靖国神社」の特徴は本当の靖国神社でなく、愛知県にあって日本国民大多数が知らない7人の「A級戦犯」のお墓「殉国七士廟」にあてはまる。

 ここに書いた戦没兵士追悼文化についてよく知らない人でも、靖国神社と「殉国七士廟」がまったく異なったものであると直感的に思うのではないのか。誰か外国人が四国のほうが九州より大きいといえば、面積を数字でいえなくても、「それは間違いです」というしかない。靖国もこれと似て本当は靖国参拝に反対・賛成以前の問題ではないのか。

 ところがそうならないとしたら、話が「靖国問題」となった途端、靖国神社と「殉国七士廟」の違いが消えて、本当の靖国神社はファントム「靖国神社」に変わってしまうからである。こうであるのは、今まで何度も繰り返したが、私たちの意識に根を降ろした「右か左かの踏み絵風」構造のお陰で「右か左か」となれば、靖国神社も「殉国七士廟」も右方向にあって同じになるからである。このような私たちのファントム「靖国神社」が国際社会で踏襲されて生まれたのが実体のない「靖国問題」である。

 戦後60年以上も経過し、その間戦没兵士を政治的立場の表明手段、すなわち「紙と棒切れ」と見なして、彼らの追悼など独自の問題として重視しなかった私たちが今さら「国立戦没者追悼施設」をつくりたいというのは奇妙な話である。突然こんな願望を抱くのは、靖国神社と「殉国七士廟」の相違を国際社会に対して説明するのが面倒になったからではないのか。

 一年一度決まった日に国民が自国戦没兵士追悼をするのは、ドイツを含めてどこの国でもしていることである。靖国神社がここまで国際社会で誤解されて隣国と外交問題になったことも、また日本がきちんと説明しようとしないことも、残念なことである。他人の誤解をただすことができないのは自分で自分のことがよくわかっていないからでもある。これは(、靖国神社に限らないが、)国際社会の中で本当に自国を理解してもらう必要性を私たちが感じていないからでもある。日本人にとって国際社会とは自国が活躍する舞台・国威発揚の場に過ぎないのかもしれない。

 今まで靖国に参拝した首相は戦没者追悼がその目的であると表明し、また外務省も同じ見解を発表するが、内外のメディア関係者からは無視される。靖国神社は、「ナチ指導者のお墓」に似たもの、「殉国七士廟」であり、その結果参拝が軍国主義肯定と誤解される。この現状を変えるためになにかできるはずである。ドイツはイタリア・コステルマノ軍人墓地での紛争で「戦没者追悼のため」を強調する碑板をあらたにつくったが、靖国神社の前にも類似した碑板を設置するなどして国際社会に対して「戦没追悼施設である」こと明記するべきである。境内に全世界の戦死者や戦争で亡くなった人の霊が祀られている鎮霊社がある。本殿に参拝した首相がこの鎮霊社にも参拝すると、軍国主義の肯定でないことを表現することができる。他にもできることは山ほどあるはずだ。

 次に靖国参拝ほど他国の戦没兵士追悼儀式とくらべて軍事的要素が欠如しているものはない。自国の首相の参拝が日本の軍国主義化につながるという論拠ほど私に理解しにくいものはない。国民軍誕生とともにはじまった戦没兵士追悼文化は、すでに述べたように、終わりつつある。反対することによって、私たちはかえって靖国神社に対して戦前とは別の新しい関係を築ことができなかった。

 日本がどこの国より平和主義的であるべきだと思って反対しているのであろうが、このような考え方も国威発揚の一種である。ドイツを訪れた日本人のなかにベルリンのブランデンブルク門の近くにホロコースト記念碑が建てられたことに感動し、自国首相の靖国参拝を恥ずかしく思う人が少なくない。私は、ドイツに自国戦没兵士追悼に反対する人々がいなかったからこそホロコースト記念碑ができたと主張する気は毛頭ない。とはいっても二つのことがまったく無関係であったとはいえないかもしれない。

 ホロコースト記念碑の発案者はテレビ・ジャーナリストのレア・ロッシュさんである。自己顕示欲が強い彼女を嫌う人は多いが、実行力のあるこの女性がいなかったらこんな記念碑はできなかったといわれる。1988年彼女は番組作成のためにホロコースト研究者といっしょにイスラエルのヤド・バッシェムを訪れる。そこでドイツには軍人墓地や「戦士の碑」が多数あるのに死んだユダヤ人にはお墓ひとつないことに気がつき、追悼施設をつくろうと思い立ったという。その後紆余曲折して2005年にホロコースト記念碑が完成して、今やベルリン観光名所の一つになった。

右か左かの踏み絵風(1)−「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(2)−「靖国問題」とはなにか
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