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右か左かの踏み絵風(3)−「靖国問題」とはなにか

2006年06月28日(水)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
 ■終わりつつある文化

 日本には、誰もが「わだかまり」なく訪問できる国立戦没者追悼施設をつくろうとする人々がいる。とすると靖国神社は対して「わだかまり」があることになる。その点でドイツ国民はどうなのだろうか。

 戦没兵士追悼はドイツでも1945年まで戦争を美化したり戦死を顕彰したりするに役立っていた。特に第三帝国下、それまで戦没兵士を追悼する日であった「国民哀悼日」は「英雄追悼日」と改名されて、ナチ突撃隊を筆頭にナチ大衆動員組織が大活躍した。このような歴史を考えると日本人と同じように「わだかまり」を感じてもいいことになるが、彼らはそうならなかった。

 まず戦没者追悼に関して1945年以降は西独と東独とでは事情が異なる。西側の住民は、ハーケンクロイツをはずし「英雄追悼日」をやめたかもしれないが、同じ施設で昔とあまり変わらない追悼儀式を続けている。参考までにいうと、クリスマスのほぼ6週間前の日曜日が「国民哀悼日」で、この日に全国の市町村の「戦士の碑」の前で市長、町のお歴々が追悼の辞を述べ、教会の神父がお説教をした後、市長が台座に花輪を供える。ボンが首都のときは北墓地の、ベルリン遷都後は「ノイエバッへ」の「中央追悼所」で大統領等が兵士の運ぶ花輪を供え、議会で式典が催される。

 反対に東独では、ソ連軍戦没者追悼施設はあっても、自国戦没兵士追悼が禁じられていた。1945年までに建てられた「戦士の碑」や軍人墓地などの追悼施設は破壊されたり野ざらしにされたりしたままであった。それでも住民の間には自国戦没者追悼の要望があって、挑発的にならないようなかたちでその教区出身戦没者氏名の碑板をかける教会があったといわれる。東西ドイツ統一後、旧東独の約70%の市町村が「戦士の碑」を修復したり、またあらたに追悼施設をつくったりして西側とおなじようになった。

 この事情からも、またすでにふれたように1945年以降も軍人墓地を熱心につくり管理していることからもわかるように、ドイツ国民には昔とおなじように戦没兵士を追悼することに「わだかまり」などない。そうであるのは、日本のような「右か左かの踏み絵風」がなくて、戦没者追悼と戦争の政治的・歴史的評価の問題を切り離して考えているからである。
 
 ドイツで戦没兵士追悼文化が盛んだったのは第一世界大戦後で、当時無数の「戦士の碑」が建てられた。第二次大戦後は1950年代の後半がピークでその後社会的関心は低くなるばかりである。大多数の国民は自国が軍人墓地をつくっていることも維持していることも知らない。「国民哀悼日」には、市長・市会議員など主催者と消防団員など協力者の数が普通の出席者(その大多数は戦没者遺族)の2倍とか3倍とかいわれている。このような関心の低さは、この戦没兵士追悼文化が今や終わりつつあるからである。

 徴兵制の導入と国民軍の誕生がこの文化のはじまりであったが、徴兵制が廃止された国も多いし(ドイツのように)あってもその性格が変わった。次に重要な要因はこの文化が、墓参りが盛んだった19世紀に生まれたことで、今や死生観が変わり、私たちは死そのものをあまり考えないですませようとする。次は戦争の性格が変わったこと。昔の戦争では兵士が戦場へ行き、残りの国民が安全な「銃後」にいたので、皆が感謝して兵士を特別待遇で追悼した。第二次大戦は国家総力戦の全面戦争で、戦闘員と非戦闘員の区別がなくなってしまった。これは兵士が「銃後の無辜の民」を守ることができなかったことであり、この結果欧州では戦没兵士追悼の意味が希薄になった。

 最後に挙げた要因である戦争の性格の変化は、援護法などの戦後立法の中で「戦死」の定義を拡大させた。こうして軍に所属しない死者までが軍人墓地に埋葬されたり「戦士の碑」の碑板に刻み込まれたりするようになるなど、「戦没兵士扱い」の枠が大きくなったことが第二次世界大戦後の特徴である。いうまでもなく日本の「A級戦犯」の合祀もこのような戦争の性格が変化し「戦死」の意味が広くなった結果である。

 日本で「A級戦犯」合祀をスキャンダル視する人がいれば、それはいろいろな事例を知らないからである。A、B,Cの順番に罪が軽くなり、だから「A級戦犯」が極悪人というのは日本人の思い込みである。ホロコーストを重視する国際社会にとって重要なのは「人道に対する罪」のC項目のほうである。ニュールンベルク裁判で死刑に処された人の遺族もドイツで援護法に基づいて給付を申請できる以上、それを必要とする遺族が申請しても不思議でない。次に誰が申請したかは、プライバシーとして役所側に守秘義務があるために公表されない。ということはもらっている人の名前がわかるのは偶然からである。

 知られている例を挙げる。A,B,C等のすべての項目で有罪とされて処刑された国防軍作戦部長のアルフレート・ヨーデル大将の遺族にも、(戦時下暗殺されたためにニュールンベルク裁判の被告にこそならなかったが、)SS親衛隊でヒムラーに次ぐNo.2でヨーロッパ・ユダヤ人の移送と殺害について分担と連携を討議したヴァンゼー会議主催者、ラインハルト・ハイドリヒ国家保安部長の未亡人にも給付された。ということは、責任を負うべき人々の多くが法的に「戦没兵士扱い」されていたことになる。彼らの名前が「戦士の碑」の碑板の刻み込まれるまでに至らなかったのは、それが町の真ん中や教会の前など誰もが見ることができたからである。

 「戦没兵士扱い」の枠が拡大されたことは、ドイツの「国民哀悼日」での追悼対象が兵士に限定されなくなったことにも反映する。「戦士の碑」の碑文が戦後新たにする機会があると「戦争と暴力支配の犠牲者に」が標準になったのも、このように戦争の性格が変化したことの反映である。また靖国神社境内に建てられた「全世界の戦死者や戦争で亡くなられた御霊が祀られている」鎮霊社も似た例である。

 でもこのような傾向は国民軍に参加して戦場で死んだ「我が同胞の追悼」というこの文化の本来の性格から遠ざかることであり、ドイツ社会から戦争世代が退場するにつれてこの傾向に拍車がかかる。昨年「国民哀悼日」にある町ではアジアのツナミの犠牲者まで追悼されてしまって、私が知る戦中世代の一人があきれていた。

 ある文化も、その歴史的・社会的成立条件がなくなれば、じょじょにその輪郭を失い消滅していく。本当は似たような条件下にありながら、そうならないで、過剰な関心が寄せられる国があれば、いうまでもなく、多くの人たちが反対したり賛成したりすることで人工呼吸にはげんでいるからである。靖国神社について、私たちはまずこの異常さに気がついてから議論をはじめるべきである。

 ■宗教との関係

 ここまで読まれた読者の中には、日本の靖国神社は死んだ兵士の名前を残すというような生易しい話ではなく「英霊として、神として祀っている」ので欧米の戦没者追悼施設とくらべることなどできないと思われる人がいるかもしれない。確かにドイツの戦没者追悼施設では死んだ兵士を「神」とよばないが、これは一神教のキリスト教文化圏にあるためである。

 例えばミュンヘンにある「戦士の碑」の壁には「彼ら(=戦没兵士)は復活する」とある。内側の壁にはミュンヘン市の「英雄的息子」という表現がある。ということは、死んだ兵士が生物学的に死んだ後も別の存在で生き、完全にお役ご免とされずに「英雄」として賞賛され続けていることになる。死後もお役ご免にならない点で、ミュンヘン市の「英雄」も靖国の英霊もたいして違わない。

 確かにドイツのほうで「招魂」とか「慰霊」とかいった話を聞かない。そうであるのは、キリスト教徒は不慮の死を遂げた人が祟ると考えていないからで、上記の「彼ら(戦没兵士)が復活する」の「復活」はキリスト教的な意味でつかわれている。

 それでは、国民国家での戦没兵士追悼文化と宗教との関係をどのように理解したらいいのだろうか。すでにこの風習の根底に「同等の人間の仲間関係」という「国民(=ネーション)」の考えがあると述べた。でもこの考えだけでは、死者儀礼に重要な生者と死者の関係は規定されずに空白のままである。この空白を埋めるために、土着の宗教的要素が取り入れられていることになる。

 例えば、マリア崇拝が強いカトリックの南ドイツでは「戦士の碑」にイエスを抱く聖母マリアのピエタ像が多くなる。これも土着宗教的要素が生者と死者の関係の表現に利用されている例である。靖国神社も、すでに述べたよう、「国民」という考えがその根底にあるが、生者と死者の関係を規定する部分に日本の土着的宗教要素(神道や祖先崇拝など)が借用されているとみなすことができる。

 次に、「戦士の碑」が聖母マリアのピエタ像であったり、教会の敷地内に、ときにはその建物の中にあったりすることもある。また国民哀悼日の行事ではどこでもかならず神父が話し、お祈りが伴う。儀式にも、それが実施される空間にも、キリスト教的要素が濃厚に残っているが、それでも参加している人々は自分たちが追悼式に参加していると思っていても、宗教的活動をしているという意識はないといわれる。

 追悼と宗教の関係は単純でない。例えば、米同時多発テロの後、欧州の住人はどこの国でも犠牲者追悼のために数分間いっさいに活動を止めて黙想した。またその後、毎年ニューヨークで開催される追悼式では犠牲者の名前が読み上げられる。黙想も、また死者の名前を読み上げることも本来キリスト教の礼拝儀式の一要素である。だからといって地下鉄の中で黙想した人々の多くが、また追悼式の参加者の大多数が、宗教的活動をしているとは考えていない。

 もちろんどちらの場合も、敬虔なキリスト教徒がその場にいて宗教的活動意識を抱くことがあっても、それはその人の個人の問題である。ということは、世俗化が進展している、日本を含めて多くの先進国の社会では、宗教的活動は空間や組織から離れた個人の内面の問題になっている。またこのように考えることによって人々は宗教紛争を克服できて、異なった宗派に属する人々が同じ職場で働くことができるようになった。

 政治家の靖国参拝を「宗教的活動」とする判断が裁判所で下されて議論をよんでいる。この法的判断は、この21世紀初頭の宗教と追悼の複雑な関係、また宗教の在り方を本当に考慮した上で下されたものだろうか。ドイツには教会系の病院もたくさんあるが、そこで働く医者は医療行為でなく「宗教的活動」をしているのだろうか。でも教会へは日曜日ミサのために行く人もいるし、また観光見物で行く人も、追悼で行く人もいる。ケルンの大寺院から出て来た日本人観光客を見て「宗教的活動」をしたと思うのは勘違いである。

 日本は正月元旦に神社に参拝した人が、しばらくして親族に不幸があるとお寺さんのお世話になるという具合に「分業」に似たものが成立している。ドイツでは旧教(カトリック)で結婚し葬式は新教(プロテスタント)でやることは改宗しないかぎり不可能である。このような欧州から見ると、日本は宗教におおらかな国という印象がある。判決を読んでいないのでもちろん失礼な言動は慎むべきかもしれないが、政治家の靖国参拝を「宗教的活動」とする司法判断で、日本社会が突然宗教戦争直後の17世紀の欧州や現在宗教的対立を抱えるレバノンのような国なったような気がする。

 ■ビットブルク事件

 戦没者追悼に関連した外交問題はめったにない。そうであるのは生者の争いに死者を巻き込むべきでないとする考えが強いからである。とはいってもないことはないのであって、今からしるすビットブルク事件は有名な例である。

 ビットブルクはフランス国境に近いNATO・米軍が駐留する町であった。戦争終結50周年の1985年5月5日にコール独首相はレーガン米大統領といっしょに米軍と縁の深いこの町の軍人墓地を訪れて花輪を供えようと思った。ところが、この墓地に埋葬されている約二千名のドイツ兵士のなかに48名の武装親衛隊員(SS)が含まれていることが指摘されて、ドイツでもまた米国でもこのサミット・お墓参りに反対する人が出て大騒ぎになる。

 コール首相とその側近が不注意にもなぜこんな軍人墓地を選んだかというと、戦後西ドイツ社会に流布した武装親衛隊のイメージと無関係でない。武装親衛隊はニュールンベルク裁判で「犯罪組織」として認定されたが、戦後の西ドイツの人々はナチによる迫害や弾圧の責任者のSS親衛隊とは別のもので、「犯罪組織」として認定されなかった国防軍、普通の軍隊に準ずるものと見なした。実際武装親衛隊員は戦時下軍隊といっしょに戦闘に従事し、戦後創設された連邦軍にも採用されている。

 1970年代の終わり頃からホロコーストというテーマを発見していた欧米世論は、戦争終了40周年の儀式にドイツの政治家から「犯行国民」の代表者としてふるまうことを求めていた。準備段階でレーガン大統領のダッハウ強制収容所跡の訪問が取り沙汰されていたのも、そのような雰囲気の反映である。ところが(コール首相の記憶によると)米大統領のほうがそれを望まず軍人墓地訪問に変更された。こちらになると、米独が普通の戦争し、その後40年間平和だったというだけの話になってしまう。この計画に多数の人々が反対しているうちに武装親衛隊員のお墓の話がでてきて、けっきょくビットブルクの軍人墓地だけでなく、その前の午前中にベルゲンベルゼンの強制収容所跡にも訪れることによって一種の妥協が成立する。

 とはいっても、これはドイツでホロコーストを議論のテーマにする潮流が本格化したことになる。戦後武装親衛隊の互助組織があって、与野党にとって他のロビー団体とあまり違うものでなかったのに、この頃から接触が避けられるようになる。また武装親衛隊は普通の親衛隊と区別されなくなり、現在ビットブルク事件が言及されると「武装親衛隊」の「武装」が忘れられる。またそれ以降軍人墓地をつくる場合には墓石に軍隊内の所属と階級を記さないことが標準になる。

 戦没兵士追悼というテーマには、次のことが重要である。ビットブルク軍人墓地訪問に反対する人は武装親衛隊員が埋葬されていることをその理由に挙げる。これは、コール首相を弁護する保守派の考えでは、一般兵士と武装親衛隊員とに分けることであり、死者の尊厳の尊重という文明社会の原則に反することである。ということは、武装親衛隊員が埋葬されていることを理由に反対するのは、死者を政治的目的に利用してはばからないことになる。このような保守派の論拠に対して、反対派は、コール首相こそ米独の反共軍事同盟を強調することによってドイツの加害国として記憶をないがしろにして、責任逃れをしようとする「政治ショー」を企画した。これこそ死者を自分の政治的立場に利用することだと批判した。

 日本の靖国神社を考える上に重要な点は、この紛争で相対立している双方が文明社会の価値とされる死者の尊厳の尊重を認めた上で、死者を政治に利用してはいけないといっていることである。両者の見解が一致しないのはコールの「政治ショー」の評価についてである。次に、当時の議論で自明であるために誰もいわないことは、米独首脳の墓参りに反対した人々は、ドイツ首相が戦没者の追悼のために軍人墓地を訪れることには反対していないことになる。というのは、当時の「中央追悼所」はボンの北墓地にあって、歴代の首相が「国民哀悼日」にはよくここを訪れた。この北墓地にも17名の武装親衛隊員が埋葬されているが、だからといってこのビットブルク事件の前にも後にも問題にされていないからである。

 次に死者の尊厳を尊重するとか、埋葬された兵士を「犯罪組織」に属するかどうか区別してはいけないとか、また死者は邪魔されないで「永眠」する権利があるとか、いった考え方は重要な原則と見なされている。これはすでにふれた1871年のフランクフルト平和条約16条からはじまって(第一次大戦後の)ベルサイユ平和条約225条と226条aや多数の国際条約にある軍人墓地など戦没者追悼と関連する条項の根底にある考え方である。事実、ハーグ陸戦規定を違反した敵兵(戦争犯罪者)の墓を壊すことが許されたら、これらの条約を締結する意味がなくなる。

 ここで日本に靖国神社にもどると、参拝反対も納得できない人々が「日本では死者に鞭うつようなことはしない」とか、また「日本では死んだら誰もが仏さまになる」とかいうが、このような見解は、語彙が異なるかもしれないが、日本だけの話でなく国際社会の基準である。欧米には死者の尊厳の尊重を文明と野蛮を境界線と見なす人までいる。

 ということは、日本の政治家が追悼を目的に靖国に参拝するなら、「A級戦犯」の合祀を理由に挙げて反対することなどできないことになる。というのは、死者を区別することはこの死者の尊厳の尊重という原則に反するからである。ところが、(ビットブルクについての議論からわかるように、)この原則が適用できない場合がある。それは、参拝を追悼のためでなく、コール首相がビットブルクで意図したような政治ショーにしたり、またなんらかのかたちで政治的に利用したりしている場合である。

 ところが、小泉首相は参拝するたびに追悼がその目的であったことを繰り返し強調する。とすると、参拝に反対するためには、この日本の政治家が追悼のためでなく、なんらかの政治的意図から参拝することを証明しなければいけない。ところが、この厄介な証明義務も感じないですませることができるのは「右か左かの踏み絵風」があるからである。
(つづく)

右か左かの踏み絵風(1)−「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(2)−「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(3)−「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(4)−「靖国問題」とはなにか


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