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コナクリからのメールで考えた経済大国・日本

1998年07月06日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄


 アフリカのコナクリから最近、メールが届いた。友人の斉藤さんからだった。インターネットで、「萬晩報」も日本の新聞も読めるようになったという内容だった。コナクリは西アフリカのギニアの首都である。アフリカでもっとの貧しい国の一つにあげられている。その最貧国の首都でようやくプロバイダー業が登場したということだ。

 コナクリからメールが届いたことを取り上げるにはわけがある。3年前の8月、この国を訪ねた。雨期で国中が水浸しだった。斉藤さんはコナクリから1000キロ内陸に入ったギレンベという村で砂金を掘っていた。巨大なパワーショベルや洗浄機械を持ち込んだ「機械掘り」だ。

 最新の日本製品を買うため太平洋を往復した

 電気も電話もないそのギレンベの丘の上で、生まれて始めてインマルサット電話を使わせてもらった。日本でようやく携帯電話が普及し始めていた。というより通話料金が安いPHSが先行していた。アフリカの山奥で東京と鮮明な音声で通話できると思わなかった。大西洋上の衛星、そしてアメリカの基地局を通じて国際電話で東京につながる通話が、1通話たった5ドルという料金体系にも驚いた。ギニアの首都から東京への通常の国際電話よりずっと安かった。

 モートローラ社は当時、すでに世界中で使える衛星携帯電話システム「イリジウム」計画をぶち上げていた。日本では、1通話3ドルといっていたイリジウムの通話料にだれも信じられない思いだった。衛星を66個も打ち上げて、どうやって普通の国際電話より安い料金体系が維持できるのか不思議だったが、国家的経営のインマルサットがその程度なら、モートローラが3ドルだったとしてもおかしくない。ギレンベの丘の上でひとり合点した。

 斉藤さんのインマルサットはNEC製だった。ビジネス鞄程度の大きさの四角い箱にFAXまで装備していた。200万円だったという。正確にいえば、アメリカで購入した。日本でKDDが扱っていたのは一世代前の製品で海外旅行用のスーツケース並みの大きさだった上、端末の買い取り制はなかった。端末がリースだったから最新鋭の機器を扱っていなかったともいえる。

 購入したインマルサット端末のFAXはオプションだったが、あいにく在庫がなかった。アメリカの業者は「あんた日本人だろ。NECの川崎工場で製造しているから日本で買えばいいじゃないか」といった。斉藤さんは、日本で日本の製品を買えないからわざわざ、アメリカまでやってきたのだった。連絡を取ると「本体は日本の電気通信法上、売ることはできないが、オプション品なら売ることができる」ということだった。

 なんのことはない。斉藤さんはギニアの山奥に持ち込む日本製品の購入のため太平洋を往復することとなった。そんな話をギレンベの丘の上で聞いて、日本という国はなんなんだろうと考えた。日本のハイテク産業は日本国民の生活向上のためではなく、アメリカ人のために汗水垂らして技術革新をしてきたのだ。

 最先端の製品は、自国でまず発売するのがふつうだ。日本で一世代前の機種を販売してアメリカで最新鋭の機種を売ってきたのだ。NECを恨んでいるのではない。日本の電気通信法が、NECの最新機種の国内販売を阻んでいただけのことだ。わが共同通信社も当時は、重いKDDのインマルサット端末を抱えて世界を飛び回っていた。やがて取材先でアメリカ人記者が持ち歩く10分の1のサイズのNECの製品を目にすることになる。最新鋭と信じていた機種が、そうではないことを知るのに大して時間はかからなかった。

 インマルサット端末はさらに小さくなっている。9月からサービスが始まるイリジウムの端末は手のひらサイズだ。

 海を越えるバイタリティーを失った日本

 ギニアでのもう一つの思いはやはり、日本に関するものだった。首都コナクリには日本大使館と商社マン数人だけが駐在していた。外務省はその大使館の引き上げすら検討していた。その日本からもっとも遠いアフリカの国に、当時、破竹の勢いだった韓国人が押し寄せていた。街角に相次いで出店していた写真のDPEチェーンは韓国資本だった。韓国人が増えるとやがて焼き肉レストランが開店するようになった。数少ないギニアの日本人にとっては、郷愁にも近い味覚となった。

 驚いたことにギニアにベトナム人がけっこう住んでいることだった。ベトナムがフランス領だったころ結婚した女性が、フランス人につれられてギニアにやってくるケースが一番多いと聞いた。

 戦前、ハワイ移民から始まって、アメリカ、中南米、東南アジア、太平洋諸島、東北中国と多くの日本人が海を渡って新天地を求めた。日本政府の保護などなくとも、海を越えるバイタリティーをそなえた民族だった。中国人は世界各地にいるし、東南アジアやアフリカはインド人の商圏でもある。ギニアで感じたのは世界第二位のGDP国、日本の存在の薄さだった。ギニアに韓国人やベトナム人がいなかったら何も感じはしなかっただろうが、同じアジアの同胞たちがこんな果ての国までやってくるのにという思いである。

 1年後帰国した斉藤さんから聞いたのは、マレーシア・テレコムによるギニア電話公社の買収だった。1996年、マレーシアのマハティール首相は同国のビジネスマンを引き連れてアフリカ各国を訪問していたのだった。ビジネスに「なぜ」はない。マレーシア航空は早くから メキシコシティにクアラルンプールからの直行便を飛ばし、その後、南アフリカのヨハネスブルグからさらに大西洋を越えてブラジルのサンパウロに航路を開設した。

 1通のメールでいろいろなことを思い出した。ギニアで何かあれば、もはや萬晩報は一級品の情報を日本に送り込めることことになった。 斉藤さんに興味のある方はメールを萬晩報まで。

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