八田與一(1886-1942)金沢市に生まれ、東大工学部を卒業後、台湾総督府に就職、台南市に当時、東洋一の烏山頭ダムを建設し、嘉南大圳を緑野に変えたことから、地元農民に慕われ、命日である5月8日には毎年慰霊祭が行われている。台湾が最も愛する日本人として知られる。

八田は総督府で当初、上下水道の整備に携わっていたが、後に嘉南平野が、降雨が多くても貯水池がないため、不毛の地となっていることを知り、その地にダムを建設し、用水路を張り巡らす治水計画を立案した。工事は10年の年月と5400万円の費用を要する巨大な土木工事となった。
当時、日本国内にもなかったダム建設工事を植民地台湾で実施しようとする構想は政府内でも大きな論議を呼んだが、激論の末ゴーサインが出た。

ダ ムの堰堤は1600メートル。セミ・ハイドロリックフィルという石と土を組み合わせてコンクリート以上の強度を生み出す工法を用い、アメリカから最新鋭の 土木機械が相次いで搬入された。サトウキビすら育たなかった平野は1万6000キロに及ぶ網の目のような水路のおかげで台湾最大の穀倉地に生まれ代わっ た。

この工事は農民たちに水利を約束するものであっただけでなかった。工事中も日本人と台湾人を分け隔てなく取り扱った。住宅を建設し、リクリエーション施設までつくらせ、今で言う福利厚生に尽くした。殉職者の碑にはすべての人の名前を亡くなった順番に名を刻んだ。

「技 術者は技術を通じての文明の基礎づくりだけを考えよ」という恩師広井勇の教えを守っただけだったが、農民たちの信奉ぶりは一筋ならではなかった。農民たち は八田の銅像をつくりたいと懇願し、八田は「作業中の姿なら」と許した。ダム完成の1930年の翌年、烏頭山ダムを見下ろす小高い土地の一角に銅像は完成 した。戦後、国民党によって日本統治の痕跡が一掃された時代、農民たちはこの銅像を隠し続けた。台湾が豊かになり始めた1981年に農民たちの手によって ようやく元の位置に復活した。

 嘉南大圳の農民たちは水利組合をつくり、このダムを守り続け、命日の慰霊祭を欠かしたことがない。 1990年代に入り、八田の物語は台湾の中学教科書に紹介されるようになった。また八田與一記念公園が建設された。公園内には旧官舎などが復元され市民の 憩いの場所となっている。

第二次大戦の最中、八田は陸軍の要請でマニラに向かうことになったが、輸送船はアメリカ軍によって撃沈され、帰らぬ人となった。そして終戦直後、妻の外代樹は夫のつくったダムに身を投げた。李登輝元総統は「日本精神」を掲げ、その中でも八田與一の功績を高く評価している。