2008年05月27日(火)萬晩報通信員 園田 義明

第五章 山県”ブルブル”有朋の「大楠公」歓迎イベント

 吉田松陰の歴史的誤読

 楠木正成を讃える南朝正統説は、北畠親房の『神皇正統記』に始まり、水戸光圀が編纂を始めた『大日本史』で骨格がぼんやりとできあがる。

 江戸後期に「後期水戸学の祖」と言われる藤田幽谷やその高弟の会沢正志斎が注目を集めるが、徳川御三家の水戸藩という立場上、正志斎の『新論』などは幕藩体制を擁護するものだった。

 しかし、幕府の威信が低下し始める頃、藤田幽谷の息子である藤田東湖は改革派の旗手として、あろうことか自らの立場を忘れて、尊皇攘夷思想の理論的支柱となっていく。

 しかも、ここに決定的な誤読が重なるのだ。

 長州の母体を築いた吉田松陰は、幕藩体制を擁護する立場から書かれた会沢の『新論』を高く評価していたにも関わらず、間違えて解釈してしまう。つまり、正志斎の神道論は儒教理論に基づいていたことから記紀神話には批判的だったが、松陰は神代記をそのまま信奉する。

 さらに、正志斎は庶民に対して不信感を持っており、あくまでも幕藩体制を擁護するために神道による国家主導主義的な教化政策を解いたのだが、なぜか松陰は、農村に根深く立脚した水戸藩尊攘派を理想としていくのである(『水戸学と明治維新』吉田俊純、吉川弘文館)

 そして、松陰の思想は水戸学の異端であるはずの藤田東湖と奇妙な合体を遂げて、討幕と薩長藩閥政治の中心イデオロギーとなっていく。その精神的支柱として楠木正成が主役に選ばれ、明治維新前夜の表舞台に蘇ることになる。

幕末の南朝忠臣ブームの正体

 時は幕末、東奔西走する桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞も、長州藩に加担して都落ちした三条実美ら七卿も、みんなが立ち寄った場所があった。現在の 神戸市 にある楠木正成のお墓を訪れることが尊攘派志士たちの一大ブームになっていたのだ。

 現在の湊川神社の「大楠ご墓所」の説明にはこう書かれている。

     元禄五年(一六九二年)、水戸光圀公(義公)は、家臣佐々介三郎宗淳(助さん)をこの地に遣わして碑石を建て、光圀公みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之 墓」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を岡村元春に書かせて、これに刻ませました。この墓碑の建立によって大楠公のご盛徳は大いに宣揚さ れるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。すなわち幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木保臣・ 三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文等々は、みなこの墓前にぬかづいて報国の至誠を誓い、国事に奔走したのです。

http://www.minatogawajinja.or.jp/guidance07.html

 熱烈な正成信者の中でも松陰は特別だった。「誤読」した松陰はここを三度も訪れ、正成と心が通じていると信じ込んで、こんな一文を書いている。 

私は、かつて東方へ遊行し、三度も湊川を通ったが、そのさい、楠公の墓に参拝し、涙が落ちるのをとめることができなかった。その碑の背面に、明の朱舜水が書いた文を読んで、また涙した。(『日本の名著・吉田松陰』中央公論社) 

 幕末の尊攘派志士たちは、南朝に尽くした楠木正成を精神的な拠り処としながら、自身に重ね合わせた。高杉晋作は「楠樹」と号し奇兵隊で楠公祭を行った。

 そして、初代兵庫県知事となる伊藤博文の尽力により、初めての別格官幣社として楠木正成を祭神とする湊川神社( 神戸市 )が一八七二(明治五)年に創建される。

  これを機に、新田義貞(藤島神社、一八七六年=別格官幣社昇格年、以下同じ)、名和永年(名和神社、一八七八年)、菊池武時・武重・武光(菊池神社、一八 七八年)、北畠顕家・親房・顕信・守親(霊山神社、一八八一年)、結城宗広(結城神社、一八八二年)、藤原師賢(小御門神社、一八八二年)、北畠親房・顕 家(阿倍野神社、一八九〇年)、楠木正行(四条畷神社、一八九〇年)、北畠顕能(北畠神社、一九一四年)に到るまで、南朝遺臣を祀る神社が続々と別格官幣 社に列せられ、「南朝正統イデオロギー」の準備が整っていく。

 敗戦までにつくられた別格官幣社の合計は二八社、その内、南朝関係が一〇 社にのぼる。この一〇社に後醍醐天皇(吉野神宮、官幣大社)、護良親王(鎌倉宮、官幣中社)、宗良親王(井伊谷宮、官幣中社)、懐良親王(八代宮、官幣中 社)、尊良親王・恒良親王(金崎宮、官幣中社)を加えたものを「建武中興十五社」と呼ぶ。

 まさに建武中興に尽力した南朝側の皇族・忠臣が、明治になって官幣社として祀られた。建武中興十五社こそが、薩長の護国神社のような存在だった。

南北朝正閏問題というビック・イベント

 さて、神道と仏教が激しく対立していく過程で生まれ落ちた「空なる国家神道」に、楠木正成という名の祭神が舞い降りるビッグ・イベントが開催される。

 そのイベントとは、一九一〇(明治四三)年末に始まる南北朝正閏問題であった。平年と閏年があるように、南朝と北朝のいずれをもって正統とするかをめぐって、論争の嵐が政治と学問の世界に吹き荒れたのである。

 この問題の契機となったのは、この年五月の大逆事件(幸徳事件)である。「明治天皇暗殺計画」が発覚し、多くの社会主義者や無政府主義者が検挙され、大逆罪のかどで二四名に死刑宣告。そ翌年一月に幸徳秋水ら一二名が処刑された。

 大逆事件のごとき「不敬」事件が起こるのは、国定教科書の皇位継承や歴代天皇に関する記述の不適切によるとする批判が巻き起こる。

 この論争に火をつけたのは、一九一一(明治四十四)年一月十九日付けの読売新聞に掲載された「南北朝問題、国定教科書の失態」と題する社説だった。

  いわく、「もし両朝の対立を許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし」として、両朝並立を記す国 定教科書が槍玉にあがっていく。実はこの社説掲載には、水戸学の立場から国定教科書の記述に憤慨していた茨城県人の峰間信吉も関わっていた。

  この記事に触発されて、当時早稲田大学にいた牧野謙次郎や松平康国が、藤沢元造代議士を動かして国政の場に持ち込み、桂太郎内閣に対する反政府運動の様相 をとりはじめた。第二次桂太郎内閣は穏便な解決を目指そうと、桂自らが藤沢を招いて文部省の頭越しに改訂を約束させながら国会での質問状撤回を取り付け る。

 中村生雄学習院大学文学部教授によれば、どうやらこの時藤沢は、「精神の平衡を失っていた」らしい(『原初のことば』所収『「悪人」の物語』中村生雄、東京大学出版局)。

 この藤沢の「議員辞職表明」という奇怪な行動と議会での支離滅裂な演説によって、問題は沈静化するどころか、ますます沸騰していく。

 徳川光圀に始まる『大日本史』の南朝正統論を根拠にした「万世一系の皇統」という大義名分論が、穂積八束(法学者)、井上哲次郎(哲学者)、姉崎正治(宗教学者)、笹川臨風(評論家)らによって次々に展開される。

 この論争に並行して、南朝正統論による国家統一を目指そうと大日本国体擁護団が結成され、政教社や大日本教会とともに東京のみならず水戸でも政府攻撃の演説会が繰り返され、万朝報や読売新聞のキャンペーンが追い打ちをかけていった。 

 非難の鉾先は教科書編纂と執筆の実際上の当事者であった文部省編修官の喜田貞吉に向けられ、喜田を「幸徳の一味」と名指ししながら、「天誅」を予告する脅迫状さえ送りつけられた。

 野党である立憲国民党は、党首・犬養毅名で桂内閣問責決議案を提出するも否決。これでいったん問題は落ちつくかに見えたが、ここでとんでもない人物が桂内閣の背後から強力な圧力をかけてくる。

 その人物とは「内閣製造者」にして「内閣倒壊者」。時の桂、寺内正毅、田中義一の長州政権に絶大な影響力を持っていたあの山県有朋である。ここから山県の独壇場となった。

天皇は利用すべき「玉(ぎょく)」だったのか?

「桂 は何をしている」と叫んで、興奮のあまりか身体をブルブル震わせて、最後には全身に痙攣を起こしたのが山県有朋である。松本清張は「山県は激昂すると身体 を震わす癖があった」としながら、「(この時)痙攣を起したのはよほど感情が極まったらしい」と書いている(『小説東京帝国大学』松本清張、ちくま文 庫)。やはりこの人はなんだか怖い。

 山県は「後醍醐天皇は正式の儀式を踏んで皇位継承したのだ。正統は勿論南朝にあるべきはず」としな がら、「論者の中には今の天皇陛下が北朝の血脈が伝えられるからといって、議論を斟酌する者もいるようだが、これらの斟酌論は事態を弁えざる者だ。日本の 皇帝では、正式に皇位継承した方が正統であり、血脈流派の甲乙を論ずべき場合ではない」と語る(『山県有朋』岡義武、岩波新書)。

 さら に山県は、文部省の歴史学者を腐れ儒者扱いしながら、「歴史を解読せずして歴史に解読せられたる一種の謬見」であると主張、この問題で誤った対応をすれば 「我が帝国を暗黒たらしめることになる。暗黒たらしめんとする者は国賊と呼んでよい」として、腐れ儒者を一刀両断すべきだと檄を飛ばした。

 そして、山県自ら天皇への建議書を提出するために、その草案を山県系の『京華日報』の元社主である二宮熊二郎に依頼する。

 結局、一九一一(明治四十四)年二月二十六日に小松原英太郎文相は教科書修正を指示。修正版『尋常小学日本歴史』がその年度よりただちに使用されることになる。そして、文部省編修官の喜田貞吉を休職処分とすることで幕引きがなされた。

  その間に山県は南朝を正統とするよう明治天皇の決定を仰ぐべく上奏し、三月一日に天皇はこれを枢密院で諮詢、山県枢密院議長の下で討議もなく上奏通りに議 決する。三月三日には明治天皇が南朝を正統と認定する旨を内閣総理大臣と宮内大臣に達して、ようやく決着がつけられた。

 その結果、世論は水戸光圀の『大日本史』などを根拠にした南朝正統論に変わり、北朝は「逆臣・尊氏」による偽朝となる。

 教科書からは「南北朝」という見出しが「吉野の朝廷」に改められ、歴代表から北朝系天皇や北朝元号は抹消、その称号も天皇ではなく「親王」もしくは「王」に変更されるという情け容赦ない措置がとられた。

 この南北朝正閏問題の経緯について、宇野俊一は明治天皇の意志を尊重しながら穏便に解決しようとした桂に対して、山県の行動は「ヒステリック」であったと『桂太郎』で書いている。いや、もはや山県も常軌を逸していたというべきであろう。

 なぜなら、明治天皇も伏見宮家も北朝の系統であったからだ。

 結局のところ、南朝正統論者たちは明治天皇よりも南朝とその忠臣たちの方が大好きで、天皇などは所詮、利用すべき「玉」としか考えていなかったのだろう。

 南北朝正閏問題が燃えさかっていた頃、冷静に北朝正統論を唱えた人物がいた。歴史地理学者の先駆者として知られる吉田東伍である。彼が早稲田大学教授時代に独力で完成させた『大日本地名辞書』は不朽の名著とされる。

 吉田東伍は一九一一(明治四十四)年二月十四日の東京日日新聞で次のように主張する。

  南北正閏論は何も今になつて騒ぎ立てるに当らぬ事で、私の意見では北朝は正統にして、南朝の正統を云々するは紙上の空論であると断言することが出来る。如 何にも南朝の方には後醍醐天皇を初め奉り、楠正成・新田義貞と云ふ様な豪い人物が有つたには違ひないが、然し正統の上から云へば何うしても北朝が正統で、 其当時の太平記・梅松論等の如く南朝方の書物にすら、年号の如きは皆北朝の年号を用ひて居るのを見ても、此当時既に北朝を正統と認めて居た事が判る。(中 略)又今上陛下を初め奉り、伏見宮其他の宮々何れも北朝の御系統である。(『原初のことば』所収『「悪人」の物語』中村生雄、東京大学出版局)

 かくして、楠木正成は、明治天皇を押し退け、「大楠公(だいなんこう)」なる称号を得て、堂々と「空なる国家神道」の祭神として舞い降りてくる。