2008年05月19日(月)萬晩報通信員 園田 義明
第二章 神社合祀と長州閥

「神社合祀」という名のリストラ策

 そもそも「神社合祀」とは何だったのか。

 神社合祀令が通達されたのは一九〇六(明治三十九)年。「神社は国家の宗祀である」という国家原則に従って、敬神の念を高めるとの主旨のもと、由緒・財産もなく神職不在で祭祀が行われていない神社を廃止、統合、移転させるというものだった。

 ここで決定的な問題が発生する。自然との断絶が、日本人の古からの自然崇拝を抹殺することになるからだ。

 神社合祀は地方官吏の裁量に一任され、とりわけ南方熊楠が愛し、現在では世界遺産に登録されている三重県と和歌山県で特に厳しく実施された。規模の小さい村社、無格社がその対象となった。

 三重県では一八九八(明治三十一)年に府県郷村社および境外無格社の合計が六八三四あったものが、一九一六(大正五)年には七四三に、同じく和歌山県で は、三七八八あったものが五四六に激減する(「府県別神社増減表」、「府県別神社残存指数」参照、、いずれも『蘇るムラの神々』櫻井治男、大明堂より)。

 結局、「神社合祀」とは神社システムの大規模なリストラクチャリング(再構築)だったのだ。

 神社合祀令は、そもそも西園寺公望内閣の原敬内相の下で出された通達である。当初は一町村一社を標準にまとめようとするものだったが、原は強攻策を避け、地方の実情に合った幅を持たせた運用に務めた。

当初、熊楠も俗信によって祀られている淫祠小社の駆除のためには有効な措置として評価し、歓迎する態度まで示していた。

  ところが、内相が平田東助に代わると、突如、合祀令を厳しく実施するようになる。平田は残すべき神社の選定を府県知事に委ね、知事は郡長や町村長と組ん で、競い合うかのように合祀を推進した。その結果、廃社となった神社の鎮守の森は伐採の対象となり、その売却によって私服を肥やす官吏や神職までもが現れ る。

 さて、ここで原敬、平田東助という極めて重要な人物が登場してきた。原は賊軍とされた南部藩出身、平田も同じく賊軍の米沢藩出身。いずれも明治維新の「敗者」から成り上がった人物である。

 二人が生きた時代は薩長藩閥政治が大手を振っていた。この薩長閥、特に長州閥の巨魁にして「藩閥」と「軍閥」の最高権力者であった山県有朋を軸に、二人の人生は全く異なる道を歩むことになる。

「平民」原敬と大正史の痛恨事

  原敬は、一八五六(安政三)年に岩手郡本宮村(現・盛岡市本宮)で、南部藩側用人の父・直治の二男として生まれが、自ら分家して士族籍を離れ、平民となっ た。東北地方は戊辰戦争で朝敵となったことから「白河以北一山百文」と嘲笑され、蔑視される。このため原は薩長への対抗心から自らを「一山」や「逸山」と 号した。

 一時は立身出世コースから外れるものの、薩摩藩士だった中井弘の知遇を得て記者としての道を歩み出す。中井は薩摩主流と合わず、官僚よりも文人として活躍していた。原は中井を生涯の師と仰ぎ、中井の長女・貞子と結婚する(後に離婚)。

  政友会総裁にまで駆け上がった原は、「平民宰相」として日本で最初の政党内閣を樹立。宿敵である薩長藩閥政治に終止符を打とうとした。しかし、一九二一 (大正十)年に東京駅で凶刃に倒れる。前もって書かれていた「位階勲等を固く辞退する」という文言で始まる遺書が残されていた。

 原の死 後、宮内大臣の牧野伸顕から「伯爵を授けたい」との打診もあったが、後妻の浅子夫人は頑なにこれを拒んだ。同郷の浅子は原の気持ちを理解していたのだ。原 が生涯、華族になることを拒んだ理由には衆議院議席への執着もあったようだが、なにより華族制度そのものが薩長藩閥主義を象徴していたからだろう。原は薩 長への反感から、最後まで「平民」にこだわったのだ。

 この原は、青年期には敬虔なカトリック伝道師ダビテ・ハラとして生きた。近代にお ける日本カトリック人脈の原点に立つ人物だった。カトリックらしい現実的な対英米協調路線を目指し、暗殺される直前には山県有朋の背後にある軍閥を抑えに かかっていた。軍国主義排除のために高橋是清と共に参謀本部の廃止を考えていた。山県が死ねば、すぐにも実行に移そうと考えていた。

 しかし、暗殺によって、原は山県より先に逝く。山県は原の暗殺から三カ月後に世を去った。元駐タイ大使の岡崎久彦は、「原が山県より生き延びられなかったのは大正史の痛恨事であった」と嘆じている(『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦、PHP文庫)。

 原の暗殺があともどりできない道を決定づけていった。

 「伯爵」平田東助と長州閥

  一方、「神社合祀」を推進した平田東助は、一八四九(嘉永二)年、山形県米沢市に米沢藩藩医伊東昇廸(しょうてき)の二男として生まれ、藩医・平田亮伯の 養子となり平田姓を名乗る。東助は米沢の藩校興譲館で神童と呼ばれ、江戸に上って大学南校(現在の東京大学の前身)を卒業。岩倉具視の欧米巡遊に随行す る。

 そのままドイツに留まりベルリン大学、ハイデルベルク大学、ライプチヒ大学で政治や法律を学び、ハイデルベルク大学では日本人とし て初めてドクトル・フィロソフィーの称号を授与されている。帰国後、大蔵省などの官僚を経て貴族院議員となり、桂内閣では農商務相と内相を務め、大正初め には首相候補にまで上りつめた。産業革命の荒波から手工業者を守ろうとしたドイツの協同組合に精通し、日本における「産業組合運動の父」とも称された人物 である。

 原の南部藩同様、平田の米沢藩も賊軍とされた奥羽越列藩同盟に属していた。薩長閥が牛耳る明治政府にあって、立身出世には極めて不利だったはず。ところが、ベルリンで長州閥の青木周蔵や品川弥二郎と出会い、これを契機に長州閥の中心に入り込んでいく。

 この背景には山県有朋が深く関わっていた。

  平田は長州閥の母体ともいえる吉田松陰の松下村塾出身であった品川弥二郎の養女・達子と再婚する。この達子は山県有朋の姉・壽(寿子)の娘である。山県有 朋の養子となる伊三郎、品川の妻・静子、そして平田の妻・達子は、いずれも姉・壽の子供。つまり、品川は妻の実妹である達子を養女にしていた。こうして、 平田は品川と共に、山県閥の一員となっていった(「山県有朋系図」参照、『君臣平田東助論』佐賀郁朗、日本経済評論社より)。

 平田は原 の死の翌年の一九二二(大正十一)年に内大臣となり、原とは対照的にこの年伯爵に叙せられる。原と平田は、共に「賊藩」出身でありながら、政党と藩閥、衆 議院と貴族院、農会(農協の前身)と産業組合という相対立する勢力を擁し、一方は平民、かたや伯爵として生涯を閉じる。山県有朋という存在が二人の人生を 大きく分けたのだ。

 さらに、平田は三井グループとつながりが深く、現在の松下グループの隠れた創始者ともいえる人物でもある。平田の長 男・英二は日本画家に、英二の長男の平田克巳は三井銀行から三井物産を経てザ・ホテルヨコハマの相談役となった。克巳の弟・正治は東京帝国大学法学部政治 学科を卒業して三井銀行に勤め、その後、姓が変わる。

 平田東助の孫にあたる平田正治は松下正治になった。松下電器産業創業者の松下幸之 助の一人娘・幸子の婿養子に迎えられた松下正治は、社長、会長として松下電器を総合エレクトロニクスメーカーへと育て上げた。また、正治の実妹である敬子 は、三五歳の若さで松下電工社長(後に会長)に就任した丹羽正治に嫁いでいる。

 現在の松下電器産業は山県有朋と平田家の血脈によって支えられてきたといっても過言ではない。しかも、この平田東助と三井のつながりこそが神社合祀強行に直結していたのである。