後藤新平(1857-1929)明治、大正期にかけての政治家。台湾総督府民政長官、南満鉄初代総裁、東京市長などを歴任し、特に台湾開発や関東大震災後の東京市の帝都復興改革を立案したことで歴史に名を遺した。

 生まれは仙台伊達藩の水沢城下。後の海軍大臣、斎藤実らとともに水沢の三才と呼ばれる努力家だったが、幕末に伊達藩が反朝廷側に立ったことから冷遇されていたが、明治政府になってひょんなことから胆沢県大参事だった安場保和に才能を見いだされ、医学の道を歩むことになる。愛知県医学校を卒業後、頭角を現し、内務省衛生局にひきたてられドイツに留学、日清戦争後に児玉源太郎の知遇を得、児玉が台湾総督になると民政長官として抜擢された。

 後藤はキリスト教者であり農業経済を専門とした新渡戸稲造を三顧の礼で迎え、二人三脚で台湾統治の基礎を築いた。後藤のことを植民地の行政官と呼んでしまえば身もふたもない。後藤は生涯、日中露提携論者だった。太平洋対岸のアメリカの勃興に対して日中露が協力する必要性を説いたことで知られるが、瘴癘(風土病)の地として知られ、清国さえ開発に着手しなかった台湾に道路、鉄道、水道、港湾などインフラ整備に力を入れた功績はいまも台湾で高く評価されている。

 台湾民政長官時代の逸話として残っているのは、孫文が山田義正とやってきて革命資金とそのための武器調達への援助を求めた時のことである。「金が無かったら革命はできんだろう。武器は児玉将軍が用意しようといっているが金は貸せない。どうしてもというなら厦門に台湾銀行の支店がある。そこには2、300万の銀貨がある」と言ったという話である。内務大臣時代に大杉栄が訪ねて金を無心した時、300円を差し出した」というから、豪胆だった後藤なら言いかねない発言である。

 後藤の凄味はトップとなったほとんどの組織の黎明期にグランドデザインを描いたことだった。台湾、南満鉄、帝都復興など共通していたのは医者としての衛生知識が不可欠だったこともある。時代が後藤を求めていたのである。

 後藤が生まれ育った水沢はもともとは隠れキリシタンの里として知られ、高野長英を生み、学んだ藩校は大槻玄沢らを輩出した日本屈指の洋学研究機関だったことも知っておく必要があろう。また晩年にソ連を訪問しスターリンと会談していることも忘れてはならない。愛知病院長時代に岐阜で暴漢に襲われた自由党総裁、板垣退助の手当てをしたのも後藤だった。

 いくつもの名言を残したが、多くが知っているのは「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ」(萬晩報 伴武澄)