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      産声は1998年1月9日

萬晩報とは

 萬晩報(よろずばんぽう)は通信社の現役記者である主筆を中心に内外に65人の通信員を抱え、分野を超えたコラムを発信するジャーナリズムです。題字は、明治時代末期に日本最大の発行部数を誇った黒岩涙香の「萬朝報」(よろずちょうほう)にあやかりました。萬晩報の「晩報」は中国語で「夕刊」の意味です。
 1998年1月9日、京都で創刊しました。手元にあったたった20あまりのメールアドレスに向けて感動と怒り、その他よろず諸事を送信し始めました。いま流行りの「めるまが」の先駆けです。
 新聞記者は筆をもってはじめて成り立つ商売ですが、既存のマスコミでは一定の年齢に到達するとデスクといって後輩記者の面倒をみる立場に回ります。つまり筆を奪われるに等しいことになります。個人的にそのうっぷんを晴らそうとしたのが当初の目的です。主筆の体力と気力が続く限り、萬晩報は発信します。投稿はいつでも歓迎です。

【著書】
追跡NIES経済
 教育社、1989年9月
21世紀のキーワード」共著
 TBSブリタニカ社、1990年12月
コメビジネス戦争
 PHP、1995年10月、共著
日本がアジアで敗れる日
 文芸春秋社、1996年10月
萬晩報縮刷版1
 かぼちゃ、1999年3月
萬晩報縮刷版2
 かぼちゃ、2000年2月

 主宰者のメッセージ

 思春期をアパルトヘイトの南アフリカで過ごしたことが、人生の転機となった。それまではラジオ少年で、電気関係のエンジニアになると漠然と考えていたが、白人社会の有色人種への差別を身をもって体験し、抜きがたい白人不信に陥る。早熟な日本への目覚めが始まった。ジャーナリストになる決意もそのころ生まれた。
 高校時代、父の任地だったパキスタンに滞在し、仏教文化の源流を訪ねた。帰途アフガニスタンからサマルカントなどソ連領トルキスタンを旅行し、チムール帝国の足跡などを踏査した経験を旺文社の「高一時代」に執筆した。日本中で吹き荒れた学生運動には嫌悪感を感じ続け、もっぱら「西域」を中心とした東西交流史に没頭した。
 探検隊を組織してタクラマカン砂漠を踏査するのが夢となった。戦前に西域での仏跡の発掘に貢献した西本願寺の大谷光瑞はあこがれの的だった。探検隊の夢は破れたが、1979年、中国が新疆ウイグル自治区のウルムチ、トルファンを訪ねた。8mmカメラで撮影したウイグル自治区の実状は瀬戸内海放送で放映された。NHKが「西域」シリーズを放映する1年前である。
 外信部志望がいつのまにか、経済部記者に。1988年からのアジア経済取材と89年からの日米構造協議取材で、日本の深刻な構造問題に対する危機感が強まる。


【略歴】 ばん・たけずみ

1951年 5月5日、高知市生まれ
1953年 父の赴任でサンフランシスコへ
1958年 LagunaHonda小学校入学
1958年 帰国。武蔵野第一小学校転入
1964年 武蔵野第一中学校入学
1965年 父の転勤で南ア・プレトリアへ、St.Alban's College転入
1967年 帰国。都立校の編入試験に落ち、武一中3年に編入
1968年 4月、都立国立高校入学
1972年 4月、東京外国語大学中国学科入学
1977年 3月、卒業後、4月、共同通信社入社。5月大津支局
1979年 4月、高松支局
1982年 5月、大阪支社経済部。証券、エネルギー、電機など担当
1985年 4月、本社経済部。大蔵省、外務省、通産省、農水省、労働省
      鉄鋼、化学、流通・食品、電機・自動車を担当。
      この間、中国、東南アジアなど移動特派員
1996年 10月、経済部次長
1997年 4月、大阪支社経済部次長
1998年 1月、インターネットコラム日刊「萬晩報」を発刊
1999年 5月、本社報道部次長
2000年 4月、本社経済部次長
2001年 4月、財団法人国際平和協会理事に就任
2001年 11月、ニュースセンター整理部委員
2004年 2月、津支局長
2006年 12月、本社デジタル戦略チーム委員