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永住外国人の地方参政権に反対して

1999年10月28日(木)
明治大学非常勤講師 手島勲矢



 今秋、自自公の議員立法として永住外国人に地方選挙権を与える法案が国会に提出されるという。現在、在日コリアンも二世・三世の時代を迎え、日本語を第一言語とし、この日本で生きる選択以外を考え難い人々が多数を占めようとする中で、彼らの政治的な権利をどのような形で実現するかの選択肢として、この法案は浮上してきたものである。

 確かに、数十万の在日コリアンの人々の歴史的経緯を思うときに自分の民族的アイデンティティを保持したまま部分的な参政権を手にすることができるこの法案は、日本の側としても、国政でなく地方政治に限定するということで、双方に心地よい妥協点の様にもみえる。

 しかし、この「外国人」のまま参政権をもつ意味を深く考えるときに、未来における危うさも思わずにはおれない。なぜなら、これは民主国家の原理・原則の問題であるからだ。その意味で韓国と日本が相互主義をとる場合なおさら、両国の民主主義にとって、これが最善であるか立ち止まって問い直す必要を感じる。

 その意味で、16世紀のオランダにユダヤ人として生まれたスピノザの絶筆『国家論』は、多くの示唆を与えてくれる。彼は「国家」についてこう考えた。

 人間は生まれながら様々な権利を有しているが、一見、個々人が勝手に生きている原始時代の状況こそ、人にとって最も「自由」であり「平等」であるように思える。しかし、それは空しい観念にすぎない。現実には弱いものは最も権利をはく奪されている状況なのだ。人権は、ただ人々が一体となって相互に援助しあい、共同の意志に従って生きる「国家」の保護のもとで、初めて現実化されるのだという。

 スピノザが「国家」の有難みを肌身で感じていたわけは、彼がユダヤ人という永住外国人であり、後にユダヤ共同体から破門されても、キリスト教に改宗する必要もなく自由に暮らせた共和的オランダ国家の状況にもあったろう。

 彼は、『国家論』の最後で、民主「国家」とは何かを定義して、それは「国法にのみ服し」正しく生活している人々が例外なく投票権と国家の官職に就く権利をもつ国家であると述べ、その後、こう書き加えた。

 「私は特に『国法にのみ従う者』と言う。これは外国人を除外するためである。外国人は他の支配のもとにあると見られるから」と(畠中尚志訳)。
 この言葉は、19世紀、ドイツでユダヤ人が法的平等を求めて「解放」運動を起こしたときに、それに反対する知識人・学者らがよく引用した一句である。その結果、キリスト教に改宗するまで、ユダヤ人はドイツの「国民」と認められない状況が長く続いた。

 しかし、その言葉の真意は、民主国家の「国民」は人種や出自、政治思想や宗教信条によって規定されないという所にある。裏を返せば、「国法」のみに服す「選択」をするなら外国人も「国民」であるのだ。つまり、宗教や思想の一致でなく、法による行為の一致。民族意識の一致でなく、法を遵守する意志の一致。これが民主「国家」の生命である。これに従えば、永住外国人であっても、また当時の常識に反する思想・哲学をもつスピノザのような人であっても「国民」になりうるのだ。

 ただ民主国家の多様性を一つにしているのが法的一致である以上、国法が維持されなくなる時に、当然、民主国家は内部から倒壊していくのだが、ここで、スピノザは、法が維持されるためには法が理に適っているだけでなく、人間の共通の感情もそれを支持していないとだめだと考える。

 ここに参政権について「外国人」であるか「国民」であるかが問われる理由がある。つまり、外国人が除外されるのは、彼が民族的に「外国人」だからではなく、彼が「国法に服す者」であっても「国法のみに服する者」では必ずしもないからだ。「のみ」という言葉で要求されているのは、「国法」への感情であり、その選択の意志である。

 外国人地方参政権は、在日コリアンにとって、「帰化」したとしても日本人の国家であるかぎり差別の対象であることには変わりがないという失望や、参政権のために民族の誇り・アイデンティティを捨てる口惜しさなどに原因を発するものとして、首肯ける。

 しかし、もう一方で、「地方」が日本の一部であり、日本国法に服している以上、もし永住外国人に「国法のみ」に従う意志がないなら、場合によっては都道府県と日本の意向は法的に対立するだろし、その中で日本国の法的一致と秩序が失われる危険は無視できない。

 そういう意味で、私たちがスピノザの言葉に学ぶべきものは多い。民主国家あっての人権擁護。法的一致あっての民主国家。そして、何よりも「民族」が「国民」でなく、国法のみに服する者が「国民」であるということ。私たちは彼の言葉を通して、今一度、百年先を見据えながら、新しい視点で「国民」の一致を考えることができないのだろうか。なぜなら「日本国」は人権の運命共同体であり、それは法的一致を欠いては内部より倒壊していくものだから。

 投票率が50%を割り、官民とわず国法が無視される現今の日本で、スピノザの言葉「実に人間は国民として生まれるのではなくて生まれてのちに国民にされるのである」は重い。「国法のみに服する」という一致の原則は、今の日本人、一人ひとりに問われている。

 「国家」が滅びるのは、外からの攻撃だけでない。「国家」倒壊は、私たちの心の中からむしろ始まる。日本国は、古来より、大小の様々な石々がそのままの形で結合し一つの塊になった「さざれ石」に喩えられるが、その「さざれ石」の心を失ってはならない。


 手島さんにメールはisaiah@isc.meiji.ac.jp
 【萬晩報】萬晩報はこれまで日本に在住する外国人問題で「異なるものを受け入れる度量」を求める論陣を張ってきました。手島さんのレポートは、日本での外国人参政権を論じる際に、外国人の定義を民族や宗教に求めるのではなく「国法のみ」を遵守するか、しないかという概念に求めている点はわれわれが見逃しやすい視点ではなかろうかと思います。(伴 武澄)
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