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国債窓販のチャンスを自ら返上した銀行団

1998年12月07日(月)
 萬晩報主宰 伴 武澄


あなたは目の読者です。

 日本経済新聞の終りのページに長く続いている「私の履歴書」という連載シリーズがある。今月は「渡辺文夫・東京海上火災保険相談役」である。一線を退いた経済人が主に人生を振り返るコラムだが、過去の2、30年前の逸話のなかに政府との交渉や企業間のやりとりが「武勇伝」のように紹介されている。本音が垣間見られるだけでなく、読みようによっては当時の社会通念が現在のそれとは180度も違うことを発見できることもある。

 今回は富士銀行の元頭取の松沢 卓二の「私の履歴書」のなかから「国債発行」というコラムを紹介したい。新聞スクラップに日付が打っていないので何年の掲載か分からなくなったが、戦後日本が初めて国債を発行した時の裏話が面白い。


 ●私の履歴書「国債発行」 松沢 卓二

 戦後20年間は政府は国債を発行せず、いわゆる超均衡財政を続けてきたが、昭和40年(1965年)に歳入欠陥が生じ、赤字国債を発行せざるを得ない事態となった。その額は2000億円、しかも最初は日銀引き受けでやるという話が伝わってきた。しかし、戦時国債の話が頭にあり、平和日本の初めての国債でもあるので、全銀協はじめほかの経済団体も日銀引き受けには猛反対。結局、政府は公募方式で国債を発行することになった。

 これを受けて、全銀協は国債の引き受け・募集のためのシンジケート団(略シ団)を結成することになった。ちょうど、富士銀行が全銀協会長の時にあたり、私は一般委員長としてシ団結成に全力を挙げることになった。

 まず取り組んだのがシ団メンバーの範囲だ。当初、国債を国から直接買い受けること(引き受け)と引き受けた国債を投資家に販売すること(募集)が法律上可能な銀行と証券にメンバーを限定しようと決めた。ところが、生命保険会社や農林中央金庫、信用金庫などがシ団加入を申し入れてきた。

 私は「生保などの機関投資家はシ団から国債を買うのが筋だ」と主張した。しかし、大蔵省の意向もあって結局、全部の参加を容認することになった。当時の佐竹浩銀行局長や近藤道生銀行局総務課長と何回となく協議し、苦労の末取りまとめたものである。

 また、シ団の代表幹事をどこにするかでももめた。中山素平頭取の意向を受けて興銀の青木周吉常務が「代表幹事はうちに」と強い意向を示してきた。戦前は盛んに証券引き受けをやり、戦後も自行で債券を発行している興銀の特質を考えると気持ちは分かるが、私は都銀の反対が強いので「銀行界全体の問題だから、特定行には出来ない」とお断りし、全銀行の会長行が持ち回りで代表幹事をやることになった。

 最も問題になったのは引き受けた国債の販売を誰がやるかということだった。大蔵省は「法律上は銀行も証券も可能」という見解だった。ところが全銀協の内部では「銀行が国債の販売をやると、預金が減るだけだ」という意見が大半だった。これに対して、野村証券副社長だった北裏喜一郎さんらは「販売は証券にまかせてくれ」と言ってきた。私は「証券会社に既得権を与えることになるがそれで良いのか」と一般委員会などの席で念を押したが、「預金を犠牲にしてまで国債を売る必要はない」といった意見が多かった。

 しかし、私はいずれ銀行も国債の販売をする時が来るという信念があったので北裏さんと激論の末、「銀行は国債引き受けはやるが、当分の間は募集をやらず、証券だけが募集をする」という覚え書きを交わすことで落着した。この覚え書きは40年から58年まで続いた。銀行団はその間、募集の取り扱い(販売)を中止し、証券団だけで募集の取り扱いを行うというのが真意だったのだ。ところがこれだけ気を遣ったのに、果たせるかな、50年代以降の国債大量発行時代を迎えると、銀行の窓販の可否が大問題に発展した。

 シ団の結成を終えると今度は国債発行条件が問題になった。表面利率と応募者利回りの決め方だ。戦前は御用金の発想だから異様に金利が低かった。今回はそんなことは適用しないから、私は「市場原理を尊重して発行条件を決めるべきだ」「戦後初めての発行条件だし、イメージをよくしたい」と佐藤一郎事務次官と村上孝太郎官房長らに迫った。

 その結果、大蔵省が二つの案を提示してきた。A案は表面利率が高いが応募者利回りが低い、B案は表面利率は低いが応募者利回りが高い−というもので、両案とも当時の市場実勢を反映したものであった。「どちらか選択してくれ」と言う。私は、さっそくメンバーの意見を聞いてA案を選択した。

 戦後初の国債発行に際して、こうした発行者たる大蔵省と引き受け募集のシ団のと間で真剣な協議が繰り返されたことは結構なことであった。しかし、発行量の増大に伴って再び御用金思想が復活した時期があったことは残念である。(富士銀行相談役)

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