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特金・ファントラから始まった金融証券疑獄(1)/株式市場のターボエンジン

1998年1月28日(水)
共同通信社経済部 伴武澄


 大蔵省の検査汚職で27日、二人の大蔵官僚が逮捕された。1991年7月の証券会社による特金・ファントラ損失補填事件以来、金融証券業界は何人の逮捕者を出したのだろうか。改めて6年半前の出来事を思い出した。バブル経済の崩壊後の金融事犯は特金・ファントラに始まった。その特金・ファントラとは何だったのか。取材ノートをめくった。

 法人税を優遇するから株式市場を支えろ

 株式市場は、1978年のオイルショックから2年たって1980年になっても立ち直らなかった。そんな12月の暮れ、大蔵省からある通達文書が主要企業に配られた。表題に「法人税基本通達(6-3-3の2)」とあった。「企業決算で金銭信託中の有価証券を税法上、簿価から分離することが可能になる」という内容である。素人には何のことかさっぱり分からなかったが、企業の財務担当者にはすぐに意味するところが分かった。

 損失補填の温床となった特金・ファントラの解禁を示すサインだった。ふつうの日本語に翻訳すると「税制で優遇するから特金・ファントラを利用して市場から株を買え」という指令である。日頃、護送船団にお世話になっている企業社会は「株式市場を支えろ」という意味でもあった。「問わず語り」が大蔵省の得意とする行政指導の手法である。

 特金は、それまでも債権運用の手段として存在していたが、ファントラは住友信託銀行が編み出した「商品」だ。特金とファントラの違いは専門的になるので説明しない。日本の企業風土と米国のそれとではあまりにも違う。米国の企業はM&Aを目的としない限り他社の株式などを保有することはないが、日本の企業は株式を持ち合うことによって、取引の安定を図ろうとした。つい最近まで持ち合い株の売却は日本的企業社会では自殺行為に等しかった。

 他社の株式取得はまた、利益を含みという形でバランスシート上、隠蔽できる効果ももたらした。しかし、それらのメリットはすべて株価の右肩上がりを前提として成り立っていた。

 株式持ち合いが唯一不都合だったのは、同一株式を買い増した時に起こる「評価替え」だった。簿記では「払出単価の低下」という。売却時に払出単価との間に利益が出ると法人税の課税対象になったからである。1980年12月の大蔵省通達は、信託財産として株式を持てば保有株式を買い増しても「簿価が分離」されるため、「払出単価が低下」することがないといういわば法律の盲点をついたアイデアだった。

 ちょっと難しいので説明すると、1株のみ100円で保有していたA株をもう1株500円で買い増すと平均の簿価は300円となる。ここで、買い増した1株を500円近辺の価格で売却すると,払出単価は平均簿価の300円となる。この結果、保有していた100円のA株の含み利益400円(時価500円、簿価100円)のうち、200円の利益を吐き出した勘定となり、この200円が課税対象となってしまう。特金・ファントラを利用すると500円で買ったA株は信託銀行の信託口座にあるため課税対象にはならない。株式の買い増しが容易になる仕組みである。

 特金・ファントラが起こした巨大な地殻変動

 特金ファントラの残高は、84年3月末には2兆5789億円にまで増え、翌85年3月末は倍の5兆3038億円になった。以降、86年11兆3769億円、87年25兆0684億円、88年32兆2529億円、89年38兆9114億円、そしてピークの89年9月末には46兆7737億円もの残高を計上する。当時の東証の時価発行総額のほぼ10分の1である。

 1980年当時、法人持ち株比率はすでに70%に達していたから、残りの30%の個人持ち株の3分の1が10年足らずで法人に移動したことになる。おおざっぱに言えば、日本の上場企業の10年間の税引き利益に匹敵する金額が、特金ファントラにつぎ込まれた可能性がある。たった一通の通達からすざましい地殻変動が1980年代の株式市場で起きていたのだ。このことは誰も気づいていない。筆者も特金・ファントラの残高を調べて昨日初めて、株式市場のターボエンジンだったことが分かった。

 ブラックマンデー後を支えた生損保

 実は特金・ファントラ残高の膨張を後押しした事件が後に二つ起きる。株式市場の活性効果が大きいと自認した大蔵省は、日本株が次に低迷した84年9月には、今度は生損保にも株式による特金の運用を解禁した。一片の通達だったかは知らない。たぶんそうだろうと思う。大蔵省の意味ある政策変更はほとんど一般の目に触れることのない通達によって行われてきた。

 ここで生損保に与えられたアメは「信託財産による運用ならば株式のキャピタルゲインを契約者配当に振り向けることが可能」としたことだった。これも説明が要る。生損保は契約者から預かった保険料の30%までを株式で運用していいことになっていたが、契約者への配当に充てられるのは「配当金」だけで、「キャピタルゲイン」は認められていなかった。生損保は株式の「買い」は認められてはいたが「売る」ことは禁じられていたに等しい。これは特金・ファントラとは関係ないが、当時の生保幹部から「われわれにとっての売買とは買買と書くんですよ」と聞いたことがある。

 この株式運用枠の30%に新たに自由に売買できる3%枠が設けられた。たった3%ではない。3%もである。生損保の商品はすべて大蔵省の認可を得てどこもまったく同じだったから、生保は契約者獲得のため配当率で競争していた。3%の自由な株式運用が商品力の違いとしてアピールできるようになったから業界は諸手をあげて歓迎した。 生損保は初年度から3%枠一杯の運用を開始した。

 二度目の事件は、1987年11月のブラックマンデーへの対応策として起きた。翌88年1月、大蔵省は生損保の特金・ファントラ枠を3%から5%に拡大した。もはや打ち出の小づちである。ニューヨーク市場の暴落に端を発したブラックマンデーは経済回復の手だてを模索していた欧米経済に壊滅的打撃を与えかねなかった。「ニューヨークのそこが抜けた」と評され、当時の危機感は昨年来のアジアの通貨暴落の比ではなかった。

 大蔵省の通達は、単なる連絡簿ではない。このときは「生損保ニューマネーの再出動命令」に近かった。大量の生損保資金の投入を背景に1月から日本の株式市場は再び、右肩上がりの急カーブを演じることになる。特金・ファントラとはいえ、「買買」的体質の生保マネーである。(続)



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