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「日本サッカーの父」・クラマーさん

2010年04月08日(木)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
         


 この数日間ドイツのメディアで誕生日を迎えて話題になった人がいる。80歳になった元独首相ヘルムート・コール、その半分の人生を終えたゴールキーパーのオリバー・カーン、同じようにサッカー関係者でコーチのデットマール・クラマー。三人とも会って個性的だと思った人たちである。今から1925年4月4日生まれで一番年上の85歳になったクラマーさんについてしるす。というのは、話した回数が圧倒的に多いからだ。

 サッカーと直接関係がない私が彼に会ったのは、日本のスポーツ関係者のお伴でオーストリア国境に住む彼を何度も訪れたからである。彼は日本で「日本サッカーの父」として尊敬されていて、たくさんのことが伝えられている。それにもかかわらず、私がここで書きたいのは、クラマーさんがドイツ社会でどのようにうけとめられているか、である。 

 クラマーさんは1975年と76年にコーチとしてベッケンバウアー、ゲルト・ミュラーなどスター選手を抱えるバイエルン・ミュンヘンの監督として欧州チャンピオンズカップを、76年にはインターコンチネンタルカップを獲得している。その後ブンデスリーガに属するいくつかのクラブの監督をつとめた。バイエルン・ミュンヘンでブンデスリーガでの成績が思わしくなかったが、二年連続して欧州最強クラブになったことはクラマーさんの大きな業績である。

 またクラマーさんがサッカーについて話すこと、戦術的・戦略的なことであろうが、また選手の評価であろうが、トレーニングであろうが、長い経験と深い洞察力と豊富な知識に裏づけられていて、通り一遍の見解ではなく、掛け値なしにおもしろい。

 このような事情を考えると、「日本サッカーの父」はドイツ・サッカー界でももっと重要な役割を演じていてもいいように思われる。ところがそうでない。彼のコメントや発言がこの国のメディアで取り上げられることもない。或る年齢から上のサッカー関係者は彼の能力を知っていて、例えば負けてばかりいるクラブの経営者が困りきって彼に診断を仰いだりすることがあるかもしれない。でもクラマーさんというと変わり者、でサッカーの「開発途上国援助」ばかりしているイメージが強く、ドイツではどちらかというと忘れられた存在である。

 彼に何度も会ううちに、私はなぜこうであるのかを不思議に思うようになった。これに関連して重要な点は、クラマーさんは戦争にとられて復員後もどこか身体が悪くなってプレーできなくなり、二十歳を超えた時点ですでにいろいろな小さな町のサッカークラブのコーチになっているので、ろくろく現役生活がなかったことである。

 次に戦時下サッカー少年だった頃、クラマーさんはゼップ・ヘルベルガーの講習会に参加した。ヘルベルガーは日本人に馴染みがないが、1954年ドイツがベルンでW杯に優勝したときの代表チームの監督であり、戦後ドイツのサッカー界の重鎮で、クラマーさんをドイツ・サッカー連盟でのいろいろな仕事に引っ張ってくれた恩人である。だからこそ、クラマーさんは彼を師と仰ぎ感謝している。

 このようにみると、クラマーさんは、クラブサッカーでプレーして、その後コーチ・監督とかになる典型的なサッカー人生とは異なる。彼にたいした現役生活がないことは、理屈でなく実績を重んじる選手から軽量クラスとみられた理由と思われる。彼につけられた「プロフェッサー(教授)」というあだ名もこの事情を物語る。知識や能力があり尊敬に値するのに、敬遠し、自分たち同じでないという選手たちの気持ちの表現だ。バイエルン・ミュンヘンのヴィルヘルム・ノイデッカー代表が「みんな勉強して試験に合格したけれど試合に負けた」といったのも、クラマーさんのこのイメージをしめす。

 クラマーさんはサッカーが大好きである。或るときクラマー夫人が「サッカーとなると、主人はみんな疲れて地面に倒れてしまった後も独りで話している」といったそうだ。情熱のあまり周囲の現実を見失う傾向も「プロフェッサー」というあだ名に通じる側面だ。クラブの監督はマネージャー的要素が必要で、サッカーの先生であるだけではつとまらないのかもしれない。

 最後に彼の日本との関係である。1960年、それまでドイツ・サッカー連盟の支部レベルでスカウトをしたり、青少年の育成に携わったりするだけだった彼は日本へ行く。彼も熱心に指導にあたり、日本側もそれにこたえた。日本での成功が彼を米代表チームやバイエルン・ミュンヘンの監督またFifaのコーチなどに押し上げた。クラマーさんは自分が日本での指導経験によってコーチとして前進できたとよく話すが、これはドイツ社会で知られていることで、日本人に対するの外国人のお愛想でない。 

 このようにみると、彼がその後90カ国でサッカーの指導をするようになったのは、当時日本のサッカー関係者が実績のとぼしいクラマーさんを自分の眼で見て評価して選んだからである。日本人が外国人と関係するのは、すでに評価の定まった人を連れてきて飾りにするだけのことが多いので、クラマーさんとの関係は本当の交流だったことになる。

 昨年からクラマーさんの懐かしい顔がテレビでみられる。協同組合金庫協会のコマーシャルで、有名無名のいろいろな人が登場し、誰もが何かに情熱を感じて生きているというメッセージで評判がいい。http://www.youtube.com/watch?v=J4rTFj8EMIU



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