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オーストラリアの山火事と広島、そして核問題(3)

2009年02月16日(月)
異文化コミュニケーション財団 引地 達也
 1941年12月8日に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃して始まった太平洋戦争は約1年の間、日本軍は快進撃で南方へ進出、1942年2月から43年11月までにオーストラリア北部の都市や基地などを空爆、機銃掃射するなどの攻撃を加えた。特に42年2月19日のダーウィン空爆で死者は約250人を数え、同3月3日には西オーストラリア州ブルームで9機の戦闘機が機銃掃射し88人が死亡し、作戦機二十四機を破壊したた。42年5月31日にはシドニー沖の潜水艦から発進した特殊潜航艇4隻がシドニー湾に侵入、うち1隻が停泊中の巡洋艦などを魚雷で攻撃した。

 これらの攻撃はオーストラリアの本土が危機にさらされた初めてのケースであり、国防姿勢を根底から練り直さなければならない事態となり、人々の間に戦争への恐怖が実感として認識された。

 日本軍はオーストラリアを孤立させるために米国との海上航路を封鎖しようとフィジーとサモアを攻略するFS作戦を実施する。この過程で42年1月23日ににラバウル、同5月3日にはソロモン諸島のツラギを攻略した。そして8月にパプアニューギニアのジャングルで日本兵とオーストラリア兵が壮絶な戦いを繰り広げる「ココダの戦い」に至る。劣悪な環境で敵兵と対峙し、この戦いでの勝利が攻勢への足がかりの一つにもなったとされ、オーストラリアでは対日戦争の象徴となり、後に本や映画などで語り継がれている。

 一方、東南アジアではマレーシア全土を掌握した日本軍は1942年に英国軍の東南アジア最大拠点であるシンガポール基地を攻略し約1万5000人のオーストラリア兵を含む13万人以上を捕虜にするなど捕らえられた計約2万2000人のオーストラリア兵のうち3分の1が収容所で死亡したという。日本との戦争で死亡したのは計1万7501人に上る。

 この太平洋戦争を含む第二次世界大戦で勝利した連合国のうちオーストラリアの貢献は大きく、戦後の国際的地位も飛躍的に高まった。ただしその痛みも大きい。戦争に送った90万以上の兵士は18−35歳までの男子の10人中7人が出征する数である。比率は当然、連合国中最高だった。空爆、ジャングルでの戦い、そして捕虜収容所での扱い。この三点がオーストラリアの対日戦争への印象であり、これを処罰という形で具体化するのが極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の裁判長を務めたオーストラリア人のウェッブ判事である。連合国司令官マッカーサーに指名された米、英、ソ連、中華民国、フランス、カナダ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド(後にインド、フィリピンも加わる)の裁判官のうちウェッブ判事は最もラディカルで日本に厳しく天皇までも追求していたとされる。各裁判官の意見が合わないまま裁判は進行し、結局28人が起訴され東条英機ら7人が絞首刑、16人が無期禁固刑、2人が禁固刑、2人が公判中に病死、1人が精神障害のため免訴された。さらに49年9月に他の連合国が一斉に終了した日本戦犯裁判をオーストラリアだけは50年6月から51年4月にかけて実施、5人の死刑を執行したのも他国との対日観の温度差を強調している。

 さらに付け加えれば現代でもオーストラリアは日本の戦時下における従軍慰安婦をめぐる問題でも厳しい目をそそぐ。時にそれは被害者の多い中国、韓国をしのぐほどである。2007年 3月13日に安倍晋三首相とハワード首相は東京で会談し両国の「安全保障協力に関する日豪共同宣言」に署名した。二国間の相互安全保障と協力強化をうたう宣言は日本にとって米国との安全保障条約に次ぐ二国間の安全保障協力、オーストラリアにとっても米国を含めた太平洋の三角点を結ぶ協力の意義は両国ともに大きいはずだが、署名を受けた有力紙エイジの社説は「未来に目を向ければよく見えるが、過去の問題はまだ残っている」とし、いわゆるタカ派のイメージである安倍政権を「正しい歴史認識を拒否している」などと批判し、従軍慰安婦の「真摯な謝罪」を求めている。

 米下院で従軍慰安婦問題への謝罪を日本に求める決議をめぐり、2007年初めに米下院の外交委員会で元従軍慰安婦として当時の様子を証言したオランダ人、ジャン・ラフ・オハーンさんは南オーストラリア州アデレード在住。これも少なからず慰安婦問題に敏感な世論を形成する要素とも言える。

 日本の冬はオーストラリアの夏。リゾート地ゴールドコーストの足の長い波は海の壮大さを感じるし、暖かい水は気持ちがよい。だから、多くの日本人が訪れる。オーストラリアからはスキー客が日本へ、日本からはサーフィンやゴルフにオーストラリアへと渡航者数は増加したが、オーストラリアに関する歴史は置き去りにしたままのような気がする。日本にコアラが初上陸したのが1984年。それ以来、オーストラリア観は進歩したのだろうか。(了)

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