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オーストラリアの山火事と広島、そして核問題(2)

2009年02月15日(日)
異文化コミュニケーション財団 引地 達也


 1945年8月に広島と長崎に投下された原子爆弾を開発は米国のマンハッタン計画で開発・製造された。同計画は1939年に米国に亡命したハンガリー系ユダヤ人の科学者レオ・ジラードがアインシュタインの署名を利用してルーズベルト大統領に原子爆弾の開発を進言、当初は関心を示さなかった大統領だが、マンハッタン計画に先駆けて英国で進められていた原子爆弾開発計画組織であるモード委員会がウラン235の核兵器応用の技術的展望が明らかになると米国は開発への熱を帯びてくる。米英の情報交換協定に基づく情報提供は科学技術を軍事に利用する組織、米科学研究開発局の目にとまり、全英アカデミーの検討などを経て、日本軍の真珠湾攻撃の直前である1941年12月に開発を指示、ルーズベルトの決定は約半年後で8月には「マンハッタン計画」と命名されるに至る。嵩む研究費に悩むモード委員会は解散し、科学者の一部はマンハッタン計画に参加することになる。

 確かに核兵器誕生の礎となった英モード委員会と米マンハッタン計画の流れの中には多くの優秀な科学者の存在がある。そしていずれの組織にも関わり、その後自国の核開発の中心的役割を果たすのがオーストラリア人科学者、マーク・オルファンだった。

 1901年、オーストラリア南部アデレード郊外に生まれたオルファンは生まれつき方耳に聴覚障害があり、ひどい近眼だった。幼いころに見た養豚のと殺の情景が心にこびりつき、ほとんどの一生を菜食主義として生きている。

 アデレード大学で学んだ後に、核研究で世界トップとされた英国ケンブリッジ大で研究に従事する。その時、彼はヘリウム3とトリチウムの発見、さらに重水素の核がほかの核に反応すると発見した。これは約10年後に米国の科学者エドワード・テラーにより開発された水爆の基礎となった。オリファンは自らの発見技術が大量破壊兵器に結びついたことに「思いもよらない」とのコメントを残している。

 広島と長崎でその威力が確認された核爆弾は、他国も保有を目指すことになるが、太平洋戦争で対日本に向けて米国との協調を打ち出した労働党政権から交代した自由党のメンジス首相は対英関係の修復と英国との防衛体制の再構築を模索、英国が開発するだろう核兵器は自動的に自国へ配備されることを疑わなかった。核実験場の提供は軒先を貸すことで「核兵器」という実を得ようとの思惑。メンジス首相は野党から「英国の腰ぎんちゃく」と批判されながらも、そういった現実主義に根ざした政策が長期政権を支えたのも事実だ。

 1952年9月13日。北部ダーウィンに英国の科学者、ペニー博士が飛行機から降り立ち、6人の武装兵士に囲まれた。英国からキプロス、セイロン(現スリランカ)、シンガポールを経由し、飛行機には実験に使用される核物質を積んだ。同14日付のサンデーヘラルド紙よると、厳重警護の物々しい雰囲気の中、博士は報道陣には無言。同時に実験の備品は英国の艦船で本国から運ばれたとあるが、実験日は不明とされた。実験をめぐる当時の報道は秘密裏に進める政府側とそれを追いかけるマスコミの様子がうかがわれ、マスコミはその後の博士の消息を追い続けたようだ。これと同日、キャンベラではユーズ内務相らが閣議で核攻撃に対する備えが必要と説いた。

 英国初の核実験は前述の通り10月3日午前8時。モンテベロ島近くの浅瀬に、まずはライトのような光が一瞬きらめいて、次に大きな光が広がって白い雲が空に拡がり舞い上がったという。海上には英国艦船四隻とオーストラリア艦船11隻、オブザーバーとしてオーストラリアの科学者3人も見守った。実験に関する発表は「成功した」だけで詳細についての言及はなかった。

 実験を受けてメンジス首相は「英連邦の科学の発展を証明するものだ」と述べ、英国ではチャーチル首相が「実験に関わった技術者に感謝したい」としオーストラリアへの謝意を示した。英国とオーストラリアの再度の蜜月。1回の実験で核兵器保有にはならないものの、英国はともかくオーストラリアまで「核兵器」への期待感がにじんでいるようにも受け取れる。

 同月12日付のシドニーモーニングヘラルド紙には「オーストラリアは英国の恒久的な核実験場にする」との英国側の声を紹介している。

 2回目の実験以降、オーストラリア各紙は一面トップで実験場の現地レポートを交えて熱心に報道しているが、それも回を重ねる度にニュースの宿命で価値が低くなっていく。現地レポートは消え、キャンベラでの政府発表をそのまま報道する内容に変わっていく。1956年9月のマラリンガでの「バッファローシリーズ」1回目、総計で6回目となる実験ではシドニー・モーニング・ヘラルド紙が「マラリンガを客観的にとらえる」と題した社説で誰もが核実験を望んでいないとしながらも「われわれは一般的な防御のために友人の爆弾開発を助けなければならないのだ」と強調している。結果的に英国はオーストラリアの海上と砂漠で12回の実験が行われることなる。

 オーストラリア政府は52年12月に原子力委員会を創設、さらに核兵器の原料となるウランが発見され53年1月にはウラン開発で米英両国と三国協定を締結、オーストラリアのウランは米英の核兵器製造に使われたのである。

 また英国がエジプトとの間でスエズ運河をめぐる第二次中東戦争を戦っている最中である56年11月にオーストラリアの防衛委員会は「アジアからの攻撃」に備えて核兵器が必要との認識を示し、調達先は英国であるとの方針を決定したが、科学者を中心に自国による開発の野望も持ち続けていた。開発を視野に原子炉技術の確立を目論み、英国企業と契約する。

 この「アジアからの攻撃」の念頭にあったのは日本であり、第二次世界大戦の経験から来る日本への警戒心と敵愾心はまだ憎悪にも近い状態でオーストラリア人の心中に居座ったままだった。これは1970年代初めの核拡散禁止条約の締結をめぐる時までオーストラリア核政策決定の主要因として存在し続ける。話を第二次世界大戦に戻し日本とオーストラリアの争いを確認したい。

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