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国語としての「あいうえお」の発明

2007年11月30日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄
 数年前、伊勢に赴任が決まった時、友人の平岩優さんが一冊の本をくれた。明治期、日本語の礎を築いた碩学、大槻文彦の生涯を描いた『言葉の海へ』(高田宏著、新潮文庫)だった。言葉の意味を50音順に並べた初の国語辞書『言海』を編集した人物との紹介があった。

 藩に分かれ統一的言語を持たなかった当時の日本で、近代国家として言語の統一の必要性を訴え続けた。『言海』の出版会には、元老の伊藤博文以下、明治政府の歴々が参集したというから、その出版の意義はほとんど国家的大事業に値したのだろう。

 50音順の辞書が生まれたことに対して、福沢諭吉は「いろは」があるのにと不快感を示し、出版会に出席しなかったというから、これはこれでおもしろい。

 後世の政治家や学識者たちは、この国のかたちについて易々と「単一民族、単一言語」などと語っているが、日本語辞書『言海』編集を通じて日本語、国語という概念、スタンダードを構築してくれた明治の碩学に、われわれは相当な感謝の念を持たなければならない。そんな思いに浸ったことを思い出している。

『言海』を思い出したのにはわけがある。江戸中期に藤堂津藩にも一人の碩学がいた。谷川士清という。松阪には本居宣長がいて、後世、国学者として有名になったが、谷川士清は日本史の中でほとんど言及されたことがない。

 津に住んで、50音順の国語辞書を“発案”したのは大槻文彦ではなく、谷川士清だったことを知った。津城下の医師の家を継いだ士清は京都で国学に目覚め、『日本書紀通証』という日本書紀の解説書を書いた。日本書紀に出てくる言葉の語源や意味をカードに書き連ねていくうちに「あいうえお」順に並べた辞書を編纂したのだった。

 市内に残る、谷川士清の旧宅は現在、津市が管理して一般公開しているが、そこに保存されている『日本書紀通証』付録の和語通音図表を眺めているうちに「これは大変な発見」だと気付いた。われわれが小学校で最初に学んだ「あいうえお」の図表がそのままあった。違うのは「オ」と「ヲ」の位置が逆になっていることだけだ。

 士清のすごさは、この「あいうえを」の図表を「動詞の活用表」と位置付けたことだった。いまでいう「五段活用動詞」(未然形、運用形、終止形、連体形、已然形、命令形)なのだ。

 『和訓栞』という93巻にわたる辞書は士清の生存中に出版が始まったが、第一巻が世に出たのは亡くなった翌年の安永6年(1777年)のことだった。出版は遺族たちに委ねられ連綿と続いた。なんと最後の出版が行われたのが、明治20年だったから、110年以上にわたる大辞書編纂事業が谷川一族4代にわたって行われたことになる。

 そうなると『言海』を編纂した大槻文彦は当然、『和訓栞』のことを知っていたはずであるが、残念なことに高田宏著『言葉の海』に谷川士清のことは一切言及がない。

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