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500万円でミャンマ−に発電所つくった男
ある倒産経営者の贖罪業


2005年05月20日(金)
フリ−ジャ−ナリスト 宮本惇夫
 NEDO(新エネルギ−・産業技術総合開発機構)が手がける新エネルギ−の開発など、1プロジェクトで何億、何十億円もの金額になる。ところがたった400万円をもってミャンマ−に行き、発電システムをつくり上げ地元に寄贈、ミャンマ−政府から大変感謝された人物がいる。

 しかも彼は数年前に会社を倒産させた経営者。社員や取引先への贖罪の気持ちが、その動機だったというのだから、まさに義理と人情のビジネス演歌物語だ。

 1つそんな人情話を………。

 独立、そして倒産

いまから数年ほど前のこと。埼玉県新座市にキャップトップエンジニアリングという中小企業があった。社長は小松製作所出身の鈴木重信(61)。工業高校出ではあるが優秀な機械技術者だった。小松時代は小松ナイジェリアへ出向、4年間セ−ルスエンジニアとして世界中を駆け回ったこともある。

 1988年、社内ベンチャ−制度が発足したとき、応募をして合格。社員ベンチャ−の第1号にもなった。ところが3年間という規定期間のなかで黒字化のめどが立たず、社員ベンチャ−は手仕舞を余儀なくされた。

 そこで彼は正式に会社を退職、社員ベンチャ−を引き継ぎ独立をする。それが「キャップトッエンジニアリング」だった。それが92年4月のこと。

 同社はベンチャ−時代から土木・建設機械の遠隔操作システムの開発に取り組んでいたが、ようやくその技術が完成。ちょうどその頃、長崎県の雲仙普賢岳が爆発、火砕流がふもとにまで押し寄せる災害となったことは記憶に新しい。

 その時、某ゼネコンは同社の遠隔操作技術に目をつけ、ジョイントを組む形で復旧工事に参画した。普賢岳の復旧工事はキャップトップにとって願ってもない大きな受注だった。92年度が2400万円、93年が9800万円、以下2億5000万円、3億7000万円と売上高は拡大していったものだった。

 ところが95年を過ぎたころから普賢岳の噴火も沈静化し、受注量も先細りとなってくる。もともとが蓄積もない自転車操業。その上受注が集中したこともあり、従業員を大量採用していた。数人で始めた事業が一時は30名近くまで膨れ上がっていた。そこに押し被さってきたのが銀行の貸し渋り。あえなくキャップトップエンジニアリングは2億数千万円の負債を抱えて倒産となった。

 金策に駆け回った日々

 鈴木は「技術屋というのはどうしても技術開発が先行しがちで、お金が入ってくると次の開発、次の開発に注ぎ込んでしまう。経営のために資金をプ−ルしておけばよかったのでしょうが、技術屋にはなかなかそれができない。常に技術で他社に先行されてしまうのではないかという焦りがあるんです」と反省をしている。

 金庫が空っぽになり、従業員へ給料が払えなくなったときは、それこそ街金へ飛び込んでお金を工面したこともある。

 当時は数千万円ほどの売掛金も残っていて、それさえ入ってくれば、何とか乗り切れるのではないかということで、つなぎ資金の調達に走ったわけである。

 しかし街金融からの高利の借金はあっという間に雪だるま式に膨らんでいく。経営危機説が流れ銀行が警戒をするゼネコンの手形も割引率が低い。当時1割5分から2割の割引率だった。万策が尽き96年4月、キャップトップエンジニアリングは倒産をした。

 資産も何もない同社は会社更生法適用も叶わず、鈴木もまた自己破産になり全財産を没収され丸裸で外に放り出された。

 助っ人エンジニアとして

 それからー。
 倒産経営者に対する世間の風は冷たい。そのとき鈴木に手を差し伸べてくれたのは古くからの友人、知人。なかでもアフリカ出向時代に知り合った人たちが、彼の経験と技術を使ってくれた。何か国際的な技術プロジェクトがあれば技術コンサルタントとして、助っ人エンジニアとして彼を駆り出してくれた。ベトナムでの地雷探査事業、グルジア共和国での第2シルクロ−ドプロジェクトなどさまざまなプロジェクトに関わり生活の糧を得てきた。

 あるとき友人からもみ殻をつかった、いわゆるバイオマス発電計画の可能性についての相談を受けた。彼は答えた。

「もみ殻を乾留すると炭化物ができ、それがエンジンに入ってしまう。難しくコストのかかる技術ではないか。もみ殻を使うなら家畜の糞尿、人糞を使ってメタンガスを醗酵させ、それで電気を起こした方が早くて安い」

 それが事の始まりだった。

 実際にバイオマス技術に関する情報を集め研究するうちに、その技術を実際に役立ててみたいという気持ちが彼の中に激しく芽生えてくる。鈴木は30代の頃に「60を過ぎたら自分の技術を通じて、東南アジアの人々に奉仕できるような仕事をしたい」と社内の論文に書いたことがある。その夢を思い出させてくれたのが可愛い孫の存在だった。

 アジアの国々はまだまだ貧しい。電化率も決して高くない。都市部はともかく一歩田舎に足を踏み入れると電気がない町や村がたくさんある。

「小さな子供が病気になったときアジアの田舎ではどうしているのか。診療所はあるのだろうか。診療所はあっても電気がきているのだろうか」

 孫の顔を見ながらそんなことを思い、勉強したバイオマス発電技術を使いアジアの貧しい国々に役立ててみたくなってくる。と同時にあの倒産事件もそれを突き立てた。

 彼はいう。

「倒産で多くのひとに迷惑をかけたことは1日たりとも忘れたことはありません。法律的には解決されたとはいえ私の心の中では解決されたわけではありません。その贖罪の気持ちも私を社会貢献事業に駆り立てたことの1つでした」

 候補地に選んだのがミャンマ−。そうかつてのビルマである。戦争で日本が迷惑をかけた国の1つであり、地方の電化率が6・7%という低い国だった。

 糞尿を浴びながらの工事

 といっても彼には資金がない。そこで彼は知人の間を資金調達に歩いた。幸い1人の経営者が彼の計画に理解を示してくれた。

「見本市出展用に取っておいた金だが、あなたの発電計画に役立てた方が有効かもしれない」といってポンと400万円を供出してくれた。

 03年8月のことだが、早速彼はミャンマ−へ飛び政府関係者とあった。承知の通りミヤンマ−は軍事政権機構下にあり、アウン・サン・ス−チンを盟主とする民主化勢力を弾圧、世界から非難を浴びている。日本もそれに抗議し経済制裁を行っている最中にある。

 政府関係者は「かつての3年半戦争のことは忘れた。しかし今回の経済封鎖はけしからん」と憤りを見せていたというが、「大東亜戦争ではビルマの人たちに大変迷惑をかけた。そのビルマに私の技術を通じてお返しをしたい。子供たちために電気を点けてあげたい」と話した時は大変喜んでくれたという。

 約75%を日本側、25%を現地が資金負担する形で、03年11月に鈴木はバイオマス発電計画はスタ−トさせる。場所はヤンゴン郊外の農村地帯で、養豚所などから排出される糞尿や人糞でメタンガスを醗酵させ、そのガスで発電機を回そうという仕組みである。この発電システムのいいところはガスを生産し終わった排出物を肥料や農薬として使えることである。

 鈴木は自分で設計図を書き、材料を買い集め、職業訓練センタ−の若い技術者を指導しながら発電設備を作り上げていった。その間、3回ほど頭から糞尿を浴びる経験もした。そして04年9月、20KWの発電システムを養豚場の隣に完成させた。25軒ほどの集落全体に電気が供給されるようになったという。その集落には診療所も学校もあり、診療所は夜間の緊急医療にも使えるようになったことはいうまでもない。要した費用は全体で約500〜600万円ほどだったという。

 この発電システムの建設をミャンマ−政府はことの外喜び、協同組合省家内工業局は鈴木とその資金提供者を表彰した。

 鈴木はそれを契機にNPOを組織し発展途上国への貢献活動の本格化を模索している。500万円足らずで1つの集落に電気が灯る。こんな社会貢献があることも日本政府は知ってほしいものである。

 宮本さんにメール mailto:fwkc0334@mb.infoweb.ne.jp

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