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サハラに散った雪の花

2005年03月29日(火)
萬晩報通信員 齊藤 清
 【ギニア=コナクリ発】独自の論理で己の侵略戦争の正当性を主張し、かつ推進しつつある唯我独尊の米国は、油の確保ばかりではなく、農業分野でも幾多の国を相手に大いなる戦果を上げている。ここでは、銃弾を使わず、生血を流さず、きわめて静かに、しかし傲慢に、そして着実に進行している強襲国家による世界の農業分野への破壊作戦の成功の一端を、アフリカの綿花とアメリカの戦果との白々しい関係に限って眺めてみた。

 ◆ジャズ発祥の地

 毎年7月の初め、カナダのモントリオールで国際ジャズフェスティバルが開かれる。およそ10日の間、町のいたるところで数々のコンサートがくりひろげられ、世界中から100万を超す聴衆が訪れるともいう。期間中は、町そのものがジャズのステージに変身する。むろんそれはそこに集うミュージシャン達の音楽の内容の濃さに惹かれてのものだ。このジャズフェスティバルは、きらびやかな衣装と舞台装置で目くらましをたくらむお祭りではない。ただひたすらに心を歌うジャズの祭典である。メインの歌い手ばかりではなく、演奏陣、黒人男女のバックコーラスなども圧巻だ。むろん、出演者、聴衆に、白人、黒人の区別はない。

 このフェスティバルの原型ともいわれるお祭りが、ジャズの源流の地と目されているニジェール川上流地方のギニア・カンカン県・バロ村とクマナ村(首都から陸路700キロ)で、やはり毎年開かれている。年に一回のこのお祭りでは、この地方の伝統的な音楽をベースにした打楽器のリズムにのせて、男女の踊り手による激しい舞いが、いつ果てるともなく続けられる。当然のように奏者のアドリブも入り、踊り手もこれに応える。このやりとりの妙とその場に満ちあふれる熱情は一筋縄のものではない。――蛇足ではあるものの念のため、このお祭りの光景は、東の果ての島国のテレビ屋さんがその国の大衆に提示したがる、「いわゆる付きのアフリカ」の映像とはかなりの隔たりがあることを、こっそりとつぶやいておかなければならない。

 このお祭りに参加するために、近隣の村々からの演奏者、踊り手はむろんのこと、近年は世界各地から、黒人ばかりではなく白人も大勢やってきて、大地と一体となった音楽の原点ともいうべきこの土地のお祭りに酔いしれる。

 アメリカ大陸で承継・発展したジャズの源流がアフリカ・ギニアの奥地の村に求められるということは、この地とアメリカの地との間になんらかの血のつながりがあるということになるのか。そう、これはあからさまに言えば、この地が奴隷貿易時代の黒人奴隷の供給地のひとつであったという事実につながるらしい。

 ギニア内陸部のこの地で綿花栽培に携わっていた労働者――奴隷という身分であったかもしれないけれど――が、略奪された新大陸であるアメリカ南部に連れ出され、当時の英国の綿花需要に応ずるための労働力として利用された。広大な綿花プランテーションでのすべての作業は黒人奴隷にゆだねられ、そして、新開地の肥沃な土地を舞台として、欧米を軸とする綿花経済の花が開いた。その副産物として、アフリカの伝統文化を底流としたジャズと呼ばれる音楽が生まれた。

――奴隷売買業者は、闇雲に誰彼かまわず新大陸へと案内したわけではなかった。綿花栽培の即戦力となる、そして勤労の習慣が植えつけられた、言ってみれば文化程度の高い人々を狙い撃ちしたのであった。海辺の、当時としては文化果つる地方の、自然環境に恵まれているがゆえに労働意欲の希薄な人々は商品としての奴隷にはけっしてなり得なかった。

 ◆高地ギニアに降る雪

 バナンフルフル(カポック)の白い綿毛がきままな風に乗って遠くの山にまで飛んでいく二月のある日、村の広場には雪が舞う。村人が丹精して作り上げた綿花が、この日、広場いっぱい、白い雪と見まごうばかりに積み上げられる。

 この地では、いつとは知れぬ古い時代から、綿花を栽培し、糸をつむぎ、布を織り、時には染めて、それを身にまとう生活が連綿として続けられてきたわけだけれど、最近では海外から輸入される色鮮やかな布地のほうが幅を利かし、この土地の手織りのものよりも安価に買える時代となっている。そして、綿花を栽培する農家はごくまれな状況となってきた。4、50年前までは、――フランスの植民地時代にはかなりの量を生産し、それは国外に送り出されていたのだけれど。

 そのような時の流れを巻き戻すように、10年ほど前にフランスから『プロジェ ・コットン(Projet coton)』と称する事業組織がやってきた。住民の経済力支援を主な目的とする組織であったらしい。

 ニジェール川上流地方は雨季と乾季がはっきりした、いつも乾燥している土地柄である。 綿花の栽培に適した気候だ。そして、ブルースと呼ばれる、人の手の入っていない疎林がまだたくさん残されている。全体に表土は薄く地味は痩せているから、すべての場所を開墾するわけにはいかないものの、適地がないわけではない。

 フランス人たちは、種子と肥料を貸し与え、収穫した綿花の売り上げからその分を天引きするシステムを提案して住民に綿花の栽培を勧めた。雨季の間に種を蒔き成長させて、乾季になったら綿花を収穫させる。収穫物を引き取る大型トラックを走らせるために、雨季の後の荒れた砂利の道を組織の手で定期的に整備した。おかげで、ブルースのあちこちに車の走れるこぎれいな道ができた。

 現金収入が得られるとなれば、森を伐り開き、林を焼いて栽培面積を増やす農家が増えるのは自然の成り行きである。栽培地は飛躍的に増えた。時にかなりの現金収入を得て、近隣の評判となる家族も出現した。

 もっとも、もともと極端に痩せている土地ゆえに、二季も連作すれば、肥料を増やしても収量は減る。降雨と播種のタイミングを読み違えて、収量が極端に少ない年もある。その結果、種子代も払えない赤字農家が出ることもあったけれど、それでもなんとか『プロジェ・コットン』の事業は続いた。

 そして、毎年2月の、あらかじめ定められたある日、トラックが綿花を集めにやってくる。その日は村中総出で、その年の生産物を広場に運び出す。広場を覆った厚い雪が太陽の光を反射し、村人の上気した顔を明るく照らし返す。綿花の重量を量って集荷のトラックに積み込み、そして感慨を込めて見送る。それが村々の毎年の行事となって定着した。

 ところが、ある年のこと、約束のトラックはやってこなかった。

 ◆巨額の輸出補助金と農業助成金

 ハリウッド映画『風と共に去りぬ』の南北戦争前後のアトランタ。綿花プランテーションで働いていた黒人奴隷たちは戦いに駆り出されて、農場には誰も残っていない。そこに、ヴィヴィアン・リー扮するスカーレット・オハラが、姉妹たちと共に慣れぬ手つきで綿花を摘むシーンがあった。

 その後南北戦争は終わり、奴隷が解放されて綿花農場は維持できなくなった。 そして南部の大農家は没落。白人の小規模な農家が誕生した。もっとも、開放された黒人奴隷に市民権は与えられたものの、土地は与えられず、仕事はなく、飯は食えず、経済的にも身分的にもつらい状況は継続したもののようだ。

 それでも、アメリカ南部での綿花栽培は現在も健在で、中国に次いで世界第二位の生産量を維持しているらしい。ところがアメリカ国内での消費量は生産量の2割程度でしかなく、綿花の生産者が生きるためには、残りの8割は輸出されなければならない。

 それはよく知られているように綿花に限ったことではなく、小麦、とうもろこし、大豆、牛肉等々、アメリカのすべての農産物は輸出するために作られている。なにしろ、アメリカは世界最大の農産物輸出国なのだから。

 それで、他国に対して市場開放を迫り、農産物輸出入の自由化を要求する。世界中がひとつの基準で交流すればすべてうまくいく、とそのような宗旨であるらしい。本音は自国のご利益しか考えていないというのに。その前線基地が、グロバリゼーションを唱和する人々の根城、世界貿易機関(WTO)。

 しかしながらアメリカは、たとえば、2001年に30億ドルの輸出補助金と生産助成金を自国の綿花生産者に支払った。これはアメリカの綿花の生産総額をも上回る。綿花生産国のブラジルはこれをとらえて2003年、補助金によって生産される余剰綿花が、WTO協定に違反して世界市場にダンピング輸出されているとしてWTOに提訴した。

 さすがのWTO紛争処理委員会も、米国の綿花補助金が世界市場価格を押し下げ、WTO協定違反であると認めた。

 ついでに言えば、2001年の米国の綿花補助金額は、米国のアフリカ援助予算総額の3倍以上であるという。そのとばっちりで、アフリカの零細・貧困な綿花生産者はさらに困窮させられているというのに。

 西アフリカ・ブルキナファソの綿花は歳入の60%をまかない、400万人の雇用を生み出している。これがアメリカのダンピング輸出に直撃された。同様に、西アフリカの主要な綿花生産地、ベナン、チャド、マリにも、米国の綿花補助金政策は多大な被害を与えている。すべて弱肉強食、世界のならず者がしでかす横紙破りのお話である。

 このようにして、国の歳入を左右するほどの輸出額ではなかったものの、ギニアの綿花生産農家も早々と降参させられた。生産物を引き取ってくれるはずの『プロジェ・コットン』が、綿花の価格暴落で採算が取れずに撤退し、約束の集荷トラックが走らなくなったのだ。

 綿花を栽培するために開墾した原野は放棄された。

 ◆米を食うからバカなのだ

自国の農産物を外国に売り込むアメリカの戦略ということになれば、1970年代終盤に、たまたま自分の耳で聞き、眼で見てしまった、大脳生理学の権威を標榜するある大学教授の晩年の口演をまずは想いださざるを得ない。たしかに、敗戦のその日から、それまでの鬼畜米英転じて憧れの民主主義国家崇拝者へと急転直下の航路変更をして嬉々としていられた国の小国民ではあったものの、博士の論旨はそれでもなお刺激的であり衝撃的かつ悲劇的なものであった。

「わが国民は、米を食うからバカなのだ」と氏はのたまわった。そして「米を食うから戦争に負けたのだ」と言い切った。呆気にとられ、あるいは毒気にあてられて茫然自失の聴衆に対する処方箋は、「アメリカのようにパンを食え」「肉もどっさり食うべきだ」と、いたって単純明快なものであった。

 博士はベストセラー『頭のよくなる本』の著者であり、慶應大学教授、かつ直木賞作家という異才であられたから、凡人に対しては説得力がありすぎた。アメリカの農業政策の代弁者として、その広告塔として、これ以上の逸材はそう簡単には見つかるまい。

 そして現在その国は、パンを焼く小麦のほぼ100パーセントをアメリカからの輸入に頼り、さらにアメリカから肉が入らなければ牛丼が食えない口寂しい国に成長した。牛の病を恐れて肉を絶てば、アメの肉を買わないと厄介なことになるぜ、と憧れの民主主義国家がやさしく諭しにやって来る。ともあれ、これぞ亡き博士の大いなる功績であったのだろうと、遠くギニアの空の下、照りつけるぎらぎらの太陽に目を細め、あの日の口演を想いだすのである。

 このようにしてアメリカは、自国の農業従事者の生活を守るために常に地道な努力を続けている。たとえば、GATTのケネディーラウンド関税交渉の中で1967年に成立した国際穀物協定の食糧援助規約では、一部の開発途上国に対して毎年1000万トン以上の食料を援助するという目標を掲げ、加盟国ごとに穀物(小麦、大麦、とうもろこし、豆等)の最低援助量を割り振った。極東の小国は、年間小麦30万トン相当の穀物を無償援助することを義務付けられている。――自国の余剰生産物がない国は、当然のように生産過剰の国で調達して援助することになる。

 この長期にわたる無償の「食糧援助」は、生産過剰の国の輸出を助けると同時に、開発途上国の農業生産意欲を削ぐことにも多大な貢献をした。飢えた国の農民が食糧生産の自助努力を放棄するように。なけなしの外貨を使って、命をつなぐくもの糸、どこかの国の余剰農産物を輸入するように。

 そんな地獄への後押しをしたのが、ケネディーラウンドによる開発途上国への食糧援助であった。極東の小国の小麦生産が、輸出補助金と農業助成金を受けて生産されたアメリカからの安い小麦に押されて破壊されたように(米国の小麦の輸出価格は生産コストの約半分)。――その国は、庶民の食べる安い牛肉についても、自国で生産する気力も能力も、もはや夜霧のかなたへ捨て去ってしまったように見える...。

 ちなみに、アメリカをわが命と仰ぐその国の外務省の食糧援助に際しての国内向けの口上は、「同国政府は食糧自給達成を優先課題としているが、長期にわたる旱魃等のため耕地が疲弊しており、食糧の調達が困難な状況にある」「不安定な気候に加え、近年は降雨量が減少していることから、砂漠化が進行し、耕作地が減少している。

 また、害虫・害鳥等による被害のため食糧生産に大きく悪影響を及ぼしている」「高い人口増加率のため食糧需要に生産が追いつかず、深刻な食糧不足が続いている」等々、気候変動、耕作地の減少、虫、鳥、人間の増加、考えられるものすべてを登場させて、無知な国民の目を掠めるだけが目的の能天気な背景説明に忙しい。現実を知らないはずはあるまい。それでも、昨今はパソコンでのコピー・ペーストが簡単になったから、過去のいくつかの模範文例があればそれでやりくりがつく。良心というものを別にすれば。

 ◆音楽だけが残った

 そして、高地ギニアの村々を廻って綿花を集荷するトラックは来なくなった。 零細生産者には、生産物を売る手段がない。価格競争力がない。種子を買う金がない。強襲国家のように、補助金をつけ、資金を補給してまで生産者の生活を守る能力を持ち合わせていない弱小国家の民には、もはやなす術はない。

 その結果、過去には綿花労働者として多くの人間が連れ去られたアフリカの片隅から、この土地に綿々と続いていた、古い歴史に彩られた綿花栽培の文化そのものも、真綿で首を締め上げられるようにして、息絶えることになった。

 この国は、今では綿製品をもっぱら輸入するだけの国になりさがってしまった。これも米国の戦略の成果であり、グロバリゼーションとかいう邪宗の祟りなのであろうか。

 それでも、奴隷とともに運び出されたはずの音楽がまだ消えずに残っているのが、せめてもの救いと諦めるしかないのだろうか。(まぐまぐメールマガジン『金鉱山からのたより』2005/3/28より)

 齊藤さんにメールは mailto:gold_saitoh@nifty.com

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