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ビッグ・リンカー達の宴2−最新日本政財界地図(8)

2004年06月08日(土)
萬晩報通信員 園田 義明

 ■国際文化会館の生い立ち

 それでは松本重治に関わる著作をもとに国際文化会館の生い立ちを見ていきたい。国際文化会館設立のきっかけは日中戦争、太平洋戦争をはさんで長い間会っていなかったジョン・D・ロックフェラー三世と松本が1951年に再会したことから始まる。

 その年、ジョン・フォスター・ダレスはサンフランシスコ講和条約を結ぶために米国特使として来日するが、この時にダレスはロックフェラー三世を文化顧問に任命し同行させている。この背景として、米国の占領政策が逆コースをとったために、日本の知識層が反米、親ソ連になることを防ぐ必要があり、日米文化交流の担い手としてダレスがロックフェラー三世を選んだと松本は書いている。

 そして1951年2月、ロックフェラー三世は日本に来ると、松本重治、高木八尺、松方三郎などに連絡を取り、松本、高木のふたりがロックフェラー三世に会うことになる。ここで松本は米国の超一流の思想家や学者を日本に招くことを提案している。そしてこの年の10月にロックフェラー三世夫妻と法律顧問であったドナルド・マックレーンの三名が再来日し、ここで松本は人物交流論を再提案し、ロックフェラー三世側もロックフェラー財団として協力することが決まる。

 松本はこの直後に行われた帝国ホテルで行われたロックフェラー三世夫妻主催のレセプションで、同席した長老格の樺山愛輔伯爵を日本側のまとめ役として担ぎ出し、その場でロックフェラー三世の部屋に行って招請状40通ほどに樺山の署名をもらい、この招請状をもとに同年11月12日に日米両国の約40名が工業クラブに参会、ロックフェラー三世の講演を聞くことになる。

 この時の約40名の名簿には小泉信三、前田多門、亀山直人、南原繁、高木八尺、矢内原忠雄、木原均、中山伊知郎、上代たの、松方三郎、東畑精一、坂西志保、中野好夫、都留重人らの知識人、一万田尚登、新木栄吉、渋沢敬三、藤山愛一郎、加納久朗、杉道助、関桂三、そして石坂泰三らの財界人、外国人としてオーチス・ケーリ、カンドウ神父、ゴードン・ボールズなど当時を代表する国際派の名前が並んでいる。

 この会合で文化センター準備委員会が発足し、樺山が委員長、リーダーズ・ダイジェスト東京支社長をしていたスターリング・フィッシャーと松本が常任幹事に選ばれている。準備委員会の事務所はリーダーズ・ダイジェストに置き、準備委員会の中から17名で実行委員会をつくり、計画を実行に移すための会合が始まる。

 日本側は拠点となる建物の必要性を説き、ロックフェラー財団側のマックレーンと松本が交渉にあたり、準備委員会は20数回の会合を重ねた末に、文化センターのための土地、その会館の規模やあり方、活動や事業の具体的内容、建設資金の調達方法などをまとめ、高木、松本、マックレーンが作成した助成金申請書を52年5月にロックフェラー財団に提出する。

 これに対してロックフェラー財団理事会は52年7月、土地建物のための資金として1億7500万円を拠出することが決まる。また、法人として許可された日から57年末まで、年2500万円を限度に事業運営費を保障することも決まり、結局、準備費を含めると、申請した助成金総額は4億円以上になった。

 しかし、ロックフェラー財団は日本側が53年8月31日までに1億円の募金を集めることを条件にしていた。この条件を満たすための募金活動が日本で開始されることになる。

 ■日本での募金活動

 首相の月給が11万円という時代に1億円もの大金を集めるための募金活動は吉田茂首相が総理官邸で開いたパーティーから始まった。そのパーティーには財界から200名程、学者ら知識人が100名程集まり、吉田の挨拶の後、松本によって国際文化会館の概要が説明された。そして、感動的な樺山愛輔伯爵のスピーチが始まる。

「今度の計画は、自分がこれまでやってきた日米協会とかそういうものとは格段の違いのある、大きな規模で、内容のある事業なのだ。これができれば、私は死んでもいい。この訴えを自分の遺言だと思って、みなさんのご援助をお願いします」

 この樺山の「遺言発言」が参加者の心を動かすことになる。このパーティーで募金委員会が設立され、樺山が名誉委員長、一万田尚登が委員長、副委員長として東京が渋沢敬三と石川一郎、関西は関桂三と杉道助が就き、募金委員会の手で52年11月1日を期して募金が始められた。

 名誉委員長の樺山愛輔伯爵と東京副委員長の石川一郎が当時を代表するビッグ・リンカーであり、関西副委員長である関桂三は東洋紡績会長として当時現役の関経連会長であった。またもうひとりの関西副会長である杉道助八木商店会長も当時大阪商工会会議所会頭と海外市場調査会(ジェトロの前身)の理事長を務めていた。この関と杉の関西コンビは大阪日米協会の初代、二代目会長を務めた国際派であり、特に杉は石川一郎とともに藤山愛一郎の要請で揃って日本航空の設立委員になっている。大阪万博の仕掛け人としても知られ、住友生命の社員総代なども務めていた杉は吉田松陰の甥、そして東京副委員長を務めた渋沢敬三が渋沢栄一の孫、さらに委員長を務めた一万田尚登は当時現役の日本銀行総裁であった。

 松本はこの時足が不自由であったが、杖をつきながらほうぼうを回り、期限ぎりぎりの8月30日に樺山と一万田の連名でロックフェラー財団に募金が1億円に達したことを電報で伝えた。募金は個人が3000人、法人が5000件を越え、中には文部省のはからいで川端康成、大沸次郎、吉川英治の3名の文化人有志としての200万円も含まれていた。

 なお、国際文化会館が建てられることになる約1万平方メートルの旧岩崎弥太郎邸跡地についての交渉過程も極めて興味深いので紹介しておきたい。

 当時、第三次吉田内閣の大蔵大臣である池田勇人に樺山と松本のふたりが会いに行き、樺山がなるべく安く払い下げられるようお願いしている。池田は「ご老体を押してこられて恐縮です」と答えて了承し、すぐに秘書官を呼んで関東財務局にその場で電話をかけさせたようだ。この秘書官が後に首相となる国際派の宮沢喜一であった。

 そして1955年初夏、国際文化会館は盛大な開館式を迎える。当時の総理大臣、文部大臣、外務大臣が祝辞を読み上げ、総理を辞めた後の吉田茂の姿とロックフェラー三世の姿もあった。

 ■旧岩崎弥太郎邸跡地と松方正義一族

 ここで松方正義一族との関係も見ておきたい。旧岩崎弥太郎邸跡地と大きく関係しているのである。これまで松方家の豪華な家系はあまり注目されていないが、松方正義が創設した日本銀行を中心に、今なお増殖し続ける国際色と宗教色豊かな300人以上からなる閨閥を形成している。

 日本財政史に名高い松方正義(1835−1924)は1881年に大蔵卿となり、翌年には日本銀行を創設した。内閣制度ができると初代蔵相となり、薩閥の巨頭として内閣を2度組閣するなど首相、元老と栄達の道を歩んでいく。

 松方は王侯並みの子だくさんでも知られ、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられると即答できなかった。『公爵松方正義伝』では19人となっており、正妻満佐子が八男三女の計11人、三人の妾が二男一女ずつの計9人(内8人を認知)と思われるが、正義の孫にあたるハル・松方・ライシャワーの『絹と武士』では21人、あるいは毎日新聞では23人としており、文献によって食い違いがあるほどの子宝に恵まれた。この子供達は正義の方針でほとんどが海外留学し、日本における国際派の源流とキリスト教人脈を築いた。

 松本重治の母は正義の四女光子であり、重治自身も松方コレクションで知られる正義の三男幸次郎の長女花子と結婚していることから松方家と二重の縁になっている。重治は母親と共に神戸に住んでいたが、中学卒業後に上京し、一高に入った。ここで松方三郎と親しくなり、同年輩の従兄弟同士は共に内村鑑三と新渡戸稲造に影響を受け、共に現在の共同通信社の社史に名を残すジャーナリストとなり、共に日本の文化交流大使として第二世代キリスト教人脈を担っていくことになる。
 
 松本重治と共に国際文化会館の設立を支えた松方三郎(1899−1973)は松方正義の末息子(十三男)であり、後に兄幸次郎の養子となって正義の法律上の孫となり、43年には松方家第三代の家長の座についている。出生時は義三郎と命名されたが55年に戸籍上も三郎に改名している。共同通信社専務理事、東京ロータリークラブ会長、ボーイスカウト日本連盟第六代総長、ボーイスカウト・世界ジャンボリー組織委員長(1971年)などを務めた。また、アルピニストとして日本山岳会会長や英国アルパイン・クラブの名誉会員として国際的に認められている。1926年に秩父宮殿下がスイスアルプス10数峰を登った時には松方三郎と松本重治が同行している。

 三郎の登山は松方正義の長男巌の女婿である黒木三次の影響があるが、黒木の影響は三郎のキリスト教の出会いももたらした。三郎は高等学校時代に黒木の誘いから東京YMCAで行われていた内村鑑三の聖書と倫理に関する日曜講演に出席するようになり、内村の弟子となった三郎は内村の始めた無教会派の信者となる。

 三郎が関わったロータリークラブ、ボーイスカウト、YMCAなどは日本のキリスト教人脈を語る上で極めて重要な役割を担っている。このあたりの事情は後にまとめて書いてみたい。

 三郎の妻は海外勤務の長かった佐藤市十郎の娘で、ベツレヘムの星にちなんで「星野」と名付けられた敬虔なカトリック信者であった。この星野の影響から三郎は臨終の床でカトリックの洗礼を受けている。三郎には合計8人の子供がいたが、その中には長男峰雄(日本航空名古屋支店長→ジェイエア副社長、顧問)、次男富士男(トヨタ役職不明)、三男登(不二音響社長)などがいる。登は89年2月に54歳の若さで胃ガンのために亡くなっているが、その告別式は聖イグナチオ教会で行われていることを考えれば、三郎・星野以後カトリックの影響が強いようだ。

 三郎の家系以外の松方家を見てみよう。

 松方正義の四男正雄は浪速銀行頭取、福徳生命保険、阪神電鉄や大阪ガスの社長、阪神タイガースの初代会長などを歴任し、正雄の長男義雄は大同生命保険の取締役を務めた。義雄の長男清は第一ホテル常務、第一ホテルトラベル社長を務め、清の長男純は皇太子妃候補に有力視されたこともある旧華族出身の徳川冬子と結婚している、義雄の次男である康は三井海上火災保険副会長を務め、現在は三井海上火災保険相談役、三井物産監査役、三井海上文化財団理事長、トヨタ財団監事など三井グループを束ねる役割を担っている。

 実は、義雄の妹富子は中上川彦次郎の息子、中上川小六郎と結婚しているのである。この中上川彦次郎は福沢諭吉の甥にあたり、時事新報社社長、山陽鉄道会社(現山陽線)初代社長、神戸商業会議所初代会頭などを務めた後に、理事として三井銀行に招かれ、以後、同行副長、三井鉱山理事、三井物産理事、三井元方参事、同専務理事を務め、明治中期に不良債権問題で経営危機に陥った三井銀行を救った人物として今再び注目を集めている。

 松方正義の四男正雄の家系は三井だけにとどまらない。日本生命の創業者一族である西の名家弘世家につながり、巨大な閨閥を作り上げている。正雄の次男鉄雄の娘である信子が日本生命保険を世界最大の生保会社に育て上げた弘世現の長男、源太郎と結婚しているのである。弘世現源太郎は父同様三井物産で学び、内外に認められた後継者として日本生命常務になるが、1975年に44歳の若さで病死している。この弘世家はサントリーの鳥井一族、松下幸之助一族、旧皇族久邇宮家にもつながっている。

 なお、1997年に松方義雄が97歳で亡くなっているが、この時の告別式は上野寛永寺輪王殿で行われていることから、正雄の家系はクリスチャンではないと思われる。

 松方正義の五男である松方五郎の家系は日野自動車と関係が深い。嵐山電車軌道、台北製糖、東洋製糖などの経営を手掛けた五郎は1911年に、新興のガス灯部品製造会社である東京瓦斯工業の二代目社長に就任し。照明がガス灯から電灯へ移る時代の流れを敏感に受け止め、社名を東京瓦斯電気工業とし、軍用自動車の国産化に乗り出すことになる。37年には東京自動車工業を設立、東京・武蔵野の日野町に工場で主に軍用車両を製造した。戦後になって平和産業に転換し、59年に日野自動車工業となり、現在は日野自動車としてトヨタ自動車グループのトラック、バス、商用車メーカーとなっている。東京瓦斯電気工業は日野自動車以外に現在のいすゞ自動車、日立建機、コマツゼノアの前身でもある。五郎の次男正信も日野自動車工業社長、正信の長男正隆も同社執行役員を務めた。正信もその妻てる子もすでに他界しているが、共に告別式が行われたのは港区芝公園の聖アンデレ教会である。聖アンデレ教会は松本重治と同じ日本聖公会に属している。つまり松方五郎一族は日本聖公会家系となっている。

 エドウィン・ライシャワー元駐日大使の妻、ハル・松方・ライシャワー(松方ハル、松方春子)は、松方正義の七男正熊の二女になり、母方の祖父新井領一郎も生糸貿易で成功したニューヨーク日本実業界の御三家と呼ばれた第一世代キリスト教人脈の中心人物である。

 以上のように松方一族にはトヨタに関係する人物が多い。これは現在トヨタの名誉会長である豊田章一郎の妻博子が三井財閥一族の伊皿子家八代目の三井高長(元三井銀行取締役)の三女であり、三井を媒介にして松方家と豊田家がつながっていることも影響している。

 そして注目すべきは松方正義の次男正作の妻である。妻の名前は岩崎繁子、つまり三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎の弟であり、三菱財閥の二代目総帥、そして第四代日本銀行総裁となる岩崎弥之助の長女であった。

 旧岩崎弥太郎邸跡地は国際文化会館と名称を変えて、三井家や岩崎家、そして弘世家などの名門一族の血を招き入れた松方家によって今なお受け継がれていることになる。

 ■国際文化会館の第一次役員と白州次郎と現在の日本

 話を戻そう。樺山が署名した招請状が送られた約40名は国際文化会館の評議員になっているが、この中で第一次理事と監事に選ばれたのは(資料1)の通りである。

 書ききれないほどの肩書きを持ち、初代経団連会長を務めた石川一郎、1946年に第18代日銀総裁となり、GHQと渡り合える唯一の経済人として以後8年7ヶ月にわたって君臨した「日銀の法王」こと一万田尚登、同じ日銀からは第16代日銀総裁で渋沢栄一の孫にあたる渋沢敬三、文相からソニー初代社長に転じた前田多門、藤山コンツェルンの創設者である藤山雷太の長男に生まれ、戦後の公職追放を乗り越え、経済同友会、日本航空会長としてカムバックし、再び日商会頭に就任、日商会頭のまま岸内閣の外相を務めた藤山愛一郎、米国政治外交史研究の先駆者存在として松本を支え続けた高木八尺、高木と共に終戦工作を進め、戦後最初の東大総長に就任し、「無教会派プロテスタント派理想主義的現実主義者」として護憲の学問的支柱となり、今再び脚光を浴びている南原繁など、戦後の日本をつくった人物が顔を揃えた。

 日本の戦後教育改革の方向を示したゴードン・T・ボールズ、そして南原繁は教育刷新委員会の副委員長、そして委員長として教育基本法の生みの親となったが、現行憲法の数少ない生き証人もこの人脈に存在する。その人物こそ「ジェントルマン・白州次郎」である。

 当時英字新聞「ジャパン・アドバタイザー(後にジャパン・タイムズに吸収)の記者であった白州次郎は、国際文化会館の設立に尽力した樺山愛輔伯爵の長男である樺山丑二と親しくなり、その妹、即ち樺山の次女正子と結婚している。所帯を持った白州はセール・フレイザー商会取締役を経て、日本食糧工業(日本水産の前身)取締役となり、仕事先の英国で駐英大使時代の吉田茂と出会い親交を深めた。白州は51年5月に東北電力会長に就任、以後、荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビ、昭和石油の役員、そして当時英国を代表するユダヤ系投資銀行であったS・G・ウォーバーグの顧問になっている。そして、同時期に白州次郎と樺山正子を結びつけた樺山丑二も東宝取締役とモルガン銀行東京支店の顧問を務めており、樺山愛輔伯爵に関わるふたりの人物が世界的なビッグ・リンカーとなっていた。なお、白州次郎の妹、宣子は松方正義の孫である松方三雄(松方正義の四男正雄の三男)に嫁いでいる。

 この白州次郎は吉田との関係から終戦後の1945年12月に終戦連絡中央事務局参与(翌年3月には次長)に就任し、占領期間中のGHQとの交渉窓口を務めた。「日本は戦争に負けたのであって奴隷になったのではない」。こう言ってはばからなかった白洲は英国仕込みの英語力と、政治家でも官僚でもない立場をいかしてGHQと渡り合い、米国側から「従順ならざる唯一の日本人」としてにらまれた。46年2月にGHQから現行憲法の原案となる「マッカーサー憲法草案」が提示されたが、この場に立ち会ったのは、吉田茂外相、憲法問題担当国務相松本烝治、長谷川元吉翻訳官、そして白州の4名だけであった。この時白洲は外務省の翻訳官らとともに、GHQ民政局長のホイットニーから草案の翻訳を命じられる。焦点の天皇の地位について草案は「シンボル・オブ・ザ・ステイト」と規定していた。白洲は「翻訳官が『シンボルは何と書きましょう』と言うから、英和辞典を見たら『象徴』とあった。それが由来ですよ」と後に証言している。

 この草案通りの新憲法が成立したとき、白州はその手記に「斯ノ如クシテコノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル『今に見ていろ』ト云フ気持抑ヘ切レスヒソカニ涙ス」と書いた。その後、48年に初代貿易庁長官となり51年にはサンフランシスコ対日講和会議に全権委員顧問として蔵相秘書官であった宮沢喜一、麻生太賀吉らとともに渡米している。この調印式での吉田演説の2日前、白洲は吉田から演説草稿に目を通すよう依頼される。草稿は英語となっており、外務省が米国側と打ち合わせた結果に基づき、GHQの占領を褒めたたえる内容となっていた。白洲は「冗談言うな」と憤慨し、吉田の了解を得て、威厳を保つために日本語に変更する。急遽チャイナタウンの店で購入した巻紙を宿舎の長い廊下に広げて筆で書き直させた。吉田の巻紙演説は「トイレットペーパー演説」と呼ばれ会場の話題を集めた。それにしても現在の外務省を見る限り、当時と何も変わっていないように見えてしまう。
 
 英国流のファッションに身を包み、ポルシェなどを乗り回し、軽井沢ゴルフ倶楽部でゴルフに興じた白州次郎は吉田茂の三女和子と麻生セメントの麻生太賀吉を結びつけた。吉田の妻雪子から和子の結婚相手を探して欲しいと頼まれていた白州は、日本への帰りの船の中で出会った麻生太賀吉を紹介したのである。以後白州と麻生和子は亡くなるまで交流を結ぶことになる。従って、白州次郎なくして現在の総務大臣、麻生太郎は存在しなかったことになる。白州が監査役を務めた日本テレビも麻生太郎も憲法改正を推進している。白州のまいた種が今蘇っているのである。 

 また松本重治と吉田茂を結びつけたのも白州次郎である。松本は同盟通信時代に上海で吉田と出会っているが、この時の吉田の印象は良くなかった。戦後になって白州と松本は神戸一中の同窓生であったことから、終戦後に麻生夫妻を紹介し、麻生和子を通じて米国に詳しい松本と吉田茂との間を取り持ったのである。当時松本は家族を軽井沢に残し、従兄弟である松方三郎の家で寝泊まりしていた。三郎邸は外相官邸に近い霊南坂にあり、この時から本格的に交流が始まる。

 この白州と松本は吉田が総理になることに反対する書簡を吉田本人や吉田の義父にあたる牧野伸顕宛に送ったり、白州の大臣就任を松本がつぶしたりと人知れず密接に関わっていた。春名幹男の「秘密のファイル」によれば、キリスト教青年会(YMCA)関東大震災救援団の一員として来日し、立教大学教授などをつとめ、戦後、GHQ参謀第2部民間情報局(CIS)の編集部長として戦犯や戦争責任者の公職追放に関する情報をまとめたポール・ラッシュは、吉田追放を画策するが、これが途中退けられ、ラッシュは吉田と親しく交遊するようになる。ラッシュの有力な情報源であった白州と松本が関与していたことは間違いない。ポール・ラッシュは後に「清里の父」と呼ばれるが、同時にマッカーサーと並ぶ「日本聖公会の父」でもあった。

 白州次郎はマッカーサーに敵意にも似た感情を抱いていたようだ。天皇からのクリスマス・プレゼントを白州が届けた際に、マッカーサーが置き場所に絨毯を指したために、天皇の贈物をそんな所へ置くわけにはいかないと席を立ち、「持って帰る」と言うと、マッカーサーは新しいテーブルを持ってこさせたという。しかし、白洲は講和条約締結後の吉田の引退、そして昭和天皇の退位を主張した。日本を独立に導き、政治家として大役を果たした吉田には花道での引退を、昭和天皇には「この機会を逃せば(太平洋戦争開戦の詔書にある)『朕(ちん)戦いを宣す』のけじめがつかない」ことを理由に退位を求めたのである。白州は「新生日本」のために「プリンシプル(原則)」に貫き通した。

 この白州次郎は現在につながる名言を残しているので紹介しておきたい。右だの左だのの枠組みからはみ出した白州ワールドが見出せる。はたして白州の想いは今に生きているのだろうか。

「オレの左翼思想が、どれだけ戦後の日本を救ったことか」

「(戦後の憲法騒ぎについて)歴史というのは、今生きている人が自分たちに都合良く理解して運用するものなんだ。だから、今オレがしゃべったら、まだ生きている人に迷惑がかかる」

「政治というのは、国民に夢をもたせることなんだよ」

「(戦後の財界人について)あの人たちはバスが走り出してから飛び乗るのがうまいだけだよ」

「日本人ぐらいおとなしい被占領国民もなかった。占領中の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいるとすれば、ただ二人。一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。」

★★(資料1)★★
財団法人 国際文化会館
財団の第1次の理事および監事
http://www.i-house.or.jp/ihj_j/disclo_j/2001/bottom1.html

<理事 16名>
石川一郎
日産化学社長、初代経団連会長、企業役員多数(年譜参照)
一郎の息子には馨(故人、武蔵工業大学長、東大名誉教授)、潔(故人、元三菱石油社長)、六郎(現在、鹿島代表取締役名誉会長、フジテレビジョン監査役)、七郎(故人、本州製紙取締役)、八郎(元三菱化成常務)などがいる。

『石川一郎追想録』巻末の年譜
http://www.lib.e.u-tokyo.ac.jp/ishikawa/ishikawa.htm

一万田尚登
第18代日本銀行総裁、蔵相

樺山愛輔伯爵
海軍大将、元帥、文相、内相、海相、初代台湾総督を勤めた樺山資紀の長男。
米アマースト大留学後、国際通信社、日英水力電気、蓬莱生命保険相互等の取締役、千歳海上再保険、千代田火災保険(社長)、大井川鉄道の役員や東京ロータリークラブ(1921年)の創立会員を務める。
次女正子は実業家の白洲次郎と結婚し、随筆家として知られる白洲正子となる。

亀山直人
東大工学部第一工学部長、日本学術会議会長初代会長、中央教育審議会会長

E・J・グリフィス

小泉信三
慶應義塾長、東宮御所教育参与?皇太子明仁親王(現天皇)の教育係

渋沢敬三
第16代日本銀行総裁、渋沢栄一の孫

上代たの
日本女子大学六代目学長、平和運動家

高木八尺
東大名誉教授、アメリカ政治外交史研究の先駆者

南原繁
政治学者、戦後最初の東大総長

スターリング・W・フィッシャー
リーダーズ・ダイジェスト東京支社長

ゴードン・T・ボールズ
降伏直後の極東小委員会(SFE)特別委員会メンバー
第一次米国教育使節団顧問

前田多門
文相、朝日新聞論説委員、ソニー初代社長、ソニー井深、長女は神谷美恵子

松方三郎(本名は松方義三郎)
本文参照

松本重治
本文参照

藤山愛一郎
藤山コンツェルンの二代目、日本航空会長、経済同友会代表幹事、日本商工会議所会頭

<監事 2名>

加納久郎
住宅公団総裁

J・P・ダディー

(参考)ポール・ラッシュの歩み
http://www.kiyosato.gr.jp/about/rekisi/pr.html
1897  米国に生まれる
1925  東京と横浜のYMCA会館再建のために初来日
1926  立教大学教授として残留
1927  日本聖徒アンデレ同胞会(BSA)を設立
1928  日本聖路加国際病院建設のため米国で募金活動
1934  日本にアメリカンフットボールを紹介
1938  日米協会の青年活動およびBSA指導者訓練場として清泉寮を建設
1942  日米開戦のため米国へ強制送還
1945  GHQ将校として再来日
1946  清里農村センター(キープ)建設開始
1948  清里聖アンデレ教会完成
1949  高冷地実権農場開始
1950  清里聖ルカ診療所開設
1957  清泉寮再建 清里聖ヨハネ保育園開設
1963  清里農業学校開設
1979  12月12日 聖路加国際病院で逝去


□引用・参考

20世紀 日本人の自画像「白洲次郎」
1999年9月6日付中国新聞朝刊

白州次郎・白州正子関連書籍
http://www.buaiso.com/else/shuppan/shuppan.html

『白州次郎』、平凡社、コロナブックス
白州次郎『プリンシプルのない日本』、ワイアンドエフ
松本 重治『国際日本の将来を考えて』、朝日新聞社
松本重治『国際関係の中の日米関係』松本重治時論集、中央公論社
松本 重治『昭和史への一証言』、 毎日新聞社
ハル・松方・ライシャワー『絹と武士』、文藝春秋
神一行『閨閥』、角川文庫
大森映『日本の財界と閨閥』、學藝書林

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

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