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憲法と律法
2003年12月20日(土)
中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学

 前稿「ゲリラ戦に参戦する覚悟はあるのか」には数多くの反響が寄せられた。大部分が賛同の意見であったが、中に「なぜ憲法9条に触れないのか」という質問と、「武力を用いないで、どのようにしてテロを根絶できるのか」という詰問があった。この質問に答えようと思っていたら、サダム・フセインの逮捕というニュースが飛び込んできた。このようなイラク情勢の変化も視野に入れながら、自衛隊のイラク派遣についての考察をさらに続けてみたい。

 最初に憲法の問題について述べ、次にテロの問題について述べる。

 私が憲法9条に触れなかったのは、これに触れると一種の神学論争になるからである。

 憲法の条文を素直に読むと、憲法はいっさいの軍事力の保持を禁じているとしか読めない。しかし、戦後の冷戦構造の中で東西対決の前線に位置した日本は、自衛の名のもとに自衛隊(当初は警察予備隊)を創設し、その戦力を増強してきた。そして現在は、地域紛争や国際紛争にもPKO部隊を派遣するという形で活動範囲も拡大してきた。そのさい用いられたのが「解釈改憲」という方法である。憲法の条文はそのままにして、その解釈を拡大したのである。

 法解釈は言語的操作によってほとんどどこまでも拡大可能であろう。そのことは、たとえばユダヤ教における律法解釈の歴史を見るとよくわかる。ユダヤ教の律法(トーラー)には248の掟と365の禁止事項が書かれている。しかし、大昔に作られた律法の中には、時代に合わないものもたくさん出てくる。しかし、律法は神によって与えられた規定とされているので、それを廃止したり改変したりすることはできない。そこで、律法の条文はそのままにして、その解釈を拡大するのが、ユダヤ教の律法学者(ラビ)に課せられた一つの役割である。

 たとえば、ユダヤ教では安息日(サバト)には労働が禁止されている。したがって、家の内部ではものを動かすことは許されても、自分の家から荷物を外に運び出すことは労働行為として禁止される。だが、これでは現代の生活に不便である。しかし、安息日規定は神が与えた律法なので、これを廃棄することはできない。そこで、一つの工夫が導入された。第二次世界大戦以前、東欧のユダヤ人の町村は「アイルヴ」と呼ばれる針金で取り囲まれ、その結果、律法上はその町全体が一つの住居と見なされるようになったのである。律法上は一つの家なのだから、その町村の中では、安息日でも荷物の移動は自由となった。次に、ワルシャワのような大都会では、電話線がワルシャワ全体を円環状に取り囲んだので、これも「アイルヴ」と見なされ、ワルシャワ市内であれば、「家の内部」なので荷物の移動は自由ということになった。こうなれば現代生活にほとんど何の支障もない。

 このように、律法を時代に合わせて柔軟に解釈するのが、ユダヤ教の知恵である。しかし同時に、解釈拡大の弊害もまたある。拡大解釈を続けていけば、どんな解釈も可ということになり、最終的には律法は、あってなきがごとき存在になってしまう危険性もあるからである。卑近なたとえになるが、パンツのゴムひもをあんまり広げすると、ゆるんでゴムひもの役に立たなくなるようなものである。律法学者は、一滴の水の中でも鯨が泳ぐことが可能、ということを論証できる、と揶揄する人もいる。

 このような拡大解釈に反対し、律法の字義通りの解釈に固執する人々が、超正統派と呼ばれる。これはユダヤ教だけの問題ではなく、キリスト教やイスラム教など、神から与えられた聖典を持つ宗教には、聖典の字義にできるだけ忠実たらんとする人々、いわゆる原理主義者がいる(いくら字義に忠実とはいっても、そこには常に解釈の問題が入ってくるのだが)。

 戦後の日本では、憲法、とくに9条が、一種の天与の「律法」となり、改変が困難な状況になった。憲法がなぜ「律法」化したのかは興味深い問題であるが、ここでは触れない。ともかく、憲法9条は終戦直後の日本人の心に強く訴えかけた理想であった。しかし、戦後の国際政治の変化の中では、いっさいの軍隊を持たないことは非現実的と考えられたので、憲法9条は、条文はそのままにしてどんどん拡大解釈されていった。今回の自衛隊のイラク派遣でも、それがどれほどこじつけであろうと、合憲であるとの理屈はつけられる。

 しかし、あまりにも拡大解釈が横行すると、憲法は、のびきったゴムひも、あってなきがごとき存在になる危険性がある。法が時の権力者によって恣意的に解釈されることは、立憲政治において決して好ましいことではない。法解釈に一定の限界を設定するのが司法の役割であるが、日本の司法は自衛隊の問題についてほとんどの場合、憲法判断を避け、現実を追認してきただけであった。

 憲法と現実がそぐわないのであれば、現実を憲法に近づけるか、憲法を現実に近づけるか、どちらかしかない。憲法は理想主義的な平和主義を語っている。もし現実を憲法に近づけようとするのであれば、日本人は理想主義的平和主義をいかにして現実化するかを真剣に考え、努力しなければならない。また逆に、憲法は神の律法ではないのであるから、憲法を現実に近づける形で変更することも可能である。憲法を現実に近づけて変えれば、拡大解釈という、ある種のいかがわしい手段に頼る必要はなくなる。憲法をどのような形に直すか(あるいは直さないか)は、最終的には、日本国民がどのような国家を欲し、国際社会の中でどのような生き方を選択するのか、という国民の総意によって決定される。

 しかし問題は、現在、この国民の総意が形成されていないことである。憲法9条を人類の理想として高く評価し、擁護する人々がいる一方、これを非現実的な観念論として、できるだけ早く改正(改悪?)することをもくろんでいる人々もいる。後者にとっては、自衛隊のイラク派兵が憲法に反すると言っても、「だからどうなんだ? 憲法が残って国が滅びてもいいのか? そんな憲法は早く変えてしまえ」という答えが返ってくるだけであろう。

 自民党は明確に憲法の改正を目指している。「自衛隊は軍隊でしょ」と公言してはばからない小泉首相は、もともと現憲法を尊重する気などない。「自衛隊は軍隊ではないから合憲」というのがこれまでの拡大解釈の理屈であったにもかかわらず、それすらもあっさりと踏み越えているからである。12月9日の「イラク派遣基本計画」の中で小泉首相が憲法の前文を引用したが、それは便宜的な拡大解釈のためでしかない。

 ここではこれ以上憲法論議に深入りすることは避けて、小泉首相の演説について触れたい。私が指摘したいのは、首相の演説は、「国民精神が試される」という言葉に端的に表われているように、一種の精神論であり、この派遣が「国益」にかなうことを、まだ具体的には説明していないということである。小泉首相や、アメリカのイラク攻撃を支持する人々――たとえば小泉首相のブレーンの一人とされている拓殖大学の森本敏教授など――は、これまで「国益」を根拠に自衛隊のイラク派兵を主張していた。だから私は前稿で、ならば小泉首相はその「国益」の内容を、リスクとの対比の上でもっと具体的に国民に説明すべきである、と論じたのである。

 ところが、小泉首相の演説は精神論に終始した。これを聞いて私は強い違和感をいだいた。小泉氏は、「首相になったら8月15日に靖国神社に参拝する」と約束して首相になりながら、中国と韓国の批判にあっさりと前言を翻して8月13日に「前倒し」参拝した。これは公約違反であるし、「英霊」への侮辱である(民族派の立場からすれば、中韓の内政干渉を許し、それに屈したことで、「国益」を損なったことになる)。国債30兆円以内という公約を破っても、「そんなこと大したことじゃない」とうそぶく首相である。そういう小泉氏に「国民精神」をお説教する資格があるのだろうか。

 誤解のないように付け加えておくが、私は「国益」を絶対化する気はない。21世紀の人類にとって必要なのは、むしろ「地球益」や「人類益」という発想である。しかし、哲学者でも宗教家でもなく、国民の安全や利益を現実的に確保しなければならない政治家が「国益」について考えるのは当然である。真に望まれる政治家は、「国益」と「人類益」、現実と理想を両立しうる偉大な見識を持った政治家であろう。しかし現在、それほどの政治家は日本のどこを探しても見つからない。だから、今の政治家が国益中心に考えるのもしかたがないと思うが、「国益」の名のもとに「国益」にならない政策を採ったならば、国民を不幸に陥れる致命的な過ちとなる。小泉首相には、もう一度真剣に「国益」について検討してほしいものである。

 「テロ」の問題については次稿で触れたい。

 中澤先生にメール mailto:naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp

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