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「永住外国人」の地方参政権について考える

2000年11月29日(水)
在独ジャーナリスト 美濃口 担

 インターネットで日本の新聞を読んでいると、「永住外国人」に地方参政権を付与する法案が今次国会で成立困難になったというニュースがあった。

 それからしばらくして朝日新聞のインターネット版を眺めていると「e‐デモクラシー」とあり、「永住外国人の地方参政権」をテーマに国会議員と識者が発言し、読者が意見を投稿する討論会をしていた。これをダウンロードする。他にもないかとサーチエンジンに「外国人参政権」と入れると「外国人参政権に反対する国民運動」が出て来た。これをクリック。今度は反対意見がたくさん集録されている。これらは産経新聞に掲載されたものが多い。これもダウンロードした。

 少し前閑ができて、私はダウンロードしたものを読んだ。「外国人参政権」は10年以上前ドイツでも盛んに議論されたテーマである。私はドイツで「定住外国人」の範疇に属するので、当時このテーマに関心があった。ドイツの議論で感じたり、考えたりしたことを思い出しながら、日本での議論についての私の感想を今から書く。

 ●名前を変えて生きること

 問題のはじまりは、私のようにある国に色々な事情から住み始め帰国しないで定住してしまった外国人の存在である。彼らが居住するだけで参政権を持たないことを問題と感じるかそれとも当然と思うかがキーポイントになる。定住外国人の数があまりにも少なければ例外として無視できる。また外国人は完全に「よそ者」であり、社会の構成員と見なしていなければ、民主主義的原則を彼らに適用することなど思いもしない。ヨーロッパ諸国で定住外国人に選挙権について議論されるようになったのはこの二つの条件と絡んでいた。ちなみに、私の暮らすドイツ社会も八百万人足らずの外国人がいて、これは全人口の10分の一近くに相当する。これは例外として処理できる数でない。外国人も自分達の社会に暮らす以上、可能な限り同じように扱うべきという考え方が強い。(外国人に対して暴力をふるうスキンヘッドの若者も、この考え方に対する反動という側面がある。)

 以上の二つ、数の問題と外国人を同等の社会構成員としてあつかうべきという考えが前提となってヨーロッパでは議論が始った。

 それでは、日本の議論も同じような状況から始ったのであろうか。日本は周知のように外国人就労に対して制限的政策をとっている。私達が在日朝鮮人や台湾人を除くと定住外国人など西欧諸国と比べて本当に少ないと思われる。私達が在日朝鮮人や台湾人を除外したとする。数からいって「外国人参政権」など議論する必要が本当にあるのであろうか。私はこの点を不思議に思った。立法段階で対象が在日朝鮮人・台湾人に限定されてしまったのも、私のこの疑問が見当はずれでないことを物語るのではないのだろうか。

 ドイツ社会で私の周囲に無数の外国人が暮らしている。私の住居に近い順でいくとフランス人、英国人、フィンランドン人、トルコ人、ポーランド人、米国人、朝鮮人、、、、。(日本人の私を含めて)彼らが「定住外国人」である。彼らと、自分が子供の頃から京都で見たり接したりした在日朝鮮人を同一視し、「定住外国人」と呼ぶことなど私には絶対できない。在日朝鮮人・台湾人は旧植民地出身者、もしくはその子孫で、歴史的に見ても、また日本社会で置かれた彼らの立場からいっても、私の周囲に暮らす定住外国人とまったく異なる。彼らの存在はもっと重苦しいものであった。彼らの立場はあの時と比べて遥かに改善されたかもしれない。とはいっても、今でもどこかあの当時と同じところがあるのではないのだろうか。

 私が子供の頃、彼らのなかには日本名を名乗る人々が多くいた。日本人だと思っていた憧れのプロ野球左腕投手が朝鮮人であると知らされて戸惑ったのを覚えている。また学校でも彼等は日本名を使っていた。ところが、必ず誰かが「あの人は朝鮮人で、、、」と教えてくれた。

 自分の名前を変えなければいけないということは本当に凄まじいことである。私は日本で暮らしているときはあまり考えなかったが、自分がよその国に行き、定住外国人になってからつくづくそう思う。母親がドイツ人であるためにドイツの名前をつけておけば私の子供達もこの社会に紛れ込めないことはない。ところが、私はそんなことを夢にも思わず、子供達に日本の名前をつけた。ところが、「在日」と呼ばれる人々の多くがそうしなかった。私はこの違いを絶対考えてしまう。

 ●「前向き言語」について

 日本社会には「在日」と日本社会の関係を改善するために彼らに地方選挙権を付与することに賛成する人も多いと思われる。もしそうなら、彼等以外の定住外国人など本当に少ないので、「永住外国人地方参政権」などという看板をあげないで、率直にこの提案をするべきである。ところが、どうやらそうは行かないらしい。例えば上記「e‐デモクラシー」で問題提起者は冒頭で次のように述べる。

《「永住外国人の地方参政権」問題をめぐるこれまでの議論は、もっぱら永住外国人の約9割を占める在日韓国・朝鮮人を対象に行われてきました。しかし、この問題はいわゆる戦後処理問題としてではなく、外国人労働者との共生社会をどう作りあげるかという視点から検討すべきではないでしょうか。今後外国籍のIT技術者の登用や介護労働力としての外国人労働者の問題をはじめとして、日本が真に国際社会に開かれた国家と言えるかどうかが問われる場面も増えていく中で、国際社会における日本の進路はどうあるべきかという問題と切り離してこの問題を考えることは適当ではありません。…》

   こうして、半世紀前子供の私にも感じられた問題が日本のメディア特有の「前向き言語」に翻訳されて、二十一世紀的問題に変わる。でも、なぜその必要があるのだろうか。今まで「在日」の参政権については散々議論したのに、埒があかなかったからだろうか。それは、大多数日本人はこれを問題にしたくないからかもしれない。また発効部数の高い新聞ほど多数派の考えを無視できない。だから、「外国人地方参政権」という回り道を選んだ。問題にしたくない多数派に苦い薬をオブラートで包んでのませるために、わざとこのような「前向き言語」に翻訳した。このように解釈できる。でもどんな名目であろうと問題が少しでも解決されればそれでよい。私には最初そう思われた。

 でもこのように苦い薬をオブラートに包む態度にはどこか読者を子供扱いしているところがないだろうか。というのは、子供に「殺人はなぜ悪い」と聞かれた母親が直接倫理的理由をあげて必死に説明するのでなく、「監獄に入れられたら、大好きなチョコレートも食べられなくなるのよ。だから悪いの」といってお茶をにごしているようなところがどこかあるからである。

「e‐デモクラシー」で読者の投稿を読んでいるうちに私の考えが少しづつ変わり始める。というのは、読者のなかには反対者も賛成者もいるが、彼等を子供扱いする必要など全然ない思われたからである。そこで、私は次のように考えた。この「前向き言語」に翻訳する人々こそ、「在日」のことなど問題にしたくない多数派に属する。あるいは、問題にしたくないのか、本当は問題にしたいのかも最早考えない。彼等はヨーロッパ諸国と同じように、「外国人参政権」というハイカラな議論をするために、「在日」朝鮮人をヨーロッパ並の「定住外国人」に格上げしただけである。

「在日」の問題は、日本が外国人の介護人やIT技術者を必要とする問題とも、あるいは日本が「国際社会に開かれた国家」になるかどうかとも直接関係がない。例えば、(米国がやっているように、)豊かな先進国が開発途上国から有能なIT技術者を金にまかせて集めることに私は疑問を覚える。ということは、どの問題も厄介で見解が分かれる。別の色々な問題にどんどん結びつける「前向き言語」とは次のようなことになるのではないだろうか。

 会議で私がある提案をする。かなりの人々が提案に賛成してくれている。ところが、私は次から次へと別の問題と関連させる。その度ごとに私の賛成者の数は減るのではないのだろうか。私達はこの「前向き言語」を後に遡らせて賛成者の数を減らすこともできる。「在日」の問題は日本が敗戦して、植民地が独立したときに発生したという意味で「戦後処理問題」かもしれない。しかし、だからといって議論をどんどん後遡らせ、「植民地化」の是非まで議論に含ませると提案の賛成者は減っていく。

 このように議論を進める人々は、法廷でよけいなことを言い出し、その度に新たな証明義務を背負い、自滅する新米弁護士と変わらない。彼等がそのことに気がつかないのは、多数派根性が骨の髄まで染み込んで、多数派に属する幻想を持つほうが賛成者を獲得して本当に多数派になるより重要であるからではないのだろうか。また反対意見を無視すれば、いつまでも仲間内にとどまれ、多数派に属する幻想を維持できる。これも理屈に合ったことである。私にはそう思えてならない。

 ●「国内問題である」ことの意味

「外国人参政権」議論のもう一つの前提となるのは、自分達の社会に住み、参政権を持たない人々が存在するのを不自然と感じることである。これは、私達の社会が「民主主義」という看板を掲げているのに、参政権をもっても良いはずの人々がこの権利の行使から除外されている、これはおかしいと思うことである。

 ということは、これは参政権をすでに行使する多数派とそうでない少数派の問題である以上、あくまでもその当事国日本社会の内部問題であり、またそうあるべきである。

 十年前のドイツのテレビ討論会で誰かがドイツ定住外国人の出身国まで問題にし始め、相互主義を盾に、例えば「ドイツ人旅行者の人権侵害をした独裁国の出身者には参政権を付与すべきでない」と発言したとする。それまでけんかしていた賛成者も反対者も一致団結して、その発言者を非難したのではないのだろうか。(日本では必ずしもそうでないことは、鈴木雅子さんが萬晩報2000年03月13日号の「在日外国人の地方参政権法案に反対する根拠」で指摘された。)

 また日韓友好のためといって与党議員の一部が法案成立にがんばっているのも本当は外交問題でないので奇妙なことである。十年前米大統領あるいはトルコ大統領がドイツ首相にドイツに定住する自国民に参政権付与を要求したら、これはかなり角の立つ話になったと思われる。ところが、日韓首脳会談後韓国大統領が「来年中に妥結できるよう、(故小渕首相の)指導力発揮を期待している」と表明するのを誰も異様に感じない。いつもなら「内政干渉」とか「主権侵害」とか文句をつける人々も何もいわなかったそうである。

 以上の点は、「外国人参政権」というレッテルをはっているだけで本当はヨーロッパとは質的に別の問題を議論していることにならないだろうか。参政権の議論で、例えば在日韓国人に選挙権を付与することは日韓友好になると思うのは、そう思う日本人が在日朝鮮人を韓国もしくは北朝鮮の代表者とどこかで見なしていることを意味する。つまり彼等がこれら二つの国家から日本に派遣されて、どこか準公務員(例えば外交官)のような存在として考えていることである。もちろんそのような印象を受ける人々が少数いるかもしれない。でも日常生活ではそんな気持で日本人は彼等に接しているであろうか。彼等はバックグランドが異なると思うかもしれないが、個人として扱っているはずである。これは、政治的意見と本当に私達が日常生活で抱く見解のギャップの例である。

 同じ問題を反対側から説明することができる。日本人が外国に出た途端、自分は日本を代表しているという意識にとらわれたことがないであろうか。私たちの多くががオリンピックの選手でもないし、外交官でもない以上、この気持は本当に可笑しいところがある。外国生活に慣れるとそんな肩肘ばった意識はなくなる。私達が在日朝鮮人を準国家代表と見なすことと、自分が日本を代表している意識はコインの裏表である。

 ●「地球市民」と呼ばれる人々

上記「e‐デモクラシー」の投稿を読んでうれしかったのは巨大新聞が読者との一方通行をやめて、インターネットの強みである議論を生かす企画をはじめたことである。また驚くほど多くの人々がこのテーマに関心をもち意見を述べ、その論拠も十年前のドイツでの議論とほとんど同じで懐かしかった。

 また識者の先の提言などあまり気にせず、多くの人々が日本で昔から暮らしている「在日」朝鮮人に限定して論じているのも私にはうれしかった。驚くほど多数の人々が彼等に選挙権がない現状をおかしいと感じている。ところが、そのような人々も「外国人参政権」には国籍が必要であることを指摘された途端、彼らは「外国人」であることになり、選挙権を与えることに賛成できなくなる。そんな印象を受けた。

 日本も西欧諸国も「主権在民」であり、参政権を行使するのは国民で、国籍所持者となる。国籍は超え難いハードルである。だからこそ、外国人地方参政権付与推進者は、どこの国でも参政権という、分割しにくい権利を何とか分けなければいけない。そのために主権行使に関連する国政選挙と、そうでない選挙、例えば地方選挙に分けて、国籍所持していない外国人に後者の選挙権を与えようとする。ということは、定住外国人に参政権全体でなく地方選挙権だけを与えるアイデアそのもが参政権に国籍が必要であるとする主張を認めていることである。

 ●次に定住外国人の立場から見る。

 例えば、私がドイツで市町村選挙に参加できるようになったとする。私は自分が住む町の市営プール拡張決定には一票を投ずることで参加できる。次にドイツが戦争をする決定をしたとする。この「戦争か平和か」の決定のほうが市営プール拡張工事などより私の運命にずっと重要だ。ところが、外国人の私はこの重要な決定からは除外されている。これはおかしいことではないのだろうか。

 ある決定を下す時、その決定に影響を被る人々、すなわち関係者の見解を聞くべきである。被る影響が強い程、そうしないといけないと私達は思っている。この原則に立って、私達は王様が一人で決めるシステムより民主主義のほうを選択した。そしてドイツ社会は定住外国人の私にこの考え方を適用しようとして、選挙権を与えようとした。ところが、重要度の低い選挙権をくれるのは、この本来の趣旨に反することにならないのか。ドイツでこの議論がはじまった頃私はまずそう思った。

 このように考えると、外国人に地方選挙権だけをあたえることは中途半端な過渡期的処置、「気は心」に近い象徴的要素が濃い処置である。十年前、ドイツでは外国人地方参政権推進者にはこのような中途半端な性格はある程度分かっていた。それでも現状のままほったらしにして置くより良いと考えて、彼らは慎重派、反対派を説得しようとしたのである。

 店の看板が同じであるからといって、どこの国でも同じ品物が買えると思うのは間違いである。外国人地方参政権賛成者も日本ではかなり異なっている。例えば、

 《私は、国だけが政治の単位だとは思いません。確かに、「外交・安全保障」というテーマに関しては、国が単位となっています。しかし、テーマによっては、都道府県が単位であったり、市町村が単位となったりしていますし、逆に、EUなどでは、国家を超えた政治単位も機能しています。テーマごとに、その参加資格を考えることは、決して特別なことではないと思います。 》(上記の「e‐デモクラシー」に出てくる民主党代議士)

 このように「テーマごとに、その参加資格を考える」と表現した途端、私が指摘した問題点が消えてしまう。

 もちろんこの日本の政治家のように、私達は、地方自治体‐国家‐EUという具合に「政治の単位」があると考えることができる。でもこの若い日本の政治家のように表現することで、参政権についての議論と、色々なコンクールの応募資格について議論することが質的に同じになってしまうのではないのだろうか。そうなるのは、この発言者が歴史的にも国際政治的にも真空地帯にいるからである。というのは、多くの人々にとって国家という「政治単位」は別格的存在である。過去にこの「政治単位」のために数多くの戦争が起こったし、私達日本国民も半世紀前はこの「政治単位」のために大きな戦争をした。現在でも地球上のどこかで自前の国家を持とうとして血生臭いことが起こっている。この何百年前から地球上で起こっているていることを無視できる人は私にとって「火星の住人」に近い存在であるが、日本では奇妙なことにこのような人々が「地球市民」と呼ばれる。

 ●「あたりまえのこと」をいう人々

 このような「地球市民」の立場で「前向き言語」を使う人々にとって、十年前ドイツの推進派に超え難いハードルに見えた「主権在民」も「国籍」も重要でなく、超える必要もなくなる。だから、

 《問題の本質は「参政権を認めるには国籍が前提かどうか」というより、「外国人の民族性、文化を尊重する社会をどう作るか」ではないでしょうか。》(上記の「e‐デモクラシー」の有識者)

 もちろんこのような「地球市民」に対して反論するのは簡単である。「国籍こそ参政権を認める前提である」と述べ、「国家」、「主権在民」、「国籍」、「国民の義務と権利」といった関連する概念について、「政治学入門」に出てくるような説明をつけくわえ、付和雷同してはいけないといえば済むのである。ダウンロードした産経新聞に掲載された反対意見を読みながら私はそう思った。かなり糖がたった「政治学入門」の趣きがないでもないが、国家や国民の在り方が猫の目のように変わるわけでないので、発言の多くは「あたりまえのこと」で、すなわち「正論」である。「あたりまえのこと」が冴えて見えるとしたら「地球市民」という引っ立て役がいるからである。

 現実は「正論」通りに行かないので、普通の国ならそこから議論が始る。ところが、日本では「あたりまえのこと」をあっさり「問題の本質でない」とする「地球市民」が議論をはじめる。そのうちに「あたりまえのこと」をいう人々が出て来て議論が終る。政治はそれとは無関係な場所で動く。これも、多くの日本人が政治に抱く閉塞感の原因の一つになっているのではないのだろうか。

 どこの国でも保守派は定住外国人に国籍取得を求める。定住外国人を追い出すことが出来ない以上、彼らが国籍を取得すれば外国人がいなくなり、その結果問題がなくなる。でもこの場合に、問題をなくすことを問題の解決と見なすことができるのであろうか。

 それでは、なぜ定住外国人は国籍を取得しないのだろうか。手続きが面倒ということもあるかもしれない。ドイツは日本と比べて遥かに簡単であるが、それでも多くの外国人は取得しない。というのは、彼等は新しい国籍を取得することで今までの国籍を失いたくないのである。彼らがそのように思っているのは、国籍が彼らのアイデンティティの一部になっているからである。名前もその持主のアイデンティティの一部になっている点がある。だから、私達は名前をあまり変えたくない。国籍もこの名前の場合と似ているのかもしれない。

 保守主義者は国籍を取得しようとしない外国人を一方的に非難する。ところが、問題は相互的である。というのは、国柄というべきものがあって、外国人が暮らしていて国籍を取りたくなる国とそうならない国とがある。

 私が中学生か高校生の頃だと思うが、もう亡くなった江藤淳が朝日新聞の文芸時評を担当していた。彼は渡米するが、その仕事を続ける。米国滞在もかなり経過した頃、彼は自分がカルフォルニア州から東部にやって来た日系アメリカ人と間違われる経験をし、いかに米国が外国人であることを感じさせなくする可能性をもつ国であるかと書いたことがある。

 この箇所をもう何十年も経ってからドイツで私は思い出した。ドイツは米国のような国ではない。私はこの国で外国人であり、日本人であることをいつもどこかで意識し続けている。これは、ドイツが米国のような移民が建国した国ではないことと無関係でない。だから「日系ドイツ人」や「イタリア系ドイツ人」といった表現もドイツ語として座りがよくない。この国柄は早急に変わらないと思われる。

 ●ドイツで議論が下火になったのは、、

 ドイツでは「外国人地方参政権」についての議論はすっかり下火になってしまった。EU全体の決定で、加盟国が自国に暮らす他の加盟国出身者に自治体選挙並びに欧州議会選挙に参加させるようになったからである。これで、かなり多くの外国人がドイツで地方参政権をもつようになった。とはいっても、EU加盟国でない域外出身の定住外国人には、特に二百万人以上もいるトルコ人には以前と同じように地方参政権がない。彼らに地方参政権を与えようとする立法化の動きは皆無ではないが、人々の関心は「国籍」に移りつつある。定住外国人が今までの国籍を失いたくないなら二重国籍を認めて国籍をとってもらう。国籍をとったら、彼らは地方選挙だけでなく国政選挙にも参加できる。こちろのほうが、参政権を分割しないですむので、地方選挙権だけを付与するより満足のできる解決と考える人々が少なくないからである。

 二重国籍とは、ある人がフランス国籍もドイツ国籍ももつことであるが、ドイツでも保守的な法学者は「重婚罪」のように忌み嫌う。ところが狭い空間に多数の国家がひしめき合うヨーロッパでは国民国家最盛期においても多数あったことである。例えば、私は1968年ドイツに行くことになり、生まれてはじめてもらったパスポートを知人の「ドイツ人」女性に見せに行った。すると、彼女は「私は3つあります」といって引出しからドイツ、スイス、オーストリアのパスポートを出してくれた。現在人口八千万のドイツで数百万も重籍があると推定されている。

 この解決案によっても問題が生じるが、保守的法学者が主張するほと解決不可能ではないとされている。例えば暮らしていない国との権利・義務関係が「休眠する」ように国家間で取決めを結ぶことも不可能でない。

 このような背景でドイツの現政権は昨年在独トルコ人に参政権を与えることができるように、事実上彼らの二重国籍を認めるべく国籍法改正をしようとした。ところが、保守派の反対にあいこの部分は修正を余儀なくされた。しかし欧州統合が国家を残すかたちで進展していく限り、十年とか二十年といった単位で考えると、ヨーロッパは二重、三重国籍を認めることで問題を解決していくことになると予想される。

 今回「特別永住外国人」と呼ばれる朝鮮人・台湾人に対して地方参政権付与が実現しないかもしれない。「気は心」というだけの過渡的処置でも私は実現すればよいと思っていたので残念である。

 ドイツでは大きな町には外国人から選挙された外国人代表者と市議会代表者から構成される審議会があるところもある。もちろん力はないにしても、ここが市議会決議に対して反対することは重みをもつ。(こんなこと、私が知らないだけで、もしかしたら日本の自治体でも実現しているかもしれない。)本当にやる気があれば色々手があると思われる。

  外国の事例はそのまま日本に適用しても多くの場合うまくいかない。例えその結論に達するにしても、議論したり考えたりすることで、その外国の事例だけでなく、日本の問題の性格がよく理解できることがある。そのためにも、奇妙な「前向き言語」で議論しないほうがよいと私には思われる。


 美濃口さんにメールはTan.Minoguchi@munich.netsurf.de
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