桜と外交官-ワシントンの桜100年に寄せて

user-pic
0
img55da91f5zik0zj.jpeg 駐米大使の藤崎一郎氏が、47NEWSに「桜と外交官」という玉稿を寄稿している。霞ヶ関にある外務省のあたりのサクラから解き明かし、今年100年を迎えるワシントン、ポトマック川の桜並木を回顧している。

 http://www.47news.jp/47topics/e/226712.php

 当時の東京市長の尾崎行雄ばかりが注目されるが、アドレナリンの発見で世界的な知名度があった高峰譲吉が大きな貢献をしていたことを最近知って驚いたことがある。しかし当時のワシントンにやってきた水野幸吉ニューヨーク総領事の話はしらなかった。寄稿によると、

 水野総領事が所用でワシントンに出張したとき、アドレナリンの発見者でニューヨーク日本人社会のリーダーの高峰譲吉博士もちょうどワシントンにおり、博士もシドモア女史と旧知だったので3人で集まった。1909年4月8日のことである。シドモア女史が、「タフト夫人がポトマック河畔を美しくしたいと1週間前に言い出したので日本の桜を薦めたら、ちょうど前日の7日に夫人が同意して桜を集めるように指示が出たところ」と打ち明ける。

 高峰博士は、かねがね移民排斥など米国内の反日感情の高まりを懸念しており、日米友好のシンボルとしてニューヨークのハドソン河畔に桜を植えることについて同市の当局者の説得を試みていた。そこで、ただちに「では自分が1000本を贈りましょう」と申し出たらしい。途中で2000本に増やしたとシドモア女史は書いている。これに対し水野総領事は、せっかくの機会であり、個人からではなく日本の首都、東京市長の名で贈るべきであると主張した。

 シドモア女史は4月10日には、タフト夫人に取り次ぎ、タフト夫人は「喜んで東京市長からの贈り物を受ける」と述べた。20年間も進んでいなかった桜植樹の話が、大統領夫人の鶴の一声のおかげでとんとん拍子に進むことになった。米国内で調達できる桜の本数が限られていたし、予算面もあり、渡りに舟ということだったようだ。

 戦後の逸話になるが、尾崎行雄は1950年春、91歳の老躯に鞭打ってワシントンに渡った。名目はポトマックのサクラを見ることだったが、5月27日の講演でサクラにかけた思いを重ねて次のようなことを話した。

「わたしは残る生涯を二つのことのために捧げたい。日本の真の民主化と世界の廃藩置県を行って世界政府を樹立することである」

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.yorozubp.com/mt/mt-tb.cgi/1824

コメントする

このブログ記事について

このページは、伴 武澄が2012年3月17日 10:41に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「高知市鏡村でみつけた1本サクラ」です。

次のブログ記事は「高知城のサクラが開花宣言」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。