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    <title>僕のThink Kagawa</title>
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    <title>(9)－雲水遍歴</title>
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    <published>2012-01-14T04:04:07Z</published>
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    <summary>　賀川豊彦は１９１４年、初めてアメリカの土地を踏みます。プリンストン大学への留学で、マヤス先生らキリスト教の恩師たちの力添えによって実現しました。授業料は免除されましたが、アルバイトをしながら３年間アメリカで過ごしました。この時、アメリカで労働組合運動があるのを初めて知ったのです。労働組合運動だけでなく、多面的なアメリカを吸収しました。　余人に真似できないのは帰国してから、また新川に戻るところです。アメリカでの留学生活は金銭的には苦しかったかもしれませんが、きれいな芝生のキャンパスの中で、寄宿舎も多分きれいなシーツがあって、伝染病などからほど遠い３年間を過ごしたはずです。よほどの決心がなければ、帰国の翌日から再び新川で貧民救済が続けられることはできません。１９０９年に初めて新川に入った時以上のエネルギーが必要だったはずです。　賀川は生涯で７回渡米しています。２度目の渡米は１９２４年。全米大...</summary>
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        <name>伴　武澄</name>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/01/unsuihenreki-107.html" onclick="window.open('http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/01/unsuihenreki-107.html','popup','width=400,height=564,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/01/unsuihenreki-thumb-200x282-107.jpg" alt="unsuihenreki.JPG" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0pt 0pt 20px 20px;" height="282" width="200" /></a></span>　賀川豊彦は１９１４年、初めてアメリカの土地を踏みます。プリンストン大学への留学で、マヤス先生らキリスト教の恩師たちの力添えによって実現しました。授業料は免除されましたが、アルバイトをしながら３年間アメリカで過ごしました。この時、アメリカで労働組合運動があるのを初めて知ったのです。労働組合運動だけでなく、多面的なアメリカを吸収しました。<br /><br />　余人に真似できないのは帰国してから、また新川に戻るところです。アメリカでの留学生活は金銭的には苦しかったかもしれませんが、きれいな芝生のキャンパスの中で、寄宿舎も多分きれいなシーツがあって、伝染病などからほど遠い３年間を過ごしたはずです。よほどの決心がなければ、帰国の翌日から再び新川で貧民救済が続けられることはできません。１９０９年に初めて新川に入った時以上のエネルギーが必要だったはずです。<br /><br />　賀川は生涯で７回渡米しています。２度目の渡米は１９２４年。全米大学連盟からの招待でした。スラムでの献身的活動は日本に来ていた宣教師たちによってすでに伝えられていました。<br /><br />　米沢和一郎氏の欧米での調査によれば、アメリカの「Christian Century」、スイスの個人雑誌「New Wage」、フランスの「La　Solidarite」などに頻繁に「スラムの聖者」として紹介されていました。<br /><br />　キリスト教系の新聞や雑誌は、日本と違って読者のすそ野が広く、世界中くまなく読まれるため、その影響力は計り知れません。図書館に行けば必ずあり、教会に行けば必ず置いてあるような雑誌、新聞がです。<br /><br />　シュバイツアーとある日本人との手紙のやりとりの中に「賀川」が登場するのはちょっとした驚きです。アフリカのシュバイツアーは賀川の記事を読んでいたはずなのです。キリスト教ネットワークの影響力がいかに大きいかということでもあります。１９３２年にア－キシリングが『Kagawa』という伝記を書く１０年も前から、実は賀川の名は世界で知られていたといってよさそうです。<br /><br />　２回目の訪米に戻ります。アメリカへの到着は１９２４年２月。滞在中の７月に「排日移民法」が成立しています。賀川にとって大きな衝撃となります。貧困に加えてさらに人種問題が大きな課題となって立ちはだかるのです。<br /><br />　そのころ、サンフランシスコやシアトルでは日本人の数が急増し、総人口の１０％を超えるようになっていました。西海岸が日本人に占領されるという恐怖感が排日移民法成立の背景にあったことは間違いありませんが、賀川のアメリカに対する意識は「天使のアメリカ」から「悪魔のアメリカ」へと大きく修正されます。プリンストン留学時代は、学ぶべき、いいアメリカでしたが、この時ばかりは「悪魔のアメリカ」と呼んでいます。賀川は親米主義者のように語られていますが、アメリカでの講演ではアメリカでの人種差別を徹底的に批判しています。<br /><br />　賀川は国際的な伝道師、社会活動家としての側面と、日本人という側面と、二つの顔を持っていました。歓迎を受ける一方で、新聞記事だとか、日々の生活がすべておもしろい、楽しい旅ではなかったはずです。その証拠に、彼がアメリカでの旅を終えてニューヨークからロンドンに向かう時に、こういうことを書いています。<br /><br />「船はニューヨーク港を出た。港の入り口に立つ自由の神様は霧のために見えなかった。それは私は意味あることにとった。米国は、今、霧の中にある。自由の神像は米国には今、見えないでいる」（『雲水遍歴』1926年、改造社）<br /><br />　暗に排日移民法を批判した文章で、「米国国民は国民的年齢において満１２歳である」とも書いています。マッカーサーが日本の精神年齢について「１２歳」と言ったちょうど２０年前にアメリカ人に対して「１２歳である」などと書いているのには驚かされます。<br /><br />　第一次大戦の反省から生まれた国際連盟で、日本の代表団は国連憲章に人種差別撤廃を盛り込むように要求しましたが受け入れられませんでした。そればかりか、いいだしっぺのアメリカはカリフォルニア州を中心に増え続ける日本人移民を排斥する法律を導入して、黄色人種への差別を強化していたのでした。<br />
<br />
　ちなみにアメリカはウィルソン大統領自らが、国際連盟を提唱しながら議会が批准しなかったため、加盟国とはなりませんでした。戦後になって、満州事変への列強の批判から日本が国連を脱退したことが、なにやら国際協調路線からの離脱のように受け止められるようになっていますが、世界最大の債権国となったアメリカは初めから、国際連盟の規約に拘束されず自在に外交を展開していたのです。<br /> ]]>
        
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    <title>(10)－オーエン再発見(1)</title>
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    <published>2012-01-14T04:06:44Z</published>
    <updated>2012-01-14T04:30:17Z</updated>

    <summary>　2004年６月初旬に一週間ほど南スコットランドを歩いた。グラスゴーの酒場で一人の日本人に出会い、ロバート・オーエンのことが話題になった。近郊にオーエンが繊維事業を始めた場所で、いまでは世界遺産に登録されているニューラナークという場所があることを知らされた。　翌日、ラナーク行きの電車に乗り、１時間ほどで町のバスに乗り継ぎニューラナークに向かった。ニューラナークはスコットランド最大の河川であるクライド川の渓谷沿いの寒村で、２００年以上前の当時としてはイギリス最大の紡績工場と従業員の生活をよみがえらせている。いまでは渓谷は緑の木々におおわれ、水の音と鳥のさえずりだけが静寂を破る。空気がとてもおいしい場所だった。　ニューラナークの歴史は２２０年前にさかのぼる。紡績機械を発明したリチャード・アークラウトとグラスゴーの銀行家デイビット・デイルがこの地にやってきて「ここほど工場用地として適した場所はな...</summary>
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        <name>伴　武澄</name>
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        <![CDATA[　2004年６月初旬に一週間ほど南スコットランドを歩いた。グラスゴーの酒場で一人の日本人に出会い、ロバート・オーエンのことが話題になった。近郊にオーエンが繊維事業を始めた場所で、いまでは世界遺産に登録されているニューラナークという場所があることを知らされた。<br /><br />　翌日、ラナーク行きの電車に乗り、１時間ほどで町のバスに乗り継ぎニューラナークに向かった。ニューラナークはスコットランド最大の河川であるクライド川の渓谷沿いの寒村で、２００年以上前の当時としてはイギリス最大の紡績工場と従業員の生活をよみがえらせている。いまでは渓谷は緑の木々におおわれ、水の音と鳥のさえずりだけが静寂を破る。空気がとてもおいしい場所だった。<br /><br />　ニューラナークの歴史は２２０年前にさかのぼる。紡績機械を発明したリチャード・アークラウトとグラスゴーの銀行家デイビット・デイルがこの地にやってきて「ここほど工場用地として適した場所はない」といって周辺の土地を購入し、１７８５年に紡績工場を立ち上げた。ワットが蒸気機関を発明したのは１７６５年。狭い渓谷を流れる水流がまだ動力の中心だった時代のことであるが、イングランドのマンチェスターはすでに繊維産業の町として名を馳せていた。<br /><br />　ニューラナークが世界的に知られるようになったのはデイルの娘婿となったロバート・オーエンが１８００年に事業を引き継いでからである。オーエンはまず従業員の福利厚生のために工場内に病院を建設した。賃金の６０分の１を拠出することで完全無料の医療を受けることができた。現在の医療保険のような制度をスコットランドの片隅で考え出した。<br /><br />　１９世紀の繊維工場は蒸気とほこりにまみれ、労働と疾病は隣り合わせだった。日本でも初期の倉敷紡績が東洋最大の病院を工場に併設したことはいまも語り継がれているが、その１００年も前にオーエンは従業員の福利厚生という発想を取り入れていたのだ。<br /><br />　次いで取り組んだのが児童への教育だった。当時の多くの紡績工場では単純作業が多く安い賃金で雇用できる子どもたちが労働力の中心だった。子どもといっても６歳だとか７歳の小学校低学年の児童も含まれていた。オーエンは１０歳以下の児童の就労を禁止し、彼らに読み書きそろばんの初等教育をさずけた。<br /><br />　１８１６年の記録では、学校に１４人の教師と２７４人の生徒がいて、朝７時半から夕方５時までを授業時間とした。家族そろって工場で働いていた時代であるから、学校に子どもたちを預けることによって母親たちは家庭に気遣うことなく労働に専念できるという効果もあったが、当時、児童の就労禁止を打ち出したことでさえ画期的なことだったのだ。<br /><br />　オーエンの教育でユニークだったのは、当時のスコットランドで当たり前だった体罰を禁じたことだった。さらに五感を育むために歌やダンスなども取り入れた。当時、音楽などを教えていたジェームス・ブキャナン先生はニューラナークでの教職について「人生の大きな転機をもたらしてくれた。金持ちや偉人になるといった欲求を捨てて、誰かの役に立つことで満足するようになった」と語っている。オーエンの学校にそういう雰囲気があり、教師たちも感化されたのだろう。<br /><br />　オーエンはイギリス各地で起きていた労働者（特に児童）の搾取や悲惨な労働環境を目の当たりにし、「そうした環境では、不平を抱いた効率の悪い労働力しか生まれない。優れた住環境や教育、規則正しい組織、思いやりある労働環境からこそ、有能な労働者が生まれる」という考えにたどり着いた。１９世紀の弱肉強食の時代に、福祉の向上こそが経済効率につながるという理念に到達していたのだった。<br /><br />　それから１００年以上もたった１９２５年にロンドンの町を訪れた社会改革者の賀川豊彦は工場労働者が劣悪な環境で働いているのに驚いた。日本と変わらないスラムが町外れに多く形成されていた。日本でもロンドンでもスラムは貧困と不衛生、そして犯罪の巣くつとなっていた。<br /><br />　オーエンはニューラナークでの実践活動を理論化した『新社会観－人間性形成論』を書き、国内外を回り、議会や教会関係者から経済学者まで広く工場の労働条件改善の必要を説いた。またニューラナークでの「実践」を通して国内外で多くの理解者を得た。そして彼の経済理論は１８２０年の『ラナーク住民への講演』で社会主義的発想へと一気に昇華した。この講演でオーエンは「生産者自らが生み出したすべての富について、公平で一定の割合の配分を受けられる必要がある」と語りかけた。工場の福利厚生の改善だけでは満足できず「社会変革」の必要性まで打ち出したのであった。<br /><br />　オーエンがその後、あまた排出する思想家や経済学者たちと一線を画し、２００年後のわれわれに感動を与えるのは彼が「偉大な実践者」であったということだ。賀川豊彦が１００年前にスラムに飛び込み貧困と病気、さらに犯罪と戦いながら、貧困救済事業を立ち上げて名声を勝ち取った経緯と重なる部分が多くある。（続く）（伴　武澄　2004年06月20日） ]]>
        
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    <title>(11)－オーエン再発見(2)</title>
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    <published>2012-01-14T04:08:28Z</published>
    <updated>2012-01-14T04:30:55Z</updated>

    <summary> 　ロバート・オーエンは企業経営に関わる富の社会還元の手法を多く残した。地域通貨や労働組合などもそうだが、どうしても忘れられないのは協同組合的店舗経営だった。　協同組合は１８４４年代にマンチェスター郊外ののロッチデールで始まったものとばかり思っていたが、ロッチデールの人々が参考にしたのは実は、ニューラナークにあった企業内店舗の在り方だった。　２００年前の商人たちはどこでも相当にあこぎだったようである。オーエンによれば、村の店で売っていた商品といえば「高くて質が劣悪。肉だったら骨と皮に毛の生えた程度のものばかり」だった。村民の人たちはほかに店がないことをいいことに劣悪な品質のものを高い価格で買わされていた。しかも多くの商いが掛け売りだったため、村の人々の借金はたまる一方だった。　そうした状況は１００年前の日本でも同じだった。日本の文学にはそうしたあこぎな商売というものはあまりでてこないが、賀...</summary>
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        <![CDATA[<p><img alt="" src="http://img01.kitaguni.tv/usr/ch01617/DSCF0092.JPG" align="right" width="300" /></p>
<p>　ロバート・オーエンは企業経営に関わる富の社会還元の手法を多く残した。地域通貨や労働組合などもそうだが、どうしても忘れられないのは協同組合的店舗経営だった。<br /></p>　協同組合は１８４４年代にマンチェスター郊外ののロッチデールで始まったものとばかり思っていたが、ロッチデールの人々が参考にしたのは実は、ニューラナークにあった企業内店舗の在り方だった。<br /><br />　２００年前の商人たちはどこでも相当にあこぎだったようである。オーエンによれば、村の店で売っていた商品といえば「高くて質が劣悪。肉だったら骨と皮に毛の生えた程度のものばかり」だった。村民の人たちはほかに店がないことをいいことに劣悪な品質のものを高い価格で買わされていた。しかも多くの商いが掛け売りだったため、村の人々の借金はたまる一方だった。<br /><br />　そうした状況は１００年前の日本でも同じだった。日本の文学にはそうしたあこぎな商売というものはあまりでてこないが、賀川豊彦の多くの小説には貧乏人が労働を通じて搾取されるだけでなく、購買を通じても対価に見合った商品が販売されていないことがこと細かく書かれている。オーエンや賀川が昨今の流通業界の価格破壊の状況を見たら卒倒するに違いない。<br /><br />　ニューラナークの人々を救済するためのオーエンの答えは工場内に自らの購買部を設立することだった。そして「生活必需品と生活のぜいたく品、そしてお酒も必要」と考えた。お酒についてはオーエンは比較的寛容だった。酔った状態で勤務することは当時の工場では自殺行為に等しかったが、適度の飲酒は生活のぜいたくの一つと考えていたようだった。<br /><br />　１８１３年、オーエンは工場敷地内のほぼ真ん中に三階建ての店舗を開設。工場経営者としての地位を利用して卸売りから安く大量に仕入れ、村の店のほぼ２割安の価格で販売した。販売したのは、食料や調味料、野菜、果物といった生活必需品だけでなく、食器や石鹸、石炭、洋服、ろうそくなどなんでもあった。<br /><br />　この建物は現存しているが、当時の一般的な消費動向や２５００人という工場の人口からすればとてつもなくおおきな店舗だったはずだ。<br /><br />　ニューラナークでの賃金はほかと比べて高いというわけではなかったが、当時、村を訪れたロバート・サウジーの報告によると「一家で週２ポンド（４０シリング）稼いだとしてラナークで住むことによって１０シリングほど生活費は安くてすんだ」そうなのだ。つまりお金の価値を高めたのである。<br /><br />　やがて、村人の借金はなくなり、あこぎな店も村からなくなった。そして店舗であがった利益は前回書いた児童教育に注ぎ込まれた。<br /><br />　労働者の生活改善というオーエンの発想は、多くの人々に刺激を与えた。そして彼の協同組合的考え方を発展させた人々はオーエニーズと呼ばれた。ロッチデールの織物労働者によって１８３０年から試行錯誤が続けられ、１８４４年、１３人のメンバーによってようやく「ロッチデール・エクィタブル・パイオニア・ソサエティー」設立にこぎつけた。彼らは毎週２ペンスずつを１年間にわたって貯蓄して２８ポンドの資金を集めた。<br /><br />　１０ポンドで１０坪ほどの店舗を３年間契約で借り受け、１６ポンド１１シリングでオートミール、小麦粉、バター、砂糖、ろうそくを仕入れ、商いを始めた。初日の商いが終わってみると彼らは２２ポンドの利益を手にしていた。<br /><br />　彼らの当初の目的は、普通の人々がお金の価値に見合った商品を購入できることにあった。そして彼らはこの新しい購買組織の５原則を約束し合った。この時決まった(1)入・脱会の自由(2)一人一票という民主的組織運営(3)出資金への利子制限(4)剰余金の分配(5)教育の重視－という５原則は現在の生協運動でも掲げられているものである。<br /><br />　ロッチデールで始まった小さな試みはやがてイギリス全土に広がり、国境を越えて拡大した。日本で本格的な生協が登場したのは１９２０年のことである。賀川豊彦が８月、大阪市に有限責任購買組合共益社を設立したのが嚆矢（こうし）である。<br /><span class="edit"></span>
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    <title>(12)－献身・涙の二等分</title>
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    <published>2012-01-14T04:11:09Z</published>
    <updated>2012-01-14T04:31:26Z</updated>

    <summary>第二章　賀川豊彦の献身 			　涙の二等分 　賀川豊彦は１９１９年に『涙の二等分』という詩集を発表しました。無名の伝道者の詩をよく出版社が本にしたものです。神戸市葺合新川の貧民窟に入ってまもなく、「貰い子殺し」という「商売」があったことを知り、なにより悲しみました。「貰い子殺し」というのは貧困や何かの理由があって育てられなくなった不義の子どもを５円とか１０円でもらって来て飢え死にさせる商売です。　貧民窟という語は死語です。メディアでは使ってはいけない言葉の一つになっています。当時の雰囲気を伝えるためにあえて使います。賀川豊彦は『人間苦と人間建築』の中で「貧民窟１０年の経験」を次のように書いています。　明治の末期といっても「貰い子殺し」がまかり通るはずもありません。犯罪です。でも産まれたばかりの子どもの「間引き」がまだまだ社会の必要悪として横行していました。新川に入って一週間後、賀川は立て続...</summary>
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        <![CDATA[<p><span style="font-weight: bold;">第二章　<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%EC%C0%EE%CB%AD%C9%A7">賀川豊彦</a>の献身</span></p>
			<p>　<span style="font-weight: bold;">涙の二等分</span><br /></p><p><img alt="" src="http://img01.kitaguni.tv/usr/ch01617/IMG_0093.JPG" align="right" width="200" /></p>
<p>　賀川豊彦は１９１９年に『涙の二等分』という詩集を発表しました。無名の伝道者の詩をよく出版社が本にしたものです。神戸市葺合新川の貧民窟に入ってまもなく、「貰い子殺し」という「商売」があったことを知り、なにより悲しみました。「貰い子殺し」というのは貧困や何かの理由があって育てられなくなった不義の子どもを５円とか１０円でもらって来て飢え死にさせる商売です。<br /><br />　貧民窟という語は死語です。メディアでは使ってはいけない言葉の一つになっています。当時の雰囲気を伝えるためにあえて使います。賀川豊彦は『人間苦と人間建築』の中で「貧民窟１０年の経験」を次のように書いています。<br /><br />　明治の末期といっても「貰い子殺し」がまかり通るはずもありません。犯罪です。でも産まれたばかりの子どもの「間引き」がまだまだ社会の必要悪として横行していました。新川に入って一週間後、賀川は立て続けに「貰い子」の葬式をするはめに陥ります。<br /><br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　私は最初の年に、葬式をした１４の死体中、７つ８つ以上はこの種類のものであったと思います。それは貧民窟の内部に子供を貰う仲介人が有って、そこへ口入屋あたりから来るものと見えます。そしてその仲介人を経て、次へ次へと貧民窟の内部だけで、４人も５人も手を換へて居ります。それで初めは衣類１０枚に金 ３０円で来たとしても、それが第二の手に移る時には金２０円と衣類５枚位になり、第三の手に移る時には金１０円と衣類３枚、第四の手に移る時には、金５円 と衣類２枚位で移るのであります。之と云ふのも現金がほしいからで、それが欲しい計りに、段々いためられてしまった貰い子を、お粥で殺して、栄養不良として届出すものです。<br /><br />　ある時、賀川は警察署で貰い子殺し容疑で検挙された産婆が連れていた乳飲み子をもらってきて育てようとしました。この子が手に小さな石を握っていたことから「おいし」と名付けました。でも長生きはできませんでした。まもなく賀川の腕の中で死んでしまいました。<br /><br />　賀川豊彦の一途さの一断面を理解していただくために、その一部を掲載したい。賀川の膨大な著作は不思議なことに『涙の二等分』を含めて最近まですべて絶版となって古本屋でしか求めることができなくなっていました。<br /><br />　　涙の二等分<br /><br />　　おいしが泣いて目が醒めて<br />　　お襁褓（しめ）を更えて乳溶いて<br />　　椅子にもたれて涙くる<br />　　男に飽いて女になって<br />　　お石を拾ふて今夜で三晩夜昼なしに働いて<br />　　一時ねるとおいしが起こす<br />　　　　............ 略 ............<br />　　え、え、おいしも可哀想じゃが私も可哀想じゃ<br />　　力もないに<br />　　こんなものを助けなくちゃならぬと教えられた私<br />　　私も可哀想じゃね<br />　　　　............ 略 ............<br />　　あ？おいしが唖になった<br />　　泣かなくなった<br />　　眼があかぬ死んだのじゃ<br />　　おい、おい、未だ死ぬのは早いぜ<br />　　南京虫が──脛噛んだ──あ痒い<br />　　おい、おいし！<br />　　おきんか？<br />　　自分のためばかりじゃなくて<br />　　ちっと私のためにも泣いてくれんか？<br /><br />　　泣けない？<br />　　よし.........<br />　　泣かしてやらう！<br />　　お石を抱いてキッスして、<br />　　顔と顔とを打合せ<br />　　私の眼から涙汲み<br />　　おいしの眼になすくって.........<br />　　あれ、おいしも泣いてゐるよ<br />　　あれ神様<br />　　あれ、おいしも泣いてゐます！<br /><br />　歌人の与謝野晶子は、この詩集に序文を寄せました。<br /><br />「賀川さんのみづみづしい生一本な命は最も旺盛にこの詩集に溢れています」<br />「現実に対する不満と、それを改造しようとするヒュマニテの精神とは、この詩集の随所に溢れていますが、私は其等のものを説教として出さずに芸術として出された賀川さんの素質と教養とを特になつかしく感じます」<br /><br />　すでに与謝野晶子は賀川の貧民窟での活動に注目していました。詩人は人生や世の中の苦しみや悲しみ、時として喜びを表現する人々です。身の回りの日常を素材にして人々の心を揺り動かすのが詩です。金子みすゞの詩の世界を思い起こさせます。<br /><br />　日露戦争に勝利し、明治も終わりになろうとしていたころ、日本には「貰い子殺し」などという習慣があったことに驚きを禁じ得ません。数年前、熊本市の病院が「あかちゃんポスト」と称して、お母さんが育てられなくなった赤ちゃんを引き取ることを始め、賛否両論、大きな議論を巻き起こしましたが、１００年前には「貰い子殺し」は多く起こりすぎて新聞に載るほどの事件でもなかったのです。<br /><br />　「おいし」を読んで私は胸をぎゅっとつかまれた思いに捕らわれました。特に「おいしも可哀想じゃが私も可哀想じゃ」の段は涙なしでは読み過ごすことができません。肺結核を患いながら貧民窟に入って自らを犠牲にしながら貧しい人たちと共に生きる。話したり書いたりすることは簡単です。賀川豊彦という人はアメリカ留学を挟んで約１５年間も神戸の葺合新川地区に住み続けたのです。<br /></p>
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    <title>(13)－献身・幽霊長屋</title>
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    <published>2012-01-14T04:12:55Z</published>
    <updated>2012-01-16T01:20:11Z</updated>

    <summary>　賀川豊彦は１８８８年、回漕業者・賀川純一と徳島の芸妓・菅生かめの子として神戸に生を受けました。４歳の時、相次いで父母を失います。純一は徳島県の豪農の賀川家に婿入りしますが、本妻とは折り合いが悪く神戸でかめと生活していたのです。５歳の時に姉と共に徳島の本家に引き取られますが、父の回漕業を引き継いだ兄が事業に失敗、徳島の家産は抵当に入っていたため、すべてを失います。叔父の家に引き取られて、旧制徳島中学校（現在の徳島県立城南高等学校）に通い、１９０５年明治学院高等部神学予科に進みました。１９０７年からは新設の神戸神学校(神戸中央神学校)に通学していましたが、結核に苦しみ、医者からは「余命幾ばくもない」ことを言い渡されます。やがて「短い命ならば、貧しい人たちのために生きたい」と新川に住み込むことを決意したのでした。　賀川が新川に移り住んだのは、１９０９年１２月２４日でした。クリスマスイブです。小...</summary>
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        <name>伴　武澄</name>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/01/02_b-110.html" onclick="window.open('http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/01/02_b-110.html','popup','width=700,height=462,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/01/02_b-thumb-250x165-110.jpg" alt="02_b.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0pt 0pt 20px 20px;" height="165" width="250" /></a></span>　賀川豊彦は１８８８年、回漕業者・賀川純一と徳島の芸妓・菅生かめの子として神戸に生を受けました。４歳の時、相次いで父母を失います。純一は徳島県の豪農の賀川家に婿入りしますが、本妻とは折り合いが悪く神戸でかめと生活していたのです。５歳の時に姉と共に徳島の本家に引き取られますが、父の回漕業を引き継いだ兄が事業に失敗、徳島の家産は抵当に入っていたため、すべてを失います。叔父の家に引き取られて、旧制徳島中学校（現在の徳島県立城南高等学校）に通い、１９０５年明治学院高等部神学予科に進みました。１９０７年からは新設の神戸神学校(神戸中央神学校)に通学していましたが、結核に苦しみ、医者からは「余命幾ばくもない」ことを言い渡されます。やがて「短い命ならば、貧しい人たちのために生きたい」と新川に住み込むことを決意したのでした。<br /><br />　賀川が新川に移り住んだのは、１９０９年１２月２４日でした。クリスマスイブです。小さな手押し車に行李三つと竹製の小さな本棚を載せて、通っていた神戸神学校からの坂をとぼとぼ下りてきました。三畳と二畳の小さな空間は１日７銭でした。格安だったのは前の年、その家で人殺しがあって幽霊が出るとのうわさがあったからです。<br /><br />　この幽霊長屋はもちろん賀川の居宅でしたが、同時に教会であり、救済所でもありました。しかし教会らしい什器備品もなく、救済所らしい設備もありませんでした。たぶん日本一小さい教会であったはずです。後に隣接していた三戸の長屋も次々と借りて、中間の壁を抜き三戸を一室として教会と事業所に使用し、残りの一戸を食堂に当てていました。<br /><br />　家賃が日単位だったのは、住んでいた人たちがみんな日ばかりで暮らしていたからです。貧民窟には木賃宿も多くありました。大部屋にたくさんの人がそれぞれの場所を占拠して住んでいました。布団のない人は宿賃のほかに布団代を払うのです。七輪を借りてご飯も自分でつくります。<br /><br />　宿というといまでは旅行で泊まる場所のように考えますが、当時は家がないため木賃宿に住んでいた人が少なくなかったのです。車引きだとか日雇いの人夫は多くが木賃宿を住みかとしていましたから、貧民窟に家を借りられる人はいい方だったのかもしれません。<br /><br />　新川の家はほとんどが茅屋でした。雨戸などあるはずもなく、障子もボロボロ、吹きさらしです。便所は供用で、朝などは込み合うため、結果的に大小便が垂れ流しとなり、臭気が鼻をつきます。衛生観念はゼロです。子どもたちはほとんどトラホームに罹っています。<br /><br />　賀川の弟子となった牧野仲造は当時の新川の様子について『百三人の賀川伝』の中で「１９０９年のクリスマスイブ」と題して次のように回顧しています。<br /><br /><blockquote>　ここに住んでいるのは病人、身体障害者、寡婦、老衰者、破産者といった落伍者でした。　家賃は１カ月５銭、薪１把２銭、木炭１山２銭、１畳間に夫婦２組で同居し４畳半に１１人家族が住んでいることもありました。１戸当たり平均４・２人がすんでいました。職業は仲仕、土方、手伝人夫、日雇人夫、ラオすげかえ、下駄直し、飴売、団子売、辻占、屑屋、乞食などで、児童の通学者は１００人の中３人、新聞購読者は１人もなく、婦人でハガキの書ける者はありませんでした。<br /></blockquote><br /><blockquote>　そこは暴力の街で、腕力の強い者が兄貴になり、最強者が親分でした。傷害罪を犯したことが自慢の種となり、殺人罪の前科は親分の資格になるというわけでしたから、弱いものだけが苦しみつつ働いているのでした（『百三人の賀川伝』牧野仲造「１９０９年クリスマスイブ」）<br /></blockquote><br />　農村の貧困層が都市に流れ着くというのは産業革命後のイギリスでも同じだったようです。今でもマニラのマカティ地区は有名です。流れ者たちが都市の一角に貧民窟を形成したのは自然の成り行きだったのです。東京にも多くの貧民窟が生まれています。紀田順一郎や横山源之助ら当時の新聞記者がおもしろがって、『日本の下層社会』『東京の下層社会』など貧民窟の体験記事を多く書いています。<br /><br />　賀川の長屋にはいつも６、７人が居候していました。食事代だけでも大変です。貰い子の葬式代はバカになりません。賀川に借金を迫る者はまだいい方で、暴力づくで金をゆする者もいました。そんな時でも、賀川は黙ってあるだけのお金を渡していたのです。まさに事件が相次ぐ日々だったのです。<br /><br />　一番、悲しかったのは大切な蔵書がしょっちゅうなくなることでした。近所の奥さんが勝手に上がり込んで蔵書を持っていってしまうのです。しかし、その奥さんが警察に捕まって盗難届を出せと連絡があっても賀川は出さず、耐え続けるのです。<br /><br />　賀川自身が後に「貧民窟１０年の経験」に「説教する勇気を持たない」とまで語っています。<br /><br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 病人の世話－－最初の年は、病人の世話するなど気はありませんでしたが－－（中略）１ケ月５０円で１０人の食の無い人を世話することに定めて居たのでした。然し来る人も来る人も重病患者であることには全く驚きました。私は病人の中に坐って悲鳴をあげました。<br /><br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 賭博－－博徒と喧嘩はつきもので、私は「どす」で何度脅迫されたか知れません。欲しいものは勝手に取って行きます。質に入れます。然し博徒と淫売婦とが、全く同じ系統にあることを知って驚きました、淫売の亭主が、その女の番人であるには驚きます。その亭主は朝から晩まで賭博をして居るのであります。<br /><br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 淫売の標準は芸者で、博徒の標準は旦那であるのだ。芸者も、旦那も遊んで居て食へる階級である。もし貧民が遊んで反社会的なことをして悪いと云ふなら、芸者と旦那を先ず罰せねばならないのである。此処になると、社会の罪悪が今日の産業組合の根底にまで這入って居ることを思うので・・・、説教をする勇気を持た無いのである。（賀川豊彦『人間苦と人間建築』「貧民窟１０年の経験」から）<br /><br />　賀川はこの新川の家で、毎日５時に起きた。日曜日は５時から日曜礼拝、それから讃美歌伝道に出掛けました。路地から路地へと賛美歌を歌うのです。やがて賛美歌が日曜日の目覚まし時計のようになりました。それが終わると今度は子どもたちのための日曜学校です。お菓子が振る舞われるので子どもたちは賛美歌伝道が始まると家を飛び出して賀川の後をついて回ったのです。「説教をする勇気もない」と語る一方で賀川には小さきお弟子さんたちが何人もいました。<br /><br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　「私のお弟子は三人四人<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　鼻垂れ小僧の蛸坊に疳高声の甚公は私の一と二の弟子で、<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　便所の口まで追いて来て私の出るのを待っている乞食の「長」は三の弟子、<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　クリスマスの前の夜、出口さんのご馳走に、<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　お前はしらぬが、鯱ちよこ立ちしたよ。<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　お父さんとや云えぬが、テンテイと呼べる、鍋嶋のお凸は四のお弟子。<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　売られて行くのが悲しさに<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　うちの戸口で半日泣いた今年十二の清ちゃんは私の可愛い女弟子！<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　『涙の二等分』」<br /><br />　子どもたちは日ごろ、親から罵られたり、叱られたりばかりしているので、愛に飢えていました。ですから、「先生に近づき先生に言葉をかけられ、その上手を引いて貰うことは無上の楽しみであり喜び」（武内勝の語り）でありました。 ]]>
        
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    <title>(14)－献身・新川での一夜</title>
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    <published>2012-01-14T04:15:21Z</published>
    <updated>2012-02-13T21:09:18Z</updated>

    <summary>　後に同志社大学の総長になる牧野虎次は賀川より２０歳も年が上でしたが、賀川を終世、先生を呼んでいました。　ある夏の夜、新川で開かれた伝道集会で話をしました。集会が終わって、牧野は賀川の長屋に泊めてもらうつもりでいましたが、賀川は「君は特別待遇だ」といって２階の診療室に案内されました。診察台の上に洗濯したてのシーツを二枚重ねてその中で寝ましたが、１時間もたたないうちに体中がチクチクしてきました。電気をつけてみると、シーツの上に黒ゴマをまき散らしたように南京虫がうごめいていて、牧野はゾーッとしました。　眠れないので、窓から外をみるとまた驚くべき風景に息の止まる思いをします。売春婦たちが男を引っ張り合っていました。「まるで女性サタンがゲヘナで餌物を奪い合っているとしかみえない凄い様相であった」と『神はわが牧者－賀川豊彦の生涯と其の事業』に書いています。　賀川はただ汚くて臭い場所に住んでいたのでは...</summary>
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        <name>伴　武澄</name>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/06-273.html" onclick="window.open('http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/06-273.html','popup','width=300,height=218,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/06-thumb-250x181-273.jpg" alt="06.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0pt 0pt 20px 20px;" height="181" width="250" /></a></span>　後に同志社大学の総長になる牧野虎次は賀川より２０歳も年が上でしたが、賀川を終世、先生を呼んでいました。<br /><br />　ある夏の夜、新川で開かれた伝道集会で話をしました。集会が終わって、牧野は賀川の長屋に泊めてもらうつもりでいましたが、賀川は「君は特別待遇だ」といって２階の診療室に案内されました。診察台の上に洗濯したてのシーツを二枚重ねてその中で寝ましたが、１時間もたたないうちに体中がチクチクしてきました。電気をつけてみると、シーツの上に黒ゴマをまき散らしたように南京虫がうごめいていて、牧野はゾーッとしました。<br /><br />　眠れないので、窓から外をみるとまた驚くべき風景に息の止まる思いをします。売春婦たちが男を引っ張り合っていました。「まるで女性サタンがゲヘナで餌物を奪い合っているとしかみえない凄い様相であった」と『神はわが牧者－賀川豊彦の生涯と其の事業』に書いています。<br /><br />　賀川はただ汚くて臭い場所に住んでいたのではないのです。牧野は同じ本に次のように賀川のことを書いています。<br /><br />「翌朝先生に導かれて部落内を見て回ったが、白くも頭、トラホームの子どもたちが先生を慕うて寄りそうて来るのを、一々抱きかかえるように愛撫せられる様子は、丁度伝記に読むアシシのフランシスを想わせるものがあった。先生こそ主なるキリストと共に"人々の悩みを負う"悲しみの僕であられたと思う」<br /><br />　キリストがライ病（ハンセン病）患者の肌を触って治すという場面が聖書にあります。私にはできないことだとずっと思っていました。賀川が新川でやっていたことはまさにそういうことだったのです。<br /><br />　私はアフリカで一夜だけ木賃宿のようなところに泊まって南京虫に数カ所食われたことがあります。南京虫との出会いはその一回かぎりです。毎日、南京虫に嚙まれる生活はとてもではありませんが考えられません。<br /><br />　自由だとか民主主義だとかを叫ぶ前に人間の根本に立ち返ると普通の人間にできないことを、新川での賀川は神の御名のもとに普通にやっていたということなのです。<br /><br />　賀川はよくインドのガンジーと対比されました。共に魂の救済を求めて徒手空拳からスタートし、多くの共感者を得ていきました。ガンジーは弁護士としてのスーツ姿をやめて、糸から紡いだガーディーというインド風の着物をまとい村から村へと伝道しました。イギリスの支配をなんとも思わなくなった人々に対してインド精神の復活を鼓舞しました。サチアグラハといって、巨大な暴力に対して無抵抗で対峙するよう人々に求めました。しかし、ガンジーの場合、インドの貧困にまで救済の手を回す余裕はありませんでした。<br /><br />　明治、明治、昭和と貧困や病気と戦った日本人が多くいました。石井十次は岡山で３０００人の孤児を育てたことで有名です。石井筆子は、滝乃川学園を創設して知的障害児教育に生涯をかけて取り組みました。井深八重はハンセン病と誤診されて送られた神山復生病院で、献身的に看護する院長ドルワール・ド・レゼー神父の姿に感銘を受け、ハンセン病に生涯を捧げました。戦後には、沢田美喜がエリザベス・サンダースホームを創設して混血孤児２０００人を育て上げました。李王朝殿下に嫁いだ李方子は韓国で知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立して、援護活動に尽力しました。賀川が際立っているのは、人々を救うことだけで終わらず、どうしたらその原因を取り除けるかを考え実践したところでした。<br /><br />　若き日の評論家、石垣綾子さんは『死線を越えて』を読んで賀川の元を訪ねました。弟子にしてもらおうと考えたのです。１９２２年のことです。初対面の賀川についてこんな言い方をしています。<br /><br /><blockquote>「トラコーマに侵された片目には、黒い眼帯をかけている。眼帯をしていない方の目も真赤にただれ、その赤い目をじっと私に据えた」<br />石垣さんは賀川に新川に飛び込んできた心情と覚悟を話しました。<br />賀川は「あなたがここで働きたいなら、まず貧民窟を見なくてはいけませんね」<br />といって、近くにあるイエス団友愛救済所を案内しました。<br />「あなたが本当にここで生活する気なら、今夜お風呂に入っていらっしゃい。できますか」<br />と言われ、夕食後に賀川夫人に銭湯へ連れていかれました。<br />「浴槽の中に片足を入れると、底に溜まったどろどろの垢が足の裏にどろりと触った。私の身体は一瞬動かなくなった」<br />「これができなくては、先に進めないと私は自分を鞭打った。一旦たじたじとなった私の心は、どのように無理強いをしても、沈み込むばかりだった」<br />「その夜、固いせんべい布団にくるまった私は、どうしても眠れなかった。四方から貧困の臭いが発散してくる。身体にまとわりつく汚濁のぬめりが私を突きのめした」<br />「お嬢様の生活の苦労も知らないセンチメンタリズムだとは考えもせず、向こう見ずの真剣さで」<br /></blockquote><br />　石垣さんは夢破れ一夜にして新川を逃げ出したということです。この顚末は７９歳の自伝回想『我が愛　流れと足跡』（昭和５７年、新潮社）に詳しく書かれてあります。赤裸々な描写による貧民窟内部の極貧の実態と、それに向きあった「新川の先生」の非凡さ、とすごさを、あらためて我々に教えてくれるのです。 ]]>
        
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    <title>(15)－献身・天国屋</title>
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    <published>2012-01-14T04:16:07Z</published>
    <updated>2012-01-16T01:25:15Z</updated>

    <summary>　新川での一夜　新川の悲惨な生活をともにしながら、賀川はどうしてこういう貧困が起きるのか、どうしたらこういう貧困から脱却できるのか、考え抜きました。　まずは子どもたちの教育が不安となりました。親が親ですから、子どもたちはほったらかしにされていました。学校へ通う子どもはまれです。勉強してもすぐには金になりません。くずひろいなどはまだいい方です。乞食のお供も救いがあります。かっぱらいや掏摸（スリ）の仲間入りしている子どもたちも少なくありませんでした。　悲惨なのは、子どもが労働力として&quot;売買&quot;の対象になっていたのです。女の子であれば、料理屋や芸者置き屋に売られることになります。　賀川は新川に入ってすぐに日曜学校を始めます。キリストの話を聞かせるために、お菓子も用意しました。近所の子どもたちはすぐに賀川の友だちになります。　食べることも大切です。日本のいまの子どもたちに「飢え」と言ってもたぶん分か...</summary>
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        <![CDATA[　新川での一夜<br /><br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/01/img016-113.html" onclick="window.open('http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/01/img016-113.html','popup','width=450,height=663,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/01/img016-thumb-250x368-113.jpg" alt="img016.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0pt 0pt 20px 20px;" height="368" width="250" /></a></span>　新川の悲惨な生活をともにしながら、賀川はどうしてこういう貧困が起きるのか、どうしたらこういう貧困から脱却できるのか、考え抜きました。<br /><br />　まずは子どもたちの教育が不安となりました。親が親ですから、子どもたちはほったらかしにされていました。学校へ通う子どもはまれです。勉強してもすぐには金になりません。くずひろいなどはまだいい方です。乞食のお供も救いがあります。かっぱらいや掏摸（スリ）の仲間入りしている子どもたちも少なくありませんでした。<br /><br />　悲惨なのは、子どもが労働力として"売買"の対象になっていたのです。女の子であれば、料理屋や芸者置き屋に売られることになります。<br /><br />　賀川は新川に入ってすぐに日曜学校を始めます。キリストの話を聞かせるために、お菓子も用意しました。近所の子どもたちはすぐに賀川の友だちになります。<br /><br />　食べることも大切です。日本のいまの子どもたちに「飢え」と言ってもたぶん分からないでしょう。お腹がすくから盗みを働く。盗みの動機はきわめて単純でした。賀川自身は新川から神学校に通い、煙突掃除や近くの事務所でアルバイトもしていました。両親はすでにありませんでしたから、仕送りなどは期待できないのです。賀川の二間の長屋には住むところがない何人もの"同居人"がいました。お金がないから、毎日、おかゆのようなもので空腹を満たし、一日二食の時期もありました。<br /><br />　貧民窟の改善事業の第一号として、賀川は安くて栄養のある食事を提供しようと、食堂経営に乗り出します。「天国屋」を開店しました。経営は中村という乞食坊主にまかせました。ほとんど詐欺師のような生活をしていたのですが、賀川の所に出入りするようになって改心していました。<br /><br />　清潔で栄養満点、しかも価格は安いということで、初日から大繁盛します。しかし、問題はその日から浮上しました。「無銭飲食」です。食べた後で「金がない」といわれるとどうしようもない。身ぐるみをはがすわけにはいかない。かといってつけで何回も食べさせ続けることはできない。毎月赤字となりながらも、天国屋は新川のアイドルとなりますが、人気があればあるだけ、なんで中村だけがいい思いをするのだという嫉妬心も出てくるのです。善意が嫉妬を育んだのでは新川の人間関係に新たな争いの種となります。なんともやるせないではありませんか。<br /><br />　最後は酔っぱらった客が逆上して、天国屋の机や椅子、鍋釜から食器にいたるまで壊してしまいます。それでも賀川は続けようとしましたが、肝心の中村は恐くなって逃げ出してしまいます。天国屋は貧民窟に開放した食堂ですから、客を選ぶわけにはいきません。そうなると跡を継いでくれる人もいなくなります。天国屋はいいアイデアだったのですが、短期間で閉鎖されることになりました。<br /><br />　横山春一著『賀川豊彦傳』から天国屋での顛末を一部引用します。<br /><br /><blockquote>　天国屋は千客万来の賑やかさであったが、毎日の売り上げ金１４、５円に対し、１円５、６０銭は、無銭飲食であった。これでは薄い口銭の商売 は成り立たない。中村は「すまない、すまない」とこぼしながらも、励んでいた。<br /></blockquote><br /><blockquote>　無頼の徒、植木屋の辰は、女房子供を育てることも出来ないで、幾度賀川の世話になったかわからないのに、中村の盛業振りを見て羨ましく思った。 １１月３０日の夕方、辰は酒の勢いに乗じて、天国屋にどなり込んで来た。「１００円貸せ、飯屋をはじめる」と言うのである。中村が５円紙幣を握らせて帰そうとしたところ、「５円の端金で商売が出来るかい？　人を馬鹿にしている」と腰をかけていた食卓からとび下りて、鉄の汁鍋を土間にたたきつけた。２、３０ 人分の茶わんも木っ葉微塵に打ち砕いた。<br /></blockquote><br /><blockquote>　余勢を駆って、辰は大きな斧を振り降り、賀川の教会にあらわれた。辰は台所の板戸をたたき割って入り込み、障子と言わず、棚といわず、土瓶から釜から、テーブルまで、しっかり叩き壊してしまった。<br /></blockquote><br /><blockquote>　この物音に、裏の喧嘩安が、赤く錆びた刀を引き抜いて、裸体のままでとびこんで来た。賀川は２人の酔っ払いを喧嘩させては、どんなことになるかも知れないと思って、「安さん、わかった、わかった」と後から抱きついた。そこへまた、通称「秀」が、消防手の風体でとび込んで来た。辰は秀の止めるのもきかないで、表から隣の家へ廻ったかと思うと、下駄のまま教会に上がって、オルガンを叩き壊している。蓋は飛ぶ。鍵盤は散る。<br /></blockquote><br /><blockquote><div align="left">　賀川は辛うじて喧嘩安を、家につれ戻して、引き返して見ると、二つの椅子を滅茶苦茶に壊し、三つ目の椅子にかかろうとしている。辰は賀川を見つけると、椅子をすてて、とびかかって来た。<br /></div></blockquote><br /><blockquote>「こら、青瓢箪！」<br /></blockquote><br /><blockquote>と、賀川の胸倉をつかんで、下駄ばきのままで腹を蹴る。秀は荒縄を持ってきて、辰をねじ伏せた。巡査が来た時には、辰は縛りあげられた まま、教会の入り口に、酔いつぶれていた。<br /></blockquote><br /><blockquote>&nbsp;「酔いがさめたら、本性に帰りますから、このままにしておいて下さい」<br /></blockquote><br /><blockquote>と賀川は言ったが、３人の巡査は辰を引き起こして、１人は辰の左の腕をもち、１人は右の腕をもち、後の１人は立つの首筋をつかまえて、引っぱって行った。<br /></blockquote><br /><blockquote>　辰は交番でも暴れるので、巡査は消防手を頼んできて、荷車の上に縛りつけて、本署に送ることにした。無頼の夫をもって、日頃から虐待の限りをつくされ、生傷の絶え間もない女房だが、荷車にがんじがらめに縛りつけられた夫の姿を見ては、４人の子供をつれて、荷車にとりすがって泣きくずれた。４人の子供も、わっと一度に大声で泣きだした。<br /></blockquote><br /><blockquote>　長屋の人々は、毎日天国屋に来て、満足していたが、天国屋の食い逃げは、相変わらず会計をおびやかしている。この損失を全体に割りつけるならば、どうにかやれないことはないだろうが、救済の意味を含めて始めた、この天国屋では、それも出来なかった。 </blockquote>]]>
        
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    <title>(16)－献身・歯ブラシ工場</title>
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    <published>2012-01-14T05:34:45Z</published>
    <updated>2012-01-17T03:41:46Z</updated>

    <summary>　賀川豊彦は貧民窟で神から最大の贈り物を授けられます。妻のハルです。近所の製本屋に勤めていた同じ歳のハルは早くから賀川の貧民窟での活動を献身的に支えていました。見合い結婚を迫られていたハルが賀川に相談します。「先生、私のやうなつまらぬ者でも神様のお役に立つなら、貧しい人々の多い貧民窟の為めに一生を捧げたい。先生、あなたの処にでも置いて頂くわけにはいかないでせうか」というのです。賀川は意を決して「新川にいらっしゃるなら、私と結婚する気でお出でなさいよ」と求婚します。ここらの話し言葉は自伝小説『太陽を射るもの』からの引用です。　その後、賀川はアメリカ留学を決意し、二年九カ月、プリンストン大学の神学部に留学します。アメリカ生活での最大の収穫は労働運動を目の当たりにしたことでした。ユタ州でテンサイ農家が農業主と対決して賃金の大幅改善を求めた争議で経験も積みます。救済だけでは貧困を撲滅することはでき...</summary>
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        <name>伴　武澄</name>
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        <![CDATA[　賀川豊彦は貧民窟で神から最大の贈り物を授けられます。妻のハルです。近所の製本屋に勤めていた同じ歳のハルは早くから賀川の貧民窟での活動を献身的に支えていました。見合い結婚を迫られていたハルが賀川に相談します。<br /><br />「先生、私のやうなつまらぬ者でも神様のお役に立つなら、貧しい人々の多い貧民窟の為めに一生を捧げたい。先生、あなたの処にでも置いて頂くわけにはいかないでせうか」<br />というのです。賀川は意を決して<br />「新川にいらっしゃるなら、私と結婚する気でお出でなさいよ」<br />と求婚します。ここらの話し言葉は自伝小説『太陽を射るもの』からの引用です。<br /><br />　その後、賀川はアメリカ留学を決意し、二年九カ月、プリンストン大学の神学部に留学します。アメリカ生活での最大の収穫は労働運動を目の当たりにしたことでした。ユタ州でテンサイ農家が農業主と対決して賃金の大幅改善を求めた争議で経験も積みます。救済だけでは貧困を撲滅することはできないことを悟り、帰国後、救貧から防貧へと活動の方針を一八〇度転換させます。<br /><br />　賀川が留学に旅立ったのは第一次大戦が始まった数日後でした。帰国後の日本は戦争景気で浮かれていました。にわか成り金が神戸にも大勢誕生していました。しかし、多くの労働者たちの生活は貧しさそのままでした。貧民窟の生活もまったく改善していませんでした。<br /><br />「彼は先づ、竹田等を中心として理想的の協同労作工場を起さうと考へた。そして竹田が新見の留守中にやって居たやうな方式で私欲を離れて、独逸のモレヴヰアン教徒が、ヘルンフットで実行して居たやうに、宗教的奉仕の精神で先づ小さい小さい、模範的の工場を作ってみたいとも考へた。そしてその工場の収益全部を投じて、貧民窟の病人を救済し、更に、その工場の労働者を中心にして、模範的に人道主義の上に立った労働組合を造りたいと考へた」（『太陽を射るもの』）<br /><br />　そう、賀川は雇用の場を自らの手でつくろうと考えて実行に移します。歯ブラシ工場です。ニューラナークのロバート・オーエンの製糸工場がモデルとなります。「竹田」というのは賀川が留学中、貧民窟での活動拠点を守っていた武内勝のことです。真面目で信心深い武内は新川での賀川の活動になくてはならなかった人物です。同志といっていいかもしれません。賀川に学び大きく成長しました。<br /><br />　歯ブラシ工場は、１万円の資本で始まります。協力者がいたのも驚きです。武内ら賀川の弟子たち数人が大阪の歯ブラシ工場に学びに行きます。モーターなど機械類も大阪から搬入されます。たまたまマヤス先生を訪れていたオーストラリアの貿易商が、賀川の事業に共感してくれて、全量オーストラリアに輸入する約束もしてくれました。<br /><br />　結論的にいえば、賀川はまた失敗してしまいます。本来は新川の貧民窟に住む人々に就労の場が必要だと考えて始めた事業でしたが。貧民窟の人々は根を詰めた仕事には向いていませんでした。すぐに辞めてしまうのです。結果的に多くの従業員は新川に住む以外の人に依存することになりました。無理して家で歯ブラシの豚毛を埋める仕事をさせよう内職に出しましたが、帰ってくるのは真っ黒になった歯ブラシばかりで商品になりませんでした。『壁の声聞くとき』からその苦労の一部を引用します。<br /><br /><blockquote>　広告を出すと、すぐ三十五六人の娘やおかみさん達が集って来た。然しその割に貧民窟の長屋の人達は少なかった。多くは貧民窟外の労働者の家庭の主婦や娘達であった。<br /><br />　愈々毛植ゑを教授する段になっても、貧民窟の娘達は成績が悪く、仕事が粗雑であった。それに反し、外側の娘達は覚えも早く、仕事も立派であった。<br /><br />　持って帰って仕事をさせてくると、貧民窟の長屋の娘達はブラシュの毛を真黒にして了って、一度洗濯し消毒し直さなければならない程穢して来た。<br /><br />　つまり、貧民窟の人達に向く内職はブラッシュの毛植のやうな叮嚀で、清潔な仕事は向かないと云ふことがわかった。そこにまた新見の日論見がはづれてゐた。<br /><br />　実際、新川からい来た見習生の多くは一週間とは統かなかった。<br />「こんな辛気臭い仕事、うちには出来ん」と云うて帰って行って了った。<br /><br />　毛植は内職としては最も利益の多いものであった。熟練したものは一日二円三円と取るものも少なくなかった。それで新見はそれを新川のおかみさんたちに熟練させようとしたが、それが全く此地に向かないと云ふことを発見して失望した。<br /><br /></blockquote><blockquote>　工場経営の第一ヶ月は四百円の欠損であった。<br /><br />　栄一はその欠損を凡て自分の責任として、原稿料と給料を全部捧げた。然しまだそれでも足らなかった。設備費に一万一千円から入れて了ったものだからどうしても甘いこと行く道理がなかった。彼は月給と原稿料で賃銀の支払ひは済ませたが、電力代や、その他の諸払ひに栄一は困って了って、また島上町時代の、二の舞を演じ始めた。<br /><br />　彼は、裏の畑野さんに頼んで二百円借りて来た。 顔は癩病で全くくづれて了ってゐる乞食上りの高利貸に彼は十数回お辞儀して月百円に付四円の高利で二百円借りた。それでも新見は地獄の門を通り抜けたより猶感謝して、畑野の潜り戸を出た。<br /><br />　十二月は猶会計が苦しかった。十五日の勘定も、三十一日の勘定も容易じゃなかった。遂に彼は株主の池本の紹介で、吾妻通六丁目の米屋から同じく月四朱で四百円借りて、無事に支払ひをすませた。<br /><br />　損失の最大原因はその不熟練にあった。第一保田に竪鋸を持たせたのが間違ひであった。何千円と値打のあるものを、彼は屑物にして了った。そして浅田の竪穴も高井の横穴も全くものになって居なかった。「大正ブラッシュ」は賃銀金払ひで倒れねばならぬ運命に頻してゐた。<br /></blockquote>　歯ブラシ工場は失敗したが、貧しい人たちのために雇用の場を創設することは生涯の課題となりました。<br /><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;"><span lang="EN-US"></span></span><blockquote>

</blockquote> ]]>
        
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    <title>(17)コンツェルン－持続可能な経営</title>
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    <published>2012-01-16T00:06:38Z</published>
    <updated>2012-02-13T21:10:59Z</updated>

    <summary>　第二章　コンツェルン　私がＪＡ職員向けの雑誌「教育と文化」２００９年９月号に書いたムハマド・ユヌスさんと賀川に関するコラムを紹介します。　協同組合が示す持続可能な経営　２００９年３月、賀川豊彦献身１００年でノーベル平和賞受賞者のバングラデシュのムハマド・ユヌスさんを神戸市で開いたシンポジウムに招きました。２００８年９月のニューヨーク発の経済危機以降、ユヌスさんのマイクロファイナンスやソーシャルビズネスがにわかに注目を集めています。利益の最大化を求めてきた資本主義の対極にあった社会主義はすでにほとんど消滅しており、人々が新たな経済のパラダイムを模索し始めているからです。　マイクロファイナンスは１９７０年代、ユヌスさんがバングラデシュのチッタゴン郊外の農村で始めた小規模金融です。貧しさゆえに高利貸の犠牲になっていた農村婦人に千円単位の金を貸しました。バングラデシュには雇用という概念がありませ...</summary>
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        <name>伴　武澄</name>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/20090308-153004%282%29-221.html" onclick="window.open('http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/20090308-153004(2)-221.html','popup','width=1063,height=1000,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/20090308-153004%282%29-thumb-250x235-221.jpg" alt="20090308-153004(2).jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0pt 0pt 20px 20px;" height="235" width="250" /></a></span>　<b>第二章　コンツェルン</b><br /><br />　私がＪＡ職員向けの雑誌「教育と文化」２００９年９月号に書いたムハマド・ユヌスさんと賀川に関するコラムを紹介します。<br /><br />　協同組合が示す持続可能な経営<br /><br />　２００９年３月、賀川豊彦献身１００年でノーベル平和賞受賞者のバングラデシュのムハマド・ユヌスさんを神戸市で開いたシンポジウムに招きました。２００８年９月のニューヨーク発の経済危機以降、ユヌスさんのマイクロファイナンスやソーシャルビズネスがにわかに注目を集めています。利益の最大化を求めてきた資本主義の対極にあった社会主義はすでにほとんど消滅しており、人々が新たな経済のパラダイムを模索し始めているからです。<br /><br />　マイクロファイナンスは１９７０年代、ユヌスさんがバングラデシュのチッタゴン郊外の農村で始めた小規模金融です。貧しさゆえに高利貸の犠牲になっていた農村婦人に千円単位の金を貸しました。バングラデシュには雇用という概念がありません。特に農村は自ら機織りをしたり、鶏を飼って卵を売ったりしなければ生活ができないのです。せっかくの売り上げが高い利子に消えていました。ユヌスさんは低利でお金を貸しました。条件は子どもを学校に行かせるなど生活の向上を目指すことでした。<br /><br />　小さな村から始めたマイクロファイナンスは今ではグラミン（農村）銀行となり、その発想は途上国だけでなく先進国でも広がりを見せています。ユヌスさんの最近の関心は、ソーシャルビズネスです。配当のない会社だ。「見返りのないものに誰が投資するか」と反対された。ユヌスさんの考えは違いました。<br /><br />「金持ちや企業は社会貢献と称して多額の寄付をしている。尊いことだが、寄付は１回限り。その金額を投資すれば利潤が上がり、その利潤を再投資することで資金は持続性を持つのだ」<br /><br />　数年前、フランスの食品会社ダノンが興味を示し、バングラデシュで貧しい子どもたちの栄養食としてヨーグルトの合弁製造が始ましました。会社の目的は子どもたちの健康です。続いて仏ヴィオリアとミネラルウオーターの製造販売が始まっています。この会社も健康が目的。独フォルクスワーゲンには洪水時にエンジンを船に乗せ替えたり、乾期にポンプに使えたりするグラミン車を開発してほしいと要請しています。目的は災害復帰である。金もうけでないそれぞれの目的を持つのがソーシャルビジネスなのです。<br /><br />　賀川が９０年前に那須善治に話したこととそっくりです。ソーシャルビジネスと協同組合とは法人のあり方も違いますが、貧困からの脱却を目的とし、助け合いを手段とすることにおいて変わりはありません。<br /><br />　賀川の協同組合は神戸新川の貧民窟や関東大震災後の本所から生まれました。購買組合（生協）を創設し、組合の資金で質屋（金融）を起こし、学校を経営し、病院を建てました。戦後のＪＡの共済事業や全労災も賀川に端を発する。人々の出資金は直接の配当として個人には還元さませんが、何倍もの価値となって社会や地域に還元されるのです。<br /><br />　経済を金もうけの手段にせず、利益は社会の福利厚生のために使うべきだというのが、賀川の持論であり哲学です。<br /><br />　今、協同組合に求められるのは賀川やユヌスさんの発想です。日本ではかつてのような貧困はなくなりましたが、逆に「助け合い精神」はどんどん退化しています。協同組合は元々、「一人は万人のために、万人は一人のために」というロッチデールの精神から生まれています。弱肉強食の時代でもありましたから、人々は官に頼らず助け合って自分たちの生活を守る必要があったのです。自助と互助です。今は国や自治体の責任が問われるだけで、地域が自助する精神を忘れてはいないでしょうか。<br /><br />　２００８年来、再び「貧困」が社会を象徴するキーワードになっています。かつての貧困ではありませんが、少子高齢化で日本経済が縮小に向かい、この１０年で勤労者所得は２割も減少、格差もかつてなく広がりつつあるのです。<br /><br />　しかし、日本には農協３００万世帯、生協２２００万世帯といわれる層の厚い協同組合の地盤が残っています。信用事業、共済事業を含めれば巨大な資金も抱えています。協同組合が本来持っているはずの目的を忘れ、ヒト・モノ・カネが眠ったままでいることです。監督官庁があるとはいえ、それぞれの組織が縦割りであってはいけない。生産から流通、消費、教育、医療、保険まで生活に関わるあらゆる事業が互いに協力しあえばいい。企業や官依存ではなく、地域の協同組合こそが経済の立て直しの主役を果たさなくてはならないのです。<br /><br />　大原孫三郎の社会経営<br /><br />　ユヌスさんや賀川と似た観点から企業を経営していた事業家がかつて倉敷にいました。大原孫三郎（１８８０－１９４３）です。倉敷紡績を有数の繊維企業に育てる一方で、利益を社会貢献活動の面でも傑出していた人物でした。３０００人の孤児を岡山で育てたことで有名な石井十次の事業を生涯、支え続けました。賀川より８歳年上で、関西で活躍しましたから賀川との接点は必ずあったはずですが、まだ見つけることができません。<br /><br />　大原は女工さんたちが病気になった時のために病院（現倉敷中央病院）を建設しました。孫三郎は東洋一の病院を作れといいます。病院のホールには熱帯植物を植え、患者たちのやすらぎのためにコンサートホールも兼ね備えた建物でした。水密桃やブドウのマスカットを生んだことで有名な大原奨農会農業研究所（現岡山大学資源生物化学研究所）も大原がつくらせました。２０世紀を通じて労働問題のシンクタンクとなって問題提起をしてきた大原社会問題研究所（現法政大学大原社会問題研究所や市立倉敷商業補習学校（現岡山倉敷商業高等学校）、そして大原美術館。面白いところでは民芸運動を興した柳宗悦の夢実現のために日本民芸館を世に送り出します。つまり農業振興やシンクタンク、文化・教育分野に投資したのです。今なら、国や自治体が行うべき事業を会社と自分の資産から支出して社会に還元したといえます。企業家の立場から防貧に乗り出したと考えれば、それなりの共感が得られるのではないでしょうか。<br /><br />　株式会社は事業経営して生まれた利潤を持ち株数に応じて株主に還元するシステムです。協同組合は違います。日本の協同組合法ではどちらかといえば「非営利」ですが、配当を禁じているわけではありません。ロッチデール原則では「配当」も認めていますが、まず「教育」への投資を勧めているのです。<br /><br />「営利」「非営利」の違いは「儲ける」「儲けない」の話ではありません。勘違いしないようにお願いします。正確にいうと、「分配」を「する」「しない」の話なのです。日本で配当を禁じているのは社団法人や財団法人、そしてＮＰＯ法人です。ですから、株式会社が「悪」で、協同組合が「善」だと一概にはいえないのです。すべからく経営する人の問題となるのでしょう。大原孫三郎はまさしく協同組合的経営を実践した事業家の一人といえるのだと思います。その点でユヌスさんのソーシャルビジネスという概念は非常に分かりやすいといえましょう。 ]]>
        
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    <title>(17)コンツェルン－農村時計製作所</title>
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    <published>2012-01-17T08:39:12Z</published>
    <updated>2012-02-04T12:57:29Z</updated>

    <summary>　賀川の関する多くの伝記や研究は社会運動家としての賀川豊彦として描かれています。大宅荘一が書いたように「運動と名のつくもののほとんどが賀川に端を発している」ことは事実であろうと思いますが、長年、経済記者として過ごした筆者にとっての賀川は貧民のためのコングロマリット、あるいはコンツェルンを築こうとしたのが賀川豊彦ではないかと考えています。　賀川の長男の純基氏がまとめた賀川豊彦事業展開図にはとんでもない数の「企業」が登場します。そうした事業は賀川一人で行ったものではありませんが、賀川が旗振り役になった企業の少なくないのです。一番驚いたのは、リズム時計の歴史でした。　日本には、セイコーの服部時計店とシチズンという大きな時計企業がありますが、目覚まし時計ではリズム時計が健闘しています。そのリズム時計の創業者が賀川豊彦だといったら誰もが驚くと思います。リズム時計の前身は農村時計製作所といって、賀川が...</summary>
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        <name>伴　武澄</name>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/rhythm-215.html" onclick="window.open('http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/rhythm-215.html','popup','width=400,height=400,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/rhythm-thumb-250x250-215.jpg" alt="rhythm.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0pt 0pt 20px 20px;" height="250" width="250" /></a></span>　賀川の関する多くの伝記や研究は社会運動家としての賀川豊彦として描かれています。大宅荘一が書いたように「運動と名のつくもののほとんどが賀川に端を発している」ことは事実であろうと思いますが、長年、経済記者として過ごした筆者にとっての賀川は貧民のためのコングロマリット、あるいはコンツェルンを築こうとしたのが賀川豊彦ではないかと考えています。<br /><br />　賀川の長男の純基氏がまとめた賀川豊彦事業展開図にはとんでもない数の「企業」が登場します。そうした事業は賀川一人で行ったものではありませんが、賀川が旗振り役になった企業の少なくないのです。一番驚いたのは、リズム時計の歴史でした。<br /><br />　日本には、セイコーの服部時計店とシチズンという大きな時計企業がありますが、目覚まし時計ではリズム時計が健闘しています。そのリズム時計の創業者が賀川豊彦だといったら誰もが驚くと思います。リズム時計の前身は農村時計製作所といって、賀川がいなければ生まれていない会社だったのです。<br /><br />　また、高崎ハムもまた、賀川豊彦と非常に縁の深い企業の一つですし、コープこうべ、共栄火災海上保険、中之郷信用組合、中野総合病院、平和学園、生協から、保険、金融、病院、学校と社会に不可欠な組織を次から次へと構築していきます。<br /><br />　昭和21年3月30日の埼玉新聞は「南桜井が"時計の村"　月産６万個の目覚ましを輸出」と題して驚きをもって賀川の始めた事業を紹介しています。<br /><br />　賀川豊彦氏多年提唱の「農村と機械工業の合一」がいよいよ北葛飾南桜井村に全国農業会の後援によって実現することになった。即ち南桜井裏の服部時計工場は数百万円を投じた巨大な施設と数千の工員を擁しながら終戦後、此處数ケ月を何等の方面にも転用されず無為に過ごして来たが、今回全国農業会の幹部柳川宗左衛門氏等の手によって『農村時計製作所』として新発足することになったもので同工場操業の暁は、三千工員を収容、月産６万個の目覚時計を生産する計画であり、生産品は大部分、食糧品輸入の見返り物資及び賠償品として重要な役割を果たす訳である。<br />　同工場は最初賀川豊彦氏指導のもとに、農村に精密機械工業を普及する目的を以て『農村時計学校』として出発する筈であったが、都合上企業の形体を取ったもので将来は同氏指導の下に埼葛地方を『時計の村』化する計画でこれが実現すれば、農閑期の余剰労力の活用は勿論、傷病軍人等の更生施設としても寄与する所が大きく世人の期待する處は大きい。<br />　なほ操業開始は４月下旬で第一回の生業出荷は７月下旬か、８月上旬の見込みである。<br /><br />　現在の農協の原形をつくったのは賀川豊彦でした。１９２２年、福島県でキリスト教の伝道の傍ら農業指導をしていた杉山元治郎と日本農民組合を大阪で結成しました。小作料の引き下げなど農民の立場から団結して地主に対抗。２５０人で始まった運動は３年後には７万人以上の組織へと成長したのです。<br /><br />　賀川は農民の社会的自覚を促す目的で農民福音学校を経営しました。デンマークのフォルケ・ホイスコーレに倣ったもので、農閑期に農村青年を集めて教育しました。賀川が主張したのは「立体農業」でした。地球上の１割５分しかない平地にしがみついていたらやがて食料が不足する。米麦穀物は中心にするが、残り８割５分を立体的、つまり山に依存すべきだと主張したのです。つまり、シイタケを育て、クリやクルミを植え、ヤギやヒツジを飼って乳をとる。農閑期の田んぼではコイなど淡水魚を飼えば農村経済は相当に充実するという。いまでも通用するかもしれない"理論"です。<br /><br />　それでも農村の生活は不十分だと考えた。軽工業を農村部に誘致して現金収入の充実を図るべきだと考えていました。<br /><br />　その実践として戦後間もなく生まれたのが農村時計製作所です。スイスの時計産業が賀川の目標でした。東洋のスイスを夢みて、「農村に精密工業を！　時計工業を！」が合言葉となります。賀川の夢に手を差し伸べたのが全国農業会(現在の農協中央会、全購連、全販連、共済連）でした。<br /><br />　昭和２１年、埼玉県葛飾郡南桜井村（当時）にあった旧陸軍の信管工場跡地を占領軍から譲り受け、時計工場と技術者養成期間「農村時計技術講習所」を設立しました。資本金は３５０万円。全農が８割、社長が１割、大倉系の中央工業も１割を出資。会長には、全農会長、柳川宗左衛門、賀川は相談役になりました。講習所長は服部の技術者、古川源一郎です。<br /><br />　１９万坪の工場敷地には２万坪の工場建屋と２０００台の工作機械がすでにありました。同年３月２８日、従業員１５００人で月産３万個の目覚まし時計製造を目標にスタート。約半年後の８月に第１号の３・５インチの目覚まし１０個が完成しました。みんな抱き合って喜んだが、売れませんでした。バリカン、電気開閉器にも手を出しましたが満足できるものはできませんでした。結果的に１年足らずで３０００万円の損失が出ました。<br /><br />　そこへ大口出資者の全農に対する解散命令が出て、農村時計は満身創痍。経営は全農の農村工業部長に就任したばかりの谷碧（たに・きよし＝後のリズム時計社長）に任され、なんとか生き残ることになったのです。<br /><br />　日本時計学会の雑誌『時計』昭和24年7月号表紙にはセイコーやシチズンなどを押しのけて農村時計の目覚まし時計「Rhythm」が載っています。会社発足して２年の農村時計が存在感を示しています。以下のような説明が書かれていました。<br /><br />　　　表紙写真はNOSON 3 1/2吋目覚時計Rhythmを示す。<br />　　　Rhythmは日本業界最高級品として内地は勿論、世界各地---特に印度パキスタン、<br />　　　シンガポール、メキシコ、バンコック等から註文があり毎月15,000個の輸出を目標に<br />　　　生産を進めている。<br />　　　株式会社農村時計製作所は終戦後興った時計工場としては最も整備された<br />　　　一貫作業工場であり・・・<br />　　　尤もこれは戦時中服部精工舎南櫻井工場として創られたものを技術者設備共<br />　　　其の儘同社が引継いだものであり・・・今後の進展を注目されている。<br /><br />　苦難の連続だった農村時計は設立４年半で遂に行き詰まり、昭和２５年１１月３日に発足した新会社「リズム時計工業株式会社」に継承され、 シチズンが大株主となりました。<br /><br />　日本の時計史に見え隠れするのが社会運動家の賀川豊彦なのです。賀川の時計づくりには後日談もあります。<br /><br /> ]]>
        
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    <title>(18)コンツェルン－龍水時計</title>
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    <published>2012-02-04T12:58:21Z</published>
    <updated>2012-02-05T00:23:35Z</updated>

    <summary>　戦後、賀川豊彦が埼玉県桜井村に創業した農村時計製作所は、曲折を得てリズム時計に発展します。この会社には技術者養成機関として「時計技術講習所」がありました。全国から農業青年を集めて、時計製作の技術を学ばせ、それぞれの故郷で時計工業を興す夢があったのです。「農村に工業を」「日本を東洋のスイスに」という想いはやがて長野県の北伊那で実現しました。　小説『幻の兵車』で登場人物の三好克彦に岐阜県で時計工場をつくる夢を語らせる場面があります。三好は主人公、木村蔵像の故郷、岐阜県美濃で語ります。「木村君、この付近は土地も広いから農村工業を作るには持ってこいだね。僕は年来の理想を、この付近で実現しようと思っている」「僕は、懐中時計の部分品を、農村の青年の副業にしたいと思っているんだが、この付近なら出来そうだね」　賀川は農村改革のため、立体農業を推進したが、一方で農家の次男、三男が現金収入を得る場として「農...</summary>
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        <name>伴　武澄</name>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/P1030437-218.html" onclick="window.open('http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/P1030437-218.html','popup','width=741,height=1000,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/P1030437-thumb-250x337-218.jpg" alt="P1030437.JPG" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" height="337" width="250" /></a></span>　戦後、賀川豊彦が埼玉県桜井村に創業した農村時計製作所は、曲折を得てリズム時計に発展します。この会社には技術者養成機関として「時計技術講習所」がありました。全国から農業青年を集めて、時計製作の技術を学ばせ、それぞれの故郷で時計工業を興す夢があったのです。「農村に工業を」「日本を東洋のスイスに」という想いはやがて長野県の北伊那で実現しました。<br /><br />　小説『幻の兵車』で登場人物の三好克彦に岐阜県で時計工場をつくる夢を語らせる場面があります。三好は主人公、木村蔵像の故郷、岐阜県美濃で語ります。<br /><br />「木村君、この付近は土地も広いから農村工業を作るには持ってこいだね。僕は年来の理想を、この付近で実現しようと思っている」<br />「僕は、懐中時計の部分品を、農村の青年の副業にしたいと思っているんだが、この付近なら出来そうだね」<br /><br />　賀川は農村改革のため、立体農業を推進したが、一方で農家の次男、三男が現金収入を得る場として「農村工業」が不可欠だと考えていました。そのころの工場はすべて都市部に集中し、農村から都市に労働力が流れる結果、スラムが増殖していたのです。<br /><br />　賀川は長年スラムに住み付き、貧しい人々の生活ぶりを見ていましたから、その実態をつぶさに知っていました。農村に工場ができれば、彼らは都市に流れ出てスラムに住む必要はない。賀川にとって、農村工業という概念はスラム街の防貧対策のひとつでもありました。<br /><br />　時計技術講習所の第一期の入学生は昭和２１年４月から、桜井村に集まります。脱落者もありましたが、２年後に彼らは故郷に帰りました。講習所には長野県の青年が多くいました。岡谷工業という学校の果たした役割が大きかったとされます。その卒業生によって千曲川時計、龍水時計という二つの時計メーカーが生まれました。千曲川は長くは続きませんでしたが、龍水時計は上伊那で雄々しく立ち上がったのです。<br /><br />　北伊那の辰野町にいま近代時計博物館があります。１９９６年に野沢和敏さんが自費で建設したものです。２００８年９月、博物館を訪ね、野沢さんから話を聞きました。<br /><br />　野沢さんはリズム時計の役員でサラリーマン生活を終えましたが、実は時計技術講習所の第一期生でもあり、龍水時計の「創業者」の一人でした。岡谷工業高校の３年の秋、父親から講習所の話を聞かされたといいます。父親は地元の農協の幹部でした。北伊那では養蚕が盛んで、伝統的に製糸業は協同組合的に運営されていました。<br /><br />　北伊那の農協は龍水社といって、製糸工場も経営していました。賀川豊彦の影響を受けていた当時の北原金平社長は本気で時計製造に乗り出す覚悟でいたそうです。野沢さんらが研修を終えて帰郷すると養蚕の建物の一角が「時計工場」としてあてがわれました。<br /><br />　昭和２３年１１月、時計づくりが始まります。素人軍団が２年、時計づくりを学び、さっそく生産に取り掛かるのですから、夢多きスタートとでした。野沢さんによれば「工業高校を出たのは僕だけだったから、僕がリーダーになった。工場長のようなものだった」。生産の準備を段取りする一方で、掛け時計の「設計」が続けられました。部品づくりのため近隣に１０の工場が立ち上がったそうです。<br /><br />　時計の部品をつくるため、伸銅が必要でした。銅がないので高射砲の薬莢を「くず屋」から買ってきます。これを近くの伸銅工場に持っていって「銅板」にしてもらいます。機械類は桜井の工場からの払い下げが主で足りない分は東京で調達しました。すべてが手作りだったそうです。<br /><br />「講習所の先生たちは東大の先生だったり、精工舎の元技術者たちだったから、講義のレベルは相当高かったはず。われわれは恵まれていた。単なる座学ではなく、隣の工場で実地に研修もしたから時計づくりにな自信があった」<br /><br />　野沢さんの回顧によると「時計はできた。動くには動いたが、日常的使用には耐えられなかった。北原さんには『故障する時計は売るな』と厳命された。だから商品になるのに結局２年もかかった。北原さんはよく我慢してくれたのもだと思う」<br />「われわれは意気盛んだったから、どこにもない時計とつくろうと励んだ。中三針方式の時計はまだ日本にはなかったから、これを目指した。時針、分針、秒針の３本が重なったものだ。次は３０日巻。これはセイコーと愛知時計と龍水社しかつくれなかったが、難しすぎて試作品はお蔵入りとなった」<br /><br />　昭和３０年には龍水時計の生産した掛け時計が通産大臣賞に輝きます。役人が工場見学にやってきて「土間でのままの工場にびっくりしていた」そうです。賀川はこれを海外「東南アジア協同組合会議」にまで持って行き、「これは日本の農民がつくりあげた時計だ！」と演説して廻りました。<br /><br />　そんな龍水時計の試行錯誤が２０年以上続いた後、龍水時計はリズム時計の傘下に入ります。経営が悪化したからではありません。海外進出を図ろうとしたが、北伊那には人材が不足していたからでした。北伊那での生産は２００７年まで続き、生産は中国に移管されて工場の役割は終わりました。<br /><br />　野沢さんに信州に精密工業が集積した理由を聞きました。龍水時計の役割は決して小さくないが、機械工業技術者を育てた岡谷工業高校の存在は大きいと答えています。学校と協同組合思想、そして向上心の高い農民が「日本のスイス」を育てたのです。 ]]>
        
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    <title>(19)コンツェルン－コープこうべ</title>
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    <published>2012-02-10T01:09:16Z</published>
    <updated>2012-02-12T07:35:22Z</updated>

    <summary>　賀川豊彦は1914年から1917年にかけてアメリカのプリンストン大学に留学します。アメリカから帰国した賀川を余人が真似できないのは神戸の貧民窟 に帰るところです。賀川は社会活動を再開するのですが、その活動は質的に大きく変化します。新川の賀川の救霊団はイエス団と名前が変わっていましたが、そ れまでの「救貧」から「防貧」へと転換します。それまでの慈善的活動からどうしたら貧困から脱出できるか社会を変革する活動です。まずは購買組合、いまの 生活協同組合を手掛け、ついで労働運動にのめり込み、農民組合の組織化に転じます。　賀川の労働組合運動については多くが語られていま す。川崎・三菱造船の争議を指導し、約３万5000人のデモを組織しますが、結局、失敗に終わります。デモが暴動に発展し、賀川が最も嫌った「暴力」につ ながってしまいます。賀川自身も長期間の拘留を受けることになります。ロシア革命は１９１７年...</summary>
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        <name>伴　武澄</name>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/works03_image01-thumb-250x133-257-267.html" onclick="window.open('http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/works03_image01-thumb-250x133-257-267.html','popup','width=250,height=133,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/works03_image01-thumb-250x133-257-thumb-250x133-267.jpg" alt="works03_image01-thumb-250x133-257.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0pt 0pt 20px 20px;" height="133" width="250" /></a></span>　賀川豊彦は1914年から1917年にかけてアメリカのプリンストン大学に留学します。アメリカから帰国した賀川を余人が真似できないのは神戸の貧民窟
に帰るところです。賀川は社会活動を再開するのですが、その活動は質的に大きく変化します。新川の賀川の救霊団はイエス団と名前が変わっていましたが、そ
れまでの「救貧」から「防貧」へと転換します。それまでの慈善的活動からどうしたら貧困から脱出できるか社会を変革する活動です。まずは購買組合、いまの
生活協同組合を手掛け、ついで労働運動にのめり込み、農民組合の組織化に転じます。<br /><br />　賀川の労働組合運動については多くが語られていま
す。川崎・三菱造船の争議を指導し、約３万5000人のデモを組織しますが、結局、失敗に終わります。デモが暴動に発展し、賀川が最も嫌った「暴力」につ
ながってしまいます。賀川自身も長期間の拘留を受けることになります。ロシア革命は１９１７年、ロマノフ王朝を倒します。その勢いは全世界に広がります。
日本も例外ではありませんでした。組合運動の指導方針をめぐって穏健派の賀川は革命を目指す実力行使派に敗れてしまいます。その後、賀川は組合運動から農
民運動に転じます。共産主義を農村に広げてはならないという信念が背景にありました。<br /><br />　購買組合運動については、1919年、大阪市東区
農人橋に有限責任購買組合共益社を設立、1920年には神戸購買組合、21年に灘購買組合を相次いで設立します。神戸購買組合と灘購買組合はそれぞれ消費
組合、生活協同組合と名称を変えて、後に合併して現在のコープこうべへと発展します。組合員数140万人、年間売上高2600億円を超える賀川が21世紀
に遺した最大の事業です。<br /><br />　売上高2600億円というのはあくまで兵庫県での数字です。協同組合は基本的に県単位で設立されている点を考慮すれば、地域でダントツの流通業といえましょう。流通一大定刻を築いたかつてのダイエーも神戸ではコープにかなわないとさじを投げたのです。<br /><br />　
賀川はイギリスのロッチデールやドイツのライファイゼンにならって、労働者が助け合って販売したり、生産したりすれば搾取のない社会が作れると考えまし
た。日本では1900年にすでに産業組合法が出来ていて、その当時、協同組合が多く設立されていましたが、ほとんどが失敗に終わっています。賀川はもう一
度、協同組合に社会改造を託したのです。<br /><br />　灘購買組合設立では面白いエピソードがあります。初代組合長になった那須善治という人物です。
仲買人として第一次大戦で成り金となりますが、本人はいたって質素な生活をしていました。大阪で東京海上保険の専務をしていた平生釟三郎に社会に役立ちた
いと相談します。平生は岐阜県の出身ですが、甲南学園を創設者し、後に広田弘毅内閣の文部大臣にもなります。平生はそれなら新川の賀川に話を聞いたらいい
とアドバイスします。那須はさっそく賀川のもとを訪ねます。賀川は那須にこういいました。<br /><br />「那須さん、そのお金を貧しい人々への慈善事業
に使うのもいいでしょう。しかし、慈善事業はデキモノに膏薬を貼るようなものです。膏薬を貼ってデキモノは治るかもしれませんが、また別のところにデキモ
ノが出てきます。それよりも、デキモノができないような体質をつくることに使ったらどうでしょう」といって購買組合、つまり生活協同組合の設立を勧めま
す。<br /><br />　日本の流通産業史からみてもこの二つの生協はユニークな歴史を残しています。発足当時の神戸購買組合は店舗を持ちませんでした。「御用聞き」が組合員の家を回って注文をとっていました。<br /><br />　
1931年にようやく葺合区塚通の本部に商品陳列室を設けて約30種類500品目の取扱商品を展示して組合員に紹介できるようになりました。本格的な店舗
は六甲支部に1933年、百貨店方式の店舗を開設したということです。灘購買組合は1931年、芦屋出張所に日本初のセミ・セルフ店舗を開設し、アメリカ
で誕生したスーパーストアの形式をいち早く導入したのです。計量も伝票書き込みも組合員任せで商品のロスが出てやむなく中止となりましたが、1950年に
神戸生協がスーパーマーケット式店舗を開設、1957年に灘生協がセルフサービス店「芦屋フードセンター」を開店しました。中内功さんが主婦の店ダイエー
１号店となる千林店を始めたのが1957７年９月です。ですからスーパーストア方式を日本で最初に導入したのはダイエーではなく、コープこうべの前身だっ
た神戸生協だったといっていいのかもしれません。。<br /><br />　戦前、日本には多くの生協がありましたが、第二次大戦を乗り越えたのはこの二つの生協と福島生協だけだったといわれています。賀川創設した大阪の共益社と本所の江東消費組合は戦災で消失し、戦後の復興はなりませんでした。賀川、戦後も協
同組合運動に力を入れ、現在の日本生活協同組合連合会の母体となる日本協同組合連盟を設立し、全国的規模での生協設立を促しました。賀川豊彦が「生協の
父」といわれるゆえんです。<br /><br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/ryutuuriage-264.html" onclick="window.open('http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/ryutuuriage-264.html','popup','width=375,height=456,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/ryutuuriage-thumb-250x304-264.jpg" alt="ryutuuriage.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0pt 0pt 20px 20px;" height="304" width="250" /></a></span>　同じ流通業界の百貨店とスーパーの２００８年度の経営を比較してみましょう。日本百貨店協会の統計では90
社278店舗で4兆6958億円。日本チェーンストア協会の統計では70社8056店舗で13兆1703３億円、コンビニの日本フランチャイズチェーン協
会の統計では4万7114店舗で7兆8566億円となっています。<br /><br />　
一方、日生協の2008年度の会員数は2532万人、総事業高は3兆4114億円となっています。百貨店やスーパーの売上高と比較して、日生協の売上高は
日本の消費の一翼を担っていることが分かると思います。しかし、残念ながら、監督官庁が厚生労働省ということで「経済」の範疇としてとらえられていませ
ん。生協はあくまで国民の福利厚生でしかないのです。監督官庁が農水省であるＪＡも同じ扱いです。賀川が生きていれば、最も嘆くところでしょう。協同組合
は日本の経済統計からすっぽりと抜け落ちていることを指摘せざるを得ません。<br /><br />　目をヨーロッパに転じてみましょう。組合員数や事業規模で
いえば、日本の生協は世界で圧倒的な大きさとなっていますが、ほーロッパ諸国人口や経済規模からいって存在感は日本よりも大きいといえそうです。たとえ
ば、スイスにはミグロとコプスイスという二大生協グループがありますが、食品小売りの４５％も占めていて、国民経済と暮らしに占める生協の比率は非常に高
いものがあります。イタリアの生協の総売上は同国の小売業でトップと抜群の存在感である。グローバル経済の進展で、欧米での生協は流通大手企業にシェアを
食われつつあるというのが実態ですが、北欧や東欧を中心に中堅の流通業としてまだまだ存在感を失っていません。<br /><br />　そんな生協を90年前に関西に開業した実業家が賀川だったという評価をしたいのです。<br /><br />　ニューラナークのオーエン<br /><br />　２００４年６月に一週間ほど南スコットランドを歩きました。賀川の協同組合運動のモデルとなったロバート・オーエンの工場経営を学ぶために、グラスゴー郊外のニューラナークを訪ねたのです。いまでは世界遺産に登録されています。<br /><br />　
ニューラナークはスコットランド最大の河川であるクライド川の渓谷沿いの寒村で、２００年以上前の当時としてはイギリス最大の紡績工場と従業員の生活をよ
みがえらせています。いまでは渓谷は緑の木々におおわれ、水の音と鳥のさえずりだけが静寂を破る、空気がとてもおいしい場所でした。<br /><br />　
ニューラナークの歴史は２２０年前にさかのぼります。紡績機械を発明したリチャード・アークラウトとグラスゴーの銀行家デイビット・デイルがこの地にやっ
てきて「ここほど工場用地として適した場所はない」といって周辺の土地を購入し、１７８５年に紡績工場を立ち上げました。ワットが蒸気機関を発明したのは
１７６５年。狭い渓谷を流れる水流がまだ動力の中心だった時代のことですが、イングランドのマンチェスターはすでに繊維産業の町として名を馳せていまし
た。<br /><br />　ニューラナークが世界的に知られるようになったのはデイルの娘婿となったロバート・オーエンが１８００年に事業を引き継いでからで
す。オーエンはまず従業員の福利厚生のために工場内に病院を建設しました。賃金の６０分の１を拠出することで完全無料の医療を受けることができました。現
在の医療保険のような制度をスコットランドの片隅で考え出したのです。<br /><br />　１９世紀の繊維工場は蒸気とほこりにまみれ、労働と疾病は隣り合わせでした。日本でも初期の倉敷紡績が東洋最大の病院を工場に併設したことはいまも語り継がれていますが、その１００年も前にオーエンは従業員の福利厚生という発想を取り入れていました。<br /><br />　
次いで取り組んだのが児童への教育でした。当時の多くの紡績工場では単純作業が多く安い賃金で雇用できる子どもたちが労働力の中心だったのです。子どもと
いっても６歳だとか７歳の小学校低学年の児童も含まれていました。オーエンは１０歳以下の児童の就労を禁止し、彼らに読み書きそろばんの初等教育をさずけ
ました。<br /><br />　１８１６年の記録では、学校に１４人の教師と２７４人の生徒がいて、朝７時半から夕方５時までを授業時間としました。家族そ
ろって工場で働いていた時代ですから、学校に子どもたちを預けることによって母親たちは家庭に気遣うことなく労働に専念できるという効果もありましたが、
当時、児童の就労禁止を打ち出したことでさえ画期的なことでした。<br /><br />　オーエンの教育でユニークだったのは、当時のスコットランドで当たり
前だった体罰を禁じたことでした。さらに五感を育むために歌やダンスなども取り入れました。当時、音楽などを教えていたジェームス・ブキャナン先生は
ニューラナークでの教職について「人生の大きな転機をもたらしてくれた。金持ちや偉人になるといった欲求を捨てて、誰かの役に立つことで満足するように
なった」と語っています。オーエンの学校にそういう雰囲気があり、教師たちも感化されたのでしょう。<br /><br />　オーエンはイギリス各地で起きてい
た労働者（特に児童）の搾取や悲惨な労働環境を目の当たりにし、「そうした環境では、不平を抱いた効率の悪い労働力しか生まれない。優れた住環境や教育、
規則正しい組織、思いやりある労働環境からこそ、有能な労働者が生まれる」という考えにたどり着きました。１９世紀の弱肉強食の時代に、福祉の向上こそが
経済効率につながるという理念に到達していたのでした。<br /><br />　それから１００年以上もたった１９２５年にロンドンの町を訪れた社会改革者の賀
川豊彦は工場労働者が劣悪な環境で働いているのに驚きました。日本と変わらないスラムが町外れに多く形成されていました。日本でもロンドンでもスラムは貧
困と不衛生、そして犯罪の巣窟となっていたのです。<br /><br />　チャールズ・ディケンズの『オリバー･ツイスト』や『二都物語』の世界が２０世紀のロンドンにも厳然として残っていました。<br /><br />　
オーエンはニューラナークでの実践活動を理論化した『新社会観－人間性形成論』を書き、国内外を回り、議会や教会関係者から経済学者まで広く工場の労働条
件改善の必要を説きました。またニューラナークでの「実践」を通して国内外で多くの理解者を得ました。そして彼の経済理論は１８２０年の『ラナーク住民へ
の講演』で社会主義的発想へと一気に昇華したのです。この講演でオーエンは「生産者自らが生み出したすべての富について、公平で一定の割合の配分を受けら
れる必要がある」と語りかけました。工場の福利厚生の改善だけでは満足できず「社会変革」の必要性まで打ち出したのでした。<br /><br />　オーエンが
その後、あまた排出する思想家や経済学者たちと一線を画し、２００年後のわれわれに感動を与えるのは彼が「偉大な実践者」であったということです。賀川豊
彦が１００年前にスラムに飛び込み貧困と病気、さらに犯罪と戦いながら、貧困救済事業を立ち上げて名声を勝ち取った経緯と重なる部分が多くあるのです。<br /><br />　ロバート・オーエンは企業経営に関わる富の社会還元の手法を多く残しました。地域通貨や労働組合などもそうですが、どうしても忘れられないのは協同組合的店舗経営です。<br /><br />　協同組合は１８４４年代にマンチェスター郊外のロッチデールで始まったものとばかり思っていましたが、ロッチデールの人々が参考にしたのは実は、ニューラナークにあった企業内店舗の在り方だったのです。<br /><br />　
２００年前の商人たちはどこでも相当にあこぎだったようです。オーエンによれば、村の店で売っていた商品といえば「高くて質が劣悪。肉だったら骨と皮に毛
の生えた程度のものばかり」だったのです。村民の人たちはほかに店がないことをいいことに劣悪な品質のものを高い価格で買わされていました。しかも多くの
商いが掛け売りだったため、村の人々の借金はたまる一方でした。<br /><br />　そうした状況は１００年前の日本でも同じでした。日本の文学にはそうし
たあこぎな商売というものはあまりでて来ませんが、賀川豊彦の多くの小説には貧乏人が労働を通じて搾取されるだけでなく、購買を通じても対価に見合った商
品が販売されていないことがこと細かく書かれています。オーエンや賀川が昨今の流通業界の価格破壊の状況を見たら卒倒するに違いありません。<br /><br />　
ニューラナークの人々を救済するためのオーエンの答えは工場内に自らの購買部を設立することでした。そして「生活必需品と生活のぜいたく品、そしてお酒も
必要」と考えました。お酒についてオーエンは比較的寛容でした。酔った状態で勤務することは当時の工場では自殺行為に等しかったのですが、適度の飲酒は生
活のぜいたくの一つと考えていたようでした。<br /><br />　１８１３年、オーエンは工場敷地内のほぼ真ん中に三階建ての店舗を開設。工場経営者として
の地位を利用して卸売りから安く大量に仕入れ、村の店のほぼ２割安の価格で販売しました。販売したのは、食料や調味料、野菜、果物といった生活必需品だけ
でなく、食器や石鹸、石炭、洋服、ろうそくなどなんでもありました。<br /><br />　この建物は現存していますが、当時の一般的な消費動向や２５００人という工場の人口からすればとてつもなくおおきな店舗だったはずです。<br /><br />　
ニューラナークでの賃金はほかと比べて高いというわけではありませんでしたが、当時、村を訪れたロバート・サウジーの報告によると「一家で週２ポンド
（４０シリング）稼いだとしてラナークで住むことによって１０シリングほど生活費は安くてすんだ」そうなのです。つまりお金の価値を高めたのです。<br /><br />　やがて、村人の借金はなくなり、あこぎな店も村からなくなくなりました。そして店舗であがった利益は前回書いた児童教育に注ぎ込まれました。<br /><br />　
労働者の生活改善というオーエンの発想は、多くの人々に刺激を与えました。そして彼の協同組合的考え方を発展させた人々をオーエニーズと呼ばれたのです。
ロッチデールの織物労働者によって１８３０年から試行錯誤が続けられ、１８４４年、１３人のメンバーによってようやく「ロッチデール・エクィタブル・パイ
オニア・ソサエティー」設立にこぎつけました。彼らは毎週２ペンスずつを１年間にわたって貯蓄して２８ポンドの資金を集めました。<br /><br />　１０ポンドで１０坪ほどの店舗を３年間契約で借り受け、１６ポンド１１シリングでオートミール、小麦粉、バター、砂糖、ろうそくを仕入れ、商いを始めました。初日の商いが終わってみると彼らは２２ポンドの利益を手にしていました。<br /><br />　
彼らの当初の目的は、普通の人々がお金の価値に見合った商品を購入できることにありました。そして彼らはこの新しい購買組織の５原則を約束し合ったので
す。この時決まった(1)入・脱会の自由(2)一人一票という民主的組織運営(3)出資金への利子制限(4)剰余金の分配(5)教育の重視－<br /><br />という５原則は現在の生協運動でも掲げられているものです。<br /><br />　ロッチデールで始まった小さな試みはやがてイギリス全土に広がり、国境を越えて拡大しました。 ]]>
        
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    <title>(20)コンツェルン－中ノ郷信用組合</title>
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    <published>2012-02-10T13:13:56Z</published>
    <updated>2012-02-12T08:26:32Z</updated>

    <summary>　今も賀川精神を受け継ぐ金融機関があります。中ノ郷信用組合です。弱った信用組合を引き受けるうちに大きくなりました。戦後、金融制度の改革で多くの信用組合が信用金庫に改組しました。組合員に対する貸し出しを中心とする点では大差はありませんが、格が上になった気分になるのです。中ノ郷は以前から十分に信用金庫に格上げできる経営基盤を確立していますが、あくまで信用金庫のままで満足しています。　日本には都市銀行、第二都銀（旧相互銀行）、地方銀行、信金、信組、農協・・・、多くの業態があります。役割はそれぞれ違うため業態が違うのですが、いまでは同じような金融業務を行っています。面白いのは、たとえば僕が住んでいる高知県には都市銀行はひとつしかありません。みずほ銀行だけです。みずほ銀行はもともとは国策会社だった日本勧業銀行を母体としています。明治期、勧業は農業を意味していました。ですから各県に支店を持っていたので...</summary>
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        <name>伴　武澄</name>
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        <![CDATA[　今も賀川精神を受け継ぐ金融機関があります。中ノ郷信用組合です。弱った信用組合を引き受けるうちに大きくなりました。戦後、金融制度の改革で多くの信用組合が信用金庫に改組しました。組合員に対する貸し出しを中心とする点では大差はありませんが、格が上になった気分になるのです。中ノ郷は以前から十分に信用金庫に格上げできる経営基盤を確立していますが、あくまで信用金庫のままで満足しています。<br /><br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/yokinryo-270.html" onclick="window.open('http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/yokinryo-270.html','popup','width=252,height=316,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/assets_c/2012/02/yokinryo-thumb-250x313-270.jpg" alt="yokinryo.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0pt 0pt 20px 20px;" height="313" width="250" /></a></span>　日本には都市銀行、第二都銀（旧相互銀行）、地方銀行、信金、信組、農協・・・、多くの業態があります。役割はそれぞれ違うため業態が違うのですが、いまでは同じような金融業務を行っています。面白いのは、たとえば僕が住んでいる高知県には都市銀行はひとつしかありません。みずほ銀行だけです。みずほ銀行はもともとは国策会社だった日本勧業銀行を母体としています。明治期、勧業は農業を意味していました。ですから各県に支店を持っていたのです。地方都市に行くと都市銀行の存在はものすごく薄いのです。逆に信金、信組の役割が大きくなっています。意外と知られていない日本の金融の実態です。<br /><br />　たとえば大都市の京都でも市民に一番親しまれているのが京都中央信金です。京都市内では地銀の京都銀行よりも存在感があるのです。みんな「チュウシン」と親しんでいます。預金量も４兆円を超え国内最大の信金となっています。協同組合金融が株式会社と対等に勝負しているのはどうしてなのか考えなければなりません。こういったことは東京に住んでいては分かりません。<br /><br />　中ノ郷の前の理事長さんに話を聞いたことがあります。東京のような大都会でどうして信組が成り立つのか聞きましたら、「中ノ郷はバブルのとき、都銀のように土地に融資しませんでした。また融資する場合でも、顔の見える範囲でお金を貸します。土地を担保に取ることも少ないので、担保価値が下がることによって中ノ郷のバランスシートが崩れることはありませんでした」<br /><br />　さすがに賀川たちが設立した金融機関だと思いました。<br /><br />　中之郷の50年史を見ますと、やはり特徴のある人々が歴代の経営中枢にいることが分かります。初代の理事長は田川大吉郎さんといって明治学院大学の総理（学長）だった方です。二代目は木立。三代目は奥平定蔵でした。<br /><br />　そもそも、中之郷は質屋から始まりました。関東大震災後に本所で救済活動をしていた賀川を訪ねたのが質屋を経営していた奥平でした。<br /><br />「関東大震災の社会大混乱のなかで、質屋業者があまりに不当な高金利で庶民階級を圧迫するのをみて義憤を感じ、同志と計って質屋改善連盟をおこし、業者の覚醒を促した。また一方では、有限責任北豊島消費購買組合を設立し、スローガンに『団結は力なり』『消費者の団結は新社会を生む』」とし、これを大きく掲げて協同組合の理想の実現に努力した。賀川が本所基督教産業青年会を設立して社会事業に精進しているとき、奥堂は訪ねていった。その目的は、日本における産業組合の運動をいかに実践に移すかということを問うためであった」（中ノ郷信用組合五十年史、1979年）<br /><br />　奥平のアイデアは真面目な質屋を本所で経営したいというものでした。<br /><br />　森静朗・元日大教授は信用組合について「運動として、大資本に対抗し、或は高利貸からの収奪から逃れるために弱い者同志が集って、一つ一つは弱いけれども、集って力となった場合には大きな爆発力になるとの発想があった」（賀川豊彦学会論叢創刊号「賀川と信用組合理論と実践」1985年）と言っています。<br /><br />「賀川と信用組合理論と実践｣ではまた次のようにも書いています。「商業銀行は古今東西を問わず、庶民の汗水の結品である資金を自らの手に戻すことなく、大企業、大資本のための資金の供給源となってしまう。自分達の資金がなぜ、自分達で利用できないのか、つねに自分達が日陰であってよい筈はない。自分達の資金を自分達の手にひきもどせというねがいが、信用組合運動になり、広く自分達と同じ弱い立場にある者が呼びかけ合い、相互に手をにぎり合おうとして展開して行ったのが、信用組合運動でもあった」<br /><br />　いま、多くの協同組合金融は存在感が薄れていると思われがちですが、地方ではなかなか健闘しているのです。信金、信組と労金を合わせると郵貯の預金量に匹敵し、農協を加えると都銀の合計額に迫っていることを覚えて置いてください。<br /><br />　<br /> ]]>
        
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    <title>(21)コンツェルン－中野総合病院</title>
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    <published>2012-02-22T13:23:35Z</published>
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    <summary> 　購買組合の次に手がけたのが、組合病院の経営でした。賀川が新川の貧民窟で診療所を開設して無料で貧しい人たちの病気を治したことは話しました。当時、貧困と病気は隣り合わせでした。貧しいから無理をする。無理をするから病気になったり、けがをしたりしやすい。でも医者にかかるお金がない。医者にかかれないから病気がひどくなり働けなくなる、そうすると貧しい人はますます窮地に陥る。　そんな連鎖を断ち切るために賀川は組合病院を考えたのです。関東大震災の直後のことです。東京市に申請しましたが、医師会の猛反対に遭います。医療保険という概念すらない時代です。　組合病院は賀川の独自の発想ではありませんでした。賀川が設立を考えていたとき、青森や秋田ではすでに組合病院設立に向けて運動が起きていました。　組合病院は、日々の賃金の中から会費のように積み立てておけば、いざという時に安い医療費で医者にかかれるというシステムです...</summary>
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        <name>伴　武澄</name>
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        <![CDATA[ <span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="399.JPG" src="http://www.yorozubp.com/2011/399.JPG" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0pt 0pt 20px 20px;" width="240" height="320" /></span>　購買組合の次に手がけたのが、組合病院の経営でした。賀川が新川の貧民窟で診療所を開設して無料で貧しい人たちの病気を治したことは話しました。当時、貧困と病気は隣り合わせでした。貧しいから無理をする。無理をするから病気になったり、けがをしたりしやすい。でも医者にかかるお金がない。医者にかかれないから病気がひどくなり働けなくなる、そうすると貧しい人はますます窮地に陥る。<br /><br />　そんな連鎖を断ち切るために賀川は組合病院を考えたのです。関東大震災の直後のことです。東京市に申請しましたが、医師会の猛反対に遭います。医療保険という概念すらない時代です。<br /><br />　組合病院は賀川の独自の発想ではありませんでした。賀川が設立を考えていたとき、青森や秋田ではすでに組合病院設立に向けて運動が起きていました。<br /><br />　組合病院は、日々の賃金の中から会費のように積み立てておけば、いざという時に安い医療費で医者にかかれるというシステムです。現在の医療保険の先駆け的システムといえましょう。国際連盟の事務局次長の職を辞して帰国したばかりの新渡戸稲造も全面的にバックアップしてくれて、１９３２年にようやく協同組合病院の認可が下り、現在の東京医療生活協同組合中野総合病院が設立されます。<br /><br />　同病院のホームページの沿革には「中野総合病院は、昭和７年５月27日、故新渡戸稲造博士（旧５千円紙幣の肖像）・故賀川豊彦氏等の主唱によって創立された、日本で最初の医療利用組合の病院です」としか紹介されていませんが、労働者の出資金によって設立された病院は世界的にも特異な存在なのです。<br /><br />　賀川豊彦は社会運動家として名を成しましたが、一方で社会の仔細な観察者でもありました。自分の目で見た社会を克明に観察し、それを文章として残したライターでもあったのです。20歳代に書いた『貧民心理の研究』は後に「差別書」として批判の対象となりますが、スラムに住む貧民の生活実態を報告した数少ない書の一冊であり、今考えれば貴重な歴史資料であることはまぎれのない事実です。40歳代で書いた『医療組合論』（全国医療利用組合協会、1936年4月）は戦前の医療制度が大きく変わる変遷を描いた時代史もあります。医療関係者にとって必読の書であると信じています。<br /><br />　昭和30年代に医療組合が「燎原の火」のごとく全国に拡大していきました。きっかけは賀川の中野組合病院の設立でした。当時の社会問題はまさしく農村の貧困と疾病であります。日本が満州に進出し軍国化する中で少壮の陸軍士官たちがクーデターまで図った背景には見捨てられた農村がありました。政府の多くの官僚たちが直面する問題に手をこまねいている間、賀川は勇敢にも医師会を敵に回しながらも医療組合論をぶち上げ、率先して東京で医療組合の設立に奔走しました。<br /><br />　賀川の医療組合は申請から認可まで一年を超える期間を要したが、火の手は青森に上がり、すぐに秋田に飛び火しました。現実に3000を超える無医村の問題を解決するためには「助け合い病院」が必要だったのです。東京で医療組合を立ち上げた賀川には、東京で旗を上げれば、注目されて全国に広がるという確信がありました。<br /><br />　中野組合病院は、1932年に新波戸稲造を組合長として、医師12人、看護婦2人、組合加入者515人で発足しました。この病院は、その後賀川を組合長として発展をとげます。戦後に3009坪、310のベッドをもつ大病院になります。現在、組合員は1万6420人、医師看護婦200人に達しています。<br />　<br />　組合病院は戦後、JAや生協に引き継がれ、JA厚生連グループは全国115病院を抱える最大の病院グループに発展し、医療生協も病院数77をネットワークする有数のグループとなっています。<br /><br />　農村医療に尽くし２００６年に亡くなった佐久総合病院（JA長野厚生連）の若月俊先生は『若月俊一の遺言』（家の光協会、２００７年）の中で賀川の医療分野での業績を高く評価しています。<br /><br />　１９７０年の国際協同組合同盟（ＩＣＡ）のモスクワ大会で元、カナダの協同組合中央会会長のレイドロウ博士が日本の総合農協について高く評価しました。<br /><br />「日本の農協は、生産資材の供給、農産物の販売をしている。貯蓄信用組織であり、保険の取扱店であり、生活物資のセンターである。さらに医療サービスや、ある地域では、病院での診療や治療なども提供している」<br /><br />　レイドロウの報告について、若月先生は「わが国の協同組合運動の性格に関して、賀川豊彦の見方『友愛の経済学』を高く評価している。これは私どもが産組（産業組合、現在の農協）の『医療運動史』の中で、賀川先生の役割を高く評価しているのとよく一致する」と述べています。<br /><br />　若月先生は東大医学部を卒業後、戦争が終わる直前に佐久病院に派遣されますが、賀川の生き方に共感していた先生は後に組合病院とし、佐久の赤ひげを目指します。病院で患者の来るのを待つのではなく、医者や看護婦が農村に出向いて健康管理をすることで疾病を未然に防ぐことを目指しました。この方式が長野県一帯に広がって、長野県は有数の長寿県となったばかりでなく、一人当たり医療費においても日本で最低水準とすることを維持しているのです。<br /><br />　佐久総合病院は理想を求める医学生が目指す病院の一つとなっていますが。経営はＪＡ長野厚生連の傘下にあります。いわゆる医療法人ではありません。一般的に協同組合病院といっても馴染みがないかもしれませんが、ＪＡ厚生連傘下の病院は全国に１００カ所を超え、日本生活協同組合連合会傘下の医療生協も１１６団体、７６病院を数えます。日本赤十字や済世会病院系列の病院数も１００カ所内外であることからみても、協同組合病院が日本の医療を支える一翼を担っているといっても間違いでありません。<br /><br />　国際的にも評価されているその組合病院を考え出したのが賀川だったのです。<br /><br />【追記】<br /><br />　小泉内閣の時代に株式会社による病院や学校経営が議論となった。そんなことはあり得ないと思っていたが、ＪＡ厚生連の病院を数えたら全国約100カ所もあった。医療生協もまた100カ所内外の病院を経営する。<br /><br />　日本では最大級の病院連合となっている。厚生連に加え日本赤十字（医療施設99カ所）と済世会の３つが日本の大規模な病院経営チェーンである。不思議かもしれないが、どれも医療法人ではない。赤十字は特別法に基づく法人で、済生会は正式には社会福祉法人恩賜財団済生会である<br />。<br />　赤十字は、スイスのアンリー･デュナンが1859年、イタリア統一戦争の激戦地で多くの死傷兵が打ち捨てられているありさまを見て、救護をしたことに始まる運動。デュナンは翌々年に『ソルフェリーノの思い出』という本を出版し、「傷病兵は敵味方なく救護することや各国で救護団体を組織すること」などを訴えた。この訴えがヨーロッパ中で反響を呼び、1864年にスイスを含めた16カ国で赤十字条約が調印された。日本では、1877年の西南戦争の最中に佐野常民と大給恒の両元老院議官がヨーロッパの赤十字にならって博愛社という救護団体が設立した。後の日本赤十字である。<br /><br />　戦後は日本赤十字法が成立し、この法律に基づく特別な法人となった。名誉総裁は皇后陛下で、名誉副総裁には皇太子殿下、同妃殿下ほか皇室の方々が就任している。<br /><br />　一方、済生会は1879（明11年）、明治天皇の「済生勅語」により、皇室の御下付金１５０万円と寄付金を基金として創設された。正式名称は「恩賜財団済生会」である。経済的に恵まれない人々に医療を提供するのが目的だったため、病院の多くは貧困層が多く定住するとされる駅周辺に建てられた。<br /><br />　戦前は内務省の管轄だったが、現在は「財団」の名が付きながら社会福祉法人として厚生労働省の管轄下にある。総裁は寬仁親王殿下、豊田章一郎会長、炭谷茂理事長の体制で、青森、秋田、岐阜、徳島、高知、沖縄を除く41都道府県で病院や診療所など93カ所を運営している。ちなみに「済生」とは「生命を救うこと」（広辞苑）。<br />&gt;&gt;<br />　済生勅語　朕惟フニ世局ノ大勢ニ随ヒ國運ノ伸張ヲ要スルコト方ニ急ニシテ　經濟ノ状況漸ニ革マリ人心動モスレハ其ノ歸向ヲ謬ラムトス政ヲ為ス者宜ク深ク此ニ鑒ミ倍々憂勤シテ業ヲ勸メ敎ヲ敦クシ以テ健全ノ發達ヲ遂ケシムヘシ若夫レ無告ノ窮民ニシテ醫藥給セス天壽ヲ終フルコト能ハサルハ朕カ最軫念シテ措カサル所ナリ乃チ施藥救療以テ濟生ノ道ヲ弘メムトス茲ニ内帑ノ金ヲ出タシ其ノ資ニ充テシム卿克ク朕カ意ヲ體シ宜キニ随ヒ之ヲ措置シ永ク衆庶ヲシテ頼ル所アラシメムコトヲ期セヨ<br /> ]]>
        
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    <title>(22)コンツェルン－死線を越えて</title>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="img_833723_5368738_0.jpg" src="http://www.yorozubp.com/thinkkagawa/img_833723_5368738_0.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0pt 0pt 20px 20px;" height="173" width="120" /></span><p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　賀川豊彦が東京の改造社からベストセラー『死線を越えて』を発刊したのは３２歳の１９２０年１０月だった。プリンストン大学へのアメリカ留学から神戸に帰国して３年。大阪市の「有限責任購買組合共益社」と神戸市の「有限責任神戸購買組合」を相次いで設立、１２月には播磨造船の労働組合長に推され、社会運動家として八面六臂の大活躍。貧民救済を続けていた一牧師から一皮も二皮もむけていた。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　『死線を越えて』の元となる『鳩の真似』を書き始めたのは葺合新川の貧民窟に入る前、三河蒲生郡で肺結核の療養中であった。まだ</span><span lang="EN-US">20</span><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">歳になっていなかった。明日の命もないことを宣告され、小説風に自らの生い立ちをつづったものにすぎない。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　このベストセラーが生まれる背景には多くの出来事があった。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　文学全集の出版や有名人の講演とタイアップした出版など日本の出版界をガラリと変えたとされる山本実彦が創刊した月刊誌「改造」はまだ黎明期にあった。「改造」創刊号が世に出たのは１９１９年４月。定価６０銭。中央公論のような総合雑誌を目指した。安部磯雄、与謝野晶子、尾崎行雄、土井晩翠らが執筆し、幸田露伴の名作『運命』も掲載されていた。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　当時、言論界ではまだ無名の賀川豊彦の連載が始まったのは１０号目に当たる１９２０年新春号である。「神戸におもしろいキリスト教の牧師がいる」と賀川を山本実彦に紹介したのは大阪毎日新聞社記者の村島帰之だった。村島は奈良県生まれで賀川より三歳年下。大阪本社で地方版を編集していた時に知り合い、二人で労働組合友愛会関西同盟を発足させた。いわば労働組合運動の同志でもあるが、葺合新川における賀川の献身的な活動にほれ込んでいた。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　「ますらおのごとく　村島帰之先生の生涯」（学校法人平和学園設立２０周年記念出版）によると「友愛会関西同盟の理事長に賀川がなり、村島が理事に就任している。神戸支局時代に川崎造船所で労働者１万６０００人が指導し、日本初の大規模サボタージュを決行した。友愛会の幹部としてサボタージュを指導する一方で、サボタージュの記事を特だねとして書いたのだからまさに自作自演である。島村は「サボを『同盟怠業』と訳した」と備忘録に残した。「怠けること」を「サボる」というようになったのは島村が生み出した新語だったようである。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　山本実彦が賀川に会ってみると実におもしろい。第一時大戦後の論壇は「大正デモクラシー」から「社会主義」へと急傾斜していた。世相は悪徳商人を打ち壊す「米騒動」が全国を駆け巡っていた。鳴門の船問屋が神戸の愛人に生ませた子がキリスト教に目覚め、徒手空拳で貧民救済に乗り出す。そんな型破りの物語に時代性を感じたのだろうか、賀川に自伝風小説を書かせることにした。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　しかし、出来あがった原稿の評価はさんざんだった。文章はへただし、物語もあまりにも通俗だというのが編集局内での評価で、ほとんど「ボツ」になりかけた。一人山本実彦だけは違って「これはおもしろいかもしれない」と多くの反対論を押し切って掲載にゴーサインを出した。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　とにかく『死線を越えて』は１９２０年１月号を飾った。反響は編集局の大方の予想通りで論壇からは「改造は素人に書かせている」などの酷評を浴びせられた。それでもくじけなかったのが山本実彦たるゆえんだろうか。山本実彦は『死線を越えて』の読者層は雑誌「改造」と違うと判断し、連載は４回で打ち切って単行本として出版することに方向転換した。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　賀川は島村に「単行本にしようという話がある。どうしようか」と相談を持ちかけた。島村は雑誌「改造」での散々な評判を聞いていたので「売れないだろうからやめた方がいい」と乗り気ではなかったようだ。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　改造社にとっての最初の単行本はこうして生まれたが、これが予想外の売れ行きとなった。１０月に発行した『死線を越えて』は年内に１０万部を売り、翌年は１００万部の大台に乗せた。賀川は小説家志望ではない。だからお世辞にも文章がうまいとはいえなかった。神の示した道を地道に忠実に生きたにすぎない。しかし、そんなうそのない賀川の生き方が国民的共感を生んだのだ。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　１００万部を超える『死線を越えて』の売り上げは、創立間もない山本実彦の改造社の経営にとって多大な貢献をしたことになる。賀川にとっても山本実彦との出会いこそが、その後の人生を決定付ける大きな意味合いとなった。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　賀川はそれまで詩集『涙の二等分』（福永書店）のほか、『貧民心理の研究』（警醒社）など研究書を何冊か出版しているが、まだ言論人としての地位を得ていたわけでなく、『死線を越えて』はアマチュア作家の誕生として位置付けられていたにすぎない。</span><span lang="EN-US"></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;;">　ベストセラー作家としての知名度と現在の価値に換算して１０億円を超えるとされる巨額の印税はその後の賀川の社会活動における大きな支えとなった。『死線を越えて』がなかりせば、改造社のその後もなければ、賀川の労働運動や消費組合運動も違った方向に進んでいたかもしれない。農村部に病院を建てていった組合病院もなく、医療のあり方も変わったものになっていたかもしれない。</span><span lang="EN-US"></span></p>

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