(21)コンツェルン-中野総合病院

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399.JPG 購買組合の次に手がけたのが、組合病院の経営でした。賀川が新川の貧民窟で診療所を開設して無料で貧しい人たちの病気を治したことは話しました。当時、貧困と病気は隣り合わせでした。貧しいから無理をする。無理をするから病気になったり、けがをしたりしやすい。でも医者にかかるお金がない。医者にかかれないから病気がひどくなり働けなくなる、そうすると貧しい人はますます窮地に陥る。

 そんな連鎖を断ち切るために賀川は組合病院を考えたのです。関東大震災の直後のことです。東京市に申請しましたが、医師会の猛反対に遭います。医療保険という概念すらない時代です。

 組合病院は賀川の独自の発想ではありませんでした。賀川が設立を考えていたとき、青森や秋田ではすでに組合病院設立に向けて運動が起きていました。

 組合病院は、日々の賃金の中から会費のように積み立てておけば、いざという時に安い医療費で医者にかかれるというシステムです。現在の医療保険の先駆け的システムといえましょう。国際連盟の事務局次長の職を辞して帰国したばかりの新渡戸稲造も全面的にバックアップしてくれて、1932年にようやく協同組合病院の認可が下り、現在の東京医療生活協同組合中野総合病院が設立されます。

 同病院のホームページの沿革には「中野総合病院は、昭和7年5月27日、故新渡戸稲造博士(旧5千円紙幣の肖像)・故賀川豊彦氏等の主唱によって創立された、日本で最初の医療利用組合の病院です」としか紹介されていませんが、労働者の出資金によって設立された病院は世界的にも特異な存在なのです。

 賀川豊彦は社会運動家として名を成しましたが、一方で社会の仔細な観察者でもありました。自分の目で見た社会を克明に観察し、それを文章として残したライターでもあったのです。20歳代に書いた『貧民心理の研究』は後に「差別書」として批判の対象となりますが、スラムに住む貧民の生活実態を報告した数少ない書の一冊であり、今考えれば貴重な歴史資料であることはまぎれのない事実です。40歳代で書いた『医療組合論』(全国医療利用組合協会、1936年4月)は戦前の医療制度が大きく変わる変遷を描いた時代史もあります。医療関係者にとって必読の書であると信じています。

 昭和30年代に医療組合が「燎原の火」のごとく全国に拡大していきました。きっかけは賀川の中野組合病院の設立でした。当時の社会問題はまさしく農村の貧困と疾病であります。日本が満州に進出し軍国化する中で少壮の陸軍士官たちがクーデターまで図った背景には見捨てられた農村がありました。政府の多くの官僚たちが直面する問題に手をこまねいている間、賀川は勇敢にも医師会を敵に回しながらも医療組合論をぶち上げ、率先して東京で医療組合の設立に奔走しました。

 賀川の医療組合は申請から認可まで一年を超える期間を要したが、火の手は青森に上がり、すぐに秋田に飛び火しました。現実に3000を超える無医村の問題を解決するためには「助け合い病院」が必要だったのです。東京で医療組合を立ち上げた賀川には、東京で旗を上げれば、注目されて全国に広がるという確信がありました。

 中野組合病院は、1932年に新波戸稲造を組合長として、医師12人、看護婦2人、組合加入者515人で発足しました。この病院は、その後賀川を組合長として発展をとげます。戦後に3009坪、310のベッドをもつ大病院になります。現在、組合員は1万6420人、医師看護婦200人に達しています。
 
 組合病院は戦後、JAや生協に引き継がれ、JA厚生連グループは全国115病院を抱える最大の病院グループに発展し、医療生協も病院数77をネットワークする有数のグループとなっています。

 農村医療に尽くし2006年に亡くなった佐久総合病院(JA長野厚生連)の若月俊先生は『若月俊一の遺言』(家の光協会、2007年)の中で賀川の医療分野での業績を高く評価しています。

 1970年の国際協同組合同盟(ICA)のモスクワ大会で元、カナダの協同組合中央会会長のレイドロウ博士が日本の総合農協について高く評価しました。

「日本の農協は、生産資材の供給、農産物の販売をしている。貯蓄信用組織であり、保険の取扱店であり、生活物資のセンターである。さらに医療サービスや、ある地域では、病院での診療や治療なども提供している」

 レイドロウの報告について、若月先生は「わが国の協同組合運動の性格に関して、賀川豊彦の見方『友愛の経済学』を高く評価している。これは私どもが産組(産業組合、現在の農協)の『医療運動史』の中で、賀川先生の役割を高く評価しているのとよく一致する」と述べています。

 若月先生は東大医学部を卒業後、戦争が終わる直前に佐久病院に派遣されますが、賀川の生き方に共感していた先生は後に組合病院とし、佐久の赤ひげを目指します。病院で患者の来るのを待つのではなく、医者や看護婦が農村に出向いて健康管理をすることで疾病を未然に防ぐことを目指しました。この方式が長野県一帯に広がって、長野県は有数の長寿県となったばかりでなく、一人当たり医療費においても日本で最低水準とすることを維持しているのです。

 佐久総合病院は理想を求める医学生が目指す病院の一つとなっていますが。経営はJA長野厚生連の傘下にあります。いわゆる医療法人ではありません。一般的に協同組合病院といっても馴染みがないかもしれませんが、JA厚生連傘下の病院は全国に100カ所を超え、日本生活協同組合連合会傘下の医療生協も116団体、76病院を数えます。日本赤十字や済世会病院系列の病院数も100カ所内外であることからみても、協同組合病院が日本の医療を支える一翼を担っているといっても間違いでありません。

 国際的にも評価されているその組合病院を考え出したのが賀川だったのです。

【追記】

 小泉内閣の時代に株式会社による病院や学校経営が議論となった。そんなことはあり得ないと思っていたが、JA厚生連の病院を数えたら全国約100カ所もあった。医療生協もまた100カ所内外の病院を経営する。

 日本では最大級の病院連合となっている。厚生連に加え日本赤十字(医療施設99カ所)と済世会の3つが日本の大規模な病院経営チェーンである。不思議かもしれないが、どれも医療法人ではない。赤十字は特別法に基づく法人で、済生会は正式には社会福祉法人恩賜財団済生会である

 赤十字は、スイスのアンリー・デュナンが1859年、イタリア統一戦争の激戦地で多くの死傷兵が打ち捨てられているありさまを見て、救護をしたことに始まる運動。デュナンは翌々年に『ソルフェリーノの思い出』という本を出版し、「傷病兵は敵味方なく救護することや各国で救護団体を組織すること」などを訴えた。この訴えがヨーロッパ中で反響を呼び、1864年にスイスを含めた16カ国で赤十字条約が調印された。日本では、1877年の西南戦争の最中に佐野常民と大給恒の両元老院議官がヨーロッパの赤十字にならって博愛社という救護団体が設立した。後の日本赤十字である。

 戦後は日本赤十字法が成立し、この法律に基づく特別な法人となった。名誉総裁は皇后陛下で、名誉副総裁には皇太子殿下、同妃殿下ほか皇室の方々が就任している。

 一方、済生会は1879(明11年)、明治天皇の「済生勅語」により、皇室の御下付金150万円と寄付金を基金として創設された。正式名称は「恩賜財団済生会」である。経済的に恵まれない人々に医療を提供するのが目的だったため、病院の多くは貧困層が多く定住するとされる駅周辺に建てられた。

 戦前は内務省の管轄だったが、現在は「財団」の名が付きながら社会福祉法人として厚生労働省の管轄下にある。総裁は寬仁親王殿下、豊田章一郎会長、炭谷茂理事長の体制で、青森、秋田、岐阜、徳島、高知、沖縄を除く41都道府県で病院や診療所など93カ所を運営している。ちなみに「済生」とは「生命を救うこと」(広辞苑)。
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 済生勅語 朕惟フニ世局ノ大勢ニ随ヒ國運ノ伸張ヲ要スルコト方ニ急ニシテ 經濟ノ状況漸ニ革マリ人心動モスレハ其ノ歸向ヲ謬ラムトス政ヲ為ス者宜ク深ク此ニ鑒ミ倍々憂勤シテ業ヲ勸メ敎ヲ敦クシ以テ健全ノ發達ヲ遂ケシムヘシ若夫レ無告ノ窮民ニシテ醫藥給セス天壽ヲ終フルコト能ハサルハ朕カ最軫念シテ措カサル所ナリ乃チ施藥救療以テ濟生ノ道ヲ弘メムトス茲ニ内帑ノ金ヲ出タシ其ノ資ニ充テシム卿克ク朕カ意ヲ體シ宜キニ随ヒ之ヲ措置シ永ク衆庶ヲシテ頼ル所アラシメムコトヲ期セヨ

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このページは、伴 武澄が2012年2月22日 22:23に書いたブログ記事です。

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