(18)コンツェルン-龍水時計

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P1030437.JPG 戦後、賀川豊彦が埼玉県桜井村に創業した農村時計製作所は、曲折を得てリズム時計に発展します。この会社には技術者養成機関として「時計技術講習所」がありました。全国から農業青年を集めて、時計製作の技術を学ばせ、それぞれの故郷で時計工業を興す夢があったのです。「農村に工業を」「日本を東洋のスイスに」という想いはやがて長野県の北伊那で実現しました。

 小説『幻の兵車』で登場人物の三好克彦に岐阜県で時計工場をつくる夢を語らせる場面があります。三好は主人公、木村蔵像の故郷、岐阜県美濃で語ります。

「木村君、この付近は土地も広いから農村工業を作るには持ってこいだね。僕は年来の理想を、この付近で実現しようと思っている」
「僕は、懐中時計の部分品を、農村の青年の副業にしたいと思っているんだが、この付近なら出来そうだね」

 賀川は農村改革のため、立体農業を推進したが、一方で農家の次男、三男が現金収入を得る場として「農村工業」が不可欠だと考えていました。そのころの工場はすべて都市部に集中し、農村から都市に労働力が流れる結果、スラムが増殖していたのです。

 賀川は長年スラムに住み付き、貧しい人々の生活ぶりを見ていましたから、その実態をつぶさに知っていました。農村に工場ができれば、彼らは都市に流れ出てスラムに住む必要はない。賀川にとって、農村工業という概念はスラム街の防貧対策のひとつでもありました。

 時計技術講習所の第一期の入学生は昭和21年4月から、桜井村に集まります。脱落者もありましたが、2年後に彼らは故郷に帰りました。講習所には長野県の青年が多くいました。岡谷工業という学校の果たした役割が大きかったとされます。その卒業生によって千曲川時計、龍水時計という二つの時計メーカーが生まれました。千曲川は長くは続きませんでしたが、龍水時計は上伊那で雄々しく立ち上がったのです。

 北伊那の辰野町にいま近代時計博物館があります。1996年に野沢和敏さんが自費で建設したものです。2008年9月、博物館を訪ね、野沢さんから話を聞きました。

 野沢さんはリズム時計の役員でサラリーマン生活を終えましたが、実は時計技術講習所の第一期生でもあり、龍水時計の「創業者」の一人でした。岡谷工業高校の3年の秋、父親から講習所の話を聞かされたといいます。父親は地元の農協の幹部でした。北伊那では養蚕が盛んで、伝統的に製糸業は協同組合的に運営されていました。

 北伊那の農協は龍水社といって、製糸工場も経営していました。賀川豊彦の影響を受けていた当時の北原金平社長は本気で時計製造に乗り出す覚悟でいたそうです。野沢さんらが研修を終えて帰郷すると養蚕の建物の一角が「時計工場」としてあてがわれました。

 昭和23年11月、時計づくりが始まります。素人軍団が2年、時計づくりを学び、さっそく生産に取り掛かるのですから、夢多きスタートとでした。野沢さんによれば「工業高校を出たのは僕だけだったから、僕がリーダーになった。工場長のようなものだった」。生産の準備を段取りする一方で、掛け時計の「設計」が続けられました。部品づくりのため近隣に10の工場が立ち上がったそうです。

 時計の部品をつくるため、伸銅が必要でした。銅がないので高射砲の薬莢を「くず屋」から買ってきます。これを近くの伸銅工場に持っていって「銅板」にしてもらいます。機械類は桜井の工場からの払い下げが主で足りない分は東京で調達しました。すべてが手作りだったそうです。

「講習所の先生たちは東大の先生だったり、精工舎の元技術者たちだったから、講義のレベルは相当高かったはず。われわれは恵まれていた。単なる座学ではなく、隣の工場で実地に研修もしたから時計づくりにな自信があった」

 野沢さんの回顧によると「時計はできた。動くには動いたが、日常的使用には耐えられなかった。北原さんには『故障する時計は売るな』と厳命された。だから商品になるのに結局2年もかかった。北原さんはよく我慢してくれたのもだと思う」
「われわれは意気盛んだったから、どこにもない時計とつくろうと励んだ。中三針方式の時計はまだ日本にはなかったから、これを目指した。時針、分針、秒針の3本が重なったものだ。次は30日巻。これはセイコーと愛知時計と龍水社しかつくれなかったが、難しすぎて試作品はお蔵入りとなった」

 昭和30年には龍水時計の生産した掛け時計が通産大臣賞に輝きます。役人が工場見学にやってきて「土間でのままの工場にびっくりしていた」そうです。賀川はこれを海外「東南アジア協同組合会議」にまで持って行き、「これは日本の農民がつくりあげた時計だ!」と演説して廻りました。

 そんな龍水時計の試行錯誤が20年以上続いた後、龍水時計はリズム時計の傘下に入ります。経営が悪化したからではありません。海外進出を図ろうとしたが、北伊那には人材が不足していたからでした。北伊那での生産は2007年まで続き、生産は中国に移管されて工場の役割は終わりました。

 野沢さんに信州に精密工業が集積した理由を聞きました。龍水時計の役割は決して小さくないが、機械工業技術者を育てた岡谷工業高校の存在は大きいと答えています。学校と協同組合思想、そして向上心の高い農民が「日本のスイス」を育てたのです。

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このページは、伴 武澄が2012年2月 4日 21:58に書いたブログ記事です。

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