2012年2月アーカイブ

P1030437.JPG 戦後、賀川豊彦が埼玉県桜井村に創業した農村時計製作所は、曲折を得てリズム時計に発展します。この会社には技術者養成機関として「時計技術講習所」がありました。全国から農業青年を集めて、時計製作の技術を学ばせ、それぞれの故郷で時計工業を興す夢があったのです。「農村に工業を」「日本を東洋のスイスに」という想いはやがて長野県の北伊那で実現しました。

 小説『幻の兵車』で登場人物の三好克彦に岐阜県で時計工場をつくる夢を語らせる場面があります。三好は主人公、木村蔵像の故郷、岐阜県美濃で語ります。

「木村君、この付近は土地も広いから農村工業を作るには持ってこいだね。僕は年来の理想を、この付近で実現しようと思っている」
「僕は、懐中時計の部分品を、農村の青年の副業にしたいと思っているんだが、この付近なら出来そうだね」

 賀川は農村改革のため、立体農業を推進したが、一方で農家の次男、三男が現金収入を得る場として「農村工業」が不可欠だと考えていました。そのころの工場はすべて都市部に集中し、農村から都市に労働力が流れる結果、スラムが増殖していたのです。

 賀川は長年スラムに住み付き、貧しい人々の生活ぶりを見ていましたから、その実態をつぶさに知っていました。農村に工場ができれば、彼らは都市に流れ出てスラムに住む必要はない。賀川にとって、農村工業という概念はスラム街の防貧対策のひとつでもありました。

 時計技術講習所の第一期の入学生は昭和21年4月から、桜井村に集まります。脱落者もありましたが、2年後に彼らは故郷に帰りました。講習所には長野県の青年が多くいました。岡谷工業という学校の果たした役割が大きかったとされます。その卒業生によって千曲川時計、龍水時計という二つの時計メーカーが生まれました。千曲川は長くは続きませんでしたが、龍水時計は上伊那で雄々しく立ち上がったのです。

 北伊那の辰野町にいま近代時計博物館があります。1996年に野沢和敏さんが自費で建設したものです。2008年9月、博物館を訪ね、野沢さんから話を聞きました。

 野沢さんはリズム時計の役員でサラリーマン生活を終えましたが、実は時計技術講習所の第一期生でもあり、龍水時計の「創業者」の一人でした。岡谷工業高校の3年の秋、父親から講習所の話を聞かされたといいます。父親は地元の農協の幹部でした。北伊那では養蚕が盛んで、伝統的に製糸業は協同組合的に運営されていました。

 北伊那の農協は龍水社といって、製糸工場も経営していました。賀川豊彦の影響を受けていた当時の北原金平社長は本気で時計製造に乗り出す覚悟でいたそうです。野沢さんらが研修を終えて帰郷すると養蚕の建物の一角が「時計工場」としてあてがわれました。

 昭和23年11月、時計づくりが始まります。素人軍団が2年、時計づくりを学び、さっそく生産に取り掛かるのですから、夢多きスタートとでした。野沢さんによれば「工業高校を出たのは僕だけだったから、僕がリーダーになった。工場長のようなものだった」。生産の準備を段取りする一方で、掛け時計の「設計」が続けられました。部品づくりのため近隣に10の工場が立ち上がったそうです。

 時計の部品をつくるため、伸銅が必要でした。銅がないので高射砲の薬莢を「くず屋」から買ってきます。これを近くの伸銅工場に持っていって「銅板」にしてもらいます。機械類は桜井の工場からの払い下げが主で足りない分は東京で調達しました。すべてが手作りだったそうです。

「講習所の先生たちは東大の先生だったり、精工舎の元技術者たちだったから、講義のレベルは相当高かったはず。われわれは恵まれていた。単なる座学ではなく、隣の工場で実地に研修もしたから時計づくりにな自信があった」

 野沢さんの回顧によると「時計はできた。動くには動いたが、日常的使用には耐えられなかった。北原さんには『故障する時計は売るな』と厳命された。だから商品になるのに結局2年もかかった。北原さんはよく我慢してくれたのもだと思う」
「われわれは意気盛んだったから、どこにもない時計とつくろうと励んだ。中三針方式の時計はまだ日本にはなかったから、これを目指した。時針、分針、秒針の3本が重なったものだ。次は30日巻。これはセイコーと愛知時計と龍水社しかつくれなかったが、難しすぎて試作品はお蔵入りとなった」

 昭和30年には龍水時計の生産した掛け時計が通産大臣賞に輝きます。役人が工場見学にやってきて「土間でのままの工場にびっくりしていた」そうです。賀川はこれを海外「東南アジア協同組合会議」にまで持って行き、「これは日本の農民がつくりあげた時計だ!」と演説して廻りました。

 そんな龍水時計の試行錯誤が20年以上続いた後、龍水時計はリズム時計の傘下に入ります。経営が悪化したからではありません。海外進出を図ろうとしたが、北伊那には人材が不足していたからでした。北伊那での生産は2007年まで続き、生産は中国に移管されて工場の役割は終わりました。

 野沢さんに信州に精密工業が集積した理由を聞きました。龍水時計の役割は決して小さくないが、機械工業技術者を育てた岡谷工業高校の存在は大きいと答えています。学校と協同組合思想、そして向上心の高い農民が「日本のスイス」を育てたのです。
works03_image01-thumb-250x133-257.jpg 賀川豊彦は1914年から1917年にかけてアメリカのプリンストン大学に留学します。アメリカから帰国した賀川を余人が真似できないのは神戸の貧民窟 に帰るところです。賀川は社会活動を再開するのですが、その活動は質的に大きく変化します。新川の賀川の救霊団はイエス団と名前が変わっていましたが、そ れまでの「救貧」から「防貧」へと転換します。それまでの慈善的活動からどうしたら貧困から脱出できるか社会を変革する活動です。まずは購買組合、いまの 生活協同組合を手掛け、ついで労働運動にのめり込み、農民組合の組織化に転じます。

 賀川の労働組合運動については多くが語られていま す。川崎・三菱造船の争議を指導し、約3万5000人のデモを組織しますが、結局、失敗に終わります。デモが暴動に発展し、賀川が最も嫌った「暴力」につ ながってしまいます。賀川自身も長期間の拘留を受けることになります。ロシア革命は1917年、ロマノフ王朝を倒します。その勢いは全世界に広がります。 日本も例外ではありませんでした。組合運動の指導方針をめぐって穏健派の賀川は革命を目指す実力行使派に敗れてしまいます。その後、賀川は組合運動から農 民運動に転じます。共産主義を農村に広げてはならないという信念が背景にありました。

 購買組合運動については、1919年、大阪市東区 農人橋に有限責任購買組合共益社を設立、1920年には神戸購買組合、21年に灘購買組合を相次いで設立します。神戸購買組合と灘購買組合はそれぞれ消費 組合、生活協同組合と名称を変えて、後に合併して現在のコープこうべへと発展します。組合員数140万人、年間売上高2600億円を超える賀川が21世紀 に遺した最大の事業です。

 売上高2600億円というのはあくまで兵庫県での数字です。協同組合は基本的に県単位で設立されている点を考慮すれば、地域でダントツの流通業といえましょう。流通一大定刻を築いたかつてのダイエーも神戸ではコープにかなわないとさじを投げたのです。

  賀川はイギリスのロッチデールやドイツのライファイゼンにならって、労働者が助け合って販売したり、生産したりすれば搾取のない社会が作れると考えまし た。日本では1900年にすでに産業組合法が出来ていて、その当時、協同組合が多く設立されていましたが、ほとんどが失敗に終わっています。賀川はもう一 度、協同組合に社会改造を託したのです。

 灘購買組合設立では面白いエピソードがあります。初代組合長になった那須善治という人物です。 仲買人として第一次大戦で成り金となりますが、本人はいたって質素な生活をしていました。大阪で東京海上保険の専務をしていた平生釟三郎に社会に役立ちた いと相談します。平生は岐阜県の出身ですが、甲南学園を創設者し、後に広田弘毅内閣の文部大臣にもなります。平生はそれなら新川の賀川に話を聞いたらいい とアドバイスします。那須はさっそく賀川のもとを訪ねます。賀川は那須にこういいました。

「那須さん、そのお金を貧しい人々への慈善事業 に使うのもいいでしょう。しかし、慈善事業はデキモノに膏薬を貼るようなものです。膏薬を貼ってデキモノは治るかもしれませんが、また別のところにデキモ ノが出てきます。それよりも、デキモノができないような体質をつくることに使ったらどうでしょう」といって購買組合、つまり生活協同組合の設立を勧めま す。

 日本の流通産業史からみてもこの二つの生協はユニークな歴史を残しています。発足当時の神戸購買組合は店舗を持ちませんでした。「御用聞き」が組合員の家を回って注文をとっていました。

  1931年にようやく葺合区塚通の本部に商品陳列室を設けて約30種類500品目の取扱商品を展示して組合員に紹介できるようになりました。本格的な店舗 は六甲支部に1933年、百貨店方式の店舗を開設したということです。灘購買組合は1931年、芦屋出張所に日本初のセミ・セルフ店舗を開設し、アメリカ で誕生したスーパーストアの形式をいち早く導入したのです。計量も伝票書き込みも組合員任せで商品のロスが出てやむなく中止となりましたが、1950年に 神戸生協がスーパーマーケット式店舗を開設、1957年に灘生協がセルフサービス店「芦屋フードセンター」を開店しました。中内功さんが主婦の店ダイエー 1号店となる千林店を始めたのが19577年9月です。ですからスーパーストア方式を日本で最初に導入したのはダイエーではなく、コープこうべの前身だっ た神戸生協だったといっていいのかもしれません。。

 戦前、日本には多くの生協がありましたが、第二次大戦を乗り越えたのはこの二つの生協と福島生協だけだったといわれています。賀川創設した大阪の共益社と本所の江東消費組合は戦災で消失し、戦後の復興はなりませんでした。賀川、戦後も協 同組合運動に力を入れ、現在の日本生活協同組合連合会の母体となる日本協同組合連盟を設立し、全国的規模での生協設立を促しました。賀川豊彦が「生協の 父」といわれるゆえんです。

ryutuuriage.jpg 同じ流通業界の百貨店とスーパーの2008年度の経営を比較してみましょう。日本百貨店協会の統計では90 社278店舗で4兆6958億円。日本チェーンストア協会の統計では70社8056店舗で13兆17033億円、コンビニの日本フランチャイズチェーン協 会の統計では4万7114店舗で7兆8566億円となっています。

  一方、日生協の2008年度の会員数は2532万人、総事業高は3兆4114億円となっています。百貨店やスーパーの売上高と比較して、日生協の売上高は 日本の消費の一翼を担っていることが分かると思います。しかし、残念ながら、監督官庁が厚生労働省ということで「経済」の範疇としてとらえられていませ ん。生協はあくまで国民の福利厚生でしかないのです。監督官庁が農水省であるJAも同じ扱いです。賀川が生きていれば、最も嘆くところでしょう。協同組合 は日本の経済統計からすっぽりと抜け落ちていることを指摘せざるを得ません。

 目をヨーロッパに転じてみましょう。組合員数や事業規模で いえば、日本の生協は世界で圧倒的な大きさとなっていますが、ほーロッパ諸国人口や経済規模からいって存在感は日本よりも大きいといえそうです。たとえ ば、スイスにはミグロとコプスイスという二大生協グループがありますが、食品小売りの45%も占めていて、国民経済と暮らしに占める生協の比率は非常に高 いものがあります。イタリアの生協の総売上は同国の小売業でトップと抜群の存在感である。グローバル経済の進展で、欧米での生協は流通大手企業にシェアを 食われつつあるというのが実態ですが、北欧や東欧を中心に中堅の流通業としてまだまだ存在感を失っていません。

 そんな生協を90年前に関西に開業した実業家が賀川だったという評価をしたいのです。

 ニューラナークのオーエン

 2004年6月に一週間ほど南スコットランドを歩きました。賀川の協同組合運動のモデルとなったロバート・オーエンの工場経営を学ぶために、グラスゴー郊外のニューラナークを訪ねたのです。いまでは世界遺産に登録されています。

  ニューラナークはスコットランド最大の河川であるクライド川の渓谷沿いの寒村で、200年以上前の当時としてはイギリス最大の紡績工場と従業員の生活をよ みがえらせています。いまでは渓谷は緑の木々におおわれ、水の音と鳥のさえずりだけが静寂を破る、空気がとてもおいしい場所でした。

  ニューラナークの歴史は220年前にさかのぼります。紡績機械を発明したリチャード・アークラウトとグラスゴーの銀行家デイビット・デイルがこの地にやっ てきて「ここほど工場用地として適した場所はない」といって周辺の土地を購入し、1785年に紡績工場を立ち上げました。ワットが蒸気機関を発明したのは 1765年。狭い渓谷を流れる水流がまだ動力の中心だった時代のことですが、イングランドのマンチェスターはすでに繊維産業の町として名を馳せていまし た。

 ニューラナークが世界的に知られるようになったのはデイルの娘婿となったロバート・オーエンが1800年に事業を引き継いでからで す。オーエンはまず従業員の福利厚生のために工場内に病院を建設しました。賃金の60分の1を拠出することで完全無料の医療を受けることができました。現 在の医療保険のような制度をスコットランドの片隅で考え出したのです。

 19世紀の繊維工場は蒸気とほこりにまみれ、労働と疾病は隣り合わせでした。日本でも初期の倉敷紡績が東洋最大の病院を工場に併設したことはいまも語り継がれていますが、その100年も前にオーエンは従業員の福利厚生という発想を取り入れていました。

  次いで取り組んだのが児童への教育でした。当時の多くの紡績工場では単純作業が多く安い賃金で雇用できる子どもたちが労働力の中心だったのです。子どもと いっても6歳だとか7歳の小学校低学年の児童も含まれていました。オーエンは10歳以下の児童の就労を禁止し、彼らに読み書きそろばんの初等教育をさずけ ました。

 1816年の記録では、学校に14人の教師と274人の生徒がいて、朝7時半から夕方5時までを授業時間としました。家族そ ろって工場で働いていた時代ですから、学校に子どもたちを預けることによって母親たちは家庭に気遣うことなく労働に専念できるという効果もありましたが、 当時、児童の就労禁止を打ち出したことでさえ画期的なことでした。

 オーエンの教育でユニークだったのは、当時のスコットランドで当たり 前だった体罰を禁じたことでした。さらに五感を育むために歌やダンスなども取り入れました。当時、音楽などを教えていたジェームス・ブキャナン先生は ニューラナークでの教職について「人生の大きな転機をもたらしてくれた。金持ちや偉人になるといった欲求を捨てて、誰かの役に立つことで満足するように なった」と語っています。オーエンの学校にそういう雰囲気があり、教師たちも感化されたのでしょう。

 オーエンはイギリス各地で起きてい た労働者(特に児童)の搾取や悲惨な労働環境を目の当たりにし、「そうした環境では、不平を抱いた効率の悪い労働力しか生まれない。優れた住環境や教育、 規則正しい組織、思いやりある労働環境からこそ、有能な労働者が生まれる」という考えにたどり着きました。19世紀の弱肉強食の時代に、福祉の向上こそが 経済効率につながるという理念に到達していたのでした。

 それから100年以上もたった1925年にロンドンの町を訪れた社会改革者の賀 川豊彦は工場労働者が劣悪な環境で働いているのに驚きました。日本と変わらないスラムが町外れに多く形成されていました。日本でもロンドンでもスラムは貧 困と不衛生、そして犯罪の巣窟となっていたのです。

 チャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』や『二都物語』の世界が20世紀のロンドンにも厳然として残っていました。

  オーエンはニューラナークでの実践活動を理論化した『新社会観-人間性形成論』を書き、国内外を回り、議会や教会関係者から経済学者まで広く工場の労働条 件改善の必要を説きました。またニューラナークでの「実践」を通して国内外で多くの理解者を得ました。そして彼の経済理論は1820年の『ラナーク住民へ の講演』で社会主義的発想へと一気に昇華したのです。この講演でオーエンは「生産者自らが生み出したすべての富について、公平で一定の割合の配分を受けら れる必要がある」と語りかけました。工場の福利厚生の改善だけでは満足できず「社会変革」の必要性まで打ち出したのでした。

 オーエンが その後、あまた排出する思想家や経済学者たちと一線を画し、200年後のわれわれに感動を与えるのは彼が「偉大な実践者」であったということです。賀川豊 彦が100年前にスラムに飛び込み貧困と病気、さらに犯罪と戦いながら、貧困救済事業を立ち上げて名声を勝ち取った経緯と重なる部分が多くあるのです。

 ロバート・オーエンは企業経営に関わる富の社会還元の手法を多く残しました。地域通貨や労働組合などもそうですが、どうしても忘れられないのは協同組合的店舗経営です。

 協同組合は1844年代にマンチェスター郊外のロッチデールで始まったものとばかり思っていましたが、ロッチデールの人々が参考にしたのは実は、ニューラナークにあった企業内店舗の在り方だったのです。

  200年前の商人たちはどこでも相当にあこぎだったようです。オーエンによれば、村の店で売っていた商品といえば「高くて質が劣悪。肉だったら骨と皮に毛 の生えた程度のものばかり」だったのです。村民の人たちはほかに店がないことをいいことに劣悪な品質のものを高い価格で買わされていました。しかも多くの 商いが掛け売りだったため、村の人々の借金はたまる一方でした。

 そうした状況は100年前の日本でも同じでした。日本の文学にはそうし たあこぎな商売というものはあまりでて来ませんが、賀川豊彦の多くの小説には貧乏人が労働を通じて搾取されるだけでなく、購買を通じても対価に見合った商 品が販売されていないことがこと細かく書かれています。オーエンや賀川が昨今の流通業界の価格破壊の状況を見たら卒倒するに違いありません。

  ニューラナークの人々を救済するためのオーエンの答えは工場内に自らの購買部を設立することでした。そして「生活必需品と生活のぜいたく品、そしてお酒も 必要」と考えました。お酒についてオーエンは比較的寛容でした。酔った状態で勤務することは当時の工場では自殺行為に等しかったのですが、適度の飲酒は生 活のぜいたくの一つと考えていたようでした。

 1813年、オーエンは工場敷地内のほぼ真ん中に三階建ての店舗を開設。工場経営者として の地位を利用して卸売りから安く大量に仕入れ、村の店のほぼ2割安の価格で販売しました。販売したのは、食料や調味料、野菜、果物といった生活必需品だけ でなく、食器や石鹸、石炭、洋服、ろうそくなどなんでもありました。

 この建物は現存していますが、当時の一般的な消費動向や2500人という工場の人口からすればとてつもなくおおきな店舗だったはずです。

  ニューラナークでの賃金はほかと比べて高いというわけではありませんでしたが、当時、村を訪れたロバート・サウジーの報告によると「一家で週2ポンド (40シリング)稼いだとしてラナークで住むことによって10シリングほど生活費は安くてすんだ」そうなのです。つまりお金の価値を高めたのです。

 やがて、村人の借金はなくなり、あこぎな店も村からなくなくなりました。そして店舗であがった利益は前回書いた児童教育に注ぎ込まれました。

  労働者の生活改善というオーエンの発想は、多くの人々に刺激を与えました。そして彼の協同組合的考え方を発展させた人々をオーエニーズと呼ばれたのです。 ロッチデールの織物労働者によって1830年から試行錯誤が続けられ、1844年、13人のメンバーによってようやく「ロッチデール・エクィタブル・パイ オニア・ソサエティー」設立にこぎつけました。彼らは毎週2ペンスずつを1年間にわたって貯蓄して28ポンドの資金を集めました。

 10ポンドで10坪ほどの店舗を3年間契約で借り受け、16ポンド11シリングでオートミール、小麦粉、バター、砂糖、ろうそくを仕入れ、商いを始めました。初日の商いが終わってみると彼らは22ポンドの利益を手にしていました。

  彼らの当初の目的は、普通の人々がお金の価値に見合った商品を購入できることにありました。そして彼らはこの新しい購買組織の5原則を約束し合ったので す。この時決まった(1)入・脱会の自由(2)一人一票という民主的組織運営(3)出資金への利子制限(4)剰余金の分配(5)教育の重視-

という5原則は現在の生協運動でも掲げられているものです。

 ロッチデールで始まった小さな試みはやがてイギリス全土に広がり、国境を越えて拡大しました。
 今も賀川精神を受け継ぐ金融機関があります。中ノ郷信用組合です。弱った信用組合を引き受けるうちに大きくなりました。戦後、金融制度の改革で多くの信用組合が信用金庫に改組しました。組合員に対する貸し出しを中心とする点では大差はありませんが、格が上になった気分になるのです。中ノ郷は以前から十分に信用金庫に格上げできる経営基盤を確立していますが、あくまで信用金庫のままで満足しています。

yokinryo.jpg 日本には都市銀行、第二都銀(旧相互銀行)、地方銀行、信金、信組、農協・・・、多くの業態があります。役割はそれぞれ違うため業態が違うのですが、いまでは同じような金融業務を行っています。面白いのは、たとえば僕が住んでいる高知県には都市銀行はひとつしかありません。みずほ銀行だけです。みずほ銀行はもともとは国策会社だった日本勧業銀行を母体としています。明治期、勧業は農業を意味していました。ですから各県に支店を持っていたのです。地方都市に行くと都市銀行の存在はものすごく薄いのです。逆に信金、信組の役割が大きくなっています。意外と知られていない日本の金融の実態です。

 たとえば大都市の京都でも市民に一番親しまれているのが京都中央信金です。京都市内では地銀の京都銀行よりも存在感があるのです。みんな「チュウシン」と親しんでいます。預金量も4兆円を超え国内最大の信金となっています。協同組合金融が株式会社と対等に勝負しているのはどうしてなのか考えなければなりません。こういったことは東京に住んでいては分かりません。

 中ノ郷の前の理事長さんに話を聞いたことがあります。東京のような大都会でどうして信組が成り立つのか聞きましたら、「中ノ郷はバブルのとき、都銀のように土地に融資しませんでした。また融資する場合でも、顔の見える範囲でお金を貸します。土地を担保に取ることも少ないので、担保価値が下がることによって中ノ郷のバランスシートが崩れることはありませんでした」

 さすがに賀川たちが設立した金融機関だと思いました。

 中之郷の50年史を見ますと、やはり特徴のある人々が歴代の経営中枢にいることが分かります。初代の理事長は田川大吉郎さんといって明治学院大学の総理(学長)だった方です。二代目は木立。三代目は奥平定蔵でした。

 そもそも、中之郷は質屋から始まりました。関東大震災後に本所で救済活動をしていた賀川を訪ねたのが質屋を経営していた奥平でした。

「関東大震災の社会大混乱のなかで、質屋業者があまりに不当な高金利で庶民階級を圧迫するのをみて義憤を感じ、同志と計って質屋改善連盟をおこし、業者の覚醒を促した。また一方では、有限責任北豊島消費購買組合を設立し、スローガンに『団結は力なり』『消費者の団結は新社会を生む』」とし、これを大きく掲げて協同組合の理想の実現に努力した。賀川が本所基督教産業青年会を設立して社会事業に精進しているとき、奥堂は訪ねていった。その目的は、日本における産業組合の運動をいかに実践に移すかということを問うためであった」(中ノ郷信用組合五十年史、1979年)

 奥平のアイデアは真面目な質屋を本所で経営したいというものでした。

 森静朗・元日大教授は信用組合について「運動として、大資本に対抗し、或は高利貸からの収奪から逃れるために弱い者同志が集って、一つ一つは弱いけれども、集って力となった場合には大きな爆発力になるとの発想があった」(賀川豊彦学会論叢創刊号「賀川と信用組合理論と実践」1985年)と言っています。

「賀川と信用組合理論と実践」ではまた次のようにも書いています。「商業銀行は古今東西を問わず、庶民の汗水の結品である資金を自らの手に戻すことなく、大企業、大資本のための資金の供給源となってしまう。自分達の資金がなぜ、自分達で利用できないのか、つねに自分達が日陰であってよい筈はない。自分達の資金を自分達の手にひきもどせというねがいが、信用組合運動になり、広く自分達と同じ弱い立場にある者が呼びかけ合い、相互に手をにぎり合おうとして展開して行ったのが、信用組合運動でもあった」

 いま、多くの協同組合金融は存在感が薄れていると思われがちですが、地方ではなかなか健闘しているのです。信金、信組と労金を合わせると郵貯の預金量に匹敵し、農協を加えると都銀の合計額に迫っていることを覚えて置いてください。

 
399.JPG 購買組合の次に手がけたのが、組合病院の経営でした。賀川が新川の貧民窟で診療所を開設して無料で貧しい人たちの病気を治したことは話しました。当時、貧困と病気は隣り合わせでした。貧しいから無理をする。無理をするから病気になったり、けがをしたりしやすい。でも医者にかかるお金がない。医者にかかれないから病気がひどくなり働けなくなる、そうすると貧しい人はますます窮地に陥る。

 そんな連鎖を断ち切るために賀川は組合病院を考えたのです。関東大震災の直後のことです。東京市に申請しましたが、医師会の猛反対に遭います。医療保険という概念すらない時代です。

 組合病院は賀川の独自の発想ではありませんでした。賀川が設立を考えていたとき、青森や秋田ではすでに組合病院設立に向けて運動が起きていました。

 組合病院は、日々の賃金の中から会費のように積み立てておけば、いざという時に安い医療費で医者にかかれるというシステムです。現在の医療保険の先駆け的システムといえましょう。国際連盟の事務局次長の職を辞して帰国したばかりの新渡戸稲造も全面的にバックアップしてくれて、1932年にようやく協同組合病院の認可が下り、現在の東京医療生活協同組合中野総合病院が設立されます。

 同病院のホームページの沿革には「中野総合病院は、昭和7年5月27日、故新渡戸稲造博士(旧5千円紙幣の肖像)・故賀川豊彦氏等の主唱によって創立された、日本で最初の医療利用組合の病院です」としか紹介されていませんが、労働者の出資金によって設立された病院は世界的にも特異な存在なのです。

 賀川豊彦は社会運動家として名を成しましたが、一方で社会の仔細な観察者でもありました。自分の目で見た社会を克明に観察し、それを文章として残したライターでもあったのです。20歳代に書いた『貧民心理の研究』は後に「差別書」として批判の対象となりますが、スラムに住む貧民の生活実態を報告した数少ない書の一冊であり、今考えれば貴重な歴史資料であることはまぎれのない事実です。40歳代で書いた『医療組合論』(全国医療利用組合協会、1936年4月)は戦前の医療制度が大きく変わる変遷を描いた時代史もあります。医療関係者にとって必読の書であると信じています。

 昭和30年代に医療組合が「燎原の火」のごとく全国に拡大していきました。きっかけは賀川の中野組合病院の設立でした。当時の社会問題はまさしく農村の貧困と疾病であります。日本が満州に進出し軍国化する中で少壮の陸軍士官たちがクーデターまで図った背景には見捨てられた農村がありました。政府の多くの官僚たちが直面する問題に手をこまねいている間、賀川は勇敢にも医師会を敵に回しながらも医療組合論をぶち上げ、率先して東京で医療組合の設立に奔走しました。

 賀川の医療組合は申請から認可まで一年を超える期間を要したが、火の手は青森に上がり、すぐに秋田に飛び火しました。現実に3000を超える無医村の問題を解決するためには「助け合い病院」が必要だったのです。東京で医療組合を立ち上げた賀川には、東京で旗を上げれば、注目されて全国に広がるという確信がありました。

 中野組合病院は、1932年に新波戸稲造を組合長として、医師12人、看護婦2人、組合加入者515人で発足しました。この病院は、その後賀川を組合長として発展をとげます。戦後に3009坪、310のベッドをもつ大病院になります。現在、組合員は1万6420人、医師看護婦200人に達しています。
 
 組合病院は戦後、JAや生協に引き継がれ、JA厚生連グループは全国115病院を抱える最大の病院グループに発展し、医療生協も病院数77をネットワークする有数のグループとなっています。

 農村医療に尽くし2006年に亡くなった佐久総合病院(JA長野厚生連)の若月俊先生は『若月俊一の遺言』(家の光協会、2007年)の中で賀川の医療分野での業績を高く評価しています。

 1970年の国際協同組合同盟(ICA)のモスクワ大会で元、カナダの協同組合中央会会長のレイドロウ博士が日本の総合農協について高く評価しました。

「日本の農協は、生産資材の供給、農産物の販売をしている。貯蓄信用組織であり、保険の取扱店であり、生活物資のセンターである。さらに医療サービスや、ある地域では、病院での診療や治療なども提供している」

 レイドロウの報告について、若月先生は「わが国の協同組合運動の性格に関して、賀川豊彦の見方『友愛の経済学』を高く評価している。これは私どもが産組(産業組合、現在の農協)の『医療運動史』の中で、賀川先生の役割を高く評価しているのとよく一致する」と述べています。

 若月先生は東大医学部を卒業後、戦争が終わる直前に佐久病院に派遣されますが、賀川の生き方に共感していた先生は後に組合病院とし、佐久の赤ひげを目指します。病院で患者の来るのを待つのではなく、医者や看護婦が農村に出向いて健康管理をすることで疾病を未然に防ぐことを目指しました。この方式が長野県一帯に広がって、長野県は有数の長寿県となったばかりでなく、一人当たり医療費においても日本で最低水準とすることを維持しているのです。

 佐久総合病院は理想を求める医学生が目指す病院の一つとなっていますが。経営はJA長野厚生連の傘下にあります。いわゆる医療法人ではありません。一般的に協同組合病院といっても馴染みがないかもしれませんが、JA厚生連傘下の病院は全国に100カ所を超え、日本生活協同組合連合会傘下の医療生協も116団体、76病院を数えます。日本赤十字や済世会病院系列の病院数も100カ所内外であることからみても、協同組合病院が日本の医療を支える一翼を担っているといっても間違いでありません。

 国際的にも評価されているその組合病院を考え出したのが賀川だったのです。

【追記】

 小泉内閣の時代に株式会社による病院や学校経営が議論となった。そんなことはあり得ないと思っていたが、JA厚生連の病院を数えたら全国約100カ所もあった。医療生協もまた100カ所内外の病院を経営する。

 日本では最大級の病院連合となっている。厚生連に加え日本赤十字(医療施設99カ所)と済世会の3つが日本の大規模な病院経営チェーンである。不思議かもしれないが、どれも医療法人ではない。赤十字は特別法に基づく法人で、済生会は正式には社会福祉法人恩賜財団済生会である

 赤十字は、スイスのアンリー・デュナンが1859年、イタリア統一戦争の激戦地で多くの死傷兵が打ち捨てられているありさまを見て、救護をしたことに始まる運動。デュナンは翌々年に『ソルフェリーノの思い出』という本を出版し、「傷病兵は敵味方なく救護することや各国で救護団体を組織すること」などを訴えた。この訴えがヨーロッパ中で反響を呼び、1864年にスイスを含めた16カ国で赤十字条約が調印された。日本では、1877年の西南戦争の最中に佐野常民と大給恒の両元老院議官がヨーロッパの赤十字にならって博愛社という救護団体が設立した。後の日本赤十字である。

 戦後は日本赤十字法が成立し、この法律に基づく特別な法人となった。名誉総裁は皇后陛下で、名誉副総裁には皇太子殿下、同妃殿下ほか皇室の方々が就任している。

 一方、済生会は1879(明11年)、明治天皇の「済生勅語」により、皇室の御下付金150万円と寄付金を基金として創設された。正式名称は「恩賜財団済生会」である。経済的に恵まれない人々に医療を提供するのが目的だったため、病院の多くは貧困層が多く定住するとされる駅周辺に建てられた。

 戦前は内務省の管轄だったが、現在は「財団」の名が付きながら社会福祉法人として厚生労働省の管轄下にある。総裁は寬仁親王殿下、豊田章一郎会長、炭谷茂理事長の体制で、青森、秋田、岐阜、徳島、高知、沖縄を除く41都道府県で病院や診療所など93カ所を運営している。ちなみに「済生」とは「生命を救うこと」(広辞苑)。
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 済生勅語 朕惟フニ世局ノ大勢ニ随ヒ國運ノ伸張ヲ要スルコト方ニ急ニシテ 經濟ノ状況漸ニ革マリ人心動モスレハ其ノ歸向ヲ謬ラムトス政ヲ為ス者宜ク深ク此ニ鑒ミ倍々憂勤シテ業ヲ勸メ敎ヲ敦クシ以テ健全ノ發達ヲ遂ケシムヘシ若夫レ無告ノ窮民ニシテ醫藥給セス天壽ヲ終フルコト能ハサルハ朕カ最軫念シテ措カサル所ナリ乃チ施藥救療以テ濟生ノ道ヲ弘メムトス茲ニ内帑ノ金ヲ出タシ其ノ資ニ充テシム卿克ク朕カ意ヲ體シ宜キニ随ヒ之ヲ措置シ永ク衆庶ヲシテ頼ル所アラシメムコトヲ期セヨ

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