(17)コンツェルン-農村時計製作所

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rhythm.jpg 賀川の関する多くの伝記や研究は社会運動家としての賀川豊彦として描かれています。大宅荘一が書いたように「運動と名のつくもののほとんどが賀川に端を発している」ことは事実であろうと思いますが、長年、経済記者として過ごした筆者にとっての賀川は貧民のためのコングロマリット、あるいはコンツェルンを築こうとしたのが賀川豊彦ではないかと考えています。

 賀川の長男の純基氏がまとめた賀川豊彦事業展開図にはとんでもない数の「企業」が登場します。そうした事業は賀川一人で行ったものではありませんが、賀川が旗振り役になった企業の少なくないのです。一番驚いたのは、リズム時計の歴史でした。

 日本には、セイコーの服部時計店とシチズンという大きな時計企業がありますが、目覚まし時計ではリズム時計が健闘しています。そのリズム時計の創業者が賀川豊彦だといったら誰もが驚くと思います。リズム時計の前身は農村時計製作所といって、賀川がいなければ生まれていない会社だったのです。

 また、高崎ハムもまた、賀川豊彦と非常に縁の深い企業の一つですし、コープこうべ、共栄火災海上保険、中之郷信用組合、中野総合病院、平和学園、生協から、保険、金融、病院、学校と社会に不可欠な組織を次から次へと構築していきます。

 昭和21年3月30日の埼玉新聞は「南桜井が"時計の村" 月産6万個の目覚ましを輸出」と題して驚きをもって賀川の始めた事業を紹介しています。

 賀川豊彦氏多年提唱の「農村と機械工業の合一」がいよいよ北葛飾南桜井村に全国農業会の後援によって実現することになった。即ち南桜井裏の服部時計工場は数百万円を投じた巨大な施設と数千の工員を擁しながら終戦後、此處数ケ月を何等の方面にも転用されず無為に過ごして来たが、今回全国農業会の幹部柳川宗左衛門氏等の手によって『農村時計製作所』として新発足することになったもので同工場操業の暁は、三千工員を収容、月産6万個の目覚時計を生産する計画であり、生産品は大部分、食糧品輸入の見返り物資及び賠償品として重要な役割を果たす訳である。
 同工場は最初賀川豊彦氏指導のもとに、農村に精密機械工業を普及する目的を以て『農村時計学校』として出発する筈であったが、都合上企業の形体を取ったもので将来は同氏指導の下に埼葛地方を『時計の村』化する計画でこれが実現すれば、農閑期の余剰労力の活用は勿論、傷病軍人等の更生施設としても寄与する所が大きく世人の期待する處は大きい。
 なほ操業開始は4月下旬で第一回の生業出荷は7月下旬か、8月上旬の見込みである。

 現在の農協の原形をつくったのは賀川豊彦でした。1922年、福島県でキリスト教の伝道の傍ら農業指導をしていた杉山元治郎と日本農民組合を大阪で結成しました。小作料の引き下げなど農民の立場から団結して地主に対抗。250人で始まった運動は3年後には7万人以上の組織へと成長したのです。

 賀川は農民の社会的自覚を促す目的で農民福音学校を経営しました。デンマークのフォルケ・ホイスコーレに倣ったもので、農閑期に農村青年を集めて教育しました。賀川が主張したのは「立体農業」でした。地球上の1割5分しかない平地にしがみついていたらやがて食料が不足する。米麦穀物は中心にするが、残り8割5分を立体的、つまり山に依存すべきだと主張したのです。つまり、シイタケを育て、クリやクルミを植え、ヤギやヒツジを飼って乳をとる。農閑期の田んぼではコイなど淡水魚を飼えば農村経済は相当に充実するという。いまでも通用するかもしれない"理論"です。

 それでも農村の生活は不十分だと考えた。軽工業を農村部に誘致して現金収入の充実を図るべきだと考えていました。

 その実践として戦後間もなく生まれたのが農村時計製作所です。スイスの時計産業が賀川の目標でした。東洋のスイスを夢みて、「農村に精密工業を! 時計工業を!」が合言葉となります。賀川の夢に手を差し伸べたのが全国農業会(現在の農協中央会、全購連、全販連、共済連)でした。

 昭和21年、埼玉県葛飾郡南桜井村(当時)にあった旧陸軍の信管工場跡地を占領軍から譲り受け、時計工場と技術者養成期間「農村時計技術講習所」を設立しました。資本金は350万円。全農が8割、社長が1割、大倉系の中央工業も1割を出資。会長には、全農会長、柳川宗左衛門、賀川は相談役になりました。講習所長は服部の技術者、古川源一郎です。

 19万坪の工場敷地には2万坪の工場建屋と2000台の工作機械がすでにありました。同年3月28日、従業員1500人で月産3万個の目覚まし時計製造を目標にスタート。約半年後の8月に第1号の3・5インチの目覚まし10個が完成しました。みんな抱き合って喜んだが、売れませんでした。バリカン、電気開閉器にも手を出しましたが満足できるものはできませんでした。結果的に1年足らずで3000万円の損失が出ました。

 そこへ大口出資者の全農に対する解散命令が出て、農村時計は満身創痍。経営は全農の農村工業部長に就任したばかりの谷碧(たに・きよし=後のリズム時計社長)に任され、なんとか生き残ることになったのです。

 日本時計学会の雑誌『時計』昭和24年7月号表紙にはセイコーやシチズンなどを押しのけて農村時計の目覚まし時計「Rhythm」が載っています。会社発足して2年の農村時計が存在感を示しています。以下のような説明が書かれていました。

   表紙写真はNOSON 3 1/2吋目覚時計Rhythmを示す。
   Rhythmは日本業界最高級品として内地は勿論、世界各地---特に印度パキスタン、
   シンガポール、メキシコ、バンコック等から註文があり毎月15,000個の輸出を目標に
   生産を進めている。
   株式会社農村時計製作所は終戦後興った時計工場としては最も整備された
   一貫作業工場であり・・・
   尤もこれは戦時中服部精工舎南櫻井工場として創られたものを技術者設備共
   其の儘同社が引継いだものであり・・・今後の進展を注目されている。

 苦難の連続だった農村時計は設立4年半で遂に行き詰まり、昭和25年11月3日に発足した新会社「リズム時計工業株式会社」に継承され、 シチズンが大株主となりました。

 日本の時計史に見え隠れするのが社会運動家の賀川豊彦なのです。賀川の時計づくりには後日談もあります。

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このページは、伴 武澄が2012年1月17日 17:39に書いたブログ記事です。

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