(1)-はじめに

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 賀川豊彦のことを書いてきました。一向に完成しません。自分を励ます意味でこれまで書いてきたことをブログにアップすることにしました。足らない部分ばかりですが、その部分を埋めていきながら「Think Kagawa」を完成に近づけたいと思います。たぶん50回ぐらい続きます。ぜひ応援してください。

 はじめに

 新聞記者を30年もやってきていろいろな思いがあります。過去の歴史が正しく伝えられていないという思いが一番強いのです。一度書かれた歴史が書き改められるチャンスはなかなかないものです。今年はNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が人気ですが、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書かなければ坂本龍馬はそのまま歴史に埋没していたかもしれません。

 これから書こうと思う人物は賀川豊彦です。明治、大正、昭和と日本がまだ貧しかった時代、社会福祉などという概念すらなかった時代に神戸のスラムに入り貧しい人々のために尽くしたクリスチャンでした。

 ガンジーがインド救済に身を捧げ、命を賭したことをわれわれは忘れてはいません。シュバイツァーがアフリカの民のために身を粉にした物語も教えられてきました。日本が宝とする賀川豊彦の残した物語も語り継がれなければならない。そんな切迫した想いがずっと心の中で私に訴え続けています。どこかで始めなければいけない。賀川豊彦の孫の賀川督明さんとの出会いが私を急がせました。

 来年2009年はちょうど、賀川献身100年にあたります。つまり自ら肺結核に悩みながら神戸のスラムに入って救済活動を始めたのが1909年ということです。

 賀川豊彦と出会ったのは2001年12月のことでした。東京・元赤坂にある財団法人国際平和協会の事務所を訪れました。何とはなしに、戸棚にあった機関誌「世界国家」を読み始めたことがきっかけでした。

 終戦の8月、賀川豊彦は東久邇稔彦首相に官邸に呼ばれて、参与になることを求められます。戦争で傷ついた日本を再生するためにグランドデザインを描いて欲しいと要請されたのです。賀川は直ちにそれまで協力を仰いでいた有力者たちに声をかけ財団法人国際平和協会を立ち上げました。そのメンバーのなんと華麗なことにびっくりしました。

 国際平和協会は「戦後の日本が国際復帰を図り、世界の恒久平和樹立への貢献」を目的に東久邇殿下が5万円の基本金を出資して生まれ、1946年4月13日に財団法人として正式に認可されました。創立時のメンバーは賀川豊彦理事長のもとに、鈴木文治常務理事、理事として有馬頼寧、徳川義親、岡部長景、田中耕太郎、関屋貞三郎、姉崎正浩、堀内謙介、安藤正純、荒川昌二、三井高雄、河上丈太郎が連なっています。

 鈴木文治は日本の労働組合をつくった人です。有馬頼寧は九州の久留米藩の当主として貴族院議員、農相を務めました。徳川義親は尾張徳川家の当主、函館の北方に八雲牧場を開設し、北海道開拓史に名を残しています。田中耕太郎は著名な法学者。関屋貞三郎は宮内庁長官として長く昭和天皇に仕えています。堀内謙介は外務省事務次官、駐米大使も務めています。三井高雄は三井家の当主の一人で、帰国子女のために、啓明学園学校を創設しました。河上丈太郎は元社会党委員長の衆院議員です。

 これから、会ったこともない人のことを描こうと思っています。どう描いていいかずっと戸惑っていました。何しろガンジー、シュバイツアーと並び称された人物です。

 ある出版社の社長さんにいわれた言葉があります。

「誰かに手紙を書く要領で書き始めればいい。読者は一人でもいいんだよ。手紙だって立派な文学になる」。

 そうか、手紙を書けばいいのだ。そう思うといくぶんか気が楽になりました。

 さて賀川豊彦という人物です。名前と著書『死線を越えて』だけは知っていましたが、読んだこともありませんでした。それがひょんなことから私の心の中に入ってきました。入ってきたどころか、しばらくすると私の心のかなりの部分を占領するようになっていました。

 賀川豊彦という人物を私という第一人称で書こうと思います。会ったこともない賀川豊彦がどうやって私の心を占領していったのか。その都度、私は多くの人に賀川のことを話しました。多くの人は私と同様、賀川豊彦を知りませんでした。私の話を通じて一緒に感動してくれた人も少なくありません。そうか私が賀川を知らなかっただけではないのだ。みんなも知らなかったのだ。そして私の話を通じてその偉さを共有してくれている。そう知った時、私はますますこの人のことを描かなければならないという思いを強くし始めていたのです。

 これまで賀川豊彦のことを書けなかったのは、賀川があまりにも多くの運動や事業を展開してきたからです。毒舌の評論家として一時代を築いた大宅壮一は賀川について「我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない」と書いています。

 社会運動家としての活動は神戸・新川のスラムから始まりました。貧困と病の中で人々に溶け込み、着の身着のままで粥をすすって人々に献身した姿はキリストの再来とまで言われました。もちろんキリスト教の牧師としてのエバンジェリスト(伝道者)でもありました。1920年代の100万人の信者獲得を目指した神の国運動で全国を行脚しました。5人でも10人でもいい、話を聞きたい人がいれば、賀川はどこでも喜んで出かけました。伝道は北米、ヨーロッパ、中国、アジア、南米、豪州にも及び、人種や民族を超えて迎えられました。戦後になっても新神の国運動を興し、戦争で病んだ人々の心を癒すことに努めました。賀川の努力によって多くの日本人が受洗しましたが、教会のフォローがなくそのままになってしまった"信者"も少なくありません。

 賀川の運動はすべて、貧困からの脱却のためのものでしたから、イデオロギー論争には強くありませんでした。労働運動では神戸で大正期最大のストライクを指揮し、農民組合を立ち上げて小作人が地主のくびきから逃れる救世主役を果たしました。しかし、これらの運動は華々しく始まっても急進的なイデオロギーのために立ち往生することが少なくなく、運動はたびたび反賀川勢力によって窮地に陥りました。賀川のエネルギーが多方面に分散した影響は否めません。中途半端という批判です。

 賀川について特徴的なのは、彼の運動事業はほとんどが自らの著述や講演からの収入によって賄われていたということです。セツルメントの建設費や運営費はもちろん事業の赤字補填から労働運動で職を失った人々の生活まで面倒をみていたといいます。ただ小説『死線を越えて』の単行本で得たといわれる10万円(現在の価値で約10億円)以外、賀川が生涯手にした収入の全貌はほとんど把握されていません。

 雑誌「家の光」に連載していた小説『乳と蜜の流るゝ郷』が改造社から単行本になることが決まり「これで楽になる」と日記に書き記しているように、"賀川コンツェルン"はいつも自転車操業でした。『賀川ハル史料集』(緑陰書房)には賀川が次から次へと資金協力を約束して妻ハルを困らせたことを示す書簡も残っています。

 賀川豊彦は生涯200冊以上の本を書きました。没後には賀川豊彦全集全24巻が編集されました。この全集はよくある日記や書簡の類は一切含まれていません。すべて公刊された書物の集大成です。日記や書簡などを含めればたぶん50巻を超えるのではなかと考えています。私は2004年に念願の全集を入手しました。賀川研究の手始めと考えましたが、手にしたとたんに絶望的になりました。これを読破するには優に2年はかかる。重い宿題を負わされ、とんでもない人に魅了されてしまった。そんな思いにかられた時期がありました。

 2008年1月から賀川豊彦献身100年記念事業の準備が本格的に始まりました。私が関わっている財団法人国際平和協会も全国委員会の実行委員会として参画することになり、新聞記者であることから広報委員長に任命されました。

 賀川豊彦に対する関心が高まった時、書店の本棚に賀川の本が一冊もないのは困ることでした。インターネットで検索して賀川の事業がほとんど紹介されていないこともこれまた大きな課題でした。献身100年のオフィシャルページの製作・更新が始まり、個人のブログとして「Think Kagawa」を立ち上げました。広報委員になったおかげで、賀川関連団体の多くに人々と出会うチャンスに恵まれ、賀川の全体像が少しずつ見えるようになったのはありがたいことでした。

 献身100年記念事業を通じて知り合ったコープこうべ元役員の西義人さんらからは生活協同組合の何たるかを多く学びました。また公共哲学を提唱し、「友愛社会」や「友愛政治」の研究者である千葉大学の小林正弥教授には「友愛」の長い歴史を教えられました。リズム時計の元役員の野沢和敏さんから賀川が考えていた農村工業について知らされました。海外での賀川について米沢和一郎氏が大変な研究成果から学ぶところは多くありました。生協OBの平山昇氏のブログ「ダルマ舎平山昇」では賀川を語るなら「ディケンズから読め」というような示唆があり、コーポラティブがイギリスで誕生する19世紀の社会背景を知ることもできました。

 賀川が大切にした「友愛」という概念は、鳩山由紀夫氏が民主党代表となり、民主党が政権を獲得することによって、ようやく人々の人口に膾炙されるようになったのです。

 賀川豊彦の孫でグラフィックデザイナーの賀川督明さんは「豊彦は実に多くの事業を立ち上げたのだが、事業が継続して運営されたのは多くのコーワーカーたちがいたからなのだ」と「賀川の仲間たち」を強調しています。市井の人もいれば、著名な政治家、経済人もいました。督明さんは献身100年記念事業の中核的メンバーの一人でした。生業として現在、ミツカンの広報紙「水の文化」の編集をしています。若いころは偉大な祖父の存在に押しつぶされそうになりますが、今では神戸に住みつき祖父の思想や事業に思いをはせています。朴訥とした語り口なのですが、講演やあいさつで時々、ハッとさせられるフレーズを発します。「コーワーカー」の存在もそうでありますが、「痛みに寄り添う」という表現は賀川豊彦を表現するのにぴったりだと思っています。

 賀川の伝記は数多く書かれていますが、賀川イズムの全体像に迫ったものはありません。私自身、全体像に迫ろうという気持ちはありません。群盲象をなでるだけでいい、自分がなでた部分だけでも書きたいし、伝えたい。そんな思いなのです。



 第一章 賀川豊彦の予見

 賀川豊彦と出会ってからかれこれ9年になります。財団法人国際平和協会の理事になって、本棚にあった機関誌「世界国家」を読み、いつの間にか古本屋で絶版となった賀川関係の著作を買いあさっていました。中には『賀川豊彦全集』(全24巻、キリスト新聞社)もあって、賀川の書いた作品があまりにも多いことに茫然自失となっていました。

 賀川豊彦の長男で音楽家の賀川純基(かがわ・すみもと)さんが2004年3月28日なくなり、5月8日、四谷の聖イグナチオ教会で記念礼拝が行われました。純基さんとはその1年半前に出会っていました。上北沢の賀川豊彦記念松沢資料館を訪ねたのが秋。学芸員の杉浦秀典さんに「国際平和協会から来ました」と自己紹介すると、「純基がいますから呼んできます」と奥に入りました。

 まもなく純基さんが現れました。1922年生まれだから82歳でした。長身痩躯のジェントルマンは、初対面の私に語り始めたのです。

「父に言われて医学の道を目指したのですが、千葉大学を卒業して、その道には進まず好きな音楽を選びました。父に反発していたんですね。年齢がいってから豊彦のことが気になり勉強を始めました」

 純基さんは熱く豊彦を語りました。印象的だったのはEUの設立に賀川イズムが大いに関わっていたという話でした。ちょうどフランス外相のシューマンのことを読んだばかりだったので、なるほどとうなづくところがありました。もうひとつ興味があったのは賀川が関わった多岐にわたる社会事業をマトリクス化した「賀川豊彦関係事業展開図」でした。

「賀川はひどく多くの事業を手がけています。あなたも知っている会社や組織がたくさんあります。これ全部、やみくもに始めたのではありません。賀川にとってはそれぞれが一つひとつ大切で、関連があったのです。賀川イズムの全貌を知るには、賀川がなぜこれらを一つひとつ始めなければならなかったか時代背景を含めて検証する必要があるのだと思っています」

 その年の12月、豊島区で開催された平和の集いでの純基さんに講演を依頼しました。純基さんと3回目に会うことはかないませんでしたが、純基さんの最後の講演は克明にメモをしていました。いまそのメモを起こしてみようと思います。

 賀川豊彦は若いころから平和を願っていました。
 彼の特徴は、ずっと先を見ていたということです。
 昭和12年、自分で出していた雑誌に「平静」という短い詩を書いています。

  私は急がない
  私は慌てない
  私は遅鈍を忌む
  私は予見を欲する

というような詩ですが、ここに「予見」という言葉がでてきます。

 もう一つ『空中征服』という小説を書いています。1922年(大正11年)のことです。テーマは何かというと「大阪の町の空気」なのです。いまでいえば公害です。

 煙突からの煤煙で昼でも暗いと書いています。その公害を征服したいといっているのです。

 これは当時の夕刊紙に連載していたもので、風刺と皮肉がたっぷりです。挿絵まで自分で書いています。ここでも未来を予見していました。80年前に地球の公害のことを語り、最後に地球人は地球を脱出して火星に行くといいと言っています。

 1936年には世界経済協同組合的合作を発表します。当時の国際連盟は各国の軍事バランスのことばかり話し合っていました。日米英の戦艦の数が5・5・3だといって論議していた時代に世界経済の在り方を論じていたのが賀川豊彦なのです。

 少し説明しますと、「品目別経済会議」だとか「地帯経済会議」「一国対一国」「局地会議」だとかいう言葉が出てきます。いまのOPECだとかアジア開銀とかいう概念に当たると思います。EUもそうですし、ASEANも地帯会議や局地会議に当たるはずです。65年前にそういうことを考えていたのです。

 戦争が終わって8月15日のポツダム宣言受け入れ後、最初の日曜日、この松沢教会で世界国家の必要性についてすでに語っていました。なぜ戦争が起きるのか、また戦争が起きないようにするにはどうすればいいのかといったことをすでに考えていたのです。若いときにスラムに入って救済を始めたときも、どうして人々が貧しくなるのかを考え、「防貧活動」を始めたのです。

 戦後まもなく国際平和協会をつくりました。世界連邦建設同盟もそのころつくりました。賀川豊彦の言ったことで実現したことと実現していないことがあります。

 EU、つまり前身はECですが、これは1950年のシューマン・プランから始まりました。鉄と石炭を産するドイツ国境のルール地方を国際的管理に置こうという提案でした。賀川は当時、ヨーロッパにいてこの話を聞き、「これは世界国家のひとつのステップだ」とひらめきました。

 先ほど話しました、世界経済協同組合的合作はもともと、ジュネーブで講演した「キリスト教兄弟愛による経済改革」が基礎になっています。この講演は3年内に23の言葉に翻訳され、英語圏だけでなく、スペイン、フランス、中国などでも広く読まれました。シューマン・プランはそれから13年後に生まれたのです。このことについては1970年にECの議長だったイタリアのコロンボ外相が日本を訪問するに当たって日本の国会にあてたメッセージに書かれています。

 元日大経済学部の森静朗教授は「ECの経済は賀川の協同組合的考えを継承している」とはっきりと述べています。ECが賀川の予見が実現したもののひとつでしょう。公害もまさにその通りになりました。

 賀川の死後40年、世界連邦建設同盟から50年たちました。急がないけどぐずぐずしない。そして先を見通すのが大切なのです。

 以上が私が聞いた純基さんの最後の講演の大要だ。まずは『空中制服』です。


(3)-空中征服

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 空中征服 環境問題と市政請負制


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 賀川豊彦の小説『空中征服』は2004年に読みました。大正11(1922)年に大阪日報に連載したものを同年12月に改造社から出版。出版した月だけでも11版を重ねました。『死線を越えて』がベストセラーになった2年後ですから、評判を呼んで当然だったのかもしれません。2009年5月、不二出版から5回目の復刻版が出ました。

 『空中征服』を再び手にして、この本はひょっとしたら『死線を越えて』より評判になるかもしれないと思いました。80年前、東洋のマンチェスターと呼ばれるほど工場が密集した大阪を舞台に賀川豊彦が市長になりさまざまな改革を実行する物語です。

 当時の大阪の空は青空がみえないほど煙突からの煤煙に覆われていました。その煤煙を一掃したいというのが賀川市長の公約でした。工場主である資本家との激突があり、市職員のサボタージュがあり、ついには女たちが出てきて賀川市長に協力するのです。

 大阪の人々の協力を得られず失職した賀川市長は空中都市の建設を夢見ます。そこには人間改造機械によって、精神をあらためられた人々だけが送り込まれます。そして風船によって空中に支えられた楽園である田園都市が突如、出現します。

 復刻版に解説を寄せた神戸文学館の義根益美学芸員は「賀川豊彦が みた『空中征服』の夢に、多くの人々が笑い、そして何かを得ただろうと思います。痛烈な皮肉だと、受け止めた人もいたと思います。大正時代当時の人々と、 私たちは随分異なった社会に生きていますが、人間社会の根底をなすものは大きく変わらないことがわかる1冊です。『空中征服』の世界を通じて、私たちが生 きている社会というものを見つめ直す機会になれば幸いです」と書いている。

 この『空中征服』は、主人公が川の中の生き物と会話をしたり、空中都市が生まれたりするなど奇想天外、荒唐無稽に物語が進みます。その点では涙や感動を誘う賀川文学とは軌を一にしていません。大阪の工場から排出する煤煙による大気汚染が限界を超えていたことに業を煮やした賀川豊彦市長が突然、煙筒廃止方針を打ち出し市議会を巻き込んだドタバタ劇が展開します。

 公害という言葉さえない時代に大気汚染防止の必要性を指摘した先駆性は大したものですが、それよりも興味深いのは大正末期の日本で賀川豊彦扮する大阪市長が公務員事務の請負制を考え出し、それを実施に移すことです。「官から民へ」という鳩山民主党のスローガンにぴったり符合するのです。

 小説の中では、アメリカですでに「市政事務引受会社」というものがあることを紹介しています。80年前の話です。はたして本当にあったかどうか分かりませんが、発想が実に現代的なのです。

 以下、『空中征服』の内容の一部を転載します。

 市長が綱紀粛正を宣言すると同時に、第一反対の声を挙げたものは土木課であった。土木課は実に妙なところで月賦払いの最上等の洋服を着るもののもっとも多いところである。
 賀川市長の「サボタージュ性繁忙」に対する整理に反対するものは、ただに土木課の一部のみではなかった。ほとんど市庁舎の吏員全部であった。云うところは「いままでの通りの方がやりやすい」と云う簡単な理由である。
 賀川市長としては、市の行政に新機軸を出したいのである。
 彼の望むところは、市の凡ての執務事項を請負制度にして、土木、衛生、庶務、戸籍、学務、社会、会計、都市計画等の諸課を執務吏員に入札させて、競争の札を入れ、執務能率に応じて能率賞与を与える利率を定めることであった。
 米国では既に市政事務引受会社があることだから、日本でも事務引受の会社があっても善さそうなものだとも、賀川市長は考えたのである。
 市長は断然、市吏員の執務行程の大改革を発表した。そして、いままでの全課長を辞退せしめて、新たに能率請負の入札を各課に命令した。
 サア、大変だ。各課は上を下への大動乱だ。総辞職を主張するものもあれば、全吏員のゼネラル・ストライキを宣伝して回るものもある。そうかと思うと、賀川市長に辞職勧告に行こうと云うものもある。気の早いものは市参事会員のところへ駆けつけるものもある。市会議員を訪問するものもある。まるで蜂の巣をつついた様な結果になって了った。
 こういう結果になると云うことは彼もよく知って居た。それで平気で居た。彼は自棄を起こして帰った戸籍係の手伝いでもしようかと思ったが、それも出来ないし、あれしようか、これしようかと一人で悶えて、反って自分が神経衰弱に懸かって居ると云うことに気がついた。それは蝸牛性的思想病革命的神経衰弱とでも名をつく可き性質のものであって、仕事は運ばず、神経だけ尖ぎって、何かしら革命的に行きたい病気である。

 賀川市長は大阪市職員を全員やめさせて、婦人を中心にした"民営化"によって効率化した市行政は市民の絶賛を浴びるのですが、市議会や元市職員の陰謀で最後は失職させられます。そんな顛末です。多くの読者は市政の請け負いなど荒唐無稽と考えるでしょうが、オイルショック後の日本で導入した自治体があることが分かりました。

 調べてみると、愛知県高浜市は1975年のオイルショックを契機に窓口業務など行政サービスを外部委託に踏み切り、職員は10年前の256人から191人に削減。2003年度では、市の人件費を3億6800万円節約しています。外部委託先は「市総合サービス株式会社」。正社員と臨時職併せて256人を雇用しており、平均年齢は54歳。中高齢者の格好の就労の場ともなっていました。やればできるのです。

 環境問題を予見し、公務員が社会改革の足を引っ張るという命題は、非常に先見性があります。賀川の小説で『死線を超えて』や『一粒の麦』など協同組合をテーマとしてものは多く翻訳されて海外でも評判となりましたが、残念ながらこの『空中征服』は翻訳されていません。万が一、翻訳されていれば、ある意味で社会主義の将来を見通したジョージ・オーウエルの『1984年』に匹敵する評価を得ていたかもしれません。いずれにせよ、スラムに住みながら、こうした社会問題についてまで頭を悩ませていた賀川豊彦だったのです。


(4)-第三の道

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IMG_7323.M.JPG 二〇〇三年一月、エース交易の機関紙『情報交差点』に「EUの理念の一つとなった友愛経済の発想―キリスト教伝道者・賀川豊彦― 」という文章を書いたことがあります。ヒントはその前の年の純基さんとの会話にあったのはいうまでもありません。直感的に書いた文章が今も古臭くないのです。

 賀川豊彦が欧州連合(EU)誕生と関わりがあるといえば驚く向きも少なくないと思う。『死線を越えて』というベストセラー作家として知られ、貧民救済に生涯をかけたキリスト教伝道者というのが賀川豊彦という人物の一般的理解だからだ。

 世田谷区上北沢の松沢教会にある賀川豊彦記念・松沢資料館で、EC(当時)のエミリオ・コロンボ議長(イタリア元首相)が日本にやってきた時、EC日本代表部が発行した1978年のニューズレターを目にした。「競争経済は、国際経済の協調と協力という英知を伴ってこそ、賀川豊彦が提唱したBrotherhood Economics(友愛経済)への方向に進むことができる」とECの理念への賀川哲学の関与が述べられていた。

 憎しみを乗り越えたシューマン・プラン

 EUの歴史は1951年、戦勝国のフランスのシューマン外相が占領していたルール地方の鉄鋼、石炭産業をドイツに返還して国際機関に「統治」させるよう提案した「シューマン・プラン」に始まる。この提案がヨーロッパ石炭鉄鋼共同体条約の締結につながり、後のECの母胎になったことは周知の事実であるが、「復讐や憎しみは次の復讐しか生まない」というシューマン哲学はどうやら戦前に賀川豊彦がジュネーブで提唱したBrotherhood Economicsに源を発するようなのである。

 このBrotherhood economicsは賀川豊彦が1936年、アメリカのロチェスター神学校からラウシェンブッシュ記念講座に講演するよう要請され、アメリカに渡る船中で構想を練った「キリスト教兄弟愛と経済構造」という講演で初めて明らかにしたもので、同年、スイスのジュネーブで行われたカルバン生誕400年祭でのサン・ピエール教会とジュネーブ大学でも同じ内容で講演された。

 「キリスト教兄弟愛と経済構造」はまず資本主義社会の悲哀について述べ、唯物経済学つまり社会主義についてもその暴力性をもって「無能」と否定し、第三の道としてイギリスのロッチデールで始まった協同組合を中心とした経済システムの普及の必要性を説いたのだった。

 賀川が特に強調したのは「近代の戦争は主に経済的原因より発生する」という視点だった。国際連盟条約が死文化した背景に「少数国が自国の利益のために世界を引きずった」からだと戦勝国側を批判し、国際平和構築のための協同互恵による「局地的経済会議」開催を提唱した。これは今でいう自由貿易協定にあたるのではないかと思う。

 その400年前、ジュネーブのカルバンこそが、当時、台頭していた商工業者たちにそれまでのキリスト教社会が否定していた「利益追求」を容認し、キリスト教世界に宗教改革(Reformation)をもたらした存在だったが、カルバンの容認した「利益追求」が資本主義を培い、貧富の差を生み出し、その反動としての社会主義が生まれた。賀川豊彦が唱えたBrotherhood Economicsこそは資本主義と社会主義を止揚する新たな概念として西洋社会に映ったのだ。

 この講演内容はまず英文でニューヨークのハーパー社から出版され話題となり、わずか3年の間にヨーロッパ、アメリカ、中国など25カ国で出版された。スペイン語訳には当時のローマ教皇ピウス??世の序文が付記されたという。

 貧困救済から世界平和へ

 『死線を越えて』という小説は大正9年に改造社から初版が刊行されてミリオンセラーになり、いまのお金にして10億円ほどの印税を手にしたとされる。賀川豊彦は、神戸の葺合区新川の貧民窟に住み込み、キリスト教伝道をしながらこの作品を書き、手にした印税でさらに貧民救済にのめり込む。

 賀川豊彦はキリスト教伝道者であるとともに、戦前は近代労働運動の先駆けを務め、一方でコープこうべを始めとする日本での生活協同組合運動の生みの親となった。戦後は内閣参与となり、アメリカのシカゴから始まった世界連邦論運動を平凡社の下中弥三郎らとともに強力に推し進め、1951年には原爆被災地の広島で世界連邦アジア会議を開いた。この会議の精神はアジアの指導者の多くの支持を得て、1955年のバンドン・アジア・アフリカ会議に継承された。

 彼が単なるキリスト教伝道者でなかった背景には、徳島と神戸で回船事業を経営していた父親の血を受けたとする説もある。興味深いのは神戸の貧民窟に住み込んで「天国屋料理店」「無料宿泊所」「授産施設」「子供預所」「資本無利子貸与」「葬礼部」など次々と事業を考えたことである。互助互恵の精神で衣食住から学校、職場、貸金、葬儀までを自前で経営しようとしたのである。長男の賀川純基氏が作製した「賀川豊彦関係事業展開図」によると、賀川が関係した事業でその後発展したものには「コープこうべ」のほかに「全国生協連合会」「労働金庫」「全労災」「中ノ郷信組」「中野総合病院」など幅広い分野にまたがっている。

 賀川哲学が貧困救済を基礎にしているのは、戦争も社会不安も経済的不平等に端を発していると考えたからであった。本来、宗教は魂の救済を求めるものなのだが、あえて宗教の枠を超えたところに賀川豊彦の真価がある。経済活動にまでその手を伸ばしたのは貧しい人々の自立のためであり、労働運動に手を染めたのも働く人々のまっとうな権利を回復するためであった。

 再浮上する協同組合的発想

 賀川豊彦が現代的意味を持つのは、やはり2001年9月の同時多発テロからである。90年代以降、アメリカの一国主義のもとで進んだ国際的な政治対立や貧富の格差拡大にどのように対処していけばいいのか。「仲間」であるか「敵」であるかを鮮明にすることを求めるアメリカに対して、ヨーロッパを中心にオルターナティブ的発想の重要性が唱えられており、互恵互助や協同組合的工作といった発想が再び求められているからなのである。

 昨年4月、賀川が少年時代を過ごした徳島県鳴門市に賀川豊彦記念館ができた。記念館は世田谷区上北沢、墨田区本所、神戸市中央区吾妻通と4カ所になった。しかし賀川豊彦に対する関心はまだキリスト教伝道者としての貧民救済の域を出ていない。

 賀川豊彦が70年の人生で築き上げた経綸に対する理解不足ではないかと思う。人文から科学まで幅広い見識を持ち、いまでいえば経済・社会のトータルプランナーだった。ヨーロッパの人たちが幾度かこの人物をノーベル平和賞の候補としたのは単なる平和主義者としての賀川ではなく、平和を実現するためにどういう政治体制が必要なのか、どのような経済改革をしなければならいのか終生考え続けた、その功績に対する評価だったはずだ。

1954年、賀川豊彦が協同組合の中心思想として掲げた「利益共楽、人格経済、資本協同、非搾取、権力分散、超政党、教育中心」という言葉は人類がまだ追い求めていかなければならない理念ではないかと思う。

 ワシントンDCのジョージタウンにあるワシントン・カテドラルという英国教会の教会に、日本人としてはただ一人聖人として塑像が刻まれている。

 時代が呼んだ賀川豊彦

 EUといえば、リヒャエル・クーデンホーフ・カレルギー(1894-1972)に登壇してもらわなくてはなりません。父親はオーストリアの外交官ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵。外交官として明治期の東京に駐在しました。そこで青山光子を見初めて妻としました。リヒャエルは二人の二男として東京で生まれ、栄次郎という日本名もありました。

 クーデンホーフ家の領地は現在のチェコのボヘミアにありました。当時はオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあり、そこで育ったリヒャエルが第一大戦後に「反ヨーロッパ主義」を唱えたのです。ヨーロッパ統合はリヒャエルに始まします。だからEUの父とも呼ばれているのです。

 光子はその後、フランスの化粧品会社ゲランの香水「ミツコ」の名前として残っています。名前が残るぐらいヨーロッパの宮廷政治に名前を遺した人物だったはずです。何がいいたいのかといえば、EUを生んだ4分の1は光子の息子のリヒャエルであり、賀川豊彦の協同組合思想も4分の1ぐらい貢献していたと考えると、EUの震源地の半分は日本にあったと考えられるということなのです。

 賀川の見直しが少しずつ始まるのは、2008年9月のリーマン・ブラザーズ・ショックからです。あっという間に金融危機が世界をめぐり多くの国で実体経済が大きく落ち込みました。多くの識者が「資本主義の暴走」を口にし始めたのです。日本では小林喜多二の『蟹工船』が思いかけずブームとなり、『死線を越えて』など賀川豊彦の著書の復刻が相次いでいます。「貧困」や「搾取」という言葉まで復活し、「小泉構造改革」が「貧困」をもたらしたとの政治フレーズがメディアを賑わしました。

 われわれが賀川豊彦献身100年記念事業を始めるにあたって、奇しくも資本主義が暴走した結果がもたらされてしまったのです。格差社会です。「今なぜ賀川豊彦なのか」ということすら説明する必要がなくなってしまったのです。

先進国で資本主義の限界説が語られるようになりました。新聞紙面でも「ソーシャルビジネス」や「社会的起業」といった賀川的発想が掲載されるようになっています。ソーシャルビジネスはバングラデシュのムハマド・ユヌス氏が数年前から同国で始めた救貧事業です。資本主義社会に利潤はつきものですが、見返りのない投資を求める運動を展開しています。

 不思議なことに、そんな発想に食い付く事業家がフランスにいるのです。ダノン・グループを率いるフランク・リブーです。バングラデシュにユヌス氏のグラミン銀行と合弁でグラミン・ダノンを設立し、1個8円のヨーグルト「シャクティ」を売り出し、それが売れて工場増設にまで到っています。

 2010年1月3日の日本経済新聞の企業面の企画記事「欧州発 新思想」ではそんな状況を「従来型の企業の社会貢献ではない。ダノンはシャクティを通じて最貧国での事業ノウハウを獲得し、新興国ビジネスに役立てる。さらに時がたてば、最貧国も新 興国の仲間入りをする」と驚きとともに紹介しています。

 同じ日経の同月5日投資欄 のコラム「一目均衡」では小平龍四郎編集員が「社会起業」 についてこう書いています。

「ダボス会議で知られる世界経済フォーラムは昨年来、社会起業をテーマに議論を交わしている。短期の収益を求める金融資本主義は自壊した。代替するパラダイムは何か。慈善とビジネスを両立させようとする社会企業家が、重要な役割を担うかもしれない、という問題意識だ」

「一昨年からの金融危機。資 本市場を舞台にした活動を通じて何ができるかを。世界は問い直す。社会起業や慈善など、市場の外にあると思われた倫理への競うような接近は、そうした自問への答えの一つ。社会的責任投資も同じ文脈に置ける」

 これらの記事を読んで、20年以上に三洋電機の井植敏社長が言っていたことを思い出しました。

「南ベトナムが "解放"される前、われわれはホーチミン郊外にラジオ工場を経営していた。革命後は政府に接収されたが、ドイモイが始まって再びベトナムに行ってみるとその工場がしっかりと運営されていて驚いた、というより感動した。事業は資本のためにあるのではない。社会のためにあるのだということを深く思い知らされた」

 そんな話だったと記憶しています。なるほど大経営者は考えることが違うと感心したのでした。

 資本主義の代弁者だった日経新聞の記者たちが新たなパラダイムに着目していることは重要です。天国の賀川先生も喜んでいるに違いありません。資本主義が曲がり角を迎えるこの時代に触覚のよさを発揮していると思います。

 賀川豊彦松沢資料館の杉浦秀典学芸員は言います。

「経済問題だけでなく、地球温暖化や異常気象など環境の問題にも直面せざるをえなくなっている。これからはお金も、仕事も、環境も、分かち合いの精神でないと立ちゆかない、みんな、どこかで感じているからではないでしょうか」
Scan111.jpg 賀川純基さんの「予見」には登場しませんでしたが、そのころ国際平和協会の機関誌「世界国家」で賀川豊彦が書いた「少年平和読本-侵略者の末路」という文章を読んでいました。ロシアの作家トルストイの有名な童話『イワンの馬鹿』をモチーフに戦争を論じたものです。こんな分かりやすい戦争論を読んだことはありませんでした。私が書く賀川の姿より、すでに書き手としての賀川がその昔、存在していて多くの共感を得ていのだと思います。私がそのむかし感動した賀川の文章をここに転載したいと思います。

 侵略者の末路

 昔ロシアの或る田舎に一人の貧しい百姓が住んでいました。自分の所有地が少ししかないので「もつとたくさんの土地がほしいなあ」と言い暮らしていました。すると或る大地主がそれを聞いて「では、これから馬に乗つて、夜までの間に、ほしいと思う廣さの地面を廻つておいで。そうしたら、その地面をそつくりおまえにあげるから--」といいました。百姓は大喜びで、さつそく馬に乗って出かけました。百姓は一坪でもよけいに地面をもらおうと思い、できるだけ遠廻りしてかけて行きました。昼が来ましたが、食事をする暇もおしく、先へ先へと進みました。気がつくと、太陽はいつのまにか地平線のかなたに沈もうとしています。けれども、もう少し、もう少しと思って、なお先へと進みました。おなかはペコペコ喉もからからです。日はとつぷりと暮れて道さえわからなくなりました。そこで百姓はあきらめて、帰途につきました。しかし、馬は疲れているので、いくら鞭を加えても走りません。百姓のように疲れてたおれそうです。けれども今夜中に家に帰りつかなければ、折角、慾張つて廣くしるしをつけて来たその地面ももらえません。それで、息たえだえの中から、鞭を馬にあてて家の方へとかけて行きました。そしてやつと家に帰りついて、やれやれと思うと同時にあまりの疲れのため、百姓の息はたえました。

 この慾ばりの百姓は、一体どれほどの地面を大地主から貰つたのでしょうか、彼の得た地面というのは、自分のなきがらを埋める六尺にも足らぬ狭い地面だったのです。

 これはトルストイの童話にある有名な話ですが、これに似た事実物語をあなたは聞かなかつたでしょうか。野心満々の政治家や軍人が、領土をひろげ、権力慾を満足させようとして、周囲の弱い国々を侵略し、とうとう精根尽き果てて、一敗地にまみれ、自分のみか、国民全体を塗炭の苦しみに泣かせて、却つて旧来の領土をさえ狭めてしまつたという「イワンの馬鹿」を笑えない実例をあなたは実際に知つているはずです。

 世界歴史をひもといて見ても、そこにはたくさんのいわゆる英雄偉傑が、この童話の主人公と同じ運命を辿つているのを知ることができるでしょう。シーザー、ハンニバル、ナポレオン、近くはヒツトラー、ムツソリーニなど、みなそれです。シーザーの如きは、ガリヤを征服したのを手始めに、各地に侵略してローマの版図をひろげ、一時は飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが、ブルタス、カシウスのためにローマの議事堂で刺し殺され、カルタゴのハンニバルも、古来屈指の名将とうたわれましたが、シピオの一戦に破れて国外に追われ、ローマ人に捕らわれるのを怖れて自ら毒を仰いで死にました。さらにナポレオンに至っては、西ヨーロッパをその馬蹄の下に蹂躙しましたが、慾張つてロシアに攻め入ろうとして成功せず、次いで、ウオターローの戦に敗れて世界征服の野望も空しく、セントヘレナの孤島に、配所の月を眺めつつさびしく生涯を終わりました。

 こうして、侵略戦争の下手人たちの末路は古来きまっています。そして、この侵略者を出した国家は亡び、その国民は流浪することになるのです。国破れて山河あり、嘗ては世界歴史の上に輝かしい名をとどろかせたが、今はその後さえない国や、名はあつても昔の面影をとどめない国になど、あなたがたはその幾つかを知つているでしょう。ジヨルダンというアメリカの学者は「バビロン、アツシリアが亡び、ギリシヤ、ローマの亡んだのは、全くその国の国民が、戦争好きでこれ等の国の亡国は一つの退縮現象である」といつています。身のほどを考えずに膨れた風船玉がパチンと破裂して、しわくちやなゴムの破片を残すに過ぎないようなものです。

 しかし、ひるがえつて考えて見ますと、遠い昔の戦争はとも角、近代の戦争は侵略者のせいのみとはいいきれなくなつているのではないでしようか。戦争の原因が、社会の進運に伴つて次第に複雑さを加えて来たからです。近隣の弱小国や未開国を侵略することには変わりはありませんが、その原因なり、目的なりが、単なる権力慾だけではなく、たとえば、人口が増加して自国の領土内だけでは食糧が不足になつて来たとか、工業生産の原料が、自国内だけでは自給できないとか、生産品を売り捌く新しい市場がほしいとか、そういつたいろいろの経済的原因などから、領土を拡張し、植民地を獲得しようとして戦争をしかけるものが多くなつて来たのです。

 そうしたことは、その国としては立派に理由になりますが、暴力により領土や権益を奪われる側の国家としては、たまつたものではありません。しかし今日まで、弱小国、未開国と呼ばれた国々は、常に、強い国のためにこうして蚕食されて来たのでした。

 (中略)

 帝政時代のドイツの皇后の侍医で有名な心臓の学者ニコライは、戦争に反対して獄につながれましたが、獄中で書いた「戦争の生物学」という書物で「動物が衰退に近づく時、その動物は必ず破壊的となつて戦争を好むものだ」といつています。この人の説に誤りがなければ、人類もそろそろ終わりに近づいたことになりそうです。もし人類が衰滅したくなかつたら、世界中が戦争を放棄して、小鳥のように平和に、仲善くしなければなりません。蟻のように食べものをわかちあうようにせねばなりません。

 日本は世界にさきがけで戦争を放棄しました。もうイワンの馬鹿のお話のような慾張りはコリゴリです。侵略戦争なんか桑原々々です。私たちは侵略者の末路を、いやというほど見せつけられたのですから。(「世界国家」昭和25年5月号)

 戦前、日本のことを欧米語で発信した人は多くない。思い起こすのは新渡戸稲造と内村鑑三、岡倉天心、鈴木大拙。そして賀川豊彦がいました。



 『武士道』の新渡戸稲造は説明する必要もないでしょう。台湾の李登輝元総統が言及し始めてこの10年、日本でも見直しが進みました。100年前に日本の一番大切な心を英語で発信しています。ルーズベルト大統領ほか多くのアメリカの政治家が『武士道』を読んでいました。台湾総督府で農業開発に取り組み、京大、東大で教鞭をとり、国際連盟の事務局次長を長年こなした国際人です。今でも日本の心を理解するための導入本が『武士道』ということになっているようです。

 岡倉天心は日本の美術を世界に紹介し、東洋の美術を世界の人々に広めました。『茶の本』は日本の心を伝え、『アジアの理想』は「アジアは一つである」という言葉を生んだのです。もちろん全文英語で書かれました。われわれ日本人が読むのはあくまで翻訳本です。天心は自らが創立した東京芸術学校を短期で追われましたが、毎年、ボストン美術館と茨城の五浦(いづら)の自宅兼アトリエを往復しながら、多くの画家を育て、ボストンに東洋美術の拠点を築いた功績は大きいと思います。

 賀川は日本の誇るべき歴史はほとんど発信していません。いち早く欧米で翻訳された『死線を越えて』はスラム物語です。日本の一番貧しい地域の一つに住みながら、自らの日々の葛藤を小説という形で表現しました。賀川が他の人違うのは、世界について語ったことです。日本のことだけではなく、世界はこうあるべきだ、地球はこうあるべきだ、実は宇宙はこうあるべきだということまで発信しています。

 新渡戸や天心と比べると賀川の活動の範囲はとてつもなく広いのです。ジャーナリストの大宅壮一は賀川豊彦について田中芳三編著『神はわが牧者』「噫々 賀川豊彦先生」の中で賀川を追悼しています。

 明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかも知れない。

 西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木希典、夏目漱石、西田幾太郎、湯川秀樹などと云う名前を思いつくままにあげて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くない。

 そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。

 私が初めて先生の門をくぐったのは今から40数年前であるが、今の日本で、先生と正反対のような立場に立っているものの間にも、かつて先生の門をくぐったことのある人が数え切れない程いる。

 近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる者を一人あげよと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物――、それは賀川豊彦先生である。(田中芳三編著『神はわが牧舎』、クリスチャン・グラフ社)

 賀川豊彦のことを学んでいて、なぜ賀川にこれほど魅了されるのか問われることが多い。賀川研究のため1980年代に日本に留学、帰国後に『賀川豊彦』(2009年8月、教文館)を書いたカールハインツ・シェルはまえがきで、「私は圧倒され、この愛の革命家の生き方に何も言えなくなるほどの感動と共感を覚えた」と書いいています。私もまさに「この人だけにはかなわない」という思いがあり、「何も言えなくなるほど」の共感があったのです。

 2004年6月、スコットランドのグラスゴーを訪ねました。その2カ月前、「賀川、賀川」と言っている牧師さんがいるということを友人から聞きました。賀川が世界的に知られた人物だということは書物で読んでいましたが、正直言って賀川の信奉者たちが針小棒大に伝えてきた伝説でしかないと思っていました。スコットランドのその牧師さんが70歳を超えて病身であるということで、ぜひとも会っておかなければ悔いが残ると思ったのです。

 そのアームストロング氏とはすぐに連絡がとれて、グラスゴー大学の研究室で会いました。アームストロング氏は1933年生まれの71歳。温厚な面持ちに加え、芯の強さを感じさせる信念の人のように思えました。グラスゴー大学を卒業後、新聞社に勤めましたが、牧師になりたいという意志でスコットランド・バプテスト神学校に入り直し、牧師になったという経歴の持ち主です。

アームストロング氏は賀川との出会いから話し始めました。

「いささか不思議な出会いでした。その出会いによってたちまち私は賀川から多大な影響を受けるようになり、60年たった今でもそれは続いています。11歳の頃、鼠蹊部の腫れ物が膿瘍に悪化する疑いがあって安静にしていた時のことでした。退屈しのぎに私は一冊の本を手にしたのですが、この本が私を賀川という偉大なキリスト教徒に巡り合わせてくれたのです。まずその本の背に縦書きされていた『Kagawa』というタイトルに好奇心をそそられました。それはウイリアム・アキシリングという人が書いた賀川の伝記でした」

 アキシリングによる賀川の伝記の初版本が出版されたのは1932年です。賀川はまだ44歳。そんな年齢の人物が伝記に書かれることすら稀有なことです。しかも外国人の手によって書かれたのだからなおさら驚かされます。それほどまでに賀川豊彦という人物が世界の人々をひきつけたということであろうか。

 この『Kagawa』は英語の他、ドイツ語、フランス語、オランダ語、スカンジナビア語、トルコ語、スペイン語、インドの方言、中国語に翻訳されました。アキシリング氏は賀川豊彦を世界に紹介するにあたって「まえがき」で次のように述べています。

 賀川豊彦の人生は、今なお進展の一途を辿りつつある。彼の前途にはより豊かな、そしてより円熟せる人生が洋々として横たわっている、従って、彼の伝記にペンを執ることは、早きに失すると云わなければならない。

 彼の全人生の物語を記録するという興味深い仕事は、やがては専門の研究家の手を通して永く後世に伝えられることであろう。

 この熱烈なる精神の持主――神秘なる東洋の申し子とも云うべき彼のメッセージは、その偉大なる魂と転変する現実の奥底から湧き起り、灼熱せる焔となって、冷淡と皮肉と閑暇とに満ちている世界に真正面から挑戦した。

 即ち彼こそは、二十世紀の舞台上に於いて預言者の声をもって語る神の如き人間であり、その英雄的なる生活の中に、あらゆる時代をとおして救済と創造の力を発揮した幾多の原理を実際に体現した偉大なる人物である。

 彼の中には相反する二つの人間性が存在している。その一つは、友人達の熱烈なる信仰によって神化され、理想化された賀川であり、他の一つは、輝かしい理想の為に全力を挙げて闘う一個の血の通う人間としての賀川である。

「光は東方より」という東洋のことわざがあるが、社会的な連帯責任に対して明確なる意識をもつ西洋が渇仰している光は、すでに東洋に於いては燃え上がっている。もしこの書物が証明となって、光を西方に運ぶ役割を演ずるならば、著者の幸いはこれに過ぎない。

 アキシリング氏は、1873年、アメリカ中西部のネブラスカ州オハマ市に生まれ、28歳の時、宣教師として日本にわたり、終生、日本での伝道と社会福祉事業に尽くした人物です。その日本で出合ったのが、キリストの弟子として貧民救済にあたっていた賀川豊彦でした。太平洋戦争時は、浦和の収容所に入れられ、日本の官憲から言語に絶する取り扱いを受けたにもかかわらず、戦後も日本を離れず、日本の底辺の人々のために尽くしました。

 日本が満州事変を起こして、国際連盟から脱退したその同じ時期に、日本の聖人の物語が世界の主要言語のほとんどで翻訳され、地球規模の共感と感動を得ていたのです。今となっては不思議な感傷を抱かざるを得ません。

 スコットランドのアームストロング牧師に戻りたい。『Kagawa』を読んで病身の少年アームストロングは震えるような喜びに浸ったといいます。極東の小さな国で生まれた一人の伝道者の生き様に出合い、魂を揺さぶられたというのです。

「こういう人間がいるんだ。自分もぜひこういう人間になりたいと思った。それで僕は牧師になった」

 当時は日本とイギリスは戦争状態でした。そんな時、一人のイギリスの少年の心を動かした日本人がいたのです。

「クリスチャンである賀川の本質は私の心を強く打ち、もはや彼の国籍など問題ではありませんでした。賀川の伝記は読む者の心を捕らえて離さず、少年時代の私の想像力に大きな影響を与えました」

 アームストロング氏は賀川豊彦を語り出すと若さを取り戻すそうです。こんな話もしました。

「彼の人生はその祈りの実現のために費やされました。長老派の神学校に学んだ後、神戸の新川貧民窟で生活しながら、路端伝道をすることになりました。そこに暮らす労働者たちの生活状態は劣悪で、路地は舗装されておらず、そこに並ぶ家屋はそれぞれわずか畳二畳程度しかありませんでした。衛生状態もひどく、不潔になって病気が発生しました。そこはまた犯罪や売春の温床でもあったのです」。

「学生伝道者として何度もそこを訪れたことがあった賀川は、神の愛について語るだけでは不十分だ、貧民窟の住人と一体化して問題を解決する、という実践的手段をとることを通じて神の愛は現されるべきだ、と思ったのです。その結果、賀川は住む場所のない人には住まいを提供し、病人を引き取っては看病を施したのです。彼が住まわせていた人々の中には、殺人を犯してしまい、賀川の手を握っていないと眠りにつけない、という男もいました」。

「『貧民窟の生活を見ている時、社会の病弊がわかる』という彼の発言は、誠に深い洞察です。貧民窟における状況(労働条件、乳児死亡率、病気、売春)は、すべて相互に連結しあっている、ということに賀川は気づいていました。都市部の人口過剰により、人々は行き場を失い、貧民窟へと流れました。それはまた小作農の状況とも関係していました。彼がこれらの問題をどれほど真剣にとらえ、その答を見つけることにどれほど心血を注いだかは、後に彼がアメリカヘ行って、自分が経験したり見聞したりしたことの社会学的、経済学的意味を研究した、という事実をみればわかります」。

 アームストロング氏は「昨日来ればよかったのに」と惜しんでくれました。私がグラスゴーに着いた前日の6月5日にグラスゴー大学で「Kagawa Revisited (賀川再訪)」と題したシンポジウムを開いていたのです。実はシンポジウム参加を目指したのですが、仕事の関係で間に合いませんでした。

 アームストロング氏は1949―1950年に賀川豊彦が、イギリス各地で行った講演やその講演を聞いた英国人の話、当時の新聞報道な等について講演するため、40人以上の人から精力的に取材をしていました。

 シンポジウムには40人ぐらいしか集まらなかったと言っていたが、それだけ集まるだけでも驚きでした。しかも場所はグラスゴー大学です。賀川にゆかりのある人、生前に会ったことがある人、あるいは賀川から影響を受けた人に対して、インターネットやキリスト教の新聞を通じて呼びかけると、100人近くから反応があったそうです。

 一番私が感動したのは、ある老齢の女性の話でした。看護婦さんで修道女として若いころ仕事をしていた時、グラスゴーに賀川が来ました。1950年のイギリス訪問時のはずです。

 彼女は修道院で草取りをしていました。

「そうしたら賀川がつかつかと寄ってきて、私の手をにぎって『ごくろうさん』とか何か言ってくれた。そのことがずっと私の思い出になった」

「あの大賀川に手を握ってもらった」という話をそのシンポジウムでしたらしい。ほとんど神様のように語っていたというのです。

 賀川がイギリスを訪問した当時の新聞を調べると、スコットランドの新聞に「Kagawa Returns」という見出しで賀川の記事が掲載されていました。「もう一度来た」ということ。その前の訪英は、1936年だからその14年前である。新聞記者たちが覚えていて見出しを「賀川リターンズ」にしたに違いない。「おお、すごいな」「戻ってきてくれた」ということなのです。


 もう一つ、エピソードを話したい。2008年春、松沢資料館の杉浦秀典氏から「こんなDVDをもらったんだけれども、興味ありますか」と一片のDVDを手渡されました。オーストラリア人がつくった「フレッチャー・ジョーンズ物語」という1時間ほどのドキュメンタリーでした。

フレッチャー・ジョーンズは、オーストラリアでは戦前からある有名なアパレルメーカーで、「どんな人でも、どんなサイズでも、どんなにお腹が大きい人でも、うちのズボンは合います」というキャッチフレーズで人気を集めました。


 ジョーンズは第一次大戦の欧州戦線に従軍して大けがをしますが、運良く生き残り帰還します。中学しか出ていませんが、テーラーになることが夢でした。テーラーから身を起こして、アパレル企業を創業し、オーストラリアでは誰もが知っているメーカーに成長させたのです。

 1929年の大恐慌時、ジョーンズの会社は無事でしたが、周囲はどんどん貧しくなっていくのに不安になります。資本家はもともと資金があるから、大した打撃じゃないんが、貧しい人たちがどんどん貧しくなっていくのです。ジョーンズは「これは経済を変えていかなきゃいけない」と考え、経営を根本から学ぼうと思いました。内外の多くの経済書、経営書を取り寄せ、読みました。その中に、賀川の本が1冊ありました。「協同組合的経営」に関するもので、ジョーンズは雷を受けたように「これだ」と確信したのです。

 偶然にも賀川は1935年、伝道のためオーストラリアを訪問しました。メルボルンに来た時、ジョーンズは面談を申し入れ、実現します。

「自分の稼いだ金は全部捧げないと神様に救われないんでしょうか」
「いや、そんなことはない。神様が望むようにあなたが使えばいいんだ」

 翌年、ジョーンズは、賀川の協同組合的経営をその目で確かめるため、来日します。5カ月滞在して、賀川の活動を観察しました。賀川は関東震災後に本所で大々的なセツルメント活動を開始し、生活の拠点を東京に移していました。ジョーンズの見た賀川の事業はただコープショップがあるだけではありませんでした。購買部のまわりに学校や保育園があり、医療があり、質屋があり、全人格的な経営を行っているということに感動したのです。

 帰国してから「僕の会社は株式会社じゃだめだ、コーポラティブにする」と決意し、改革に着手した。実際に改革が実現するのは戦後のことだが、自社株の7割以上を段階的に従業員に譲渡してしまう。ジョーンズがオーナーだった会社はいわゆる社員持ち株会社となったのです。

 フッチャー・ジョーンズ社は10年ぐらい前までは健全経営でしたが、90年代に入ってさすがに中国からの安価なアパレル商品に押され経営が悪化しています。

 「フレッチャー・ジョーンズ物語」を見終わってみると、1時間の間の1割以上が賀川に割かれていたことに気付きました。オーストラリアで2007年9月にテレビ放送された作品です。どれぐらいの人が見たか分かりませんが、2000万の国民のうち数%は見ていたとすると、50万ぐらいは視聴していたはずです。どのような思いで見たのか非常に興味があります。「何だ、この人は」と思ったのか、もうすでに賀川を知っていたかもしれません。「やっぱりそうだ、賀川はすごい」と思ったかもしれません。

 日本で賀川を知る人はもはや神戸以外ではあまりいません。完全に忘れ去られた存在といってもいいくらいです。日本人が知らない賀川をオーストラリアの数十万の人見ていたと思うだけでなにやら嬉しくなってしまう。ドキュメンタリーをプロデュースしたスミス氏は2008年春、松沢資料館を訪れ、「次につくりたいドキュメンタリーは賀川豊彦だ」と言ったそうです。


(9)-雲水遍歴

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unsuihenreki.JPG 賀川豊彦は1914年、初めてアメリカの土地を踏みます。プリンストン大学への留学で、マヤス先生らキリスト教の恩師たちの力添えによって実現しました。授業料は免除されましたが、アルバイトをしながら3年間アメリカで過ごしました。この時、アメリカで労働組合運動があるのを初めて知ったのです。労働組合運動だけでなく、多面的なアメリカを吸収しました。

 余人に真似できないのは帰国してから、また新川に戻るところです。アメリカでの留学生活は金銭的には苦しかったかもしれませんが、きれいな芝生のキャンパスの中で、寄宿舎も多分きれいなシーツがあって、伝染病などからほど遠い3年間を過ごしたはずです。よほどの決心がなければ、帰国の翌日から再び新川で貧民救済が続けられることはできません。1909年に初めて新川に入った時以上のエネルギーが必要だったはずです。

 賀川は生涯で7回渡米しています。2度目の渡米は1924年。全米大学連盟からの招待でした。スラムでの献身的活動は日本に来ていた宣教師たちによってすでに伝えられていました。

 米沢和一郎氏の欧米での調査によれば、アメリカの「Christian Century」、スイスの個人雑誌「New Wage」、フランスの「La Solidarite」などに頻繁に「スラムの聖者」として紹介されていました。

 キリスト教系の新聞や雑誌は、日本と違って読者のすそ野が広く、世界中くまなく読まれるため、その影響力は計り知れません。図書館に行けば必ずあり、教会に行けば必ず置いてあるような雑誌、新聞がです。

 シュバイツアーとある日本人との手紙のやりとりの中に「賀川」が登場するのはちょっとした驚きです。アフリカのシュバイツアーは賀川の記事を読んでいたはずなのです。キリスト教ネットワークの影響力がいかに大きいかということでもあります。1932年にア-キシリングが『Kagawa』という伝記を書く10年も前から、実は賀川の名は世界で知られていたといってよさそうです。

 2回目の訪米に戻ります。アメリカへの到着は1924年2月。滞在中の7月に「排日移民法」が成立しています。賀川にとって大きな衝撃となります。貧困に加えてさらに人種問題が大きな課題となって立ちはだかるのです。

 そのころ、サンフランシスコやシアトルでは日本人の数が急増し、総人口の10%を超えるようになっていました。西海岸が日本人に占領されるという恐怖感が排日移民法成立の背景にあったことは間違いありませんが、賀川のアメリカに対する意識は「天使のアメリカ」から「悪魔のアメリカ」へと大きく修正されます。プリンストン留学時代は、学ぶべき、いいアメリカでしたが、この時ばかりは「悪魔のアメリカ」と呼んでいます。賀川は親米主義者のように語られていますが、アメリカでの講演ではアメリカでの人種差別を徹底的に批判しています。

 賀川は国際的な伝道師、社会活動家としての側面と、日本人という側面と、二つの顔を持っていました。歓迎を受ける一方で、新聞記事だとか、日々の生活がすべておもしろい、楽しい旅ではなかったはずです。その証拠に、彼がアメリカでの旅を終えてニューヨークからロンドンに向かう時に、こういうことを書いています。

「船はニューヨーク港を出た。港の入り口に立つ自由の神様は霧のために見えなかった。それは私は意味あることにとった。米国は、今、霧の中にある。自由の神像は米国には今、見えないでいる」(『雲水遍歴』1926年、改造社)

 暗に排日移民法を批判した文章で、「米国国民は国民的年齢において満12歳である」とも書いています。マッカーサーが日本の精神年齢について「12歳」と言ったちょうど20年前にアメリカ人に対して「12歳である」などと書いているのには驚かされます。

 第一次大戦の反省から生まれた国際連盟で、日本の代表団は国連憲章に人種差別撤廃を盛り込むように要求しましたが受け入れられませんでした。そればかりか、いいだしっぺのアメリカはカリフォルニア州を中心に増え続ける日本人移民を排斥する法律を導入して、黄色人種への差別を強化していたのでした。

 ちなみにアメリカはウィルソン大統領自らが、国際連盟を提唱しながら議会が批准しなかったため、加盟国とはなりませんでした。戦後になって、満州事変への列強の批判から日本が国連を脱退したことが、なにやら国際協調路線からの離脱のように受け止められるようになっていますが、世界最大の債権国となったアメリカは初めから、国際連盟の規約に拘束されず自在に外交を展開していたのです。
 2004年6月初旬に一週間ほど南スコットランドを歩いた。グラスゴーの酒場で一人の日本人に出会い、ロバート・オーエンのことが話題になった。近郊にオーエンが繊維事業を始めた場所で、いまでは世界遺産に登録されているニューラナークという場所があることを知らされた。

 翌日、ラナーク行きの電車に乗り、1時間ほどで町のバスに乗り継ぎニューラナークに向かった。ニューラナークはスコットランド最大の河川であるクライド川の渓谷沿いの寒村で、200年以上前の当時としてはイギリス最大の紡績工場と従業員の生活をよみがえらせている。いまでは渓谷は緑の木々におおわれ、水の音と鳥のさえずりだけが静寂を破る。空気がとてもおいしい場所だった。

 ニューラナークの歴史は220年前にさかのぼる。紡績機械を発明したリチャード・アークラウトとグラスゴーの銀行家デイビット・デイルがこの地にやってきて「ここほど工場用地として適した場所はない」といって周辺の土地を購入し、1785年に紡績工場を立ち上げた。ワットが蒸気機関を発明したのは1765年。狭い渓谷を流れる水流がまだ動力の中心だった時代のことであるが、イングランドのマンチェスターはすでに繊維産業の町として名を馳せていた。

 ニューラナークが世界的に知られるようになったのはデイルの娘婿となったロバート・オーエンが1800年に事業を引き継いでからである。オーエンはまず従業員の福利厚生のために工場内に病院を建設した。賃金の60分の1を拠出することで完全無料の医療を受けることができた。現在の医療保険のような制度をスコットランドの片隅で考え出した。

 19世紀の繊維工場は蒸気とほこりにまみれ、労働と疾病は隣り合わせだった。日本でも初期の倉敷紡績が東洋最大の病院を工場に併設したことはいまも語り継がれているが、その100年も前にオーエンは従業員の福利厚生という発想を取り入れていたのだ。

 次いで取り組んだのが児童への教育だった。当時の多くの紡績工場では単純作業が多く安い賃金で雇用できる子どもたちが労働力の中心だった。子どもといっても6歳だとか7歳の小学校低学年の児童も含まれていた。オーエンは10歳以下の児童の就労を禁止し、彼らに読み書きそろばんの初等教育をさずけた。

 1816年の記録では、学校に14人の教師と274人の生徒がいて、朝7時半から夕方5時までを授業時間とした。家族そろって工場で働いていた時代であるから、学校に子どもたちを預けることによって母親たちは家庭に気遣うことなく労働に専念できるという効果もあったが、当時、児童の就労禁止を打ち出したことでさえ画期的なことだったのだ。

 オーエンの教育でユニークだったのは、当時のスコットランドで当たり前だった体罰を禁じたことだった。さらに五感を育むために歌やダンスなども取り入れた。当時、音楽などを教えていたジェームス・ブキャナン先生はニューラナークでの教職について「人生の大きな転機をもたらしてくれた。金持ちや偉人になるといった欲求を捨てて、誰かの役に立つことで満足するようになった」と語っている。オーエンの学校にそういう雰囲気があり、教師たちも感化されたのだろう。

 オーエンはイギリス各地で起きていた労働者(特に児童)の搾取や悲惨な労働環境を目の当たりにし、「そうした環境では、不平を抱いた効率の悪い労働力しか生まれない。優れた住環境や教育、規則正しい組織、思いやりある労働環境からこそ、有能な労働者が生まれる」という考えにたどり着いた。19世紀の弱肉強食の時代に、福祉の向上こそが経済効率につながるという理念に到達していたのだった。

 それから100年以上もたった1925年にロンドンの町を訪れた社会改革者の賀川豊彦は工場労働者が劣悪な環境で働いているのに驚いた。日本と変わらないスラムが町外れに多く形成されていた。日本でもロンドンでもスラムは貧困と不衛生、そして犯罪の巣くつとなっていた。

 オーエンはニューラナークでの実践活動を理論化した『新社会観-人間性形成論』を書き、国内外を回り、議会や教会関係者から経済学者まで広く工場の労働条件改善の必要を説いた。またニューラナークでの「実践」を通して国内外で多くの理解者を得た。そして彼の経済理論は1820年の『ラナーク住民への講演』で社会主義的発想へと一気に昇華した。この講演でオーエンは「生産者自らが生み出したすべての富について、公平で一定の割合の配分を受けられる必要がある」と語りかけた。工場の福利厚生の改善だけでは満足できず「社会変革」の必要性まで打ち出したのであった。

 オーエンがその後、あまた排出する思想家や経済学者たちと一線を画し、200年後のわれわれに感動を与えるのは彼が「偉大な実践者」であったということだ。賀川豊彦が100年前にスラムに飛び込み貧困と病気、さらに犯罪と戦いながら、貧困救済事業を立ち上げて名声を勝ち取った経緯と重なる部分が多くある。(続く)(伴 武澄 2004年06月20日)

 ロバート・オーエンは企業経営に関わる富の社会還元の手法を多く残した。地域通貨や労働組合などもそうだが、どうしても忘れられないのは協同組合的店舗経営だった。

 協同組合は1844年代にマンチェスター郊外ののロッチデールで始まったものとばかり思っていたが、ロッチデールの人々が参考にしたのは実は、ニューラナークにあった企業内店舗の在り方だった。

 200年前の商人たちはどこでも相当にあこぎだったようである。オーエンによれば、村の店で売っていた商品といえば「高くて質が劣悪。肉だったら骨と皮に毛の生えた程度のものばかり」だった。村民の人たちはほかに店がないことをいいことに劣悪な品質のものを高い価格で買わされていた。しかも多くの商いが掛け売りだったため、村の人々の借金はたまる一方だった。

 そうした状況は100年前の日本でも同じだった。日本の文学にはそうしたあこぎな商売というものはあまりでてこないが、賀川豊彦の多くの小説には貧乏人が労働を通じて搾取されるだけでなく、購買を通じても対価に見合った商品が販売されていないことがこと細かく書かれている。オーエンや賀川が昨今の流通業界の価格破壊の状況を見たら卒倒するに違いない。

 ニューラナークの人々を救済するためのオーエンの答えは工場内に自らの購買部を設立することだった。そして「生活必需品と生活のぜいたく品、そしてお酒も必要」と考えた。お酒についてはオーエンは比較的寛容だった。酔った状態で勤務することは当時の工場では自殺行為に等しかったが、適度の飲酒は生活のぜいたくの一つと考えていたようだった。

 1813年、オーエンは工場敷地内のほぼ真ん中に三階建ての店舗を開設。工場経営者としての地位を利用して卸売りから安く大量に仕入れ、村の店のほぼ2割安の価格で販売した。販売したのは、食料や調味料、野菜、果物といった生活必需品だけでなく、食器や石鹸、石炭、洋服、ろうそくなどなんでもあった。

 この建物は現存しているが、当時の一般的な消費動向や2500人という工場の人口からすればとてつもなくおおきな店舗だったはずだ。

 ニューラナークでの賃金はほかと比べて高いというわけではなかったが、当時、村を訪れたロバート・サウジーの報告によると「一家で週2ポンド(40シリング)稼いだとしてラナークで住むことによって10シリングほど生活費は安くてすんだ」そうなのだ。つまりお金の価値を高めたのである。

 やがて、村人の借金はなくなり、あこぎな店も村からなくなった。そして店舗であがった利益は前回書いた児童教育に注ぎ込まれた。

 労働者の生活改善というオーエンの発想は、多くの人々に刺激を与えた。そして彼の協同組合的考え方を発展させた人々はオーエニーズと呼ばれた。ロッチデールの織物労働者によって1830年から試行錯誤が続けられ、1844年、13人のメンバーによってようやく「ロッチデール・エクィタブル・パイオニア・ソサエティー」設立にこぎつけた。彼らは毎週2ペンスずつを1年間にわたって貯蓄して28ポンドの資金を集めた。

 10ポンドで10坪ほどの店舗を3年間契約で借り受け、16ポンド11シリングでオートミール、小麦粉、バター、砂糖、ろうそくを仕入れ、商いを始めた。初日の商いが終わってみると彼らは22ポンドの利益を手にしていた。

 彼らの当初の目的は、普通の人々がお金の価値に見合った商品を購入できることにあった。そして彼らはこの新しい購買組織の5原則を約束し合った。この時決まった(1)入・脱会の自由(2)一人一票という民主的組織運営(3)出資金への利子制限(4)剰余金の分配(5)教育の重視-という5原則は現在の生協運動でも掲げられているものである。

 ロッチデールで始まった小さな試みはやがてイギリス全土に広がり、国境を越えて拡大した。日本で本格的な生協が登場したのは1920年のことである。賀川豊彦が8月、大阪市に有限責任購買組合共益社を設立したのが嚆矢(こうし)である。

第二章 賀川豊彦の献身

 涙の二等分

 賀川豊彦は1919年に『涙の二等分』という詩集を発表しました。無名の伝道者の詩をよく出版社が本にしたものです。神戸市葺合新川の貧民窟に入ってまもなく、「貰い子殺し」という「商売」があったことを知り、なにより悲しみました。「貰い子殺し」というのは貧困や何かの理由があって育てられなくなった不義の子どもを5円とか10円でもらって来て飢え死にさせる商売です。

 貧民窟という語は死語です。メディアでは使ってはいけない言葉の一つになっています。当時の雰囲気を伝えるためにあえて使います。賀川豊彦は『人間苦と人間建築』の中で「貧民窟10年の経験」を次のように書いています。

 明治の末期といっても「貰い子殺し」がまかり通るはずもありません。犯罪です。でも産まれたばかりの子どもの「間引き」がまだまだ社会の必要悪として横行していました。新川に入って一週間後、賀川は立て続けに「貰い子」の葬式をするはめに陥ります。

     私は最初の年に、葬式をした14の死体中、7つ8つ以上はこの種類のものであったと思います。それは貧民窟の内部に子供を貰う仲介人が有って、そこへ口入屋あたりから来るものと見えます。そしてその仲介人を経て、次へ次へと貧民窟の内部だけで、4人も5人も手を換へて居ります。それで初めは衣類10枚に金 30円で来たとしても、それが第二の手に移る時には金20円と衣類5枚位になり、第三の手に移る時には金10円と衣類3枚、第四の手に移る時には、金5円 と衣類2枚位で移るのであります。之と云ふのも現金がほしいからで、それが欲しい計りに、段々いためられてしまった貰い子を、お粥で殺して、栄養不良として届出すものです。

 ある時、賀川は警察署で貰い子殺し容疑で検挙された産婆が連れていた乳飲み子をもらってきて育てようとしました。この子が手に小さな石を握っていたことから「おいし」と名付けました。でも長生きはできませんでした。まもなく賀川の腕の中で死んでしまいました。

 賀川豊彦の一途さの一断面を理解していただくために、その一部を掲載したい。賀川の膨大な著作は不思議なことに『涙の二等分』を含めて最近まですべて絶版となって古本屋でしか求めることができなくなっていました。

  涙の二等分

  おいしが泣いて目が醒めて
  お襁褓(しめ)を更えて乳溶いて
  椅子にもたれて涙くる
  男に飽いて女になって
  お石を拾ふて今夜で三晩夜昼なしに働いて
  一時ねるとおいしが起こす
    ............ 略 ............
  え、え、おいしも可哀想じゃが私も可哀想じゃ
  力もないに
  こんなものを助けなくちゃならぬと教えられた私
  私も可哀想じゃね
    ............ 略 ............
  あ?おいしが唖になった
  泣かなくなった
  眼があかぬ死んだのじゃ
  おい、おい、未だ死ぬのは早いぜ
  南京虫が──脛噛んだ──あ痒い
  おい、おいし!
  おきんか?
  自分のためばかりじゃなくて
  ちっと私のためにも泣いてくれんか?

  泣けない?
  よし.........
  泣かしてやらう!
  お石を抱いてキッスして、
  顔と顔とを打合せ
  私の眼から涙汲み
  おいしの眼になすくって.........
  あれ、おいしも泣いてゐるよ
  あれ神様
  あれ、おいしも泣いてゐます!

 歌人の与謝野晶子は、この詩集に序文を寄せました。

「賀川さんのみづみづしい生一本な命は最も旺盛にこの詩集に溢れています」
「現実に対する不満と、それを改造しようとするヒュマニテの精神とは、この詩集の随所に溢れていますが、私は其等のものを説教として出さずに芸術として出された賀川さんの素質と教養とを特になつかしく感じます」

 すでに与謝野晶子は賀川の貧民窟での活動に注目していました。詩人は人生や世の中の苦しみや悲しみ、時として喜びを表現する人々です。身の回りの日常を素材にして人々の心を揺り動かすのが詩です。金子みすゞの詩の世界を思い起こさせます。

 日露戦争に勝利し、明治も終わりになろうとしていたころ、日本には「貰い子殺し」などという習慣があったことに驚きを禁じ得ません。数年前、熊本市の病院が「あかちゃんポスト」と称して、お母さんが育てられなくなった赤ちゃんを引き取ることを始め、賛否両論、大きな議論を巻き起こしましたが、100年前には「貰い子殺し」は多く起こりすぎて新聞に載るほどの事件でもなかったのです。

 「おいし」を読んで私は胸をぎゅっとつかまれた思いに捕らわれました。特に「おいしも可哀想じゃが私も可哀想じゃ」の段は涙なしでは読み過ごすことができません。肺結核を患いながら貧民窟に入って自らを犠牲にしながら貧しい人たちと共に生きる。話したり書いたりすることは簡単です。賀川豊彦という人はアメリカ留学を挟んで約15年間も神戸の葺合新川地区に住み続けたのです。

02_b.jpg 賀川豊彦は1888年、回漕業者・賀川純一と徳島の芸妓・菅生かめの子として神戸に生を受けました。4歳の時、相次いで父母を失います。純一は徳島県の豪農の賀川家に婿入りしますが、本妻とは折り合いが悪く神戸でかめと生活していたのです。5歳の時に姉と共に徳島の本家に引き取られますが、父の回漕業を引き継いだ兄が事業に失敗、徳島の家産は抵当に入っていたため、すべてを失います。叔父の家に引き取られて、旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)に通い、1905年明治学院高等部神学予科に進みました。1907年からは新設の神戸神学校(神戸中央神学校)に通学していましたが、結核に苦しみ、医者からは「余命幾ばくもない」ことを言い渡されます。やがて「短い命ならば、貧しい人たちのために生きたい」と新川に住み込むことを決意したのでした。

 賀川が新川に移り住んだのは、1909年12月24日でした。クリスマスイブです。小さな手押し車に行李三つと竹製の小さな本棚を載せて、通っていた神戸神学校からの坂をとぼとぼ下りてきました。三畳と二畳の小さな空間は1日7銭でした。格安だったのは前の年、その家で人殺しがあって幽霊が出るとのうわさがあったからです。

 この幽霊長屋はもちろん賀川の居宅でしたが、同時に教会であり、救済所でもありました。しかし教会らしい什器備品もなく、救済所らしい設備もありませんでした。たぶん日本一小さい教会であったはずです。後に隣接していた三戸の長屋も次々と借りて、中間の壁を抜き三戸を一室として教会と事業所に使用し、残りの一戸を食堂に当てていました。

 家賃が日単位だったのは、住んでいた人たちがみんな日ばかりで暮らしていたからです。貧民窟には木賃宿も多くありました。大部屋にたくさんの人がそれぞれの場所を占拠して住んでいました。布団のない人は宿賃のほかに布団代を払うのです。七輪を借りてご飯も自分でつくります。

 宿というといまでは旅行で泊まる場所のように考えますが、当時は家がないため木賃宿に住んでいた人が少なくなかったのです。車引きだとか日雇いの人夫は多くが木賃宿を住みかとしていましたから、貧民窟に家を借りられる人はいい方だったのかもしれません。

 新川の家はほとんどが茅屋でした。雨戸などあるはずもなく、障子もボロボロ、吹きさらしです。便所は供用で、朝などは込み合うため、結果的に大小便が垂れ流しとなり、臭気が鼻をつきます。衛生観念はゼロです。子どもたちはほとんどトラホームに罹っています。

 賀川の弟子となった牧野仲造は当時の新川の様子について『百三人の賀川伝』の中で「1909年のクリスマスイブ」と題して次のように回顧しています。

 ここに住んでいるのは病人、身体障害者、寡婦、老衰者、破産者といった落伍者でした。 家賃は1カ月5銭、薪1把2銭、木炭1山2銭、1畳間に夫婦2組で同居し4畳半に11人家族が住んでいることもありました。1戸当たり平均4・2人がすんでいました。職業は仲仕、土方、手伝人夫、日雇人夫、ラオすげかえ、下駄直し、飴売、団子売、辻占、屑屋、乞食などで、児童の通学者は100人の中3人、新聞購読者は1人もなく、婦人でハガキの書ける者はありませんでした。

 そこは暴力の街で、腕力の強い者が兄貴になり、最強者が親分でした。傷害罪を犯したことが自慢の種となり、殺人罪の前科は親分の資格になるというわけでしたから、弱いものだけが苦しみつつ働いているのでした(『百三人の賀川伝』牧野仲造「1909年クリスマスイブ」)

 農村の貧困層が都市に流れ着くというのは産業革命後のイギリスでも同じだったようです。今でもマニラのマカティ地区は有名です。流れ者たちが都市の一角に貧民窟を形成したのは自然の成り行きだったのです。東京にも多くの貧民窟が生まれています。紀田順一郎や横山源之助ら当時の新聞記者がおもしろがって、『日本の下層社会』『東京の下層社会』など貧民窟の体験記事を多く書いています。

 賀川の長屋にはいつも6、7人が居候していました。食事代だけでも大変です。貰い子の葬式代はバカになりません。賀川に借金を迫る者はまだいい方で、暴力づくで金をゆする者もいました。そんな時でも、賀川は黙ってあるだけのお金を渡していたのです。まさに事件が相次ぐ日々だったのです。

 一番、悲しかったのは大切な蔵書がしょっちゅうなくなることでした。近所の奥さんが勝手に上がり込んで蔵書を持っていってしまうのです。しかし、その奥さんが警察に捕まって盗難届を出せと連絡があっても賀川は出さず、耐え続けるのです。

 賀川自身が後に「貧民窟10年の経験」に「説教する勇気を持たない」とまで語っています。

    病人の世話--最初の年は、病人の世話するなど気はありませんでしたが--(中略)1ケ月50円で10人の食の無い人を世話することに定めて居たのでした。然し来る人も来る人も重病患者であることには全く驚きました。私は病人の中に坐って悲鳴をあげました。

    賭博--博徒と喧嘩はつきもので、私は「どす」で何度脅迫されたか知れません。欲しいものは勝手に取って行きます。質に入れます。然し博徒と淫売婦とが、全く同じ系統にあることを知って驚きました、淫売の亭主が、その女の番人であるには驚きます。その亭主は朝から晩まで賭博をして居るのであります。

    淫売の標準は芸者で、博徒の標準は旦那であるのだ。芸者も、旦那も遊んで居て食へる階級である。もし貧民が遊んで反社会的なことをして悪いと云ふなら、芸者と旦那を先ず罰せねばならないのである。此処になると、社会の罪悪が今日の産業組合の根底にまで這入って居ることを思うので・・・、説教をする勇気を持た無いのである。(賀川豊彦『人間苦と人間建築』「貧民窟10年の経験」から)

 賀川はこの新川の家で、毎日5時に起きた。日曜日は5時から日曜礼拝、それから讃美歌伝道に出掛けました。路地から路地へと賛美歌を歌うのです。やがて賛美歌が日曜日の目覚まし時計のようになりました。それが終わると今度は子どもたちのための日曜学校です。お菓子が振る舞われるので子どもたちは賛美歌伝道が始まると家を飛び出して賀川の後をついて回ったのです。「説教をする勇気もない」と語る一方で賀川には小さきお弟子さんたちが何人もいました。

     「私のお弟子は三人四人
      鼻垂れ小僧の蛸坊に疳高声の甚公は私の一と二の弟子で、
      便所の口まで追いて来て私の出るのを待っている乞食の「長」は三の弟子、
      クリスマスの前の夜、出口さんのご馳走に、
      お前はしらぬが、鯱ちよこ立ちしたよ。
      お父さんとや云えぬが、テンテイと呼べる、鍋嶋のお凸は四のお弟子。
      売られて行くのが悲しさに
      うちの戸口で半日泣いた今年十二の清ちゃんは私の可愛い女弟子!
      『涙の二等分』」

 子どもたちは日ごろ、親から罵られたり、叱られたりばかりしているので、愛に飢えていました。ですから、「先生に近づき先生に言葉をかけられ、その上手を引いて貰うことは無上の楽しみであり喜び」(武内勝の語り)でありました。
06.jpg 後に同志社大学の総長になる牧野虎次は賀川より20歳も年が上でしたが、賀川を終世、先生を呼んでいました。

 ある夏の夜、新川で開かれた伝道集会で話をしました。集会が終わって、牧野は賀川の長屋に泊めてもらうつもりでいましたが、賀川は「君は特別待遇だ」といって2階の診療室に案内されました。診察台の上に洗濯したてのシーツを二枚重ねてその中で寝ましたが、1時間もたたないうちに体中がチクチクしてきました。電気をつけてみると、シーツの上に黒ゴマをまき散らしたように南京虫がうごめいていて、牧野はゾーッとしました。

 眠れないので、窓から外をみるとまた驚くべき風景に息の止まる思いをします。売春婦たちが男を引っ張り合っていました。「まるで女性サタンがゲヘナで餌物を奪い合っているとしかみえない凄い様相であった」と『神はわが牧者-賀川豊彦の生涯と其の事業』に書いています。

 賀川はただ汚くて臭い場所に住んでいたのではないのです。牧野は同じ本に次のように賀川のことを書いています。

「翌朝先生に導かれて部落内を見て回ったが、白くも頭、トラホームの子どもたちが先生を慕うて寄りそうて来るのを、一々抱きかかえるように愛撫せられる様子は、丁度伝記に読むアシシのフランシスを想わせるものがあった。先生こそ主なるキリストと共に"人々の悩みを負う"悲しみの僕であられたと思う」

 キリストがライ病(ハンセン病)患者の肌を触って治すという場面が聖書にあります。私にはできないことだとずっと思っていました。賀川が新川でやっていたことはまさにそういうことだったのです。

 私はアフリカで一夜だけ木賃宿のようなところに泊まって南京虫に数カ所食われたことがあります。南京虫との出会いはその一回かぎりです。毎日、南京虫に嚙まれる生活はとてもではありませんが考えられません。

 自由だとか民主主義だとかを叫ぶ前に人間の根本に立ち返ると普通の人間にできないことを、新川での賀川は神の御名のもとに普通にやっていたということなのです。

 賀川はよくインドのガンジーと対比されました。共に魂の救済を求めて徒手空拳からスタートし、多くの共感者を得ていきました。ガンジーは弁護士としてのスーツ姿をやめて、糸から紡いだガーディーというインド風の着物をまとい村から村へと伝道しました。イギリスの支配をなんとも思わなくなった人々に対してインド精神の復活を鼓舞しました。サチアグラハといって、巨大な暴力に対して無抵抗で対峙するよう人々に求めました。しかし、ガンジーの場合、インドの貧困にまで救済の手を回す余裕はありませんでした。

 明治、明治、昭和と貧困や病気と戦った日本人が多くいました。石井十次は岡山で3000人の孤児を育てたことで有名です。石井筆子は、滝乃川学園を創設して知的障害児教育に生涯をかけて取り組みました。井深八重はハンセン病と誤診されて送られた神山復生病院で、献身的に看護する院長ドルワール・ド・レゼー神父の姿に感銘を受け、ハンセン病に生涯を捧げました。戦後には、沢田美喜がエリザベス・サンダースホームを創設して混血孤児2000人を育て上げました。李王朝殿下に嫁いだ李方子は韓国で知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立して、援護活動に尽力しました。賀川が際立っているのは、人々を救うことだけで終わらず、どうしたらその原因を取り除けるかを考え実践したところでした。

 若き日の評論家、石垣綾子さんは『死線を越えて』を読んで賀川の元を訪ねました。弟子にしてもらおうと考えたのです。1922年のことです。初対面の賀川についてこんな言い方をしています。

「トラコーマに侵された片目には、黒い眼帯をかけている。眼帯をしていない方の目も真赤にただれ、その赤い目をじっと私に据えた」
石垣さんは賀川に新川に飛び込んできた心情と覚悟を話しました。
賀川は「あなたがここで働きたいなら、まず貧民窟を見なくてはいけませんね」
といって、近くにあるイエス団友愛救済所を案内しました。
「あなたが本当にここで生活する気なら、今夜お風呂に入っていらっしゃい。できますか」
と言われ、夕食後に賀川夫人に銭湯へ連れていかれました。
「浴槽の中に片足を入れると、底に溜まったどろどろの垢が足の裏にどろりと触った。私の身体は一瞬動かなくなった」
「これができなくては、先に進めないと私は自分を鞭打った。一旦たじたじとなった私の心は、どのように無理強いをしても、沈み込むばかりだった」
「その夜、固いせんべい布団にくるまった私は、どうしても眠れなかった。四方から貧困の臭いが発散してくる。身体にまとわりつく汚濁のぬめりが私を突きのめした」
「お嬢様の生活の苦労も知らないセンチメンタリズムだとは考えもせず、向こう見ずの真剣さで」

 石垣さんは夢破れ一夜にして新川を逃げ出したということです。この顚末は79歳の自伝回想『我が愛 流れと足跡』(昭和57年、新潮社)に詳しく書かれてあります。赤裸々な描写による貧民窟内部の極貧の実態と、それに向きあった「新川の先生」の非凡さ、とすごさを、あらためて我々に教えてくれるのです。
 新川での一夜

img016.jpg 新川の悲惨な生活をともにしながら、賀川はどうしてこういう貧困が起きるのか、どうしたらこういう貧困から脱却できるのか、考え抜きました。

 まずは子どもたちの教育が不安となりました。親が親ですから、子どもたちはほったらかしにされていました。学校へ通う子どもはまれです。勉強してもすぐには金になりません。くずひろいなどはまだいい方です。乞食のお供も救いがあります。かっぱらいや掏摸(スリ)の仲間入りしている子どもたちも少なくありませんでした。

 悲惨なのは、子どもが労働力として"売買"の対象になっていたのです。女の子であれば、料理屋や芸者置き屋に売られることになります。

 賀川は新川に入ってすぐに日曜学校を始めます。キリストの話を聞かせるために、お菓子も用意しました。近所の子どもたちはすぐに賀川の友だちになります。

 食べることも大切です。日本のいまの子どもたちに「飢え」と言ってもたぶん分からないでしょう。お腹がすくから盗みを働く。盗みの動機はきわめて単純でした。賀川自身は新川から神学校に通い、煙突掃除や近くの事務所でアルバイトもしていました。両親はすでにありませんでしたから、仕送りなどは期待できないのです。賀川の二間の長屋には住むところがない何人もの"同居人"がいました。お金がないから、毎日、おかゆのようなもので空腹を満たし、一日二食の時期もありました。

 貧民窟の改善事業の第一号として、賀川は安くて栄養のある食事を提供しようと、食堂経営に乗り出します。「天国屋」を開店しました。経営は中村という乞食坊主にまかせました。ほとんど詐欺師のような生活をしていたのですが、賀川の所に出入りするようになって改心していました。

 清潔で栄養満点、しかも価格は安いということで、初日から大繁盛します。しかし、問題はその日から浮上しました。「無銭飲食」です。食べた後で「金がない」といわれるとどうしようもない。身ぐるみをはがすわけにはいかない。かといってつけで何回も食べさせ続けることはできない。毎月赤字となりながらも、天国屋は新川のアイドルとなりますが、人気があればあるだけ、なんで中村だけがいい思いをするのだという嫉妬心も出てくるのです。善意が嫉妬を育んだのでは新川の人間関係に新たな争いの種となります。なんともやるせないではありませんか。

 最後は酔っぱらった客が逆上して、天国屋の机や椅子、鍋釜から食器にいたるまで壊してしまいます。それでも賀川は続けようとしましたが、肝心の中村は恐くなって逃げ出してしまいます。天国屋は貧民窟に開放した食堂ですから、客を選ぶわけにはいきません。そうなると跡を継いでくれる人もいなくなります。天国屋はいいアイデアだったのですが、短期間で閉鎖されることになりました。

 横山春一著『賀川豊彦傳』から天国屋での顛末を一部引用します。

 天国屋は千客万来の賑やかさであったが、毎日の売り上げ金14、5円に対し、1円5、60銭は、無銭飲食であった。これでは薄い口銭の商売 は成り立たない。中村は「すまない、すまない」とこぼしながらも、励んでいた。

 無頼の徒、植木屋の辰は、女房子供を育てることも出来ないで、幾度賀川の世話になったかわからないのに、中村の盛業振りを見て羨ましく思った。 11月30日の夕方、辰は酒の勢いに乗じて、天国屋にどなり込んで来た。「100円貸せ、飯屋をはじめる」と言うのである。中村が5円紙幣を握らせて帰そうとしたところ、「5円の端金で商売が出来るかい? 人を馬鹿にしている」と腰をかけていた食卓からとび下りて、鉄の汁鍋を土間にたたきつけた。2、30 人分の茶わんも木っ葉微塵に打ち砕いた。

 余勢を駆って、辰は大きな斧を振り降り、賀川の教会にあらわれた。辰は台所の板戸をたたき割って入り込み、障子と言わず、棚といわず、土瓶から釜から、テーブルまで、しっかり叩き壊してしまった。

 この物音に、裏の喧嘩安が、赤く錆びた刀を引き抜いて、裸体のままでとびこんで来た。賀川は2人の酔っ払いを喧嘩させては、どんなことになるかも知れないと思って、「安さん、わかった、わかった」と後から抱きついた。そこへまた、通称「秀」が、消防手の風体でとび込んで来た。辰は秀の止めるのもきかないで、表から隣の家へ廻ったかと思うと、下駄のまま教会に上がって、オルガンを叩き壊している。蓋は飛ぶ。鍵盤は散る。

 賀川は辛うじて喧嘩安を、家につれ戻して、引き返して見ると、二つの椅子を滅茶苦茶に壊し、三つ目の椅子にかかろうとしている。辰は賀川を見つけると、椅子をすてて、とびかかって来た。

「こら、青瓢箪!」

と、賀川の胸倉をつかんで、下駄ばきのままで腹を蹴る。秀は荒縄を持ってきて、辰をねじ伏せた。巡査が来た時には、辰は縛りあげられた まま、教会の入り口に、酔いつぶれていた。

 「酔いがさめたら、本性に帰りますから、このままにしておいて下さい」

と賀川は言ったが、3人の巡査は辰を引き起こして、1人は辰の左の腕をもち、1人は右の腕をもち、後の1人は立つの首筋をつかまえて、引っぱって行った。

 辰は交番でも暴れるので、巡査は消防手を頼んできて、荷車の上に縛りつけて、本署に送ることにした。無頼の夫をもって、日頃から虐待の限りをつくされ、生傷の絶え間もない女房だが、荷車にがんじがらめに縛りつけられた夫の姿を見ては、4人の子供をつれて、荷車にとりすがって泣きくずれた。4人の子供も、わっと一度に大声で泣きだした。

 長屋の人々は、毎日天国屋に来て、満足していたが、天国屋の食い逃げは、相変わらず会計をおびやかしている。この損失を全体に割りつけるならば、どうにかやれないことはないだろうが、救済の意味を含めて始めた、この天国屋では、それも出来なかった。
 賀川豊彦は貧民窟で神から最大の贈り物を授けられます。妻のハルです。近所の製本屋に勤めていた同じ歳のハルは早くから賀川の貧民窟での活動を献身的に支えていました。見合い結婚を迫られていたハルが賀川に相談します。

「先生、私のやうなつまらぬ者でも神様のお役に立つなら、貧しい人々の多い貧民窟の為めに一生を捧げたい。先生、あなたの処にでも置いて頂くわけにはいかないでせうか」
というのです。賀川は意を決して
「新川にいらっしゃるなら、私と結婚する気でお出でなさいよ」
と求婚します。ここらの話し言葉は自伝小説『太陽を射るもの』からの引用です。

 その後、賀川はアメリカ留学を決意し、二年九カ月、プリンストン大学の神学部に留学します。アメリカ生活での最大の収穫は労働運動を目の当たりにしたことでした。ユタ州でテンサイ農家が農業主と対決して賃金の大幅改善を求めた争議で経験も積みます。救済だけでは貧困を撲滅することはできないことを悟り、帰国後、救貧から防貧へと活動の方針を一八〇度転換させます。

 賀川が留学に旅立ったのは第一次大戦が始まった数日後でした。帰国後の日本は戦争景気で浮かれていました。にわか成り金が神戸にも大勢誕生していました。しかし、多くの労働者たちの生活は貧しさそのままでした。貧民窟の生活もまったく改善していませんでした。

「彼は先づ、竹田等を中心として理想的の協同労作工場を起さうと考へた。そして竹田が新見の留守中にやって居たやうな方式で私欲を離れて、独逸のモレヴヰアン教徒が、ヘルンフットで実行して居たやうに、宗教的奉仕の精神で先づ小さい小さい、模範的の工場を作ってみたいとも考へた。そしてその工場の収益全部を投じて、貧民窟の病人を救済し、更に、その工場の労働者を中心にして、模範的に人道主義の上に立った労働組合を造りたいと考へた」(『太陽を射るもの』)

 そう、賀川は雇用の場を自らの手でつくろうと考えて実行に移します。歯ブラシ工場です。ニューラナークのロバート・オーエンの製糸工場がモデルとなります。「竹田」というのは賀川が留学中、貧民窟での活動拠点を守っていた武内勝のことです。真面目で信心深い武内は新川での賀川の活動になくてはならなかった人物です。同志といっていいかもしれません。賀川に学び大きく成長しました。

 歯ブラシ工場は、1万円の資本で始まります。協力者がいたのも驚きです。武内ら賀川の弟子たち数人が大阪の歯ブラシ工場に学びに行きます。モーターなど機械類も大阪から搬入されます。たまたまマヤス先生を訪れていたオーストラリアの貿易商が、賀川の事業に共感してくれて、全量オーストラリアに輸入する約束もしてくれました。

 結論的にいえば、賀川はまた失敗してしまいます。本来は新川の貧民窟に住む人々に就労の場が必要だと考えて始めた事業でしたが。貧民窟の人々は根を詰めた仕事には向いていませんでした。すぐに辞めてしまうのです。結果的に多くの従業員は新川に住む以外の人に依存することになりました。無理して家で歯ブラシの豚毛を埋める仕事をさせよう内職に出しましたが、帰ってくるのは真っ黒になった歯ブラシばかりで商品になりませんでした。『壁の声聞くとき』からその苦労の一部を引用します。

 広告を出すと、すぐ三十五六人の娘やおかみさん達が集って来た。然しその割に貧民窟の長屋の人達は少なかった。多くは貧民窟外の労働者の家庭の主婦や娘達であった。

 愈々毛植ゑを教授する段になっても、貧民窟の娘達は成績が悪く、仕事が粗雑であった。それに反し、外側の娘達は覚えも早く、仕事も立派であった。

 持って帰って仕事をさせてくると、貧民窟の長屋の娘達はブラシュの毛を真黒にして了って、一度洗濯し消毒し直さなければならない程穢して来た。

 つまり、貧民窟の人達に向く内職はブラッシュの毛植のやうな叮嚀で、清潔な仕事は向かないと云ふことがわかった。そこにまた新見の日論見がはづれてゐた。

 実際、新川からい来た見習生の多くは一週間とは統かなかった。
「こんな辛気臭い仕事、うちには出来ん」と云うて帰って行って了った。

 毛植は内職としては最も利益の多いものであった。熟練したものは一日二円三円と取るものも少なくなかった。それで新見はそれを新川のおかみさんたちに熟練させようとしたが、それが全く此地に向かないと云ふことを発見して失望した。

 工場経営の第一ヶ月は四百円の欠損であった。

 栄一はその欠損を凡て自分の責任として、原稿料と給料を全部捧げた。然しまだそれでも足らなかった。設備費に一万一千円から入れて了ったものだからどうしても甘いこと行く道理がなかった。彼は月給と原稿料で賃銀の支払ひは済ませたが、電力代や、その他の諸払ひに栄一は困って了って、また島上町時代の、二の舞を演じ始めた。

 彼は、裏の畑野さんに頼んで二百円借りて来た。 顔は癩病で全くくづれて了ってゐる乞食上りの高利貸に彼は十数回お辞儀して月百円に付四円の高利で二百円借りた。それでも新見は地獄の門を通り抜けたより猶感謝して、畑野の潜り戸を出た。

 十二月は猶会計が苦しかった。十五日の勘定も、三十一日の勘定も容易じゃなかった。遂に彼は株主の池本の紹介で、吾妻通六丁目の米屋から同じく月四朱で四百円借りて、無事に支払ひをすませた。

 損失の最大原因はその不熟練にあった。第一保田に竪鋸を持たせたのが間違ひであった。何千円と値打のあるものを、彼は屑物にして了った。そして浅田の竪穴も高井の横穴も全くものになって居なかった。「大正ブラッシュ」は賃銀金払ひで倒れねばならぬ運命に頻してゐた。
 歯ブラシ工場は失敗したが、貧しい人たちのために雇用の場を創設することは生涯の課題となりました。
20090308-153004(2).jpg 第二章 コンツェルン

 私がJA職員向けの雑誌「教育と文化」2009年9月号に書いたムハマド・ユヌスさんと賀川に関するコラムを紹介します。

 協同組合が示す持続可能な経営

 2009年3月、賀川豊彦献身100年でノーベル平和賞受賞者のバングラデシュのムハマド・ユヌスさんを神戸市で開いたシンポジウムに招きました。2008年9月のニューヨーク発の経済危機以降、ユヌスさんのマイクロファイナンスやソーシャルビズネスがにわかに注目を集めています。利益の最大化を求めてきた資本主義の対極にあった社会主義はすでにほとんど消滅しており、人々が新たな経済のパラダイムを模索し始めているからです。

 マイクロファイナンスは1970年代、ユヌスさんがバングラデシュのチッタゴン郊外の農村で始めた小規模金融です。貧しさゆえに高利貸の犠牲になっていた農村婦人に千円単位の金を貸しました。バングラデシュには雇用という概念がありません。特に農村は自ら機織りをしたり、鶏を飼って卵を売ったりしなければ生活ができないのです。せっかくの売り上げが高い利子に消えていました。ユヌスさんは低利でお金を貸しました。条件は子どもを学校に行かせるなど生活の向上を目指すことでした。

 小さな村から始めたマイクロファイナンスは今ではグラミン(農村)銀行となり、その発想は途上国だけでなく先進国でも広がりを見せています。ユヌスさんの最近の関心は、ソーシャルビズネスです。配当のない会社だ。「見返りのないものに誰が投資するか」と反対された。ユヌスさんの考えは違いました。

「金持ちや企業は社会貢献と称して多額の寄付をしている。尊いことだが、寄付は1回限り。その金額を投資すれば利潤が上がり、その利潤を再投資することで資金は持続性を持つのだ」

 数年前、フランスの食品会社ダノンが興味を示し、バングラデシュで貧しい子どもたちの栄養食としてヨーグルトの合弁製造が始ましました。会社の目的は子どもたちの健康です。続いて仏ヴィオリアとミネラルウオーターの製造販売が始まっています。この会社も健康が目的。独フォルクスワーゲンには洪水時にエンジンを船に乗せ替えたり、乾期にポンプに使えたりするグラミン車を開発してほしいと要請しています。目的は災害復帰である。金もうけでないそれぞれの目的を持つのがソーシャルビジネスなのです。

 賀川が90年前に那須善治に話したこととそっくりです。ソーシャルビジネスと協同組合とは法人のあり方も違いますが、貧困からの脱却を目的とし、助け合いを手段とすることにおいて変わりはありません。

 賀川の協同組合は神戸新川の貧民窟や関東大震災後の本所から生まれました。購買組合(生協)を創設し、組合の資金で質屋(金融)を起こし、学校を経営し、病院を建てました。戦後のJAの共済事業や全労災も賀川に端を発する。人々の出資金は直接の配当として個人には還元さませんが、何倍もの価値となって社会や地域に還元されるのです。

 経済を金もうけの手段にせず、利益は社会の福利厚生のために使うべきだというのが、賀川の持論であり哲学です。

 今、協同組合に求められるのは賀川やユヌスさんの発想です。日本ではかつてのような貧困はなくなりましたが、逆に「助け合い精神」はどんどん退化しています。協同組合は元々、「一人は万人のために、万人は一人のために」というロッチデールの精神から生まれています。弱肉強食の時代でもありましたから、人々は官に頼らず助け合って自分たちの生活を守る必要があったのです。自助と互助です。今は国や自治体の責任が問われるだけで、地域が自助する精神を忘れてはいないでしょうか。

 2008年来、再び「貧困」が社会を象徴するキーワードになっています。かつての貧困ではありませんが、少子高齢化で日本経済が縮小に向かい、この10年で勤労者所得は2割も減少、格差もかつてなく広がりつつあるのです。

 しかし、日本には農協300万世帯、生協2200万世帯といわれる層の厚い協同組合の地盤が残っています。信用事業、共済事業を含めれば巨大な資金も抱えています。協同組合が本来持っているはずの目的を忘れ、ヒト・モノ・カネが眠ったままでいることです。監督官庁があるとはいえ、それぞれの組織が縦割りであってはいけない。生産から流通、消費、教育、医療、保険まで生活に関わるあらゆる事業が互いに協力しあえばいい。企業や官依存ではなく、地域の協同組合こそが経済の立て直しの主役を果たさなくてはならないのです。

 大原孫三郎の社会経営

 ユヌスさんや賀川と似た観点から企業を経営していた事業家がかつて倉敷にいました。大原孫三郎(1880-1943)です。倉敷紡績を有数の繊維企業に育てる一方で、利益を社会貢献活動の面でも傑出していた人物でした。3000人の孤児を岡山で育てたことで有名な石井十次の事業を生涯、支え続けました。賀川より8歳年上で、関西で活躍しましたから賀川との接点は必ずあったはずですが、まだ見つけることができません。

 大原は女工さんたちが病気になった時のために病院(現倉敷中央病院)を建設しました。孫三郎は東洋一の病院を作れといいます。病院のホールには熱帯植物を植え、患者たちのやすらぎのためにコンサートホールも兼ね備えた建物でした。水密桃やブドウのマスカットを生んだことで有名な大原奨農会農業研究所(現岡山大学資源生物化学研究所)も大原がつくらせました。20世紀を通じて労働問題のシンクタンクとなって問題提起をしてきた大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所や市立倉敷商業補習学校(現岡山倉敷商業高等学校)、そして大原美術館。面白いところでは民芸運動を興した柳宗悦の夢実現のために日本民芸館を世に送り出します。つまり農業振興やシンクタンク、文化・教育分野に投資したのです。今なら、国や自治体が行うべき事業を会社と自分の資産から支出して社会に還元したといえます。企業家の立場から防貧に乗り出したと考えれば、それなりの共感が得られるのではないでしょうか。

 株式会社は事業経営して生まれた利潤を持ち株数に応じて株主に還元するシステムです。協同組合は違います。日本の協同組合法ではどちらかといえば「非営利」ですが、配当を禁じているわけではありません。ロッチデール原則では「配当」も認めていますが、まず「教育」への投資を勧めているのです。

「営利」「非営利」の違いは「儲ける」「儲けない」の話ではありません。勘違いしないようにお願いします。正確にいうと、「分配」を「する」「しない」の話なのです。日本で配当を禁じているのは社団法人や財団法人、そしてNPO法人です。ですから、株式会社が「悪」で、協同組合が「善」だと一概にはいえないのです。すべからく経営する人の問題となるのでしょう。大原孫三郎はまさしく協同組合的経営を実践した事業家の一人といえるのだと思います。その点でユヌスさんのソーシャルビジネスという概念は非常に分かりやすいといえましょう。
rhythm.jpg 賀川の関する多くの伝記や研究は社会運動家としての賀川豊彦として描かれています。大宅荘一が書いたように「運動と名のつくもののほとんどが賀川に端を発している」ことは事実であろうと思いますが、長年、経済記者として過ごした筆者にとっての賀川は貧民のためのコングロマリット、あるいはコンツェルンを築こうとしたのが賀川豊彦ではないかと考えています。

 賀川の長男の純基氏がまとめた賀川豊彦事業展開図にはとんでもない数の「企業」が登場します。そうした事業は賀川一人で行ったものではありませんが、賀川が旗振り役になった企業の少なくないのです。一番驚いたのは、リズム時計の歴史でした。

 日本には、セイコーの服部時計店とシチズンという大きな時計企業がありますが、目覚まし時計ではリズム時計が健闘しています。そのリズム時計の創業者が賀川豊彦だといったら誰もが驚くと思います。リズム時計の前身は農村時計製作所といって、賀川がいなければ生まれていない会社だったのです。

 また、高崎ハムもまた、賀川豊彦と非常に縁の深い企業の一つですし、コープこうべ、共栄火災海上保険、中之郷信用組合、中野総合病院、平和学園、生協から、保険、金融、病院、学校と社会に不可欠な組織を次から次へと構築していきます。

 昭和21年3月30日の埼玉新聞は「南桜井が"時計の村" 月産6万個の目覚ましを輸出」と題して驚きをもって賀川の始めた事業を紹介しています。

 賀川豊彦氏多年提唱の「農村と機械工業の合一」がいよいよ北葛飾南桜井村に全国農業会の後援によって実現することになった。即ち南桜井裏の服部時計工場は数百万円を投じた巨大な施設と数千の工員を擁しながら終戦後、此處数ケ月を何等の方面にも転用されず無為に過ごして来たが、今回全国農業会の幹部柳川宗左衛門氏等の手によって『農村時計製作所』として新発足することになったもので同工場操業の暁は、三千工員を収容、月産6万個の目覚時計を生産する計画であり、生産品は大部分、食糧品輸入の見返り物資及び賠償品として重要な役割を果たす訳である。
 同工場は最初賀川豊彦氏指導のもとに、農村に精密機械工業を普及する目的を以て『農村時計学校』として出発する筈であったが、都合上企業の形体を取ったもので将来は同氏指導の下に埼葛地方を『時計の村』化する計画でこれが実現すれば、農閑期の余剰労力の活用は勿論、傷病軍人等の更生施設としても寄与する所が大きく世人の期待する處は大きい。
 なほ操業開始は4月下旬で第一回の生業出荷は7月下旬か、8月上旬の見込みである。

 現在の農協の原形をつくったのは賀川豊彦でした。1922年、福島県でキリスト教の伝道の傍ら農業指導をしていた杉山元治郎と日本農民組合を大阪で結成しました。小作料の引き下げなど農民の立場から団結して地主に対抗。250人で始まった運動は3年後には7万人以上の組織へと成長したのです。

 賀川は農民の社会的自覚を促す目的で農民福音学校を経営しました。デンマークのフォルケ・ホイスコーレに倣ったもので、農閑期に農村青年を集めて教育しました。賀川が主張したのは「立体農業」でした。地球上の1割5分しかない平地にしがみついていたらやがて食料が不足する。米麦穀物は中心にするが、残り8割5分を立体的、つまり山に依存すべきだと主張したのです。つまり、シイタケを育て、クリやクルミを植え、ヤギやヒツジを飼って乳をとる。農閑期の田んぼではコイなど淡水魚を飼えば農村経済は相当に充実するという。いまでも通用するかもしれない"理論"です。

 それでも農村の生活は不十分だと考えた。軽工業を農村部に誘致して現金収入の充実を図るべきだと考えていました。

 その実践として戦後間もなく生まれたのが農村時計製作所です。スイスの時計産業が賀川の目標でした。東洋のスイスを夢みて、「農村に精密工業を! 時計工業を!」が合言葉となります。賀川の夢に手を差し伸べたのが全国農業会(現在の農協中央会、全購連、全販連、共済連)でした。

 昭和21年、埼玉県葛飾郡南桜井村(当時)にあった旧陸軍の信管工場跡地を占領軍から譲り受け、時計工場と技術者養成期間「農村時計技術講習所」を設立しました。資本金は350万円。全農が8割、社長が1割、大倉系の中央工業も1割を出資。会長には、全農会長、柳川宗左衛門、賀川は相談役になりました。講習所長は服部の技術者、古川源一郎です。

 19万坪の工場敷地には2万坪の工場建屋と2000台の工作機械がすでにありました。同年3月28日、従業員1500人で月産3万個の目覚まし時計製造を目標にスタート。約半年後の8月に第1号の3・5インチの目覚まし10個が完成しました。みんな抱き合って喜んだが、売れませんでした。バリカン、電気開閉器にも手を出しましたが満足できるものはできませんでした。結果的に1年足らずで3000万円の損失が出ました。

 そこへ大口出資者の全農に対する解散命令が出て、農村時計は満身創痍。経営は全農の農村工業部長に就任したばかりの谷碧(たに・きよし=後のリズム時計社長)に任され、なんとか生き残ることになったのです。

 日本時計学会の雑誌『時計』昭和24年7月号表紙にはセイコーやシチズンなどを押しのけて農村時計の目覚まし時計「Rhythm」が載っています。会社発足して2年の農村時計が存在感を示しています。以下のような説明が書かれていました。

   表紙写真はNOSON 3 1/2吋目覚時計Rhythmを示す。
   Rhythmは日本業界最高級品として内地は勿論、世界各地---特に印度パキスタン、
   シンガポール、メキシコ、バンコック等から註文があり毎月15,000個の輸出を目標に
   生産を進めている。
   株式会社農村時計製作所は終戦後興った時計工場としては最も整備された
   一貫作業工場であり・・・
   尤もこれは戦時中服部精工舎南櫻井工場として創られたものを技術者設備共
   其の儘同社が引継いだものであり・・・今後の進展を注目されている。

 苦難の連続だった農村時計は設立4年半で遂に行き詰まり、昭和25年11月3日に発足した新会社「リズム時計工業株式会社」に継承され、 シチズンが大株主となりました。

 日本の時計史に見え隠れするのが社会運動家の賀川豊彦なのです。賀川の時計づくりには後日談もあります。

P1030437.JPG 戦後、賀川豊彦が埼玉県桜井村に創業した農村時計製作所は、曲折を得てリズム時計に発展します。この会社には技術者養成機関として「時計技術講習所」がありました。全国から農業青年を集めて、時計製作の技術を学ばせ、それぞれの故郷で時計工業を興す夢があったのです。「農村に工業を」「日本を東洋のスイスに」という想いはやがて長野県の北伊那で実現しました。

 小説『幻の兵車』で登場人物の三好克彦に岐阜県で時計工場をつくる夢を語らせる場面があります。三好は主人公、木村蔵像の故郷、岐阜県美濃で語ります。

「木村君、この付近は土地も広いから農村工業を作るには持ってこいだね。僕は年来の理想を、この付近で実現しようと思っている」
「僕は、懐中時計の部分品を、農村の青年の副業にしたいと思っているんだが、この付近なら出来そうだね」

 賀川は農村改革のため、立体農業を推進したが、一方で農家の次男、三男が現金収入を得る場として「農村工業」が不可欠だと考えていました。そのころの工場はすべて都市部に集中し、農村から都市に労働力が流れる結果、スラムが増殖していたのです。

 賀川は長年スラムに住み付き、貧しい人々の生活ぶりを見ていましたから、その実態をつぶさに知っていました。農村に工場ができれば、彼らは都市に流れ出てスラムに住む必要はない。賀川にとって、農村工業という概念はスラム街の防貧対策のひとつでもありました。

 時計技術講習所の第一期の入学生は昭和21年4月から、桜井村に集まります。脱落者もありましたが、2年後に彼らは故郷に帰りました。講習所には長野県の青年が多くいました。岡谷工業という学校の果たした役割が大きかったとされます。その卒業生によって千曲川時計、龍水時計という二つの時計メーカーが生まれました。千曲川は長くは続きませんでしたが、龍水時計は上伊那で雄々しく立ち上がったのです。

 北伊那の辰野町にいま近代時計博物館があります。1996年に野沢和敏さんが自費で建設したものです。2008年9月、博物館を訪ね、野沢さんから話を聞きました。

 野沢さんはリズム時計の役員でサラリーマン生活を終えましたが、実は時計技術講習所の第一期生でもあり、龍水時計の「創業者」の一人でした。岡谷工業高校の3年の秋、父親から講習所の話を聞かされたといいます。父親は地元の農協の幹部でした。北伊那では養蚕が盛んで、伝統的に製糸業は協同組合的に運営されていました。

 北伊那の農協は龍水社といって、製糸工場も経営していました。賀川豊彦の影響を受けていた当時の北原金平社長は本気で時計製造に乗り出す覚悟でいたそうです。野沢さんらが研修を終えて帰郷すると養蚕の建物の一角が「時計工場」としてあてがわれました。

 昭和23年11月、時計づくりが始まります。素人軍団が2年、時計づくりを学び、さっそく生産に取り掛かるのですから、夢多きスタートとでした。野沢さんによれば「工業高校を出たのは僕だけだったから、僕がリーダーになった。工場長のようなものだった」。生産の準備を段取りする一方で、掛け時計の「設計」が続けられました。部品づくりのため近隣に10の工場が立ち上がったそうです。

 時計の部品をつくるため、伸銅が必要でした。銅がないので高射砲の薬莢を「くず屋」から買ってきます。これを近くの伸銅工場に持っていって「銅板」にしてもらいます。機械類は桜井の工場からの払い下げが主で足りない分は東京で調達しました。すべてが手作りだったそうです。

「講習所の先生たちは東大の先生だったり、精工舎の元技術者たちだったから、講義のレベルは相当高かったはず。われわれは恵まれていた。単なる座学ではなく、隣の工場で実地に研修もしたから時計づくりにな自信があった」

 野沢さんの回顧によると「時計はできた。動くには動いたが、日常的使用には耐えられなかった。北原さんには『故障する時計は売るな』と厳命された。だから商品になるのに結局2年もかかった。北原さんはよく我慢してくれたのもだと思う」
「われわれは意気盛んだったから、どこにもない時計とつくろうと励んだ。中三針方式の時計はまだ日本にはなかったから、これを目指した。時針、分針、秒針の3本が重なったものだ。次は30日巻。これはセイコーと愛知時計と龍水社しかつくれなかったが、難しすぎて試作品はお蔵入りとなった」

 昭和30年には龍水時計の生産した掛け時計が通産大臣賞に輝きます。役人が工場見学にやってきて「土間でのままの工場にびっくりしていた」そうです。賀川はこれを海外「東南アジア協同組合会議」にまで持って行き、「これは日本の農民がつくりあげた時計だ!」と演説して廻りました。

 そんな龍水時計の試行錯誤が20年以上続いた後、龍水時計はリズム時計の傘下に入ります。経営が悪化したからではありません。海外進出を図ろうとしたが、北伊那には人材が不足していたからでした。北伊那での生産は2007年まで続き、生産は中国に移管されて工場の役割は終わりました。

 野沢さんに信州に精密工業が集積した理由を聞きました。龍水時計の役割は決して小さくないが、機械工業技術者を育てた岡谷工業高校の存在は大きいと答えています。学校と協同組合思想、そして向上心の高い農民が「日本のスイス」を育てたのです。
works03_image01-thumb-250x133-257.jpg 賀川豊彦は1914年から1917年にかけてアメリカのプリンストン大学に留学します。アメリカから帰国した賀川を余人が真似できないのは神戸の貧民窟 に帰るところです。賀川は社会活動を再開するのですが、その活動は質的に大きく変化します。新川の賀川の救霊団はイエス団と名前が変わっていましたが、そ れまでの「救貧」から「防貧」へと転換します。それまでの慈善的活動からどうしたら貧困から脱出できるか社会を変革する活動です。まずは購買組合、いまの 生活協同組合を手掛け、ついで労働運動にのめり込み、農民組合の組織化に転じます。

 賀川の労働組合運動については多くが語られていま す。川崎・三菱造船の争議を指導し、約3万5000人のデモを組織しますが、結局、失敗に終わります。デモが暴動に発展し、賀川が最も嫌った「暴力」につ ながってしまいます。賀川自身も長期間の拘留を受けることになります。ロシア革命は1917年、ロマノフ王朝を倒します。その勢いは全世界に広がります。 日本も例外ではありませんでした。組合運動の指導方針をめぐって穏健派の賀川は革命を目指す実力行使派に敗れてしまいます。その後、賀川は組合運動から農 民運動に転じます。共産主義を農村に広げてはならないという信念が背景にありました。

 購買組合運動については、1919年、大阪市東区 農人橋に有限責任購買組合共益社を設立、1920年には神戸購買組合、21年に灘購買組合を相次いで設立します。神戸購買組合と灘購買組合はそれぞれ消費 組合、生活協同組合と名称を変えて、後に合併して現在のコープこうべへと発展します。組合員数140万人、年間売上高2600億円を超える賀川が21世紀 に遺した最大の事業です。

 売上高2600億円というのはあくまで兵庫県での数字です。協同組合は基本的に県単位で設立されている点を考慮すれば、地域でダントツの流通業といえましょう。流通一大定刻を築いたかつてのダイエーも神戸ではコープにかなわないとさじを投げたのです。

  賀川はイギリスのロッチデールやドイツのライファイゼンにならって、労働者が助け合って販売したり、生産したりすれば搾取のない社会が作れると考えまし た。日本では1900年にすでに産業組合法が出来ていて、その当時、協同組合が多く設立されていましたが、ほとんどが失敗に終わっています。賀川はもう一 度、協同組合に社会改造を託したのです。

 灘購買組合設立では面白いエピソードがあります。初代組合長になった那須善治という人物です。 仲買人として第一次大戦で成り金となりますが、本人はいたって質素な生活をしていました。大阪で東京海上保険の専務をしていた平生釟三郎に社会に役立ちた いと相談します。平生は岐阜県の出身ですが、甲南学園を創設者し、後に広田弘毅内閣の文部大臣にもなります。平生はそれなら新川の賀川に話を聞いたらいい とアドバイスします。那須はさっそく賀川のもとを訪ねます。賀川は那須にこういいました。

「那須さん、そのお金を貧しい人々への慈善事業 に使うのもいいでしょう。しかし、慈善事業はデキモノに膏薬を貼るようなものです。膏薬を貼ってデキモノは治るかもしれませんが、また別のところにデキモ ノが出てきます。それよりも、デキモノができないような体質をつくることに使ったらどうでしょう」といって購買組合、つまり生活協同組合の設立を勧めま す。

 日本の流通産業史からみてもこの二つの生協はユニークな歴史を残しています。発足当時の神戸購買組合は店舗を持ちませんでした。「御用聞き」が組合員の家を回って注文をとっていました。

  1931年にようやく葺合区塚通の本部に商品陳列室を設けて約30種類500品目の取扱商品を展示して組合員に紹介できるようになりました。本格的な店舗 は六甲支部に1933年、百貨店方式の店舗を開設したということです。灘購買組合は1931年、芦屋出張所に日本初のセミ・セルフ店舗を開設し、アメリカ で誕生したスーパーストアの形式をいち早く導入したのです。計量も伝票書き込みも組合員任せで商品のロスが出てやむなく中止となりましたが、1950年に 神戸生協がスーパーマーケット式店舗を開設、1957年に灘生協がセルフサービス店「芦屋フードセンター」を開店しました。中内功さんが主婦の店ダイエー 1号店となる千林店を始めたのが19577年9月です。ですからスーパーストア方式を日本で最初に導入したのはダイエーではなく、コープこうべの前身だっ た神戸生協だったといっていいのかもしれません。。

 戦前、日本には多くの生協がありましたが、第二次大戦を乗り越えたのはこの二つの生協と福島生協だけだったといわれています。賀川創設した大阪の共益社と本所の江東消費組合は戦災で消失し、戦後の復興はなりませんでした。賀川、戦後も協 同組合運動に力を入れ、現在の日本生活協同組合連合会の母体となる日本協同組合連盟を設立し、全国的規模での生協設立を促しました。賀川豊彦が「生協の 父」といわれるゆえんです。

ryutuuriage.jpg 同じ流通業界の百貨店とスーパーの2008年度の経営を比較してみましょう。日本百貨店協会の統計では90 社278店舗で4兆6958億円。日本チェーンストア協会の統計では70社8056店舗で13兆17033億円、コンビニの日本フランチャイズチェーン協 会の統計では4万7114店舗で7兆8566億円となっています。

  一方、日生協の2008年度の会員数は2532万人、総事業高は3兆4114億円となっています。百貨店やスーパーの売上高と比較して、日生協の売上高は 日本の消費の一翼を担っていることが分かると思います。しかし、残念ながら、監督官庁が厚生労働省ということで「経済」の範疇としてとらえられていませ ん。生協はあくまで国民の福利厚生でしかないのです。監督官庁が農水省であるJAも同じ扱いです。賀川が生きていれば、最も嘆くところでしょう。協同組合 は日本の経済統計からすっぽりと抜け落ちていることを指摘せざるを得ません。

 目をヨーロッパに転じてみましょう。組合員数や事業規模で いえば、日本の生協は世界で圧倒的な大きさとなっていますが、ほーロッパ諸国人口や経済規模からいって存在感は日本よりも大きいといえそうです。たとえ ば、スイスにはミグロとコプスイスという二大生協グループがありますが、食品小売りの45%も占めていて、国民経済と暮らしに占める生協の比率は非常に高 いものがあります。イタリアの生協の総売上は同国の小売業でトップと抜群の存在感である。グローバル経済の進展で、欧米での生協は流通大手企業にシェアを 食われつつあるというのが実態ですが、北欧や東欧を中心に中堅の流通業としてまだまだ存在感を失っていません。

 そんな生協を90年前に関西に開業した実業家が賀川だったという評価をしたいのです。

 ニューラナークのオーエン

 2004年6月に一週間ほど南スコットランドを歩きました。賀川の協同組合運動のモデルとなったロバート・オーエンの工場経営を学ぶために、グラスゴー郊外のニューラナークを訪ねたのです。いまでは世界遺産に登録されています。

  ニューラナークはスコットランド最大の河川であるクライド川の渓谷沿いの寒村で、200年以上前の当時としてはイギリス最大の紡績工場と従業員の生活をよ みがえらせています。いまでは渓谷は緑の木々におおわれ、水の音と鳥のさえずりだけが静寂を破る、空気がとてもおいしい場所でした。

  ニューラナークの歴史は220年前にさかのぼります。紡績機械を発明したリチャード・アークラウトとグラスゴーの銀行家デイビット・デイルがこの地にやっ てきて「ここほど工場用地として適した場所はない」といって周辺の土地を購入し、1785年に紡績工場を立ち上げました。ワットが蒸気機関を発明したのは 1765年。狭い渓谷を流れる水流がまだ動力の中心だった時代のことですが、イングランドのマンチェスターはすでに繊維産業の町として名を馳せていまし た。

 ニューラナークが世界的に知られるようになったのはデイルの娘婿となったロバート・オーエンが1800年に事業を引き継いでからで す。オーエンはまず従業員の福利厚生のために工場内に病院を建設しました。賃金の60分の1を拠出することで完全無料の医療を受けることができました。現 在の医療保険のような制度をスコットランドの片隅で考え出したのです。

 19世紀の繊維工場は蒸気とほこりにまみれ、労働と疾病は隣り合わせでした。日本でも初期の倉敷紡績が東洋最大の病院を工場に併設したことはいまも語り継がれていますが、その100年も前にオーエンは従業員の福利厚生という発想を取り入れていました。

  次いで取り組んだのが児童への教育でした。当時の多くの紡績工場では単純作業が多く安い賃金で雇用できる子どもたちが労働力の中心だったのです。子どもと いっても6歳だとか7歳の小学校低学年の児童も含まれていました。オーエンは10歳以下の児童の就労を禁止し、彼らに読み書きそろばんの初等教育をさずけ ました。

 1816年の記録では、学校に14人の教師と274人の生徒がいて、朝7時半から夕方5時までを授業時間としました。家族そ ろって工場で働いていた時代ですから、学校に子どもたちを預けることによって母親たちは家庭に気遣うことなく労働に専念できるという効果もありましたが、 当時、児童の就労禁止を打ち出したことでさえ画期的なことでした。

 オーエンの教育でユニークだったのは、当時のスコットランドで当たり 前だった体罰を禁じたことでした。さらに五感を育むために歌やダンスなども取り入れました。当時、音楽などを教えていたジェームス・ブキャナン先生は ニューラナークでの教職について「人生の大きな転機をもたらしてくれた。金持ちや偉人になるといった欲求を捨てて、誰かの役に立つことで満足するように なった」と語っています。オーエンの学校にそういう雰囲気があり、教師たちも感化されたのでしょう。

 オーエンはイギリス各地で起きてい た労働者(特に児童)の搾取や悲惨な労働環境を目の当たりにし、「そうした環境では、不平を抱いた効率の悪い労働力しか生まれない。優れた住環境や教育、 規則正しい組織、思いやりある労働環境からこそ、有能な労働者が生まれる」という考えにたどり着きました。19世紀の弱肉強食の時代に、福祉の向上こそが 経済効率につながるという理念に到達していたのでした。

 それから100年以上もたった1925年にロンドンの町を訪れた社会改革者の賀 川豊彦は工場労働者が劣悪な環境で働いているのに驚きました。日本と変わらないスラムが町外れに多く形成されていました。日本でもロンドンでもスラムは貧 困と不衛生、そして犯罪の巣窟となっていたのです。

 チャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』や『二都物語』の世界が20世紀のロンドンにも厳然として残っていました。

  オーエンはニューラナークでの実践活動を理論化した『新社会観-人間性形成論』を書き、国内外を回り、議会や教会関係者から経済学者まで広く工場の労働条 件改善の必要を説きました。またニューラナークでの「実践」を通して国内外で多くの理解者を得ました。そして彼の経済理論は1820年の『ラナーク住民へ の講演』で社会主義的発想へと一気に昇華したのです。この講演でオーエンは「生産者自らが生み出したすべての富について、公平で一定の割合の配分を受けら れる必要がある」と語りかけました。工場の福利厚生の改善だけでは満足できず「社会変革」の必要性まで打ち出したのでした。

 オーエンが その後、あまた排出する思想家や経済学者たちと一線を画し、200年後のわれわれに感動を与えるのは彼が「偉大な実践者」であったということです。賀川豊 彦が100年前にスラムに飛び込み貧困と病気、さらに犯罪と戦いながら、貧困救済事業を立ち上げて名声を勝ち取った経緯と重なる部分が多くあるのです。

 ロバート・オーエンは企業経営に関わる富の社会還元の手法を多く残しました。地域通貨や労働組合などもそうですが、どうしても忘れられないのは協同組合的店舗経営です。

 協同組合は1844年代にマンチェスター郊外のロッチデールで始まったものとばかり思っていましたが、ロッチデールの人々が参考にしたのは実は、ニューラナークにあった企業内店舗の在り方だったのです。

  200年前の商人たちはどこでも相当にあこぎだったようです。オーエンによれば、村の店で売っていた商品といえば「高くて質が劣悪。肉だったら骨と皮に毛 の生えた程度のものばかり」だったのです。村民の人たちはほかに店がないことをいいことに劣悪な品質のものを高い価格で買わされていました。しかも多くの 商いが掛け売りだったため、村の人々の借金はたまる一方でした。

 そうした状況は100年前の日本でも同じでした。日本の文学にはそうし たあこぎな商売というものはあまりでて来ませんが、賀川豊彦の多くの小説には貧乏人が労働を通じて搾取されるだけでなく、購買を通じても対価に見合った商 品が販売されていないことがこと細かく書かれています。オーエンや賀川が昨今の流通業界の価格破壊の状況を見たら卒倒するに違いありません。

  ニューラナークの人々を救済するためのオーエンの答えは工場内に自らの購買部を設立することでした。そして「生活必需品と生活のぜいたく品、そしてお酒も 必要」と考えました。お酒についてオーエンは比較的寛容でした。酔った状態で勤務することは当時の工場では自殺行為に等しかったのですが、適度の飲酒は生 活のぜいたくの一つと考えていたようでした。

 1813年、オーエンは工場敷地内のほぼ真ん中に三階建ての店舗を開設。工場経営者として の地位を利用して卸売りから安く大量に仕入れ、村の店のほぼ2割安の価格で販売しました。販売したのは、食料や調味料、野菜、果物といった生活必需品だけ でなく、食器や石鹸、石炭、洋服、ろうそくなどなんでもありました。

 この建物は現存していますが、当時の一般的な消費動向や2500人という工場の人口からすればとてつもなくおおきな店舗だったはずです。

  ニューラナークでの賃金はほかと比べて高いというわけではありませんでしたが、当時、村を訪れたロバート・サウジーの報告によると「一家で週2ポンド (40シリング)稼いだとしてラナークで住むことによって10シリングほど生活費は安くてすんだ」そうなのです。つまりお金の価値を高めたのです。

 やがて、村人の借金はなくなり、あこぎな店も村からなくなくなりました。そして店舗であがった利益は前回書いた児童教育に注ぎ込まれました。

  労働者の生活改善というオーエンの発想は、多くの人々に刺激を与えました。そして彼の協同組合的考え方を発展させた人々をオーエニーズと呼ばれたのです。 ロッチデールの織物労働者によって1830年から試行錯誤が続けられ、1844年、13人のメンバーによってようやく「ロッチデール・エクィタブル・パイ オニア・ソサエティー」設立にこぎつけました。彼らは毎週2ペンスずつを1年間にわたって貯蓄して28ポンドの資金を集めました。

 10ポンドで10坪ほどの店舗を3年間契約で借り受け、16ポンド11シリングでオートミール、小麦粉、バター、砂糖、ろうそくを仕入れ、商いを始めました。初日の商いが終わってみると彼らは22ポンドの利益を手にしていました。

  彼らの当初の目的は、普通の人々がお金の価値に見合った商品を購入できることにありました。そして彼らはこの新しい購買組織の5原則を約束し合ったので す。この時決まった(1)入・脱会の自由(2)一人一票という民主的組織運営(3)出資金への利子制限(4)剰余金の分配(5)教育の重視-

という5原則は現在の生協運動でも掲げられているものです。

 ロッチデールで始まった小さな試みはやがてイギリス全土に広がり、国境を越えて拡大しました。
 今も賀川精神を受け継ぐ金融機関があります。中ノ郷信用組合です。弱った信用組合を引き受けるうちに大きくなりました。戦後、金融制度の改革で多くの信用組合が信用金庫に改組しました。組合員に対する貸し出しを中心とする点では大差はありませんが、格が上になった気分になるのです。中ノ郷は以前から十分に信用金庫に格上げできる経営基盤を確立していますが、あくまで信用金庫のままで満足しています。

yokinryo.jpg 日本には都市銀行、第二都銀(旧相互銀行)、地方銀行、信金、信組、農協・・・、多くの業態があります。役割はそれぞれ違うため業態が違うのですが、いまでは同じような金融業務を行っています。面白いのは、たとえば僕が住んでいる高知県には都市銀行はひとつしかありません。みずほ銀行だけです。みずほ銀行はもともとは国策会社だった日本勧業銀行を母体としています。明治期、勧業は農業を意味していました。ですから各県に支店を持っていたのです。地方都市に行くと都市銀行の存在はものすごく薄いのです。逆に信金、信組の役割が大きくなっています。意外と知られていない日本の金融の実態です。

 たとえば大都市の京都でも市民に一番親しまれているのが京都中央信金です。京都市内では地銀の京都銀行よりも存在感があるのです。みんな「チュウシン」と親しんでいます。預金量も4兆円を超え国内最大の信金となっています。協同組合金融が株式会社と対等に勝負しているのはどうしてなのか考えなければなりません。こういったことは東京に住んでいては分かりません。

 中ノ郷の前の理事長さんに話を聞いたことがあります。東京のような大都会でどうして信組が成り立つのか聞きましたら、「中ノ郷はバブルのとき、都銀のように土地に融資しませんでした。また融資する場合でも、顔の見える範囲でお金を貸します。土地を担保に取ることも少ないので、担保価値が下がることによって中ノ郷のバランスシートが崩れることはありませんでした」

 さすがに賀川たちが設立した金融機関だと思いました。

 中之郷の50年史を見ますと、やはり特徴のある人々が歴代の経営中枢にいることが分かります。初代の理事長は田川大吉郎さんといって明治学院大学の総理(学長)だった方です。二代目は木立。三代目は奥平定蔵でした。

 そもそも、中之郷は質屋から始まりました。関東大震災後に本所で救済活動をしていた賀川を訪ねたのが質屋を経営していた奥平でした。

「関東大震災の社会大混乱のなかで、質屋業者があまりに不当な高金利で庶民階級を圧迫するのをみて義憤を感じ、同志と計って質屋改善連盟をおこし、業者の覚醒を促した。また一方では、有限責任北豊島消費購買組合を設立し、スローガンに『団結は力なり』『消費者の団結は新社会を生む』」とし、これを大きく掲げて協同組合の理想の実現に努力した。賀川が本所基督教産業青年会を設立して社会事業に精進しているとき、奥堂は訪ねていった。その目的は、日本における産業組合の運動をいかに実践に移すかということを問うためであった」(中ノ郷信用組合五十年史、1979年)

 奥平のアイデアは真面目な質屋を本所で経営したいというものでした。

 森静朗・元日大教授は信用組合について「運動として、大資本に対抗し、或は高利貸からの収奪から逃れるために弱い者同志が集って、一つ一つは弱いけれども、集って力となった場合には大きな爆発力になるとの発想があった」(賀川豊彦学会論叢創刊号「賀川と信用組合理論と実践」1985年)と言っています。

「賀川と信用組合理論と実践」ではまた次のようにも書いています。「商業銀行は古今東西を問わず、庶民の汗水の結品である資金を自らの手に戻すことなく、大企業、大資本のための資金の供給源となってしまう。自分達の資金がなぜ、自分達で利用できないのか、つねに自分達が日陰であってよい筈はない。自分達の資金を自分達の手にひきもどせというねがいが、信用組合運動になり、広く自分達と同じ弱い立場にある者が呼びかけ合い、相互に手をにぎり合おうとして展開して行ったのが、信用組合運動でもあった」

 いま、多くの協同組合金融は存在感が薄れていると思われがちですが、地方ではなかなか健闘しているのです。信金、信組と労金を合わせると郵貯の預金量に匹敵し、農協を加えると都銀の合計額に迫っていることを覚えて置いてください。

 
399.JPG 購買組合の次に手がけたのが、組合病院の経営でした。賀川が新川の貧民窟で診療所を開設して無料で貧しい人たちの病気を治したことは話しました。当時、貧困と病気は隣り合わせでした。貧しいから無理をする。無理をするから病気になったり、けがをしたりしやすい。でも医者にかかるお金がない。医者にかかれないから病気がひどくなり働けなくなる、そうすると貧しい人はますます窮地に陥る。

 そんな連鎖を断ち切るために賀川は組合病院を考えたのです。関東大震災の直後のことです。東京市に申請しましたが、医師会の猛反対に遭います。医療保険という概念すらない時代です。

 組合病院は賀川の独自の発想ではありませんでした。賀川が設立を考えていたとき、青森や秋田ではすでに組合病院設立に向けて運動が起きていました。

 組合病院は、日々の賃金の中から会費のように積み立てておけば、いざという時に安い医療費で医者にかかれるというシステムです。現在の医療保険の先駆け的システムといえましょう。国際連盟の事務局次長の職を辞して帰国したばかりの新渡戸稲造も全面的にバックアップしてくれて、1932年にようやく協同組合病院の認可が下り、現在の東京医療生活協同組合中野総合病院が設立されます。

 同病院のホームページの沿革には「中野総合病院は、昭和7年5月27日、故新渡戸稲造博士(旧5千円紙幣の肖像)・故賀川豊彦氏等の主唱によって創立された、日本で最初の医療利用組合の病院です」としか紹介されていませんが、労働者の出資金によって設立された病院は世界的にも特異な存在なのです。

 賀川豊彦は社会運動家として名を成しましたが、一方で社会の仔細な観察者でもありました。自分の目で見た社会を克明に観察し、それを文章として残したライターでもあったのです。20歳代に書いた『貧民心理の研究』は後に「差別書」として批判の対象となりますが、スラムに住む貧民の生活実態を報告した数少ない書の一冊であり、今考えれば貴重な歴史資料であることはまぎれのない事実です。40歳代で書いた『医療組合論』(全国医療利用組合協会、1936年4月)は戦前の医療制度が大きく変わる変遷を描いた時代史もあります。医療関係者にとって必読の書であると信じています。

 昭和30年代に医療組合が「燎原の火」のごとく全国に拡大していきました。きっかけは賀川の中野組合病院の設立でした。当時の社会問題はまさしく農村の貧困と疾病であります。日本が満州に進出し軍国化する中で少壮の陸軍士官たちがクーデターまで図った背景には見捨てられた農村がありました。政府の多くの官僚たちが直面する問題に手をこまねいている間、賀川は勇敢にも医師会を敵に回しながらも医療組合論をぶち上げ、率先して東京で医療組合の設立に奔走しました。

 賀川の医療組合は申請から認可まで一年を超える期間を要したが、火の手は青森に上がり、すぐに秋田に飛び火しました。現実に3000を超える無医村の問題を解決するためには「助け合い病院」が必要だったのです。東京で医療組合を立ち上げた賀川には、東京で旗を上げれば、注目されて全国に広がるという確信がありました。

 中野組合病院は、1932年に新波戸稲造を組合長として、医師12人、看護婦2人、組合加入者515人で発足しました。この病院は、その後賀川を組合長として発展をとげます。戦後に3009坪、310のベッドをもつ大病院になります。現在、組合員は1万6420人、医師看護婦200人に達しています。
 
 組合病院は戦後、JAや生協に引き継がれ、JA厚生連グループは全国115病院を抱える最大の病院グループに発展し、医療生協も病院数77をネットワークする有数のグループとなっています。

 農村医療に尽くし2006年に亡くなった佐久総合病院(JA長野厚生連)の若月俊先生は『若月俊一の遺言』(家の光協会、2007年)の中で賀川の医療分野での業績を高く評価しています。

 1970年の国際協同組合同盟(ICA)のモスクワ大会で元、カナダの協同組合中央会会長のレイドロウ博士が日本の総合農協について高く評価しました。

「日本の農協は、生産資材の供給、農産物の販売をしている。貯蓄信用組織であり、保険の取扱店であり、生活物資のセンターである。さらに医療サービスや、ある地域では、病院での診療や治療なども提供している」

 レイドロウの報告について、若月先生は「わが国の協同組合運動の性格に関して、賀川豊彦の見方『友愛の経済学』を高く評価している。これは私どもが産組(産業組合、現在の農協)の『医療運動史』の中で、賀川先生の役割を高く評価しているのとよく一致する」と述べています。

 若月先生は東大医学部を卒業後、戦争が終わる直前に佐久病院に派遣されますが、賀川の生き方に共感していた先生は後に組合病院とし、佐久の赤ひげを目指します。病院で患者の来るのを待つのではなく、医者や看護婦が農村に出向いて健康管理をすることで疾病を未然に防ぐことを目指しました。この方式が長野県一帯に広がって、長野県は有数の長寿県となったばかりでなく、一人当たり医療費においても日本で最低水準とすることを維持しているのです。

 佐久総合病院は理想を求める医学生が目指す病院の一つとなっていますが。経営はJA長野厚生連の傘下にあります。いわゆる医療法人ではありません。一般的に協同組合病院といっても馴染みがないかもしれませんが、JA厚生連傘下の病院は全国に100カ所を超え、日本生活協同組合連合会傘下の医療生協も116団体、76病院を数えます。日本赤十字や済世会病院系列の病院数も100カ所内外であることからみても、協同組合病院が日本の医療を支える一翼を担っているといっても間違いでありません。

 国際的にも評価されているその組合病院を考え出したのが賀川だったのです。

【追記】

 小泉内閣の時代に株式会社による病院や学校経営が議論となった。そんなことはあり得ないと思っていたが、JA厚生連の病院を数えたら全国約100カ所もあった。医療生協もまた100カ所内外の病院を経営する。

 日本では最大級の病院連合となっている。厚生連に加え日本赤十字(医療施設99カ所)と済世会の3つが日本の大規模な病院経営チェーンである。不思議かもしれないが、どれも医療法人ではない。赤十字は特別法に基づく法人で、済生会は正式には社会福祉法人恩賜財団済生会である

 赤十字は、スイスのアンリー・デュナンが1859年、イタリア統一戦争の激戦地で多くの死傷兵が打ち捨てられているありさまを見て、救護をしたことに始まる運動。デュナンは翌々年に『ソルフェリーノの思い出』という本を出版し、「傷病兵は敵味方なく救護することや各国で救護団体を組織すること」などを訴えた。この訴えがヨーロッパ中で反響を呼び、1864年にスイスを含めた16カ国で赤十字条約が調印された。日本では、1877年の西南戦争の最中に佐野常民と大給恒の両元老院議官がヨーロッパの赤十字にならって博愛社という救護団体が設立した。後の日本赤十字である。

 戦後は日本赤十字法が成立し、この法律に基づく特別な法人となった。名誉総裁は皇后陛下で、名誉副総裁には皇太子殿下、同妃殿下ほか皇室の方々が就任している。

 一方、済生会は1879(明11年)、明治天皇の「済生勅語」により、皇室の御下付金150万円と寄付金を基金として創設された。正式名称は「恩賜財団済生会」である。経済的に恵まれない人々に医療を提供するのが目的だったため、病院の多くは貧困層が多く定住するとされる駅周辺に建てられた。

 戦前は内務省の管轄だったが、現在は「財団」の名が付きながら社会福祉法人として厚生労働省の管轄下にある。総裁は寬仁親王殿下、豊田章一郎会長、炭谷茂理事長の体制で、青森、秋田、岐阜、徳島、高知、沖縄を除く41都道府県で病院や診療所など93カ所を運営している。ちなみに「済生」とは「生命を救うこと」(広辞苑)。
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 済生勅語 朕惟フニ世局ノ大勢ニ随ヒ國運ノ伸張ヲ要スルコト方ニ急ニシテ 經濟ノ状況漸ニ革マリ人心動モスレハ其ノ歸向ヲ謬ラムトス政ヲ為ス者宜ク深ク此ニ鑒ミ倍々憂勤シテ業ヲ勸メ敎ヲ敦クシ以テ健全ノ發達ヲ遂ケシムヘシ若夫レ無告ノ窮民ニシテ醫藥給セス天壽ヲ終フルコト能ハサルハ朕カ最軫念シテ措カサル所ナリ乃チ施藥救療以テ濟生ノ道ヲ弘メムトス茲ニ内帑ノ金ヲ出タシ其ノ資ニ充テシム卿克ク朕カ意ヲ體シ宜キニ随ヒ之ヲ措置シ永ク衆庶ヲシテ頼ル所アラシメムコトヲ期セヨ
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 賀川豊彦が東京の改造社からベストセラー『死線を越えて』を発刊したのは32歳の1920年10月だった。プリンストン大学へのアメリカ留学から神戸に帰国して3年。大阪市の「有限責任購買組合共益社」と神戸市の「有限責任神戸購買組合」を相次いで設立、12月には播磨造船の労働組合長に推され、社会運動家として八面六臂の大活躍。貧民救済を続けていた一牧師から一皮も二皮もむけていた。

 『死線を越えて』の元となる『鳩の真似』を書き始めたのは葺合新川の貧民窟に入る前、三河蒲生郡で肺結核の療養中であった。まだ20歳になっていなかった。明日の命もないことを宣告され、小説風に自らの生い立ちをつづったものにすぎない。

 このベストセラーが生まれる背景には多くの出来事があった。

 文学全集の出版や有名人の講演とタイアップした出版など日本の出版界をガラリと変えたとされる山本実彦が創刊した月刊誌「改造」はまだ黎明期にあった。「改造」創刊号が世に出たのは1919年4月。定価60銭。中央公論のような総合雑誌を目指した。安部磯雄、与謝野晶子、尾崎行雄、土井晩翠らが執筆し、幸田露伴の名作『運命』も掲載されていた。

 当時、言論界ではまだ無名の賀川豊彦の連載が始まったのは10号目に当たる1920年新春号である。「神戸におもしろいキリスト教の牧師がいる」と賀川を山本実彦に紹介したのは大阪毎日新聞社記者の村島帰之だった。村島は奈良県生まれで賀川より三歳年下。大阪本社で地方版を編集していた時に知り合い、二人で労働組合友愛会関西同盟を発足させた。いわば労働組合運動の同志でもあるが、葺合新川における賀川の献身的な活動にほれ込んでいた。

 「ますらおのごとく 村島帰之先生の生涯」(学校法人平和学園設立20周年記念出版)によると「友愛会関西同盟の理事長に賀川がなり、村島が理事に就任している。神戸支局時代に川崎造船所で労働者1万6000人が指導し、日本初の大規模サボタージュを決行した。友愛会の幹部としてサボタージュを指導する一方で、サボタージュの記事を特だねとして書いたのだからまさに自作自演である。島村は「サボを『同盟怠業』と訳した」と備忘録に残した。「怠けること」を「サボる」というようになったのは島村が生み出した新語だったようである。

 山本実彦が賀川に会ってみると実におもしろい。第一時大戦後の論壇は「大正デモクラシー」から「社会主義」へと急傾斜していた。世相は悪徳商人を打ち壊す「米騒動」が全国を駆け巡っていた。鳴門の船問屋が神戸の愛人に生ませた子がキリスト教に目覚め、徒手空拳で貧民救済に乗り出す。そんな型破りの物語に時代性を感じたのだろうか、賀川に自伝風小説を書かせることにした。

 しかし、出来あがった原稿の評価はさんざんだった。文章はへただし、物語もあまりにも通俗だというのが編集局内での評価で、ほとんど「ボツ」になりかけた。一人山本実彦だけは違って「これはおもしろいかもしれない」と多くの反対論を押し切って掲載にゴーサインを出した。

 とにかく『死線を越えて』は1920年1月号を飾った。反響は編集局の大方の予想通りで論壇からは「改造は素人に書かせている」などの酷評を浴びせられた。それでもくじけなかったのが山本実彦たるゆえんだろうか。山本実彦は『死線を越えて』の読者層は雑誌「改造」と違うと判断し、連載は4回で打ち切って単行本として出版することに方向転換した。

 賀川は島村に「単行本にしようという話がある。どうしようか」と相談を持ちかけた。島村は雑誌「改造」での散々な評判を聞いていたので「売れないだろうからやめた方がいい」と乗り気ではなかったようだ。

 改造社にとっての最初の単行本はこうして生まれたが、これが予想外の売れ行きとなった。10月に発行した『死線を越えて』は年内に10万部を売り、翌年は100万部の大台に乗せた。賀川は小説家志望ではない。だからお世辞にも文章がうまいとはいえなかった。神の示した道を地道に忠実に生きたにすぎない。しかし、そんなうそのない賀川の生き方が国民的共感を生んだのだ。

 100万部を超える『死線を越えて』の売り上げは、創立間もない山本実彦の改造社の経営にとって多大な貢献をしたことになる。賀川にとっても山本実彦との出会いこそが、その後の人生を決定付ける大きな意味合いとなった。

 賀川はそれまで詩集『涙の二等分』(福永書店)のほか、『貧民心理の研究』(警醒社)など研究書を何冊か出版しているが、まだ言論人としての地位を得ていたわけでなく、『死線を越えて』はアマチュア作家の誕生として位置付けられていたにすぎない。

 ベストセラー作家としての知名度と現在の価値に換算して10億円を超えるとされる巨額の印税はその後の賀川の社会活動における大きな支えとなった。『死線を越えて』がなかりせば、改造社のその後もなければ、賀川の労働運動や消費組合運動も違った方向に進んでいたかもしれない。農村部に病院を建てていった組合病院もなく、医療のあり方も変わったものになっていたかもしれない。