亜細亜の大経綸

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 孔子が老子を訪ねたときのこと、孔子を一目みて老子はこう直言した。
(史記 老子伝)「子の嬌気と多欲、態色と淫志を去れ。これ皆子の身に益なし」  

二十数年の間、支那民衆のなかに生き、その体感をとおして一つの感慨を得た佐藤慎一郎は興に乗るとこんなおもしろい話をすることがある。

  「だいたい孔子は女房は替えるし、始終、おカマばかり掘っていて、仁を説きながら陰茎を切って宮中に応募する宦官や、纏足を強制して性の享楽を得るような 制度や慣習に一つも意義を唱えないではないか。民衆は生きるために知恵がある。"孔子様か、あれはハナシ"とあざけ笑っている。
 "子曰く、朋遠方より来る。また楽しからず"といっているが、久しぶりに遠くからの友は、いい話か、なにか持って来てくれるから楽しいんだ。これが庶民流の解釈だ。だが、そんな孔子だからこそ民衆にとっては永遠の友なのだ」


 科挙制度における登用試験の題目は孔子、孟子である。
 その孔子、孟子を一生懸命に暗記した者が合格し、晴れて役人になるわけだが、それ以上に賄賂学に熱中したのでは民衆の孔子、孟子の価値はあざけ笑う面従腹背の活用学でしかない。 『一官九族に栄える』といって、親族の中で一人でも役人に登用され地位が昇るたびに財を発生し、一族だけでなく親族みんなが恩恵に預かるといった俗諺がある。

 そのほかに『昇官発財』(官に昇って財を発す)とか『八字児衛門、朝南開、有理無理○銭来』(役所は南に向かって開いている。理屈があろうが無かろうが銭(税金、賄賂)をもって来い)とか、たまに真面目な役人がいても『三年清知府、十萬雪花銀』三年すれば銀(当時の貨幣)が沢山蓄積されるという。

 このようなことだから孔子、孟子を説く儒学者は『九儒十丐』といって職分の位からいえば下から乞食、儒学者の順でさげすまれている。毛沢東も臭九老といって同様に毛嫌いしている。しかし、たとえ「説」であろうと人のために活学し、体現する人間には徹底した人情を添えて献身するのも同じ民衆である。

 生きざまは老子の説く『天下循環思想』に基づいた陰陽、つまり天地自然のなかで自由に浮遊し、水の性質そのものを生活観として『上善如水』(最善の生き方は水のように生きることを自得し、硬くなく柔軟に生きる術を生まれながらもっています。

 『直にして礼なくば、則、絞ず』という言葉どうり、真っすぐな意識だけでは、いずれ自らを絞めるようになると、あえて自らを覆い隠し「嘘」(避けるための知恵、おとしめる嘘とは異なる)によって演技(戯れる)をする順応性が育ったのです。

 満州の高官、張景恵は日本軍人の印象として
 「どうも四角四面で融通が利かない。二、三度戦争に負ければよくなるだろう」と、張なりの愛着と比喩をこめてつぶやいている。

 佐藤は「この民族は決して滅びることはない。人間の持つ欲望である「色」「食」「財」に素直に生きている。しかもいつもは奥底にしまってある「人情」の厚みは他の民族に類を見ない素晴らしいものだ」と理解の根底を述べている。

  それは、他の偽政者とは違う部分で、つねに孫文の存在があるということでもある。現に共産党や国民党の歴代指導者でさえ孫文の存在を無視することはできな い。それは漢民族のみならず民衆の希望としてだけではなく、政治体制を問わず権力の混迷し突き当たるところに孫文の存在を認めるからに外ならない。

  現代における専制権力でさえ孫文の存在を温存し、いずれ死せる孫文を蘇生させなければならないことを理解している。それは中国民族だけではない。革命に挺 身した我が国の有志を待つまでもなく、あの欧米列強に蹂躙されてアジアに、遠大な志操をもって唱え、立ち向かった孫文の姿は、再度、覚醒の意をもって来復 するだろう。

 現に、金融による国際支配を目指す勢力が、だれにでも陥る財という向精神性を刺激し、持てるものが持たざるものの統一を企てているように思われるなかで、便利さの中の合理性と非合理の中の理として対立せざるを得ない状況が起こっている。
 まさに形を変えたアヘン戦争の様相である。
 急激で、しかも一過性ともおもわれる虚構の繁栄は国家のバロメーターさえ変えようとしている。
 
 欲望のコントロール


  歴史のひとコマから見れば支配から解放され百年。 一喜一憂するまでもなく、しかも歴史の検証もすんでない現在、大局的な目で独りよがりではないアジアの優性を確認する間もなく、新たな混迷を招く醜態は、 民衆の中にある程よい欲望の消化という優性を、欲望の権化として変化、助長させることでもある。

 突然の衰運を招く以前、マレーシアの首相マハティールは国会で涙ながらに腐敗の根絶を訴えている。中華人民共和国では役人の腐敗を訴え「官倒」と称して天安門に散った若者の記憶は新しい。

  日本では「巨悪」と称される者の横行が言われて久しい。「巨悪」はいずれも国費で賄う国立大学出身者で、捕まえる検察も同窓というのでは、子供のお遊びに も劣る醜態である。台湾も黒社会の横行に手を焼いている。これでは列強の侵略前夜の清朝や、アジアの政治状況となんら変わりはない。


 どの国にもほどよい慣習や掟はあっただろう。 また、それがささやかな民衆の潤いとして必要悪の存在を認めただろう。ある意味ではそれぞれの「分」に存在するであろうその陋 規は、制度化された社会の一方の潤いとして役立つものがあるだろう。

 融通無碍な体質は「剛」であり「直」であり、ついには自らを絞めることにもなる。支那では柔らかいものは滅びずという。まさに骨は折れ、剛直な筋肉は衰える。だが、舌は衰えることはない。重宝に使えば身を助けるという。

  食、色、財の欲望も、民族の文化、文明の織りなす経糸、緯糸のようなものだ。また経緯が交じるところ摩擦が起きる、人間界でいえば戦争である。それを避け るために清規(法)があり陋規(掟)があり、それぞれが表裏一体を成して、ほどよい調和を導きだし、どうにか社会生活を営んでいるのである。

  つまり、その大前提として自らの「分」と他の存在がなければ、すべて意味のないことであり「無」でしかない。その意味で、孫文は自他の厳存を「無」ではな く「有」として認め、すべての関わりのなかでこそ自らの存在の意義を見いだせることだと、支那一国にとらわれない多面的考察、革命後のアジア諸民族の自立 という根本的考察、アジアと西欧との関わりにおける将来的考察などを自らが先導する支那革命のなかで実践したのです。

 アジアの難は自国の憂慮であると、地域共生の理想を掲げ、民衆を激励喚起した哲人孫文を思うとき、再度、孫文の再来を願うのは筆者だけではあるまい。

 歴史の検証にいそしみ、現実の利害に立ち止まっていては描くべき将来はない。いずれ渇望せざるを得ないアジア民族にとって、普遍な人物像である懐かしむべき孫文にあえて請う、孫文的人物の再来を、アジアの民衆はこぞって付き従うであろう。

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このページは、伴 武澄が2012年1月22日 21:50に書いたブログ記事です。

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