後藤新平の胆力

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 山田良政は伯父、菊地九郎との縁を唯一の頼りに台湾民生長官であった後藤新平を訪ねた。孫文と山田は初対面にもかかわらず、こう切り出した。
 
「武器とお金を用立てて欲しい」
 

 革命事情と人物の至誠を察知した後藤はとやかく言わなかった。
 
「借款というのは信用ある国と国が何なにを抵当としたうえで幾ら借りて、利子は幾らで何年で返すということだろう。きみたち青年の志すところは正しく、意気壮とするといっても誰も知りはしない。また清朝を倒すといったっていつ倒れることやらわからない」

「私が君たちの革命を助けるのは、君たちの考えが正しいからだ。しかしそれが成功するかしないかは将来のことなんだ。あなたのような若僧にどこの国に金を貸す馬鹿があるか。それは無理ですよ」

「しかしなぁ。金が無かったら革命はできんだろう。武器のほうは児玉将軍が用意しようといっている。しかし資金のほうだが、事は革命だ。返済の保証もなければ革命成就の保証すらないものに金は貸せない」

「どうしてもというなら対岸の厦門(アモイ)に台湾銀行の支店がある。そこには2、300万の銀貨がある。革命なら奪い取ったらいいだろう。わしはしらんよ」


 靴で床をトントンと踏んでいる。銀行の地下室に銀貨はある、という意味である。
 
  物わかりがいいと言おうか、繊細さと図太さを合わせ持ったような後藤の姿は、官吏を逸脱するというか、常軌を超越した人物である。また、人間の付属価値で ある地位や名誉、あるいは革命成功の不可にかかわらず、しかも正邪を表裏にもつ人間の欲望を恬淡な意識で読み取れる人物でもある。
 
  虚実を織り混ぜ、大河の濁流に現存する民族が希求しつつも、だからこそ、かすかではあるが読み取れる真の「人情」を孫文はみたのである。植民地として抑圧 されたアジアの民衆が光明として仰いだ我が国の明治維新は、技術、知識を得る大前提としての「人間」の育成であったことを孫文は認めている。
 
 それは異なる民族の文化伝統に普遍な精神で受容できる人間の養成こそ再びアジアを興す礎となると考え、そのような人格による国の経営こそ孫文の唱えた"西洋の覇道"に優越する"東洋の王道"であった。
 
 晩年、孫文は純三郎にむかって
「後藤さんのような真の日本人がいなくなった」と、幾度となく話している。
 
 それは錯覚した知識や、語るだけの見識を越え、万物の「用」を活かす胆力の発揮を、真の人間力の効用として、またそれを日本人に認めていた孫文の愛顧でした。


 革命の旗揚げと山田良政  

 明治33年、後藤からの革命支援の確約と知恵をさずかった孫文は、山田良政に密書を預け香港の秘密結社である三合会の首領、鄭士良と合流して広東省恵州に潜伏し、旧7月打倒清朝の旗揚げを決行した。

 運動会の旗

 この義挙のとき中華民国の青天白日旗が日本人の手によってはじめて三州田に翻ったことは革命史のなかでも特筆すべきことでもある。運動会に使うからと日本で作らせた旗が、列強の植民地化に手をこまねいている清朝打倒の旗印しるしとして良政の手によって掲げられたのである
 
 8月中旬に80人余りだったものが下旬には1万人の軍勢となり、日本から武器を待つばかりとなっていた。しかし日本国内の政治状況の変化は、伊藤総理による児玉台湾総督にたいする援助打ち切りを命令したことによって革命党は苦境に立たされることになる。
 
 しかも袁世凱の革命党討伐の追走は烈しく、山田は捕らえられ日本人最初の犠牲者として処刑されたのだ。

 当時の状況は青森の新聞社、東奥日報に載せている弟純三郎の回顧談から見てみよう。
 ...良政は確かに孫逸山を助けて革命の旗を揚げたとき、恵州で戦死したと判断されたが、その遺骸はどう処置されたのか、その墳墓はどこにあるのかさえ皆目知れなかった。
 
 ...近ごろに至ってある奇縁から純三郎氏は良政氏の命を絶った者からその墳墓の地の存在を聞き知り、思い出多き令兄の血を流した小さな丘の土を遺骨となぞらえて携え帰国した。
 
 ...純三郎が所用があって広東に行ったとき、国民党の軍人洪兆麟に会ったとき、たまたま兄良政のことが話題になった。軍人は驚きながら膝を寄せて思い起こすかのように18年前の記憶をたどりながら静かに語った。

「当時、恵州を固めていたのは私の兵だった。私は守備地に潜入して荒れ狂う志士の一隊を討伐にかかった。良政氏は支那服を着て縄帯を締めていた。そして自ら陣 頭に立って三合会の荒武者を指揮していた。しかし彼らは他の方面から崩れ、私の兵を支え切れなかった。良政氏の叱咤激励も効なく、多勢の非を見て後方へ退 散してしまった。良政氏は他の五名と枕を並べて戦死した。私は遺体を三多祝の丘の一隅に埋葬した。良政氏は戦死したとき軍用金として香港貨幣1000ドル を所持していた」  支那人として革命に参加し、死の直前まで支那人として生きた良政の真骨頂がみえる。良政に指揮され死を共にした民衆にとっても、まさに良政は支那人そのものであった。

「良政氏の肌着がメリヤスであったことで日本の宣教師であろうと推察し、宣教師とすれば外交上の重大な交渉の問題になるとの恐れから、今日に至るまで命を絶ったことを秘密にしていた」

  純三郎は兄の遺骨が埋められている場所を知り、夢かとばかり喜んだ。その後、大正7年討伐第三司令として大軍を率いて福建軍と対峙していた洪氏に面会した 純三郎に対して、わざわざ副官を現地に同行させ、当時の情況を詳しく説明させ良政の霊を鎮める祭典をおこなっている。恵州鎮守使、李福林は良政の事績に感 動し、三多祝の丘に記念碑を建て永くその功績を讃えている。
 
 一方、良政を失った孫文の落胆は尋常ではなかった。革命が成功し清朝が中 華民国になると民衆は孫文の偉業を称えたが、孫文は良政のことを偲んで回想した。共に純粋かつ理論家であり、一国の一利一害に翻弄されることのない人間と しての矜持を肉体的衝撃をものともせず表現している。
 
 とかく知識をもって高邁な論理を振り回す「説客」の幼児性は、単なる一語一章の 記述によって偽政者の甘心を誘い、その施策建言の成果を名利慢心として享受しているが、民衆はその"きまぐれ理論"に翻弄された歴史の事実は知識人に対す る「あきらめ」「さげすみ」の対象として抜けがたいおもいがあった。
 
 良政の行動は、民族と歴史を越えて新鮮な感動を与えてくれる。
 
 そのことは論理の実証であり革命の偉業として、孫文や同志が全中国人民を代表して良政の「義」と「徳」を称え、「...その志、東方(日本)にて嗣ぐものあらんことを」と日本人に覚醒と喚起を促していることでもわかる。

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このページは、伴 武澄が2012年1月22日 14:54に書いたブログ記事です。

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