後藤新平の胆力

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 山田良政は伯父、菊地九郎との縁を唯一の頼りに台湾民生長官であった後藤新平を訪ねた。孫文と山田は初対面にもかかわらず、こう切り出した。
 
「武器とお金を用立てて欲しい」
 

 革命事情と人物の至誠を察知した後藤はとやかく言わなかった。
 
「借款というのは信用ある国と国が何なにを抵当としたうえで幾ら借りて、利子は幾らで何年で返すということだろう。きみたち青年の志すところは正しく、意気壮とするといっても誰も知りはしない。また清朝を倒すといったっていつ倒れることやらわからない」

「私が君たちの革命を助けるのは、君たちの考えが正しいからだ。しかしそれが成功するかしないかは将来のことなんだ。あなたのような若僧にどこの国に金を貸す馬鹿があるか。それは無理ですよ」

「しかしなぁ。金が無かったら革命はできんだろう。武器のほうは児玉将軍が用意しようといっている。しかし資金のほうだが、事は革命だ。返済の保証もなければ革命成就の保証すらないものに金は貸せない」

「どうしてもというなら対岸の厦門(アモイ)に台湾銀行の支店がある。そこには2、300万の銀貨がある。革命なら奪い取ったらいいだろう。わしはしらんよ」


 靴で床をトントンと踏んでいる。銀行の地下室に銀貨はある、という意味である。
 
  物わかりがいいと言おうか、繊細さと図太さを合わせ持ったような後藤の姿は、官吏を逸脱するというか、常軌を超越した人物である。また、人間の付属価値で ある地位や名誉、あるいは革命成功の不可にかかわらず、しかも正邪を表裏にもつ人間の欲望を恬淡な意識で読み取れる人物でもある。
 
  虚実を織り混ぜ、大河の濁流に現存する民族が希求しつつも、だからこそ、かすかではあるが読み取れる真の「人情」を孫文はみたのである。植民地として抑圧 されたアジアの民衆が光明として仰いだ我が国の明治維新は、技術、知識を得る大前提としての「人間」の育成であったことを孫文は認めている。
 
 それは異なる民族の文化伝統に普遍な精神で受容できる人間の養成こそ再びアジアを興す礎となると考え、そのような人格による国の経営こそ孫文の唱えた"西洋の覇道"に優越する"東洋の王道"であった。
 
 晩年、孫文は純三郎にむかって
「後藤さんのような真の日本人がいなくなった」と、幾度となく話している。
 
 それは錯覚した知識や、語るだけの見識を越え、万物の「用」を活かす胆力の発揮を、真の人間力の効用として、またそれを日本人に認めていた孫文の愛顧でした。


 革命の旗揚げと山田良政  

 明治33年、後藤からの革命支援の確約と知恵をさずかった孫文は、山田良政に密書を預け香港の秘密結社である三合会の首領、鄭士良と合流して広東省恵州に潜伏し、旧7月打倒清朝の旗揚げを決行した。

 運動会の旗

 この義挙のとき中華民国の青天白日旗が日本人の手によってはじめて三州田に翻ったことは革命史のなかでも特筆すべきことでもある。運動会に使うからと日本で作らせた旗が、列強の植民地化に手をこまねいている清朝打倒の旗印しるしとして良政の手によって掲げられたのである
 
 8月中旬に80人余りだったものが下旬には1万人の軍勢となり、日本から武器を待つばかりとなっていた。しかし日本国内の政治状況の変化は、伊藤総理による児玉台湾総督にたいする援助打ち切りを命令したことによって革命党は苦境に立たされることになる。
 
 しかも袁世凱の革命党討伐の追走は烈しく、山田は捕らえられ日本人最初の犠牲者として処刑されたのだ。

 当時の状況は青森の新聞社、東奥日報に載せている弟純三郎の回顧談から見てみよう。
 ...良政は確かに孫逸山を助けて革命の旗を揚げたとき、恵州で戦死したと判断されたが、その遺骸はどう処置されたのか、その墳墓はどこにあるのかさえ皆目知れなかった。
 
 ...近ごろに至ってある奇縁から純三郎氏は良政氏の命を絶った者からその墳墓の地の存在を聞き知り、思い出多き令兄の血を流した小さな丘の土を遺骨となぞらえて携え帰国した。
 
 ...純三郎が所用があって広東に行ったとき、国民党の軍人洪兆麟に会ったとき、たまたま兄良政のことが話題になった。軍人は驚きながら膝を寄せて思い起こすかのように18年前の記憶をたどりながら静かに語った。

「当時、恵州を固めていたのは私の兵だった。私は守備地に潜入して荒れ狂う志士の一隊を討伐にかかった。良政氏は支那服を着て縄帯を締めていた。そして自ら陣 頭に立って三合会の荒武者を指揮していた。しかし彼らは他の方面から崩れ、私の兵を支え切れなかった。良政氏の叱咤激励も効なく、多勢の非を見て後方へ退 散してしまった。良政氏は他の五名と枕を並べて戦死した。私は遺体を三多祝の丘の一隅に埋葬した。良政氏は戦死したとき軍用金として香港貨幣1000ドル を所持していた」  支那人として革命に参加し、死の直前まで支那人として生きた良政の真骨頂がみえる。良政に指揮され死を共にした民衆にとっても、まさに良政は支那人そのものであった。

「良政氏の肌着がメリヤスであったことで日本の宣教師であろうと推察し、宣教師とすれば外交上の重大な交渉の問題になるとの恐れから、今日に至るまで命を絶ったことを秘密にしていた」

  純三郎は兄の遺骨が埋められている場所を知り、夢かとばかり喜んだ。その後、大正7年討伐第三司令として大軍を率いて福建軍と対峙していた洪氏に面会した 純三郎に対して、わざわざ副官を現地に同行させ、当時の情況を詳しく説明させ良政の霊を鎮める祭典をおこなっている。恵州鎮守使、李福林は良政の事績に感 動し、三多祝の丘に記念碑を建て永くその功績を讃えている。
 
 一方、良政を失った孫文の落胆は尋常ではなかった。革命が成功し清朝が中 華民国になると民衆は孫文の偉業を称えたが、孫文は良政のことを偲んで回想した。共に純粋かつ理論家であり、一国の一利一害に翻弄されることのない人間と しての矜持を肉体的衝撃をものともせず表現している。
 
 とかく知識をもって高邁な論理を振り回す「説客」の幼児性は、単なる一語一章の 記述によって偽政者の甘心を誘い、その施策建言の成果を名利慢心として享受しているが、民衆はその"きまぐれ理論"に翻弄された歴史の事実は知識人に対す る「あきらめ」「さげすみ」の対象として抜けがたいおもいがあった。
 
 良政の行動は、民族と歴史を越えて新鮮な感動を与えてくれる。
 
 そのことは論理の実証であり革命の偉業として、孫文や同志が全中国人民を代表して良政の「義」と「徳」を称え、「...その志、東方(日本)にて嗣ぐものあらんことを」と日本人に覚醒と喚起を促していることでもわかる。
 弘前 山田家墓基

c0142134_9285757.jpg 君の兄弟は、ともにふるって嘗って力を中国の革命事業に致す。しかるに君は庚子(1900年、明治33年)。恵州の役を以て死す。後十年にして、満州政府は覆える。

 初め余は乙未(1895年明治28年)、粤(広東省)を図りたるも威らざるを以て海外に走る。(孫文は、11月12日神戸着)。

 すでに休養すること 、党力復び振るう。余は乃を鄭士良をして、 を率いて先ず恵州に入らしむ。余は日本軍官多人と偕に、香港より内地(中国大陸)に潜注せんとす。(山田)君は、実に随行せんとす。巳は 密告し、陸に登を得ず。乃ち復び日本ひ往き、転じて台湾に渡る(9月28日、台湾基陸着)。

時の台湾總督児玉(源太郎)氏は、義和団乱を作し、中国の北方は無政府状態に陥りたるを以て、則ち力めて余の計画に賛し、且つ後援を為すことをもかぶと允す。

 余は遂に鄭士良をして、兵を発せしむ。士良 を率い、出て新安、深 を攻め、清兵を敗り、 その械(武署)を獲る。龍図・淡水・永湖・梁化・白芒花・三多祝などの処に転戦し向う所みな捷つ。遂に新安・大鵬を占領し、恵州海岸一帯の沿岸の地に至る。
 以て余と幹部人員の入ることと、武器の接済(供給救済)を待つ。

c0142134_9241150.jpg 図らずも恵州の義師(義兵)発動して旬日にして、日本政府更換し、新内閣總理伊藤(博文)氏(10月19日、新内閣成立)の、中国に対する方針は、前内閣 (山県有朋總理)と異なる。則ち台湾總督を禁制して、中国革命党を通じることを得ず。また武署の出口(輸出)及び日本軍官に投ずる者を禁ず。
 而して余の内渡(中国大陸潜入)の計画は、之が為めに破壊す。

 遂に(山田)君と同志数人を遣わして、鄭軍に往きて情形と報告させ、その機を相して便宜に事を行わしむ。(山田)君は間道して恵州に至りしも、巳に事を起こしてより後三十 日に在り。
士良の部る(統率する)ものは、連戦月 。幹部軍官及び武器の至るを渇望すること甚だ切なりき。
忽ちにして君の報告する所の消悉(消息)を得。
 巳むを得ず、 を下して解散し、間道して香港に出ず。随う者なお数百人。

 しかるに君は路を失い切なるを以て、清兵の捕らえる所と為り、遂に害に遇う。 し外国の義士にして、中国の共和の為めに犠牲となりし者は、君を以て首めとなす。 論ずる者は、みな恵州の功無くして、非戦の罪を曰う。

c0142134_9243388.jpg 日本政府をして、やはり前内閣の方針を守らしめなば、則ち児玉氏、中変(途中にして変更)するに至らざれば、即ち我が為めに援助せず。しかし武器の出口 (輸出)及び将校の従軍者を禁制と為さざれば、則ち余の内渡(中国大陸に渡る)の計画は破れず、資けるに武器を以てし、また兵を多く知る者之が為に指揮せ んか、まさに士気 (高揚し)、鼓行(堂々と進軍)して前まん。天下のこと

 しかも革命軍はして、この挫折無かりせば、則ち君は断じて以て不幸にして (殺さ )せらるるに至らざること、抑も論を持たず。然るに君は、曽ひ政府の 厭(革命軍に対する好悪の態度)を以て意と為さず、命を みて険を冒す。

 死すると も辱じず。以てその主義に殉ず。 によくなし難くして貴ぶ可き者なり。
 民国成立して七年。君の弟山田順三郎始めて君の骨を以て帰りて葬る。
 今また君の為めに石に み、以て後人に示す。

c0142134_9245235.jpg君の生平(平常)の (正しい道にかなった行い)は、君の親族交遊、よく之を述ぶ。
余の言を と無し。余は君を重惜(非常に惜しむ)す。故にただ君の死に至りし本末を挙げ、表わして之を出すのみ。
更に祝を為して曰く。願わくば斯の人の中国人民の自由平等の為に奮闘せし精神は、なお東(日本)に於て嗣ぐもの有らんことを

山田良政小伝

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《 アジアに生き、中国革命を吾がことの様に挺身した日本人》

c0142134_9353266.jpg 中国民族から国父と尊崇されている孫文が、その自序伝の中で、「中国革命に尽くして終生怠らざりし者に、山田兄弟、宮崎兄弟、菊池、萱野がある」と、はっきりと書き残している。

 その山田兄弟とは、山田良政・純三郎兄弟のことであり、菊池とは菊池良一のことである。しかもこの三人は、ともにこの弘前出身の人たちである。

 良政は、1868年(明治元年)12月3日、百石取りの津軽藩士、山田浩蔵、きせの長男として弘前城下に誕生。良政は、東奥義塾卒業後、二~三の変遷を経た後、中国の上海に渡ったのは、1890年(明治23年)のことであった。

 良政は、その澄んだ瞳が示しているように、その心には一点の邪念もなく、寡黙せあまり物を言わない"静を為さずして静自ら生ず"といった物静かな人で、動かずして信じられ、言わずして信じられた。 しかも一諾千金に重みをもった、堂々たる風格の青年であった

 1899年(明治32年)、良政が一時帰国して神田三崎町に居た時、孫文自らがその寓居へ良政を訪ねて来ている。 初対面であった。

 西欧の独断的な制圧に遼弄され尽くしていた全アジアに於て、唯一人毅然として自ら起ち上がった日本民族の美事な英姿に感激して自ら起ち上がった人々がいる。

 それは印度のポンセー、フィリピンのアギナルド、それに中国の孫文という人たちであった。
良政は、その孫文の祖国中国に寄せる愛国の情熱、アジア復興に対する崇高な理念、そしてその情熱の滲み出るような人柄に深い深い感銘を受けたようであった。 

 良政は、その直後 敏子と結婚。 良政が中国革命に殉じて中国の土となったのは、その翌々年のことであった。

 良政はその翌年1900年(明治33年)2月には南京同文書院の教授兼幹事として、 南京に赴任していた。その8月、孫文が平山 周とともに良政を訪ねて来ている。 良政は、弟純三郎を連れて上海の旭館で孫文と会談している。 その時純三郎には会談の内容に就いては全然分からなかっ たが、後で孫文から聞いたところによると、孫文がいよいよ台湾の対岸の恵州で、清朝打倒の旗揚げをしたいという。 

 それに対して良政は、自分の叔父菊池九郎(弘前出身)と、台湾の民政長官後藤新平とは特別な関係がある。その後藤 に革命援助のことを頼んでみようという事を約束したのだという。

 平山周 の記録によると「予(中山)は、良政と向後の計を議す。 君(良政)いわく男児、事を謀る。 中道にして廃すべからず。 まさに最後の一齣(セキ) を演じてやむべし」 (良政は)概然として職をなげうって福建 章州に向う・・・・ と、あるように良政は南京同文書院の職を投げうって台湾に向かっている。 

 結局、良政が孫文に引き合わせた後藤の計らいによって児玉源太郎台湾総督府長官は、「武器の供給と将校数名を貸与してやるから、革命軍は台湾対岸の海豊、陸豊まで進撃して来るように」と、孫文と確約してくれた。

 孫文は直ちにその旨を鄭士良に指令し、鄭は勇躍挙兵にふみ切ったのであった。好事魔多し。 9月26日山県内閣は総辞職し、10月19日伊藤博文内閣に変わった。新内閣は、革命軍に対する武器の援助と将校の支援を厳禁してしまった。 万事休す。

 良政は同志数名をともに、孫文の解散命令を鄭士良軍に伝えるべく大陸へ潜行した。 結局革命軍は涙を飲んで解散。 良政は少数の同志とともに退散の途中、三多祝で洪兆麟の率いる清兵と出遇い激戦となり、良政は遂に捕らえられて斬に処されている。

 孫文が1917年(大正6年)9月10日、大元師に就任、広東政府を樹立していた時のある宴席で、孫文は洪兆麟師団長に対して、同席していた良政の弟、純三郎に眼鏡をかけさして、「君の殺した者の中に、こういう人相と似た者は、いなかったか」と尋ねた。

 じっと純三郎の顔を見詰めていた洪兆麟は、「貴君の兄さんを殺したのは、この私です。どうか存分にして下さい」と申しでたと純三郎は語っている。

 なお 洪兆麟の語るところによると「私が殺した人は、弁髪で、眼鏡をかけ、支那服にわら帯をしめた外国人で、メリヤスのシャツを着ていた」 当時メリヤスは、中国人は着用していない時代だったので外国人ということが分かった。

 それで、「お前は外国人だろう」と、何回も聞き返したが、最後まで淡々として中国人だと答えて斬に処されたという。

 時に良政は、三十三歳。  妻とし子は、結婚して3日間良政と居を共にしただけであった。その後上海の良政から「そのうち迎えに行く。両親を頼む」という端書が来た。 敏子はその一枚の端書を唯一の頼りとしながら、永遠に帰らざる夫、良政を待ち続けていた。

 良政は、たしかに非運に倒れている。 しかし良政自身はそれを最初から自らの使命観に徹する者であった。だからこそ一死万世に生き得る者であると言うことができるであろう。
 孫文は側近の山田純三郎に後継総統について尋ねている。
 「山田さん、次の総統について聞かせて欲しい」

 山田は孫文の問にこう応えた
 「蒋介石君が適任かと・・・」

 佐藤慎一郎は津軽での講演会で「孫文さんが山田さんに次の後継者は誰がいいかと問われたとき、蒋介石を推薦した」と伯父の言葉を伝えている

 充分考えられる言葉である。国民党の最高顧問であり、実行間際で終わったが、山田を仲介にした毛沢東、蒋介石の接触や、孫文の指示で満州を日本の経営でロシアの南下を押さえるための工作に蒋介石は石岡という日本人名で山田と潜入しその資質も一番よく知っている。

 工作に失敗をして帰ってきたとき蒋介石は真っ赤な顔をして『失敗して帰ってきました』と真摯な態度を示した。犬塚信太郎など革命協力者は、『こんど蒋介石に何かあったら援けよう』と誓っている」

また、日本がだめになったら中国もだめになると孫文の意志を忠実に守り、あの共産軍を攻撃しない東北軍の張学良にしびれを切らして西安の前線にいった西安事件があった

 戦後は満州国の日本国内の財産の処理を名利に恬淡な山田に依頼していた。『山田先生に任せるように・・』との命令だったが、事務方の日本人の公使が財閥に便宜供与し、発覚したら山田の玄関で土下座して謝っていたと、佐藤慎一郎氏が目撃談を伝えている。

 あるいは、日本人の軍民数百万の帰還を全力をもって行い、゛徳を以って怨みに報いる゛と中国に発令したことは民族の歴史にもなることだ。また、それを感謝した日本人政治家に向かって『私に礼はいらない、あなた方の先輩に言ったらいい』と、盟友山田をはじめとする辛亥革命に命がけで闘った日本の先覚者を、あな た方日本人は忘れてはならないと訪中(中華民国台湾)した議員を諌めている

c0142134_11403195.gif 大陸から渡った外省人と内省人とのいさかいはあるが、蒋介石は 新生活運動という道徳運動を提唱し、息子経国は『国民党が負けた原因は内なる腐敗にある』と、規律維持を政策に掲げている。しかし民族の性癖というべきか 権力と賄賂は縁者や側近に染み付いて、いまでも国民党の根幹にシロアリのように棲み付いている。宗家三姉妹の長女は財閥孔家に嫁ぎ財を愛し、美齢は蒋介石 に嫁いで権力を愛し、慶齢は国父の妻として国を愛した。美齢は米国に住み時おり飛行機をチャーターして戻ってくるが、故宮の財物も意中のものであった。

 蒋介石は革命成就の目的のために孫文の妻の妹をもらって縁戚となり権威をつけた。たしかに前妻をアメリカに追いやりとんでもないことだが、条件に突きつけられたキリスト教に改宗、本妻とする、などの強欲な欲求を忍んだ蒋介石の気持ちも革命成就に向かったものだ。
    
 山田は「美齢を妾にしろ」と叱責し交流を絶ったが、混乱のなか「山田先生を守れ」と厳命している。それは山田に対して、゛いつか解ってくれるという゛という心情だったのだろう。
戦後、蒋介石は山田を厚遇し、『いつでも来てください。事情が許せばいつまで居てください』と家まで用意している。

 また、山田が「蒋さん、そろそろ孫文先生の命令で君と丁仁傑と私で満州工作に行ったことを話してもいいだろう」と問うと、当時を思い出したように「それはいい」と、笑顔で応えている。

 当時のことを知らない高官たちは蒋介石と山田の会話を凝視して聞き入っている。

 満州工作とは、≪日本の手で万里の長城以北(満州、清朝)をパラダイスにして、ロシアの南下を押さえて欲しい、だが、シャッポ(帽子、頭に置く)は中国人だよ。そして事情が許せば国境を撤廃してでも日中は連携しアジアを復興しよう≫

c0142134_1141396.jpg これは孫文の意志だが、これは訪日したときに桂太郎と東京駅の喫煙室で会談したことの約束でもあった。
               
 日本が滅んだら中国もだめになる。その後の蒋介石と山田の行動は孫文の意志の継承であった。つまり、民族を超えた「信義」の在り様でもあった。

 山田が『孫文さんの意志を全うする為に毛沢東との関係を修復できないか・・・そして日本と中国は提携してアジアをもう一度、安寧に向かわせたい』と、廖承志 (初代中日友好交流の責任者であり、革命同志廖仲凱の子息)を通じて毛沢東の了解を得た。もちろん蒋介石は山田の言うことを孫文の意志として随っている。

 孫 文の臨終に際して別室にいた山田に妻 慶齢は「山田さんお願いします」と、末期の水をとらせている。山田は溢れる涙を孫文に落としながら、そのガーゼに含 ませた水で口元を拭っている。山田の兄は恵洲の戦役で、゛中国人゛と言い張って処刑され、弟は孫文の意志を蒋介石につないでいる。それは中国人と日本人の 交誼だけでなく、アジアの安寧を願った孫文への誓いでもあった。
もちろん、思い出話として蒋介石に話している(佐藤談)

 独立、和中と軋轢はある。また内省、外省の歴史的軋轢もある。その意味では日本人について揶揄された、゛四角四面゛の姿ではあるが、砂民といわれまとまりのない民 族、あるいは財利への直線的指向や賄賂にみる公の意識と、それに添える人情、それらを俯瞰してなお、連帯と統一に賭け、その力をアジアの連帯に導こうとし た孫文の意志は、山田を通じて蒋介石に継いでいる。

c0142134_11421491.jpg アカデミックな検証や、うがった見方、はたまた一方の勢力に偏した曲学阿世の売文の輩 や言論貴族の弁に歴史を眺めるような観照は望むべくもないが、事象の背景に潜在する誓いや魂のなせる人の情(ころろ)の在り様を、蒋介石、山田という異民 族の共有した意志と願いとしてみることができる。

後継のライバルには王精衛もいたが、しかし余りにもボロジンを中心としたソ連の 影響下にあった。思想の共感や力の依頼は、状況打開の為の一過性の連衡としてよくあることだが、アジアの被抑圧や国々の煩悶や離反を考えるとき、孫文を領 袖とした異国の革命を我がことのように挺身した山田にとって、そもそも孫文が革命を発起し、それに賛同し、アジアの国々がどのような期待を息潜めて中国の 安定を待望しているのかという俯瞰した歴史観と将来の逆睹が蒋介石を推挙したのであろう。              

  孫文絶筆

 蒋介石は真摯で実直である。その誠実さを山田も認めている。評価は、直にして彼の国特有の柔らかさはないが、それでこそ土壇場でも信念を曲げない剛直さがある。この現在カオスのような国情には必要な人材である。それが山田の人物観だった。

c0142134_11362748.jpg 蒋介石は子息経国にたいして厳しく教育している。当初のソ連留学が人質と変化し12年の長きに亙っても決して私事において国家の方針を変えることなく、帰国しても経国に対する厳しい指導は後の台湾施政にも表れている。

 軍人、役人への綱紀の粛正、民衆の道徳運動の喚起など、自らが大衆に飛び込み国家の連帯と調和を基とした三民主義の具体的遂行に邁進している。国民党が権力 に増長し、終には民衆の離反を招いたことへの反省と慙愧からの出発は、経済においても台湾をアジアの発展モデルとして脚光を浴びた。

 人が集えば、取り巻きや反目があり、嫉妬から抗争が起きる。しかし民族歴史を俯瞰した忠恕とそれを執行する突破力や勇気は、数値に表される大小、多少のみならず、東洋のいう人格とか識見に多くを委ねなければならないのは歴史の栄枯盛衰を観ても必須の人物観でもある。

 山田は必然の訪れと、民族の統領として、また諸外国との調和、あるいは何れアジアを代表する指導者となる資質を推挙の基としたのである。

 もちろんその意味は孫文も同じだった。それは異民族たる山田に確認したようにも思える尋ねごとだった。

 山田は『慎ちゃん』と呼び、つねに相談相手として行動を共にしている。

 筆者が「のろまの純コウと寝小便の慎ちゃんでも歴史を作りましね」というと、
『人間は無駄には生きていないょ。だだ、叔父の語りは記録ではなく記憶だから日時は間違っていることがあるが、研究者は当てにならないといっている。でも、伯 父がいつも言っていた、「孫さんは・・」「あのとき蒋介石は・・・」と革命同志の人間味溢れる逸話が臨場感を帯びてが語られるとき、本当に必要な歴史が身 近になる。そもそも、記録では頭が動いても心は動かない。これでは革命も語れない。つまり人間の歴史の嘘の部分だ。その場で革命の記録など書けないのが真 実だ・・。この歴史の事跡は中国人と日本人の歴史として恩讐を超えて甦る。孫文が真の日本人と称した明治の日本人と中国人との共同精神は必然の歴史として 甦る。いやそのような人物を求める必然の時がくる。それまで、皆さんが繋ぐことが大事だ』

 まだ、遅くない。諦めるのは早い。そんな気持ちにさせる逸話でもある

弘前と孫文

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 青森県弘前市は山田良政、純三郎兄弟の生地である。明治の言論人、陸羯南が喝破した「名山のもとに名士あり」と謳われた追木山(岩木山)が四季折々に姿を変え、仰ぎ見るものに愛着と、言うに言われぬ心の鎮まりを与えてくれる。

 戊辰の戦火を避け、いまも残る津軽藩の居城であった弘前城は、城郭を中心に公園として整えられ日本有数の桜の名所として季節の時をにぎわしている。桜枝の隙間から仰ぐ岩木の頂は陽光に輝き、雪と桜がまるで人目を競い奪い合うかのように津軽平野に共生している。

  菊地九郎がその礎を遺し、羯南や良政や純三郎を育んだ弘前の地ではその遺志を継承する人々が多く暮らしてしている。儒学者、伊東梅軒の子で医師の伊東重、 孫の郷学者、伊東六十次郎、教育界の重鎮、鈴木忠雄などは郷土文化の伝承、人材輩出の養土のように、まさに郷学にして有力といった弘前教育の独特の養成法 があるかのようにもみえる。
 
 それに加えて東奥義塾の外国語教育、山背の風に立ち向かう"じょっぱり"精神が独特の人物像を描き出している。
 
 新寺町 貞昌寺

 大手門から西に歩いてほどなく行くと新寺町という各宗派の寺院が混在している一角がある。その中でいちばん奥まったところに貞昌寺がある。ここは津軽藩代 々の家老の菩提として霊を鎮めている寺である。入り口付近にはだれが名付けたか、孫文桜の古木が参拝するものを桜のベールで抱き包むように根を張ってい る。

 左手には住職の赤平法導が大切に護持している良政、純三郎兄弟の頌徳碑が二碑、建立されている。一方は孫文撰書による良政の碑、片方は蒋介石撰書「永懐風義」(永く風儀を懐かしむ)、蒋介石撰文、何応欽謹書による頌徳碑が清掃された碑台に安置されている。
 
 観光名所ではなく、またそれを知る市民も少ないが、毎年、桜の季節になると中日関係者の友好拝礼祈願がおこなわれ、東京の東洋思想研究団体の郷学研修会を中心に年々振るあいを増している。

 「なぜ、弘前と孫文が」という疑問が市民にはある。
c0142134_933615.jpg 郷土から輩出した英明なる人間の歴史をたどるということが少なくなった教育ではあるが、歴史が将来のための鏡として効果ならしめるかは、それも人間の問題である。

  清麗かつ豪気な気風を醸し出す弘前に生まれ、幼少に菊地九郎の薫陶をうけ、長じては向かい家に住む陸羯南に影響され、日本および日本人に対する問題意識を 支那の列強からの解放と自立に求めた先見と遠大なる志操は、孫文の唱える「支那と日本との連携によるアジアの安定は、世界の平和に貢献するものだ」という 考えに賛同したものではあるが、それのみではない。

「明治維新は支那革命の前因であり成功は後果である」といった孫文の 唱えは、良政の寡黙な義侠心を喚起させ、自らの自得した普遍な精神を異民族のなかで問いかけようとする熱情であっただろう。しかも支那民族に我が身を靖ん じて献ずるという、殉難を厭わない自己の発揮は、孫文をはじめとした全支那民族の心を喚起し、孫文の意志をより強固に擁護するバックボーンとして厳存して いる。

c0142134_936419.jpg 兄に追随した純三郎に対する孫文の慈父に似たさまざまな問いかけは、兄に習うということから兄を継ぐといった壮絶な使命感を呼び起こしたことだろう。

 つねに孫文に帯同し、革命の隅々を体験した純三郎の姿は、列強に追従して支那を侵食し始めた日本軍部に国賊扱いされたことでも、その心底は複雑であり、敗戦を慚愧の念で迎えたことは容易に想像できることである。
 山田はこの頃、書き残した文章の表題にこう記している。

『国を愛せんとすれば国賊』と。

 昭和16年4月、当時、山田は上海日本語専修学校を経営し、自ら校長として活躍していた。その紹介文には「日華親善の遠大な理想の下に、多数の中国人に慈父の如く親しまれている中国通であり、老上海である」とある。

 山田は国賊といわれ身の危険を感じながらも語っている。

「自分はあくまで"戦争はやめよ"と主張する。然して全面和平を主張する。それは終始一貫した国家的信念である。然らば、現在の日華関係の上に立って、その信念を貫徹する希望ありやと問う人があれば"見込みなし"と言わざるを得ないのを痛恨事とする」


「...中国にも和平ブローカーが存在する。日本にもまた存在する。これらがさまざまな禍をつくって暗躍、跳梁している。かくのごときブローカー輩が蒋介石を動かすことができるものでないことは自分は再三、要路者に忠言を呈したが、これに耳を貸さなかった」


>「このブローカーたちが入り乱れて、あらゆる手段を講じ蒋介石を引き出そうとした運動は全部失敗を繰り返しているではないか。笑い事では済まされない問題である」


> 「...汪(汪精衛)にも元気づけた。"日本では君のことを知っておらんから何かやれ"、"何がある"というから犬養先生の墓参りをしなさい、宮崎滔天の墓を 建てたらどうか。革命当時、国事に奔走した同志で、既に黄泉の客となっている人々の碑を建てて盛大な慰霊祭をやって遺族を慰めたらどうか」

「...然らば如何にして全面平和に導くか。その道程においては、国策に反する行動をとらなければ現状より推してその望みは遂げ難い」

「...されど国策に反したことを言えば、それが果たして日本の生きる唯一の道であるとしても、烈々たる愛国心の発露であるとしても、直ちに国賊の汚名を冠せられる。ここに事変処理途上におけるはなはだしき矛盾があり、また我々としても最も苦しい立場がある」

「...全面和平に導びかんとすれば国策に相反し、全面和平の言説を吐露すれば直ちに国賊となるとすれば、全面和平は現場において絶対不可能という結論に到達せざるを得ないのである」

日本人はどこに

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c0142134_14491366.jpg  山田純三郎はことごとく曲解され,命まで狙われた純三郎の心には、そんな肉体的衝撃の危機にも増して,孫文に付き従い恵州で捕らえられ「日本人」だと告げ れば死を免れたが、あくまで「支那人だ」と言い張り斬首された兄,良政の意志を、孫文に共鳴する独りの日本人の志操というだけではなく、独立した真の日本 人としての矜持をもってアジアの将来に献じたものだと映っている。
 
  孫文は革命に殉死した兄・良政の志操を懐かしみ、終生、弟・純三郎を側近において、ときには叱り、あるときは激励して共に歓喜した孫文は、純三郎にとって革命の指導者であり、人生の師であり慈父のような存在であった。
 
 それゆえ、国際人となった純三郎なりの先見の推考で提言しても、日本に受け入れられないもどかしさは、とりもなおさず日本の衰亡への道筋でもあった。身を 賭した諌言が国賊として身を襲撃にさらさなければならないとしても、あるいは国策の遂行やアジア解放の大義だとしても、山田にとって日本の将来起こりくる だろう惨禍の予測は無念となって重なった。
 " 聞く耳持たず"とはこのようなことを言うのだろう。

 孫文の強固な意志

 佐藤は慚愧の気持ちをこめて資料をひもといた。それは伯父、純三郎と同様な見解をもつ孫文と鶴見祐輔の会見録である。 大正12年2月21日、第三次広東政府の大総統に就任した直後の会談で鶴見はこう切り出した。

「あなたが現在、支那においてやろうとしているプログラムはなんですか」

 孫文らしい駆け引きのみじんもない言葉で「60年前のあなたの国の歴史を振り返って御覧になればいい。王政維新の歴史。それをわたしたちが、今この支那で成就させようとしているのです。日本さえ邪魔し なければ支那の革命はとうの昔に完成していたのです... 。過去20年の対支那外交はことごとく失敗でした。日本はつねに支那の発展と、東洋の進運を邪魔するような外交政策を執っていたのです」

「それでは、日本はどうすれば良いとおっしゃるのですか」

c0142134_14512862.jpg 孫文は毅然として「北京から撤去しなさい。日本の公使を北京から召喚しなさい。北京政府を支那の中央政府(袁世凱)と認めるような、ばかげた(没理)ことをおやめなさい。北京 政府は不正統な、そして、なんら実力のない政府です。それを日本が認めて、支那政府であるとして公使を送るというごときは明らかに支那に対する侮辱です。 一刻も早く公使を撤退しなさい。そうすれば支那政府は腐った樹のように倒れてしまうのです」

 鶴見は問う。

c0142134_14505289.gif「日本が他の列強と協調せずに、単独に撤退せよと、あなたはおっしゃるのですか」

「そのとおり、なんの遠慮がいりましょう。いったい、日本は列強の意向を迎えすぎる。そのように列強の政策に追従しすぎるので、惜しいことに東洋の盟主としての地位を放棄しつつあるのです。

 私は日本の20年来の失敗外交のために辛酸をなめ尽くした。それにもかかわらず、私は一度も日本を捨てたことがない。それはなぜか、日本を愛するからです。 私の亡命時代、私をかばってくれた日本人に感謝します」

「また東洋の擁護者として日本を必要とする。それなのに日本は自分の責任と地位を自覚していないのです。自分がもし日本を愛していないものならば、日本を倒すことは簡単です...」

c0142134_1452999.gif (アメリカと組んでやったら日本を撃破することは易易たるものだ...と述べたうえで)

「私が日本の政策を憤りながらも、その方策に出ないのは、私は日本を愛するからです。私は日本を滅ぼすに忍びない。また、私はあくまで日本をもって東洋民族の盟主としようとする宿願を捨てることができないのです」

「しかしながら、打ち続く日本外交の失敗は、私をして最近、望みを日本に絶たしめたため支那の依るべき国は日本ではなくロシアであることを知ったのです」

 日本の対支那外交について問う

「それでは、あなたは日本が対支那外交において絶対不干渉の立場をとれば支那は統一されるとお考えになるのですか」
「それは必ず統一できます」
「しかし、その統一の可能性の証拠はどこにあるのでしょう」

 堰を切ったように孫文は意志を表明する

「その証拠はここにある。かく申す拙者(自分)です。 支那の混乱の原因はどこにあるか。みなこの私です。満州朝廷の威勢を恐れて天下何人も義を唱えなかったときに、敢然として革命を提唱したのは誰ですか。我 輩です。袁世凱が全盛の日に第二革命の烽火を挙げたのは誰ですか。我輩です」

「第三革命、第四革命、あらゆる支那の革命は我輩 と終始している。しかも我輩はいまだ一回も革命に成功していない。なぜですか。外国の干渉です。ことに日本の干渉です。外国は挙って我輩の努力に反対し た。ところが一人の孫文をいかんともすることができなかったではないですか」

「それは我輩が真に支那の民衆の意向を代表しているからなのです。だから日本が絶対不干渉の態度をとるならば支那は必ず統一されます...」

「あなたが日本に帰られたら、日本の青年に伝えてください。日本民族は自分の位置を自覚しなければいけない。日本は黄金のような好機会を逃してしまった。今後、逃してはならない」

「それは日露戦争の勝利です。あの戦争のときの東洋民族全体の狂喜歓喜を、あなたは知っていますか。私は船で紅海をぬけてポートサイドに着きました。そのとき ロシアの負傷兵が船で通りかかりました。それを見てエジプト人、トルコ人、ペルシャ人たちがどんなに狂喜したことか」

「そして 日本人に似ている私をつかまえて感極まって泣かんばかりでした。 "日本はロシアを打ち負かした。東洋人が西洋人を破った"。そう叫んで彼らは喜んだのです。日本の勝利はアジアの誇りだったのです。日本は一躍にして精神 的にアジアの盟主となったのです。彼らは日本を覇王として東洋民族の復興ができると思ったのです」

「しかし、その後の日本の態 度はどうだったのでしょう。あれほど慕った東洋民族の力になったでしょうか。いや、われわれ東洋人の相手になってくれたでしょうか。日本は、やれ日英同盟 だ、日米協商だと、西洋の強国とだけ交わりを結んで、ついぞ東洋人の力になってくれなかったじゃないですか...」

日本は東洋民族の保護者として

「しかし、私たちはまだ日本に望みを絶ってはいない。ロシアと同盟することよりも、日本を盟主として東洋民族の復興を図ることが私たちの望みなのです。日本 よ、西洋の友達にかぶれてはいけない。東洋の古い友達のほうに帰って来てください。北京政府援助の政策を捨てなさい。西洋かぶれの侵略主義を捨てなさい。 そして満州から撤退し、虚心坦懐な心で東洋人の保護者になってください」

東亜連盟を主唱した 石原莞爾

c0142134_14572847.jpg「東洋民族の保護者として、自分たちは日本を必要としている。そして今、自分たち同志が計画しているように"東亜総連盟"は日本を盟主として完成するのです。 それには日本が従来の謬った侵略政策を、ことに誤った対支那政策を捨てなければなりません。それまでは、いかなる対支那政策も支那人の感謝をかち得ること はできないでしょう。支那人は深い疑いの念をもって日本を眺め続けるでしょう」

 真の日本人とは

 だまされ、裏切られても信じられた日本および日本人は、はたしてどのような日本人を指しているのでしょうか。しかも遠大な志操のもと鶴見に託した"日本の青年に継ぐ"言葉の意味は、現代でも当てはまるような国家としての「分」の教訓でもある。
 
 苦難の中で自らの「分」を知り、その「分」によって自己を確立させ、暗雲が覆うアジアに一人決然として起こった孫文の意志は、まさにアジアの慈父といえる悠久の存在でもある。

亜細亜の大経綸

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 孔子が老子を訪ねたときのこと、孔子を一目みて老子はこう直言した。
(史記 老子伝)「子の嬌気と多欲、態色と淫志を去れ。これ皆子の身に益なし」  

二十数年の間、支那民衆のなかに生き、その体感をとおして一つの感慨を得た佐藤慎一郎は興に乗るとこんなおもしろい話をすることがある。

  「だいたい孔子は女房は替えるし、始終、おカマばかり掘っていて、仁を説きながら陰茎を切って宮中に応募する宦官や、纏足を強制して性の享楽を得るような 制度や慣習に一つも意義を唱えないではないか。民衆は生きるために知恵がある。"孔子様か、あれはハナシ"とあざけ笑っている。
 "子曰く、朋遠方より来る。また楽しからず"といっているが、久しぶりに遠くからの友は、いい話か、なにか持って来てくれるから楽しいんだ。これが庶民流の解釈だ。だが、そんな孔子だからこそ民衆にとっては永遠の友なのだ」


 科挙制度における登用試験の題目は孔子、孟子である。
 その孔子、孟子を一生懸命に暗記した者が合格し、晴れて役人になるわけだが、それ以上に賄賂学に熱中したのでは民衆の孔子、孟子の価値はあざけ笑う面従腹背の活用学でしかない。 『一官九族に栄える』といって、親族の中で一人でも役人に登用され地位が昇るたびに財を発生し、一族だけでなく親族みんなが恩恵に預かるといった俗諺がある。

 そのほかに『昇官発財』(官に昇って財を発す)とか『八字児衛門、朝南開、有理無理○銭来』(役所は南に向かって開いている。理屈があろうが無かろうが銭(税金、賄賂)をもって来い)とか、たまに真面目な役人がいても『三年清知府、十萬雪花銀』三年すれば銀(当時の貨幣)が沢山蓄積されるという。

 このようなことだから孔子、孟子を説く儒学者は『九儒十丐』といって職分の位からいえば下から乞食、儒学者の順でさげすまれている。毛沢東も臭九老といって同様に毛嫌いしている。しかし、たとえ「説」であろうと人のために活学し、体現する人間には徹底した人情を添えて献身するのも同じ民衆である。

 生きざまは老子の説く『天下循環思想』に基づいた陰陽、つまり天地自然のなかで自由に浮遊し、水の性質そのものを生活観として『上善如水』(最善の生き方は水のように生きることを自得し、硬くなく柔軟に生きる術を生まれながらもっています。

 『直にして礼なくば、則、絞ず』という言葉どうり、真っすぐな意識だけでは、いずれ自らを絞めるようになると、あえて自らを覆い隠し「嘘」(避けるための知恵、おとしめる嘘とは異なる)によって演技(戯れる)をする順応性が育ったのです。

 満州の高官、張景恵は日本軍人の印象として
 「どうも四角四面で融通が利かない。二、三度戦争に負ければよくなるだろう」と、張なりの愛着と比喩をこめてつぶやいている。

 佐藤は「この民族は決して滅びることはない。人間の持つ欲望である「色」「食」「財」に素直に生きている。しかもいつもは奥底にしまってある「人情」の厚みは他の民族に類を見ない素晴らしいものだ」と理解の根底を述べている。

  それは、他の偽政者とは違う部分で、つねに孫文の存在があるということでもある。現に共産党や国民党の歴代指導者でさえ孫文の存在を無視することはできな い。それは漢民族のみならず民衆の希望としてだけではなく、政治体制を問わず権力の混迷し突き当たるところに孫文の存在を認めるからに外ならない。

  現代における専制権力でさえ孫文の存在を温存し、いずれ死せる孫文を蘇生させなければならないことを理解している。それは中国民族だけではない。革命に挺 身した我が国の有志を待つまでもなく、あの欧米列強に蹂躙されてアジアに、遠大な志操をもって唱え、立ち向かった孫文の姿は、再度、覚醒の意をもって来復 するだろう。

 現に、金融による国際支配を目指す勢力が、だれにでも陥る財という向精神性を刺激し、持てるものが持たざるものの統一を企てているように思われるなかで、便利さの中の合理性と非合理の中の理として対立せざるを得ない状況が起こっている。
 まさに形を変えたアヘン戦争の様相である。
 急激で、しかも一過性ともおもわれる虚構の繁栄は国家のバロメーターさえ変えようとしている。
 
 欲望のコントロール


  歴史のひとコマから見れば支配から解放され百年。 一喜一憂するまでもなく、しかも歴史の検証もすんでない現在、大局的な目で独りよがりではないアジアの優性を確認する間もなく、新たな混迷を招く醜態は、 民衆の中にある程よい欲望の消化という優性を、欲望の権化として変化、助長させることでもある。

 突然の衰運を招く以前、マレーシアの首相マハティールは国会で涙ながらに腐敗の根絶を訴えている。中華人民共和国では役人の腐敗を訴え「官倒」と称して天安門に散った若者の記憶は新しい。

  日本では「巨悪」と称される者の横行が言われて久しい。「巨悪」はいずれも国費で賄う国立大学出身者で、捕まえる検察も同窓というのでは、子供のお遊びに も劣る醜態である。台湾も黒社会の横行に手を焼いている。これでは列強の侵略前夜の清朝や、アジアの政治状況となんら変わりはない。


 どの国にもほどよい慣習や掟はあっただろう。 また、それがささやかな民衆の潤いとして必要悪の存在を認めただろう。ある意味ではそれぞれの「分」に存在するであろうその陋 規は、制度化された社会の一方の潤いとして役立つものがあるだろう。

 融通無碍な体質は「剛」であり「直」であり、ついには自らを絞めることにもなる。支那では柔らかいものは滅びずという。まさに骨は折れ、剛直な筋肉は衰える。だが、舌は衰えることはない。重宝に使えば身を助けるという。

  食、色、財の欲望も、民族の文化、文明の織りなす経糸、緯糸のようなものだ。また経緯が交じるところ摩擦が起きる、人間界でいえば戦争である。それを避け るために清規(法)があり陋規(掟)があり、それぞれが表裏一体を成して、ほどよい調和を導きだし、どうにか社会生活を営んでいるのである。

  つまり、その大前提として自らの「分」と他の存在がなければ、すべて意味のないことであり「無」でしかない。その意味で、孫文は自他の厳存を「無」ではな く「有」として認め、すべての関わりのなかでこそ自らの存在の意義を見いだせることだと、支那一国にとらわれない多面的考察、革命後のアジア諸民族の自立 という根本的考察、アジアと西欧との関わりにおける将来的考察などを自らが先導する支那革命のなかで実践したのです。

 アジアの難は自国の憂慮であると、地域共生の理想を掲げ、民衆を激励喚起した哲人孫文を思うとき、再度、孫文の再来を願うのは筆者だけではあるまい。

 歴史の検証にいそしみ、現実の利害に立ち止まっていては描くべき将来はない。いずれ渇望せざるを得ないアジア民族にとって、普遍な人物像である懐かしむべき孫文にあえて請う、孫文的人物の再来を、アジアの民衆はこぞって付き従うであろう。

干天の慈雨

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 世の中を見つめて自分が適応しないことを苦悩するより、自分の独自の意志である秘奥の精神に自身の行動を革命を通じて問いつづけ、ついには民族の潤いとしてその意志を貫徹した孫文は支那人にとってどのように映ったのだろうか。また、どのように息づいているのだろうか。

 政治権力に在る者は"汚れなき看板"として民衆の共通の顔を孫文に求めるだろう。民衆はその意図を計りながらも心中の"あこがれ"として存在している。

 それは、ときとして意図は違いながらも、共通の存在として浮上するときがある。まさに共通の地域的宿命が孫文を必要としたときがそれだ。

 政治権力が衰退したときにおきる民衆不安定の鎮まりとして、あるいは国父と掲げる政体の違う力が融和を試みるとき孫文は来復する。

 あるいは、その結果強大な勢力が出現したとき、近隣諸国の中に孫文とのかかわりが保全として活かされるだろう。

  ともあれ孫文の存在は歴史の事績が表すとおり、調整、融合、意志、保全として、その存在が浮上しておのおのの場面で活かされるだろう。そこからその当事者 となるものは孫文の遺した志操を改めて理解し、その安定のための"死せる援助者"として繰り返し語られることだろう。

 疲弊、復興、繁栄、衰退、混迷。まさに民衆の生きざまのように国家も循環する。老子の言葉を寸借すれば、天地の摂理は循環を理として自ら動くと説いている。

今のアジアの情勢を推察したとき孫文的人物の出現の渇望や、"死せる孫文"の活用は、そう遠い将来のことではなく、その予兆は徐々に湧きだしている。

 孫文再来を請う微風は、やがて六方の風となり、そして潤いとなってアジアに降り注ぐだろう。山田良政の頌徳文の末尾に孫文はこのように結んでいる。
 
「その心、東方に嗣ぐものあらんことを」

革命余話

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 孫文は革命のさなか、日本滞在を懐かしむように四季がおりなす風情と、それに感応する日本人の人情について山田と語らっている。
 
 潜伏先の海妻邸から眺める頭山邸の桜や、車窓から見た富士山、山々のみどりや渓流のせせらぎや澄み切った清流が、確信はしているが時折気弱にもなる亡命生活を余儀なくされていた孫文にとって、日本朝野の有志の純情とあいまって忘れることができない情景でもあった。

 亡命も含め、革命遅滞の遠因ともなった一部の功利的日本人や、終始孫文を侮り続けた日本政府の姿ではあるが、アジア諸民族から光明とおもわれたあのときの真の日本人への回顧と、その精神を培った四季の風情に思いをおこし山田に再三語りかけている。
         
  山田兄弟の育った津軽の環境や、年老いた両親のこと、良政の妻敏子の生活についても孫文は尋ねている。兄を亡くした純三郎の心情を思いはかった孫文らしい 優しさではあるが、自分と同様なおもいで日本を憂慮し、それでも日本および日本人に賭けたアジアの将来計画が捨て切れなかった山田との共感する吐息でも あった。

 山田は郷里弘前の雪と桜を話題によく話している。 とくに岩木山から眺める県境の山々、弘前城の桜の宴、友と明かしたねぷた祭りのことなど、孫文は満開の桜の宴から眺める岩木山の冠雪は津軽の誇る絶景だということを知っている。

  革命成就の暁には、城内や山田家の菩提寺貞昌寺の桜の巨木に包まれ、兄良政を懐かしんでの酒宴を思いを馳せた孫文と純三郎であった。弘前訪問は叶わぬ旅で はあったが孫文は山田の父、浩蔵翁に「若我父」(我が父の若し)との心情を込めて呈上している。浩蔵翁はつねにその額の下で毅然と端座していた。

 アジアの憂慮と隣国の危機を我がことのように挺身した精神は、陸羯南が喝破した名山の純白な雪と桜花に育まれた弘前で培われアジアに開花した。そして、あの毛沢東、蒋介石会談の直前挫折の際に佐藤に言を含めた
 
「孫さんは、革命は九十九回失敗しても最後に成功すればいいと言っている。民族の融和とアジアの将来を賭けた大事業は、いずれ志を継いだ人間の意志に任せるし かない。そのうち孫さんのように国家民族に囚われないアジアの大経綸を唱える人間が現れるはずだ。慎ちゃん(佐藤)それは日本人かもしれない。いや明治維 新を成し遂げたとき西欧列強の価値観に蹂躙されていた全アジア民族の光明であったあの日本人の姿が 再度、よみがえるならその資格はある。孫さんがいつも 言っていた。日本人が真の日本人に立ち戻ってアジア民族のために協力するならアジア民族はこぞって歓迎する。慎ちゃん僕はもう年だ。世界に通用する立派な 日本人を育ててくれ」

 佐藤は伯父山田の意志と孫文が「その志、東方に嗣ぐものあらんことを」と良政の頌徳碑(左=孫文直筆の 頌徳文)に結んだ言葉を、今、アジアに歓迎される日本人像として継ごうとしている。孫文の意志が継承され、日本と支那が提携しアジア民族の安寧と世界の平 和を希求したとき、覇道を抱く勢力ですら妨害を許さない地域民族の連帯が興っただろう。

 いや、アジア全体がその革命意志を保全の心として侵入を許さないだろう。
 佐藤は今でも思い描いていることがある。それは桜の下、再来孫文を囲んで若者達とアジアの将来を語り合うような桜花舞うアジアの春の招来である。

あとがき

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c0142134_954524.jpg「研究、分析は学者に聞け。作り話は小説家に任せ、今、残すべきことは関係者の体験をたずねて可能な限り継承することだ。しかも孫文にかかわった日本人は少な くなっている。皆、年をとったため体験した年月は明確ではないかも知れない。しかし、年寄りの思い出話というものは功利的な世の中では真剣に聞く人もなけ れば、感動と感激を得る根本価値も今はない」

「神棚の御本尊ではないが普段は必要のないものだが、せいぜい正月か、困ったとき のお願い事のようなもので、普段はほこりだらけ。だが請われればいつでもいやな顔をせずに舞い降りてくるものだ。年寄りの思い出話とはそのようなものだ が、尋ねるものがいる限り口舌の乾くことも忘れて話し続ける楽しみもある」
 

筆者の周辺にはこんな先輩が大勢いる。
 20代に縁があって満州関係のご老人の会に招かれた。皆さん60代後半から80代の矍鑠(かくしゃく)たる個性ある30名ほどの方の集まりだった。戦後教育では教えられることのなかったような、さまざまな体験が披露された。
 通称高級軍人、高級官僚、満州鉄道関係者、あるいは開拓民として移住した方々が激論を戦わす。そんな中で戦後生まれは筆者一人である。ところが言い争っているような妙な雰囲気があるのに気が付いた。

 たしかに植民地官僚と敗軍の将。それら組織とつねに軋轢を起こしていた満鉄関係者や民間人ならば当然ことのようだが、とにかく元気がいい。満州はおろか日中近代史の裏面にも話題が及び、平成の御代に歴史の謎とさえいわれていることが当事者の口から弾むように飛び出す。

 筆者自身、生まれる以前の歴史の臨場感をいやおうなしに味わわされた。そして若年ではあるが、過世代の存在と意義をおぼろげながら感じたものです。
  会の名称は「笠木会」といって、満州建国の精神的支柱だった笠木良明を偲ぶ会ではあるが、満州では対立関係でもあったさまざまな方の呉越同舟の趣があっ た。世間では戦後政界の黒幕、代議士、一流企業人、大学教授、歴史研究家など、当時日本を動かしている満州人脈というべき顔触れである。

  言い争っているさなかに一息入れるつもりなのか、はたまた「おまえはどう考えるか」などと話を振られることがある。筆者にとっては偉いも偉くもない。いわ んや満州などという言葉は知っているが細目は知らず。ただ世間でいうところの大ボス、小ボスとは違うことは理解できる。
 笠木の遺影の前で、当 時と同じ激論を戦わしている弟子の集まりである。一般社会とは違って、普段、言葉に出したい意見があっても"唇寒い"などと遠慮することもなく、根本さえ 外さなければ何でも通ってしまう。その根本は地位、名誉、財力、学歴といったことに「卑しさ」を持たないことであることは同感であるし、「公」と「私」の わきまえさえ明確なら「長幼の序」は後回しになるようなおもいがある。

 何を発言したのかは思い出せないが、毎回お鉢が回ってくる。すると激論がなかったかのように老教授が「われわれはこの若い世代に何を遺すのか。一番よい方法は年寄りは早く死ぬことである」。一瞬、場が白けるが、笑う人、うなづく人、「そのとおり」と声を上げる人、さまざまではあるが怒る人、嘲笑する人は一人もいない。 平均年齢を下げていると冗談を言っている筆者だが、議論や受容の柔軟さは筆者も舌を巻いた。

 笠木良明のエピソードの中でこんな話があった。大川周明、北一輝らのある会に呼ばれたとき黙って聞いていた笠木は「おれはポチではない」といって席を蹴った。
 ポチとは愛玩犬のことであり、あまり吠えないおとなしい犬のことである。
 また、滝に打たれ修行することを例えて
 「滝に打たれて人間ができるなら、始終、滝壺に打たれている鯉のほうがもっと立派だ」

  そんな笠木を懐かしむ人々の集まりであるが、いやおうなしに満州や大陸、そこに住む民族や歴史、日本とのかかわりが老先輩の雰囲気と相まって興味をそそら れたわけです。縁は自らが望んで得られるものもあるが、いつのまにかその世界に入り込み感動や感激をとおして自分の役割を自覚し、なにがしかの成果を得て 悦に入ったり、あるいは挫折して縁を恨んだりすることもある。

c0142134_1043843.jpg またそれを総括して"縁は不思議なもの"とか"運命"や、はたまた"宿命"などと思い込んで己の人生を限定したり、あきらめたりすることが多いようだ。そのようなとき明治の先輩は筆者にこう言い切った。
「縁は己の宿命に訪れるものではない。宿命を自他の尊厳の中に見いだすとき感謝になり、その命に報いるということが分かれば本当に"宿った命"を知ることになる。
しかしそれから先は自身のためにも、あるいは自身の存在を社会の中で明らかにするとして利他に役立つ存在となるように心掛ける"立命"になる。利己的な欲 望に埋没していると宿命や自己そのものに怨嗟の気持ちが起きるものだ。まさに自己の崩壊や確立の前提は、"自分は何物か"ということの追求の単なる結果に 過ぎないものだ」


 また文章についてもこう述べている。
 「うまい、へた、ということは技術の問題だ。分かり やすいということはその人に合っているということだ。継承すべき人間の事象を著すには流行(はやり)に迎合するものであってはならない。いつの世でも感激 感動を通じて触発され、君と同様な志操をもって至誠の循環は訪れる。人間を学び歴史に思いをいたすとき、そのことは将来の確信として心に宿るものだ。俗世 の評価や人格となんら関係のない付属性価値の評価を恐れてはいけない。ただ君の至誠に恥じることがなければ世界は動くはずだ」

  初対面の老人であった。茶菓子を口元に運ぶしぐさが妙にゆっくりと感じられる。お互いに年はいくつなのか、何をしているのか分からないまま長時間を費やし ていた。明治に共通していることだが、玄関先から道路の角まで見送る優しさは、一期一会になるかもしれない自己への緊張と厳しい生きざまの姿がある。

 道すがら同行した老人に「あの方は...」と尋ねると、「安岡先生だ」。続けてこう述べた。
 
「今日の印象そのままでいい。あとはおいおい分かる。ただ歳は君のほうが若い。しかし頭はかなわんよ。ワハハ」  こんなことを試されたことがある。数寄屋橋街頭で演説している赤尾敏氏の意見を伺うために大塚の道場を訪問した折り、不遜にも長時間にわたり抗論したことがある。
「演説の最後に天皇陛下万歳を三唱しますが...」

「別に天皇個人の健康や個人的もろもろのことを願っているのではない。日本万歳、日の丸万歳と唱えてもいいのだが、ともかく日本の象徴であり、その意味で日本全体の安寧を願って"天皇陛下万歳"と唱えている」

「ロッキード事件のときにアメリカに行ったそうですが」

「総理といえば一応、政治上の代表者だ。それが車のケツとケツをつけて金の受け渡しなど日本人として恥ずかしいことだ。そこで市川房枝と一緒にアメリカにいった。アメリカではアパッチとババアが来たと話題になった」


「安岡先生とは...」
 一瞬真剣な顔をして筆者を凝視した。
「安岡か。あれは行動力が無い。考えてもみなさい。日蓮、マホメット、キリストは命を懸けて時の権力に諌言したんだ。日蓮は火あぶり。キリストは、はりつけだ。いまの日本ではそんなことはないがだれも言い切らん。安岡も同様だ」

「安岡先生は、暴力は一過性だ。だから自分は長い目で見た国家の岐路に役立つ人材の育成に、生涯を懸けるのだとおっしゃっていますが」

「ことは勇気の問題だ。君は分かっているのか」

「確 かにその辺の陣笠代議士や商売人が"安岡先生の謦咳に接した"とまるでマスコットが説いた言辞を、意味も分からずチャツカリ寸借しているものや、ひどいの になると安岡ブランドで飯を食べているものもいる。たしかに弟子と称しているものの中には固陋な考えをもつものもいる、地位や名誉に卑しいものもいるが自 分は違う。先生の説いたものをいかに活用するのも人間の問題です。」  

 どれくらい抗弁しただろうか。安岡家に連れていってくれた老人に促されて訪問した赤尾氏の道場だが、その老人は黙ってその様子を眺めている。
 
 老人がいうには「赤尾氏は真っ赤な顔をして乗り出し、君は真っ青な顔をして引かない。まるで浮世離れした鬼ごっこのようだった」

 突然、赤尾氏は好々爺のように顔を崩して、
「分かった。君も若い。君の思う通りに進んでみたらいい」
 好々爺赤尾はもう一つの明治をおもしろい話として伝えた。
「こ のあいだ細川隆元が"赤尾先生、先生が亡くなったら数寄屋橋に銅像が建ちますよ"言論貴族のあいつらしいひやかしだが、こう返しておいた。"死んだら銅像 などといわずに、君の出ている番組で赤尾の言い分を正しく伝えたらどうだ"と言ったら黙っていた。いちど市川房江とテレビで話してみたら皆、びっくりする だろう」

 一般には赤尾氏自身がいうとおり容姿は怖い、言論は辛辣な赤尾氏だが、四十数年数寄屋橋の同じ場所で唱える弁舌は一服の清風として聞き取れるようになったのはそれからのことである。
安岡先生の没後、自宅に伺ったおり奥様から
「よく笹川(良一)さんがジョギング途中立ち寄ってメロンを食べていきました。それと赤尾敏さんもよくいらっしゃっていました」  

 何もいうことはなし。いまさらなにをいいたくても冥土に招かれるまでの辛抱だ。筆者を言論によって、これでもかと追い込んで試そうとする明治気質の真剣さ は、明治の日本人を追い求めるものにさわやかな教訓として優しく示してくれる。明治には自分たちが失った何かがある。

 "今のうちに明治に会ってみなさい、雰囲気でもよい、触れてみなさい"と、人に会うたびに勧めるようになったのもこのころからである。
 

日本はアジアの一部分 アジアは世界の一部分

 今どき、職分が異なる近代日中史に興味を持ち、しかも明治人の活躍した歴史や人物に添って日本人を知ろうとすることなど、今までの筆者の世界からすればま さに"病気"そのものである。なかには仕事でもなければ、金にもならないことを費やしているなどと身近な言葉に躊躇することもあるが、いつか役に立つこと があるだろうと人生の刻を積んでいる。

 そのなかでも中国人、しかも庶民の立場から見た歴史をたどると、筆者なりに孫文と日本に行き着くのである。老先輩の話に興味を引かれると台湾へ飛んで西安事変の生き証人を尋ね、老婦人には妻の見た革命や夫の人柄を伺い、「先生(夫のことをこう呼ぶ)は自分を捜し続けて一生忙しく動いていました」と、自ら語りだした。

 青年が民主化を唱え、「官倒」を掲げて天安門を占拠したと知れば言葉を解さないことも忘れ戒厳令下に身を置いたこともあった。英国植民地、香港の事業にも試行した。

 辛亥革命に挺身した日本人がいると教えられれば、出生地の育んだ環境に身を浸して歴史に思いをはせる。山田兄弟の生地である青森県弘前市も恒例になっている。

 歴史の必然を逆賭する 

 植民地の解放、香港返還、アジアの復興、そして再度の人為的金融危機によるアジアの衰退。どうするか、どうなるかと、混迷しているアジアの人心は経済繁栄によって錯覚した功利主義に、自らの手によって陥れた結果である。

  近代アジアにおいてはつねに西洋の影響力の下、基盤のもろい繁栄と平和をコントロールされてきた。ときおりパートナーを替える国もあるが、つねに背景の意 向をおもんぱかるために民生の安定や政権の信頼さえ得られないことがあった。それはアジア人らしくもあるがアジアの姿の崩壊のようにもみえる。
 
 歴史を唯一の教訓とするならば、孫文の唱えた西洋覇道と東洋王道を問い直すまでもなく、地域、伝統、あるいは大局的にも世界的位置を再考する機会が、振り 返ればそこにあるということを教えてくれる。つまりアジアのパートナーはつねにアジアを念頭に置かなければならないと教えてくれる。
 
 現状からみれば、その機会をとらえ、メッセージとして発言できるのは大国の趣を増した中国であり、悠久の歴史を刻む民族の知恵であろう。加えて、それを補うのは台湾であり日本であり、世界の中でのアジアの存在意義を自覚した民衆でもあろう。

 天安門広場に集まる若者の背景に孫文がいた。台湾(中華民国)もしかり、政体を違えた両国の国父は孫文であり政権政党にも侵すことのできない偉大な存在であり、ときには苦慮する民衆の秘奥の光明でもある。

 異民族ではあるが、我が国もアジアの熱狂と衰退の予兆を、孫文の志操から透視する人々が存在する。それは、真の日本人の姿を普遍なアジアの眼で認めた孫文が、命懸けで革命に挺身した志と遺訓が、いまでも日本の各地に息づいていることも事実である。

 アジア人がアジアを知り、全アジアを視野にいれた安寧を願うとき、先人の遺したアジア人としての矜持を顧みて懐かしく思うことだろう。そんなとき片隅の継 承ではあるが、孫文が唱え、希求したアジアの「大同」が、各国固有の民衆が、共通のアジア民族として再興するであろうことを、おせっかいながら筆者の推究 と目標の意として記したものです。