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I HOUSE SPECIAL 政治を語る(1)

 名コンビ橋本・小泉の論戦

1997年00月00日
 元中国公使 伴 正一

ご意見
  勝負が始めから決まっていたので、龍虎相搏(う)つの大勝負にはならなかったが、橋本、小泉の論戦は面白かった。

 もっと上手な司会がいたら、小泉にスッテンと尻餅をつかせるなど、面白さを数倍に増幅させることができただろうに、と惜しまれるくらいである。

 二人が、特に小泉が、論戦を引き立てていったことは近来の快挙。小選挙区制の総選挙を控えて示唆されることの多い名舞台だった。

  社会党の党内で、あれだけの論戦が、日の丸や日米安保について行われたら……。できないことと分りつつもそんな思いが去来したものだ。

  河野洋平が橋本との一騎討ちを放擲したことは、政界初の、ディべートらしいディべートを期待していた私を痛く失望させた。それだけでなく、自民党内長老の宮沢喜一が、それを賢明と評したのには開いた口が塞(ふさ)がらなかった。マスコミでも、久米宏ほど影響力抜群のニュースキャスターが、各局、各社の論戦報道を過剰と決めつけていたから驚きである。

  こんな、前デモクラシー的状況が政界やマスコミに存在していただけに、橋本、小泉の論戦は、日本デモクラシーの歴史の中で画期的なことだった、と言うことができる。

  そんなのに、今、二人の論争にケチをつけるような批評をするのは気が進まない。だが、ディベートとして採点するとこんな調子のものになるかも知れないよ、という指摘をする人がいないだけに、不充分でも、それをしておく意味はあると思う。

●小泉は郵便でなぜもっと攻め立てぬ
  先ず論戦のハイライトだった郵政三事業の民営化だが、橋本の応戦は、官僚世界なら模範答案になりそうな理路整然たるものだった。要旨は、官と民の役割分担を先ず充分に議論する必要があるというもの。

  難しい課題を先送りするのによく用いられる、定石の論法である。小泉は何故、そう指摘して反撃に出なかったのか。でなければサッと論点を郵便事業だけにしぼり込んで、民間参入をほのめかしたといわれる橋本を、もう一歩、二歩、追い詰めなかったのか。

 海外から日本に出す郵便料金、国内でならクロネコヤマトの料金などを例に挙げて政府の感覚のズレを指摘するのに小泉元郵政大臣は適役中の適役。財政投融資に直結していない郵便分野に論点をしぼり、官でなければできない理由は何なのかと迫っていったら、小泉攻勢で沸き立つ見せ場が現出しただろう。面白いだけではない。いつも役所の隠れ蓑に使われる 審議会 のぬるま湯論議を嘲(あざ)笑うように、両候補の合意が成立したかも知れない。もともとディべート(討論)とは、言い合うだけでなく、分り合って互いに納得し、争点を一つ、二つ消去することもあるものなのだ。

●冴えない連立論議
 かなり話が弾(はず)んだように見えていて、連立論議も、村山政権のよしあし談義から一歩も出ることがなかった。二人とも連立にかかわっているせいか、小泉まで発言が微温的であった。

だが本当は、連立論議こそ小泉、橋本それぞれのデモクラシー観が映し出される誂え向きのテーマではなかったか。二人にしてみれば、政界再編の展望を論じ合って国民を啓蒙する絶好のチャンスだった。司会の力量で論議を盛り上げる余地もたっぷりあった。全く以て「ああそれなのに」である。

 七月の参院選前には、いささか待望気味に連立の時代 というコトバが口にされていたし、その根拠に価値観の多様化が挙げられていた。それと、二大政党交替論とが激突して大論戦になって欲しいところだったのだ。

●総理は直接、国民が決めるべし-私の二大政党論
振り返って思うに、二年前、総選挙のとき、当時日本新党だった細川が、ハッキリ反自民と、旗幟(きし)を鮮明にしてさえいたら、あの総選挙は、反自民連合で推す羽田を総理にするのか、それとも総理は今まで通り自民党々内の総裁選びに任せるのか、その選択を国民に問う、総理選び的な選挙になり得たはずである。

  かく言う私も、選挙がそうなっていくことを期待していた。日本新党のためにかつての伴票を掘り起すべく、細川からの「反自民」のひとことを待ちあぐんでいたのである。

  そんなことはどうでもいいが、もし細川のこのひとことがタイムリーに出ていたら、反自民連合では以心伝心、総理は羽田という雰囲気になっていたのだから、そこを上手に打ち出して戦う手があっただろうし、そうすれば選挙は随分面白いものになっただろう。面白ければ盛り上りも出て投票率も上がったに違いない。

それにもし自民党が総裁改選を三ヶ月繰り上げ、新総裁を頭にして戦いに臨んででもいたら、選挙の面白さは更に倍増したであろうこと請合いである。

  このようにあれこれ考えを巡らせていて思うのだが、誰に天下を取らせるかの総理選びを、ズバリ総選挙で仕上げないで、その後に持ち越し、各政党の折衝に委ねることは、政権作りのプロセスを著しく分りにくいものにする。政治を分り易いものにすることによってデモクラシーを成熟させようとする上では致命的なことだ。

 分りにくいだけではない。 永田町の談合、国民不在を印象づけ、有権者におのが一票の空しさを味わせ、政治への関心をどれだけ減退させることか。

  尤も自、社、さきがけ連立という現実に足を取られていては、こんな具合に先へ先へと議論を展開して行くことは無理であっただろうし、野党に廻ることに怯(おび)え切っている自民党内の空気からしても、自由潤達な連立論で総裁選挙を沸かせる余地はなかっただろう。

 第三政党以下の行動基準が取り上げられなかったことも、物足りないことの一つだった。

 英国の自由党のように(他日を期するところはあっても)第三党である間は、政権づくりに加わらない、という行動原理に見習う余地はないのか。こんな議論が加わったら、連立論議は見事に立体化し、政界再編論議に思わぬ精彩を加えることができたかも知れないのに……。

 ●マスコミは血の巡りが悪い
  マスコミが世の木鐸を以て任じているのなら、自民党総裁選をもつと大所、高所から把えてかかるべきだった。折角、政策通で鳴る橋本と直言居士の誉(ほまれ)高き小泉が、十日も論戦をやろうというのに、大事な司会者選びにトップが苦労した跡など全く見られない。何という識見のなさ。ああ、また何をか言わんやである。(続)



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