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I HOUSE SPECIAL 政治を語る「平成日本の夢」-その2

 世界平和への取組み……………………………

1997年00月00日
 元中国公使 伴 正一


ご意見

世界平和への取組み

 武の心の喪失は、武以外の分野でも機能障碍を来たしている。その最たるものが外交と世界政策だ。
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 グローバル・パートナーと言いながら、日米安保を越えたグローバルな平和の枠組みについて海部とブッシュが突っ込んだ議論などしていただろうか。イラクに対する武力行使が既に決意されていた時点でも、海部は、何とか平和に頼みます、と言っていたに違いない。これで噛み合った話になるはずはない。
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 私が言いたいのは、和戦のことになったら、日本のトップ・レベルは、呆れる程の音痴だということである。

 実は、こんな話がある。

 16、7年前、私は北京の日本大使館で次席を勤めていた。そのお蔭で、日本からの総理級の要人とトウ小平との会談に陪席する機会が時折回ってきていたのである。

 そんな場合、経済で話がはずんでいるときはいいのだが、談ひとたび東アジアの政局に及ぶと、彼我見識の落差は、どうひいき目に見ても埋めようのないものになってくるのだ。中にはこんなやり取りもあった。

 こちらが、平和外交強調のつもりであろう、得々として当時はやりの全方位外交を弁じ立てる。

 アメリカと軍事同盟を結んでいて、よくもそんなことが言える、と私でさえ思う。

 だが、さすがはと言うべきかトウ小平はそんな素振りを見せない。

  「中国も実はそうなんですよ」

 はてさて一体何を言い出すんだろう。落し穴がないはずはないが、と思っているとやっぱりだ。

  「でも相手によって受け止め方が違いますよね。どこかの国のようにお国の領空すれすれに軍用機を飛ばし続ける国もある………」

 まるで子供に言って聞かせるような調子だ。ああ、やれやれである。中国が、口を開けばソ連の覇権主義を攻撃していた頃のことだ。話を反ソに持っていかれて相槌を打つわけにはいかないが、さりとてこれほど明快に指摘されると反論の余地はない。逃げ道は話題をそらせるしかない。

 私が中国へ赴任するに当って、日中国交回復のときの中国課長で、陰の立役者だった橋本恕が、これから10年、20年、中国に振り廻されるよ、と言っていたが、その通りだった。

 世界の中の日本を見つめていて気になるのは、カッコいいことばで彩(いろど)られている割には、中味の政策が貧困だ、ということである。

 態度が場当りで、それを作文でゴマ化している。

 それでも経済のことになると、それでは持ち切れない部分が元々多いし、環境や福祉でも、ひところのように歯の浮くようなことばかり言ってはおれなくなってきている。

 そういう中で変りばえのしないのが外交であり、中でも世界平和への取り組み姿勢である。時折、平和憲法をひけらかしたり、東京で重要な国際会議を主宰したりはするが、根は大勢順応、というのが戦後の日本外交で、それも一概にけなすべきものではない。

 だが冷戦が終り、やがて湾岸戦争のような新しい形の国際行動が出てくるようになると、果然、平和憲法との矛盾にさらされ、どの国からも尊敬されることなく、カネだけはゴッソリ巻き上げられる、みじめな結果を招いたりするのである。

 これでは先が案ぜられる。世界の中の日本をデザインしようとしても、現行憲法に足をとられ、もたつき続けていてそれができるだろうか。世界共同体の中で 名与ある地位 を占めることなど夢のまた夢ではないか。

 現行憲法は、日本人だけが平和憲法と呼んで平和の守り神のように扱って来たが、その思想を突きつめて行くと、世界平和に武力は不要、話し合いだけで達成し切れるとする超平和主義の哲理に突き当る。「国に統治権力は無用」とする無政府主義と並べて、双生児(ふたご)の理想主義と位置づけてピッタリの思想だ。

 だが、国内にサリンを撤く人間がいるように、国際社会に今様ヒットラーが現われる危険はある。われわれの記憶に新しいところでも、1日で隣の国を攻め取ったフセイン大統領のような人物がいるではないか。

 平和問題に無政府主義者流の、超平和主義の思想で臨むことは、幾多の史実が教えるように、力を信奉する野心家の跳梁を許すことになる。

 やはり平和の問題は、侵略行動に対処する仕組みだとして、武の原理でツメていくのが、実践派の流れを汲むまともな考え方だと言わなくてはならない。

 第一次大戦後の国際連盟といい、第二次大戦後の国際連合といい、そういう実践派の思考で発想され、構築された平和の仕組みであった。確かに勝者によって編み出されたものではあるが、何れも戦争の惨禍を痛いほど体に感じ、平和への切実な願いを籠めて考案されたものであることは銘記しておく要がある。

 そこでこの際、国連憲章の大黒柱でありながらまだ実現に至っていない、(そのせいか日本人が碌に読むことさえしてない)第七章第四二条以下数条の仕組みを考え、そこに流れている思想が具現した実例はないのかどうか、史実をたぐってみることにしよう。

 先ず思い当る、というより私がかねがね着目してきたのが、わが国の鎌倉時代である。

 律令国家制が、その頃の統治能力では支え切れないことが実証された、そ のあとに出現したのが鎌倉の封建体制だった。当時の統治能力の限界を弁 (わきま)え、体に合った統治方式を編み出したという点でそれは、英、独、仏などの封建制と意外なまでの共通点を持っていた。また、その完成期とも言える、泰時の治世は、かの神皇正統記ですら讃辞を惜しまなかったところである。

 その鎌倉期の日本を、国と把えるにはまだ未成熟な、半ば国際社会的な時期にあったものと見立て、その封建制を平和の仕組みという目で理解する余地はないものだろうか。

 こんな衝動に私は、石井(良助)日本法制史講義を聴いていた頃から駆られていた。

 北条氏の武家領に対する掌握は確かなものだったが、武家領は武家領でレッキとした軍を保有し、国家然というか、かなりの度合いで国の性格を帯びた存在であった。

 そういう準国家の軍勢が いざ鎌倉 の呼集に応じて馳せ参ずるさまは、国連憲章七章後半の仕組みそっくりではないか。
 合戦は合戦だが、こういう形での軍事措置が確実に発動されるという 安心感 に支えられていたところに、鎌倉型安全保障の、仕組みとしての卓越性がある。今で言う「領土保全」と同じ意味と響きを持ちながら、所領安堵は揺がぬ実効性を具備していたのである。

  平和を担保する軍事体制の実例が世界規模ではまだ日の目を見ていないだけに、これからそれを考えていく上で鎌倉型安全保障の実際は好個の参考例になるのではあるまいか。

 憲章通りの国連軍ではもとよりなかったが、平和を担保する軍事体制という意味で、領土保全の成功例に挙げられるのが、先般の湾岸危機における多国籍軍であった。

 アメリカが、世界でただ一つの超軍事力保有国になったとはいえ、(国連の安保常任理事国でもある)ロシア級の国が侵略行動に出たときの有効な手立ては、容易なことでは見つかりそうにない。しかし湾岸ケース級の成功例が一つ仕上ったことによって、同規模、あるいはそれ以下の規模の侵略行為には、「いざ鎌倉」の決意だけで対処する可能性が芽生えかけていたと思われる。

 世界の鎌倉時代 も、まだ程遠いとはいえ、強ち夢物語りでもなくなっていたかに見える。

 だがその望みは、不幸にしてバルカン(旧ユーゴ・スラヴィア)で断たれてしまうことになる。

 あれほど果敢に侵略行動を叩きのめした湾岸戦争の成果も台無し、既にバルカンでは攻め得、取られ損が既成事実化し、それを大幅に追認した形の妥協案でしか、現実には戦乱収拾のメドが立たなくなっているのである。

 こんなことが、国境線に問題の多いアフリカ大陸にでも飛び火したら一体、どんなことになるのだろう。弱肉強食!軍縮どころの話ではない、オチオチ眠れない国があちこちに出てくることは必至である。

 不吉な予感がするのはアフリカ大陸だけではない。既に国際紛争化しているいくつかの領土問題がある。そのほかに、元来は国内事項であるはずの民族問題の多くが、いつ独立運動に発展し、国際武力紛争に転化するか見当が立たない。それが、この地上の広汎な地域の実情なのだ。

 戦火に附随しては、難民の発生が物語るように、人道的な救援活動がさし当り必要とはなるが、そうした限定的目的のための活動においてすら、バルカンでは輸送を守るはずの国連部隊に、敵襲で戦死する兵士が出る始末である。

 禍根を断たないでいて、結果的に発生する事態への対応に追われているとこんなことになるのだ。

 どうしてこんな泥沼の事態になったのか。

 色々あるだろうが致命的だったのは、バルカン発火寸前の時点でアメリカの腰が引けていたことである。

 その時アメリカが、大セルビア主義の動きを牽制する、重大警告声明に踏み切らなかったことが悔まれてならないのだ。

 長い冷戦の終結を勝者として迎えただけではない。湾岸戦争で輝かしい戦果を収め、声望隆々たるアメリカだったではないか。そのアメリカの決意表明を、狼少年の類(たぐい)と受け止める国はなかったはずだ。今様ヒットラーといわれるセルビア共和国大統領ミロセヴィッチの動きを、この時点で喰い止めてさえおけば、という見解はヨーロッパの専門筋にもある。

 それが首尾よく運んでいたら、旧ユーゴの戦乱を未然に防止できただけではない。湾岸なみの出兵をその都度行うことなしに、「いざ鎌倉」への怯(おび)えだけで数多くの侵略行動が思い止まる、という平和の仕組みが、緒についていたのではあるまいか。

 これから先も、まだ地上唯一の軍事超大国であるアメリカの役割は絶対的と言えるくらい絶大であって、そのアメリカの腰が引けたら、平和の仕組みについてどんなことを考えてみても、つまるところ絵に画いた餅になることは請け合いである。現に平和の仕組みに対するひところの期待は、バルカン以降のフラストレーション続きですっかりさめてきているではないか。

 しかし、投げてしまうにはまだ時期尚早だろう。世界史の大きな節目の時期はまだ続いていると見ていい。

 中でも日本が、世界の平和論議に、貢献度抜群のメンバーとして加わろうと志すなら、今から勉強に取りかかって遅くはないのかも知れぬ。

 ただ、戦争を呪(のろ)ってさえいれば平和が来るような、超平和の信仰と先ず訣別しておく要はある。いつまでも無政府主義と瓜二つの超平和主義をまくし立てていたのでは、議論をマゼ返すだけだからだ。

 だがこの先入観を払拭することが、今の日本では、想像を絶するほどのハードルになっていることも認識しておく要がある。

 デモクラシーでさえなければ、そんなに難しいことではない。うまく運べば二年か三年で充分その態勢を整えられもしよう。

 しかるに、皮肉といえばこれほど皮肉なことはないのだが、デモクラシーなるが故に、それが易々とはかどっていかないのだ。
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 この五十年、日本人がどっぷり浸ってきたのは、武の否定、「軍はあってはならないもの」とする平和信仰だった。それを一皮むくと、いのちこそ至高のもの、平和のためだろうと自由のためだろうと、危いところへは人の子一人出してはならぬというのが、日本国民のホンネに近いところではなかったか。

 このことにかけては、恥も外聞もない。外でどれだけ顰蹙(ひんしゅく)を買おうと国内はずっとそれで罷り通ってきたのである。
 これほどの徹底した先入観が、五年や六年で払拭されるわけはない。うっかり選挙で、この平和信仰に異を唱えようものなら、それだけで勝てる戦さが負けになる。

 だが、さはさりながらである。この先入観の実勢を先ず挫いておかないことには、平和論議は永久に不毛、何年経っても、果てしない水掛け論が繰り返されるだけであろう。

 さあ、どうしたらいいのか。事は誠に深刻だと言わなくてはならぬ。

 飛びつくような名案が浮ぶ余地はない。

 そこで窮余の策、こうなれば破れかぶれ、正攻法で、というのが、何十年かかろうとデモクラシーそのものの成熟の中に活路を見出そうという発想だ。もしかしたら急がば廻れの知恵になるかも知れないのである。(続)



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