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I HOUSE SPECIAL 政治を語る

「ボーイズ・ビー・アンビシャス」(3) 大いなるもの

1996年11月00日
 元中国公使 伴 正一

ご意見

 大いなるもの

 何かを求めての話になると、中田厚仁君のことにひと言触れないでは気がすまないんですが、国連ボランティアだった中田厚仁君はカンボディアで亡くなりましたね。どうも不思議でならないんだけども、あのときおやじさんが、彼は本望だったでしょうなんて言うもんだから、マスコミもうっかりそっちへ引きずられるような論調になってしまった。

 だけど、あれがあんなおやじさんじゃなくて、おかあさんがおろおろ泣いて、息子を返してくれと泣き叫んだらどんなことになったでしょう。それがマスコミ論調のベースになって、命を大切にしろの大合唱になっていたかも知れません。たまたまおやじさんがあんな元気なことを言うもんだから、国中が度肝をぬかれて、ああいうふうに半ば美化されるところへ行ってしまった。

 でも中途半端でしたよ、議論の方は。私の理解ではやっぱり中田厚仁君には、命より大事なものがあった。大いなるもののために命を捨てるのならそれで本懐という思いがありその意味で今の人命至上主義の思想とは訣別していたんじゃないかと思うんです。中田君にとっての大いなるものとは何かというと、人類の幸福、とりわけ世界全体の平和というものだったと私は思います。

 これは仏教用語ですけど、自分の幸せだけで頭がいっぱいというのを「小我」といいます。コミュニティ、例えば村全体の幸せが自分の幸せと思えるようになると「小我」のカラを破って「大我」の世界へ一歩踏み出した形になる。それが更に拡がって行って最終的には世界人類の幸せこそが自分の幸せそのものになる。自分の幸せを求めてやっているのか、世界人類の幸せを求めてやっているのか、渾然一体区別がつかなくなる。そうなると大いなるもののために小さい自我を投げ出すという自己犠牲ではもうなくなっているんです。

 先程の話のように国をバイパスするのは奇妙に思えるんだけれど、国を飛び越えて全世界を大いなるものと把え、「大我」の境地を目指すんだったらそれはそれで結構だと思いますよ。そしてその思想の中で、日本という国にふさわしい役割を摸索して行けばいいんですから。

 百花繚乱の形で若者の志が咲き匂う。そんな風潮、いいじゃないですか。

 とにかく中田厚仁君は一体なんだったんだろうということは、もっと突っ込んで議論していい。そこらあたりが全然中途半端ですから。おやじさんは今あっちこっち講演して回っている。私も1回松山のOB会の記念講演でお父さんが来て話をしたのを聞いたものです。中々の演出ぶり、30代から40代の婦人が800人か1000人の会場いっぱいでしたが、だれ一人途中で立とうとしない。セキひとつしない。みんな真剣に話を聴いていましたね。でも本当はお父さんの話を世のお母さん方が感心して聞くだけじゃなくて、やっぱり若者同士で人間中田厚仁をもっともっと議論すべきではないでしょうか。

 中田君の話が長引いてしまいました。次の、異民族との2年というところにいきましょう。

協力隊に集まってくる真新しい世代の多くは、まだ一個の人間としてのロマンしか持ち合わせていないように見える。彼らにとっての協力隊参加は一人ひとりの生きがい、自分一個の青春の夢でしかまだないように思われる
 私は協力隊を去ったあと、一時期訓練所で講義をやっていたことがある。そのとき「参ったな」と思ったことが一回あるんですが、それはある女子隊員の発言でして、「ロマンというのは個人にはあっていいけど、国がロマンを掲げるということは危険だ」というんですね。それは言われてみればあたっているんです。

 大東亜共栄圏なんていうのは国のロマンでした。国をあげてのロマンで、若者を駆り立てた。ヒットラーもドイツェランド・イーバー・アルレス、すべての民族に秀でたるドイツと叫んで、ドイツの栄光を謳い上げた。あれはロマンです。その女子隊員の言ったこと、確かにそう言われれば考えさせられるんですな。

 しかし、今考えると、それにはやっぱり国に対するアレルギーが働いていたんじゃないでしょうか。国というのはデモクラティックでさえあるなら、国民 が政権を決め、総理も決め、大統領を選ぶ、国民がつくった政権です。その 政権が理想を掲げ、国民の多数が共鳴している姿が何故悪いんでしょう。デモクラティックに形成された理想であっても国の場合は危険だというなら、世界人類が共通の理想を持つことはもっと危険だということになるじゃありませ んか。

 私は日本がオランダぐらいの国だったらこんなことは言いませんよ。しかし日本ぐらいの国になると世界全体に対する責任の度合いが違ってくるんでして、しっかりした考え方を国として持っていないことには世界にとって大変な不安要因、ハタ迷惑になるんです。アメリカや日本は、その意味で国の意思を作り上げる上で、ひときわ重い責任があると思うんです。

 大きな、大事な国のデモクラシーというのは格段にしっかりしていなければいかんですよ。アメリカの次ぐらいに日本のデモクラシーはしっかりしていないといかんですよ。その日本のデモクラシーに信頼がおけないんだったら、大きな船が漂流しているような、世界にとっておっかなビックリの事態になるんです。

 隊員の場合、彼らの持っているであろう夢を、個々人のものとして花咲かせれば充分であって、それ以上望むことはないと割り切るのか、それとも、それと同時に日本という国家の在り方について理想を持つところまで期待するのか。隊員のロマンを考える場合、このことは大きな分岐点になると思いますね。

 私のよく言うことなんですけど、人間、貧乏を引きつけているとき、おやじ さんが病気で寝てるというようなときには、よそ様のお世話なんかできませ んよ。自分の家が人さまの迷惑にならないようにすることが精一杯であり、 最高の善です。それだけの力しか自分の家にはないんですから。国の場合でも同じことで、日本という国は神武天皇以来よその国の迷惑にならんことぐらいは心がけでできても、よその国のためになるなんていう力はとてもなかった。

 ところが今はどうでしょう。日本の富は少し落ち目かなというフシもなくはないが、それでも巨大なものですよ。国としていいことをしようと思ったら幾らでもできますわな。神武天皇以来今ほど日本が国としてもいいことができる時期はありません。日本だっていつ衰えるかもわかりません。今のように力が備わったときにいいことをしないでいるということがありますか。国はロマンを持ってはいけないというのも一理あるけれども、正しい議論だとは私には思えないのです。次へいきましょう。(続)



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