Sakigake Touron
Shoichi Ban   
 

魁け討論春夏秋冬

ご意見


 

日航機のニアミスに想う。
――「責任感」を新しいモラルの原点(座標軸)に――
2001年02月03日


 文明の利器で危険でもないものがあるだろうか。人と動物を分かつ、火、だってそうだ。火という恐ろしいものを使いこなすことから文明が始まったのではなか。
 牛を生け捕りにして使うことだって、馬を馴らして乗ることだって、手で耕し足で歩くよりはずっと危ないことだったが、人類はそういうことに一つ一つ挑んで、遂に現代のような科学技術発達の超加速時代を迎えるに至った。そしてそれが今われわれの生活水準を支えていることは言うまでもない。
 だが、いま人間が手の代わり、足の代わり、頭脳の代わりにまで駆使している機器の大部分は、高度化すればするほど危険度も高まるという宿命を持っている。確かに、危険度の高まりに追いすがるように、安全装置面の進歩も著しいが、まかり間違ったときの大惨事発生の恐ろしさは百年前の比ではない。
 どんなに安全装置を開発していってもその安全装置を駆使し、管理するのは人と、人の組織である。管理の過程でキーを一つ押し間違えたら今度のような身の毛のよだつ事態になる。
 これからの文明社会は危険充満、大惨事がどこかで起きるやら分からない恐ろしい世の中だ。
 この恐ろしい世の中を恐ろしくなくするには文明から逃れるしかないが、それができない相談だとなれば、安全装置の開発もさることながら、もっと決定的に必要なことは人間一人一人の責任感を文明社会が安心できるところまで確実に強化していくことだ。
 絶対に安全な、というこはありえないが、一人一人の人間の責任感を涵養することによっても、もっと安心して生きて行ける世の中にすることができる。それを道徳と呼ぼうと呼ぶまいと、新しい世の中の掟(おきて)の基軸に据えるのだ。

   仮にそうすることができたら世の中はどんな風に変わり得るだろうか。
 変化が目に見えて現れるのは学校教育だと思う。
 当番制度や部会での自治体制の中で、時間を守ることから始まって生徒の責任観念を育んでいく仕掛けはいくらでも考案できそうに思える。
 天災、火災を想定した特別訓練なども、責任感の涵養ということを基軸に据えて見直してみると、常日頃から「体力」を作っておくことも肝要だということになる。それに関連して「持久力」とか「忍耐力」とかいう徳目も大きく浮上してくる。
 自主性尊重が行き過ぎて甘えに堕していた学校教育の中に、「鍛える」という局面が大幅に入ってくるのではないか。
 勇気という美徳なども、誰にでも必要な徳目になる。こうなったら校内暴力なんかは勇気ある先生や生徒たちの存在だけで影を潜めるに違いない。

   家庭教育でも、子に対する親の態度に断然筋金が入って来ると思う。
 ひたすら、いい学校に進めることを願う今の多くの母親の姿を思い浮かべてみて欲しい。新しいモラルによるとそれでは母親失格になる。
 無責任な、あるいは卑怯な行動があったら厳しく叱らなければならない。
 「誉を重んずる」とか、「恥を知る」とかいう、責任感と隣合せの美徳も脚光を浴びるようになる。

   この式に想像を繰り広げてみると、日本が世界に誇るに足るような醇風美俗の中の重要な徳目が、かなりの歩留まりで、二一世紀に向けて再評価されるのではないか。

 高度文明社会は、構造的にみて、互いに命を預け合って生きている世の中だ。一人一人の責任感の強さが今ほど問われるときはない。
 こういう切実な時代の要請を正視する必要がある。
 醇風美俗は大切にしたいものだが、お説教めいた感じを与え勝ちな在来型の道徳教育では、何か時代にそぐわない、従って迫力の乏しいものになるような気がしてならない。
 釈尊、孔子から二千五百年、キリストから二千年が経っている。

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