「魁け討論 春夏秋冬」2000年最終号
 

ボランティア考


 今から23年前、講談社から青年海外協力隊シリーズ3部作が刊行されました。

 中根千枝、(日本人の可能性と限界)、鳥羽欽一郎(発展途上国と日本人)のお二人と並んで私が執筆したのが「ボランティア・スピリット」でしたが、私の場合は題名で一悶着あったのです。

 この本の名前が決まる少し前に、私は5年近く務めた協力隊事務局長から中国公使に転じ、北京の日本大使館に着任していたのですが、このカタカナの名前は嫌だと言い張って講談社を手こずらせていました。突飛なことは自分でも分かっていながら私は「諸善奉行」という題名にこだわっていたのです。講談社にしてみれば「そんな題で本が売れますか」というわけで相手にしてくれない。何回も長距離電話で渡り合ったんですが挙げ句の果て、先方はとうとうシビレを切らして「じゃあこの話はなかったことにしましょう」と来た。

 こうなるとこちらの負けです。半年以上にはなるでしょう、心血を注いで書き上げたものをボツになどできるはずがありません。

 でも私それからも「ボランティアなんて自分から言う言葉じゃない。人が言ってくれるのなら異を立てて『違う』と言うまでのことはない。ニコニコ笑って聞いていればいいけれども」と言って来ました、

 これには訳がありまして、そもそもの発端はルソン山中での元首狩り族との出会いなんです。

 もう4半世紀も前のことになりますが、私が協力隊事務局長でフィリピン隊員の視察に行っていたときのことです。これからのお話の舞台になる部落は30年くらい前までは首狩り族だったという噂が隊員の耳に入ってきたようなんです。

 その隊員から「部落の公会堂が仕上がって丁度いいところだが局長にはお出で頂けるだろうか」という問い合わせがあり、度胸試しくさいぞという気はしたものの二つ返事で行く事にしたのです。

 でも、もうすぐ部落という人里離れた寂しい坂道あたりで、案内に出て来てくれたその隊員がポツンと独り言のように「ここらあたりですよ、以前お連れしてきた〇〇先生が急に腹痛を起こされたのは」なんて言うものですから、私も寝た子を起こされたように少々薄気味悪くなる。でも隊員にそう言われて局長たるものが腹が痛くなるわけにはいきません。素知らぬ顔をして川辺の渡しへと道を降りて行くわけですよ。

 部落に着くと、その折り目正しさから察するに酋長の家系なんでしょう、部落長の慇懃(いんぎん)な出迎えを受けます。そしてその晩は、隊員の親分が来てくれたということで部落を挙げての大歓迎。家々の主婦がご自慢の料理を作って持ち寄ってくれる。そのうちに酒が回って盆踊りのような輪ができ、私もいい気分になってその輪に吸い込まれて行きます。

 先刻頭をかすめた薄気味悪さなどどこへやら、弦歌さざめく中でご満悦の今浦島は時の経つのも忘れていました。

 しかし段々夜が更け、部落長の弟の家で寝に就こうとする頃合いになるとどうしたことでしょう。

 「長年の風習が今夜あたり蘇らないと言い切れるだろうか」とか「やっと戦争で生きのびて来た命をこんな格好で落しでもしたら」など、縁起でもない妄想が脳裡にチラつき始め、普段のように早々とは寝付かれなかった。言うのも恥ずかしい話ですが正直なところ夜が明け目が覚めたときはほっとしたものです。

そこへ、障子風の戸を開けた瞬間、想像もしていなかった光景が目に飛び込んで来たのです。

 中学生くらいの少女が2人、家の前の、道とも広場ともつかないところを黙って掃いているではありませんか。

 私の幼少時には日本でも見受けた風景ではありましたが、愚にもつかないことを思いながら眠りに就いたその翌朝ですから、申し訳なさが加わって驚きが増幅されたのでしょう。

 とにかく私は打ちのめされましたね。

 この部落にボランティアという言葉があるのだろうか。

 この子たちは親からしつけられたまま素直に、あるいは部落社会のしきたりに沿って自然に、昨夜大騒ぎして汚れたところをこうやってきれいにしている。

 でもこの子たちのやっていることは、西洋言葉でのボランティア行為そのものはないか。

 言葉もないところに行いがある。

 昨夜のこと、あんな失礼な思いをしていたこの部落に、老荘の教えを地で行くような自然社会が生きている。

 目からウロコが落ちるとはこんなことかと思いました。

 まるで作り話のようなこの海外体験が私を、「諸善奉行、諸悪莫作」という禅語に誘導して行きます。うら覚えで記憶していた、中学何年生かの漢文教科書の一節です。

 この禅文句の由来は本(ボランティア・スピリット)の中でも解説してありますが、そのミソは、「仏教の大意は」と聴かれて「いいことをするんじゃよ。悪いことはしなさんな」と答えた中国の高僧の話なんです。

 バカバカしい。禅問答にあり勝ちな話です。でも世の中、八分通りのことは理屈ぬきで、いいことはいい、悪いことは悪いの見さかいがつくもので、大切なのは、いいと思ったらする、悪いと思ったらしないことではないでしょうか。

 こう考え直してみるとこの禅語は、一見人をバカにしているようだけれども実は千鈞の重みがある。これが守られるだけで、世の中がどれだけよくなることですか。

 義勇軍編成でもないのに、何もことさらボランティアなどというコトバを打ち上げることはない。内容がボランティアなら表題は「諸善奉行」に限る、という思いが、こうして引っ込みがつかないところへ行っていたのです。

 でもこの考えがまともかどうかは何度となく考え込んでみましたよ。

 その過程で、父母たちがさり気なく口にしていた日本的あるいは東洋的思考パターンの片言隻句を思い浮かべたものです。

 そうかと思えば、自分の中のヨーロッパ的なものに戻るという具合で、正、反、合の繰り返し、ヘーゲルの三段論法の試運転みたいなものでした。

 東洋だとか西洋だとか言うと読者の皆さんは、世界中で評判になったハンチントンの著書「文明の衝突」を連想されると思います。

 また、先般のように総理の口から「神の国」発言みたいなことがあると、外国で友人などから「日本の総理は天皇を今でも神と思っているの」などと聴かれることがあると思います。どう答えていいか誰だって戸惑うでしょうね。

 そんなとき、聴いている相手にも合点が行き易く、文明論的な日本の一口解説にもなるような答え方ができるといいのですが。

 それにはやはり多少の素養が要ります。

 森発言のケースでは、八百萬(よろず)の神という古くからの言い回しがあるように、日本には多神教的な精神風土があるということ、そしてそのシンボルともいうべき氏神様と鎮守の森が、何十代もの昔から陰に陽に日本人の社会生活に密接な役割を果たしてきたこと、それくらいを知っていれば十分だと思いますがね。

 このことで私はちょっとした面白い体験をしました。森発言の直後のことです。

 高知で東ロータリー・クラブの卓話に招かれて30分のスピーチをしたのですが、題が「無名戦士の墓と靖国神社」だったものですから、とっさの思い付きで森発言に触れてみたのです。

「総理も頭の回りが悪いですね。『神の国』と言うから一神教の神と取り違えられるんで『神々の国』と言っておけば氏神のイメージになる。海外の報道機関といえども大文字のGodに訳す心配はない。国民統合の象徴と憲法にも書いてあるくらいですから、『天皇を中心とする』という言い回しが主権在民を否定したものだという違憲論も成り立たない。『神』のあとに『々』が抜けていたばかりにあんな騒ぎになった。

 自民党にも知恵者がいなかったということになりませんかねえ。

 後からでも、森さんには不似合いな理屈っぽい言い訳などさせないで、『神々と言うつもりのところをウッカリ一字落としまして』と言わせておけばユーモアたっぷり、失笑のうちにケリ、ということになったかも知れませんよ」

 こう言うと会場のあちこちでロータリアンたちのゲラゲラ笑う声が聞こえて来ました。

 多神教の名誉回復

 前回「ボランティア考」のコラムでは、森総理の「神の国発言」に触れましたので,今回のコラムではそれにつないで、できるだけ物語風に多神教を論じてみたいと思います。

 インドネシアはイスラムの国ですが、バリ島だけは例外でヒンズー教ですね。

 これも青年海外協力隊時代、隊員派遣の下見にインドネシアに立ち寄ったときのことです。

 この島の山奥、観光都市で有名なデンパッサールから離れた辺鄙なところで、高校生たちの学芸会があると言うものですから、断るのも悪いと思って重い腰を上げました。

 ところが行ってみるとどうでしょう、その素人離れしたセット・アップや演技にうならされてしまうのです。

 豪華絢爛、私の幼少時の学芸会などとは、どだい較べようがない。例えば足運びの仕草など日本の能,狂言を彷彿(ほうふつ)させるではありませんか。吹奏部門も子供とは思えない。主役は女の子でしたが本当に泣いている。

 私は参りましたね。

 ところが翌朝のことです。本番の視察に村落方面に向かう途中「昨夜の場所ですよ」と言われてまた驚いた。椰子の葉で葺いた屋根を十数本の粗末な柱がつっかい棒のように支えているだけではありませんか。

 ゆうべは夢でも見ていたのか、という錯覚にとらわれてしまうのです。

 ジープに揺られながら、またその晩は一人になったあと、考え込んでしまいましたね。

 これはどうも多神教と関係があるのではないか。神々の前で演ずる歌舞,演劇に自由がある。

 コンスタンチノーブルの陥落で古代ギリシャの文物がフローレンスへ。そして文芸復興(ルネッサンス)へ。

 そんな中学時代の知識が甦ってくるのであります。

 そのことがあってから私の多神教に対する興味は、大きく私の世界観を揺るがせていきます。

 そして、アフリカなどを歩いていているうちに芽生えていた、"くらげなす漂える思い"を価値多元論へと仕上げていきます。

 西洋文明二大源流の一つになったギリシャ文化だって多神教の下に花開いたものではないか。

 塩野七生さんに言わせれば興隆期のローマが、さしも広大な多民族国家の統治に成功したのは多神教だったからこそというではありませんか。

 連想は連想を喚んで、ギリシャ神話ならぬ我が国の"神代史"にも行き当たります。

 神話として語り伝えられているどころではない。それにつながる形で伊勢神宮や出雲大社、そして全国津々浦々に氏神様の社(やしろ)が、(仏教の寺院と共生しながら)現実に多様な社会機能を営んでいるではありませんか。

 私自身の中にも、神話と通底しているかのように、山の荘厳さに打たれ、さわやかな日の出に"お天道様"の恵みを、浴びる思いで感じる情緒がまだ残っているのです。

 原始宗教さながらとは言え、信心深かった亡き母の面影に重なり合うこうした敬虔な姿をにベもなく斬って捨てていいのか。

 こうして私は、大人もいいところ、五十近い年頃になってやっと、中世この方ヨーロッパを席巻し、今も欧米諸国を一神教世界たらしめているキリスト教に、自分なりに納得のいく距離を置こうとし始めたのです。

 デカルトからマルクスへと言われる西欧合理主義の理性信仰から自由になって行く自分を漠然と実感するようにもなりました。

 それから二十年、いま、日本のナショナル・アイデンティティが問題として脚光を浴び始めたのを見ると誠に感慨深いものがあります。

 非ヨーロッパ世界における多神教の名誉回復とか、安易に人類普遍の原理を振りかざす「理性信仰」を控え目にさせるとかは、アジアの台頭などを契機にして二十一世紀における主要な文明論テーマにしていいと思いますね。

 これだけそれぞれに違った国があり民族がいる世界で、個性や年齢に相当するものがどの国にも民族にもあるんでしょうから、好みに合った考え方、感じ方、生きざまが程よく所を得て世界を多彩なものにする方が、人類共同体のあるべき姿として、どれだけ人間的で、自然の摂理にも適っていることか。

 こういう雄大なテーマの中に日本民族の役柄にぴったりの足場を築き、一役も二役も買うところがあっていいではないですか。

 それは考え過ぎだろうか―協力隊のこれから―

 青年海外協力隊の身上が実践にあることは間違いありませんが、思想になじまないと決めて掛かることもないでしょう。

 前回のコラムでお話しした多神教名誉回復のような動きの先鞭を、数の問題ではない、資質ある隊員や0Bがつけるという事例があってもいいではありませんか。

 協力隊時代私が熱っぽく隊員に語りかけたのが「持続する情熱」ということでしたが、その次くらいに力説して止まなかったのが、先進国の驕りを諌める見地からの「価値多元論」でした。

 「諸君の任地には、一見して原始的なものに見えても五百年、六百年後には今の西洋文化と肩を並べるような文明の大樹に育つ木が、芽を出したばかりで雑草に混っているかも知れないよ」

 こう言って私はラフカディオ・ハーンの話をしたものです。

 英国人とギリシャ人の間に生まれ、アメリカから新聞記者として明治初年の日本にやって来たハーン。侍の娘を妻としその姓をとって小泉八雲と名乗った彼は、炯眼よく日本伝統文化の独自性に感付き、それを幾つもの名著によって世界に紹介するんですが、その八雲にこんなエピソードがある。

 お宮さんの境内で近所の子供たちが喜々として遊んでいるのを見て彼は感心するんですな。

 戦前なら極く平凡で、ありふれた風景です。明治の初め、どころかもっと昔から日本の風土の一部だったのではないでしょうか。

 しかし、それを初めて見るキリスト教世界の人たちには、それに気づかない人の方が多かったでしょうし、もしかすると子供の遊びとはいえ(宗教的敬虔さを欠いた)異様な行動に映ったかも知れません。

 ところが小泉八雲はそうではない。彼の眼は澄み切っていて今で言う"先進国の驕り"みたいなものがなかったのでしょう、逆にその大らかさに感心するのです。

 尤も私がこういう話をするようになる前から「教えるよりも教わることの方が多かったですね」と言う帰国隊員がよくいて私を感動させたものです。

 私自身が協力隊に日本の灯(ともしび)を感じ取るようになったのもこういうことが端緒でして、価値多元論も私の独創などではなく、むしろその萌芽は隊員の実体験の中にあったのです。

 そんなわけで、よく隊員をつかまえては「小泉八雲のような人物が協力隊からも出ないかなあ」とけしかけていた記憶もあります。

 この価値多元論とそっくりの言葉に「価値観の多様化」という概念があります。道草にはなりますが、多元論の意味を浮き彫りにする上では丁度いいところですので簡単に触れておきましょう。

 政党の離合集散の落着き先を、イギリスやアメリカのような二大政党体制と考えないで、独、仏など大陸諸国のように「連合の時代」と予想する流れが知識層やジャーナリズムにありますね。「価値観の多様化」というのはその論拠としてピッタリなんです。

 共産主義体制が崩壊する形で冷戦が終了した直後しばらくは、市場経済を拠りどころにして来た西側に凱歌があがるわけですが、それも長続きはしませんでした。

 共通の敵を失ってお互いの結束が弛み、価値観共有の間柄という意識に綻びが見え始める。「価値観の多様化」という言葉はこういう状況の中で時の言葉になるのです。

 日本でも「自由と民主主義を守り」だけならどの政党も言っていることで独自性が出ない。政党や会派はそれぞれに独自の価値観を描き出さないとグループ存立の意味が問われる時勢になりました。

 しかしそれは、無理な注文なのかも知れません。

 趣味とか流行的な意味でライフ・スタイルという分野で多様化の傾向はあっても、人生観とか世界観レベルでは価値観が失われている。期待の大きい民主党でさえ、今のままでは平均的日本人に分かる形で独自の価値観を描き出せないでいるではありませんか。

 「個」や「市民」というキー・ワードも分かり易くはないし、「ニュー・リベラル」となるともっと分かりにくい。カタカナ系抽象用語をどう積み木細工してみても、却って分かりにくくなるだけ。

 そうなると「価値観の多様化」もまた、言葉の独り歩きに過ぎなかったのか、ということになるのではないでしょうか。西欧合理主義の思考パターンを越えるところを出発点にし、ヨーロッパ世界からは一顧も与えられなかった非ヨーロッパの風土や慣習の中に、将来美しい花を咲かせる因子が潜んでいるかも知れないとする文明史論とは随分違います。

 ただ、言葉の独り歩きでもいい、価値観の多様化というキャッチ・フレーズがここしばらく、我々の価値多元論に弾みをつけてくれるのなら有難いことで、黙って聞き流していればそれでいいことだと思います。

 道草が長くなりましたが、展望を拡げ過ぎたところでアメリカの平和部隊論につなげてみましょう。

 私が協力隊にいたころ青年海外協力隊と言ってもまだよく知られていなくて、大抵は「平和部隊の日本版」と説明してやっと分かってもらえたものでした。

 何しろ当時のアメリカは、国全体の使命感が頂点に達していた観がありました。それに若き大統領ケネディの光彩陸離たるイメージが重なって、ピース・コーの打ち上げが喚んだアメリカ内外の反響は大変なものでした。

 ケネディはアメリカの建国精神から説き起してニュー・フロンティアを語ります。

 「建国以来アメリカには、辺境に挑むフロンティア精神が脈々と流れて来た。だが今やカリフォルニアも開発され、挑むべきフロンティアはもう存在しないかに見える。フロンティアを失ったアメリカには明日はない。しかしよく考えて見給え。カリフォルニアを越えた海の先にはまだ広大なフロンティアが横たわっているではないか」

 ざっとこういう調子でニュー・フロンティアを時の言葉にしたケネディがその目玉に据えたのが、外ならぬ平和部隊でありました。大統領選挙さ中のことです。

 「アメリカの青年たちが裸で途上国の人々の中に飛び込み、膝を交え、情熱をもって訴えていくなら、現地の人々はアメリカを理解し、アメリカン・ウェイ・オブ・リビングは自分たちを幸せにするものでもあることを知るに違いない」

 当時のアメリカには、この若き大統領候補の呼びかけに応える充分な素地があったに違いありません、名門ハーバード、加州大バークレー校を筆頭に数カ月を経ずして一万数千人の応募があったと言われます。それから5年して日本でも協力隊の派遣が始まるのですが、敗戦で失われた自信を取り戻すのも容易でなかった1960年代の日本で、ケネディ張りの勇壮な構想を打ち上げる余地などあろうはずがありません。

 当時の青年運動における海外指向の先見性や、それに応えた与党青年部有志の連動もあったとは言え、その規模や俗にいうエリートの占める比率の上で、平和部隊とは随分違った発足振りだったということになります。

 若いうちに自分を試すんだという気概で、農林水産、柔道など日本人得意の分野で奉仕活動が始まるわけですが、何と言っても技倆が身上、言葉のハンディを実践でカバーするイメージが定着して行くのであります。

 それから三十有余年、協力隊は次第に評価を高め、規模も大きくなりましたが、世界がこれほど変貌した今になってみると、感慨なしには考えることのできない幾つかのことがあります。

 その最たるものは何と言っても平和部隊のバックにあったアメリカ全体の使命感の薄れです。長かった冷戦で最終的勝利を手にしながら、唯一の超大国にしては風格と凛々しさに欠けていないか。

 ケネディの呼びかけにも、それに応えるピース・コーへの応募振りにも、アメリカン・ミッションにたいする初々(ういうい)しい情熱が窺えましたが、今振り返ってみればそれと裏腹に、自信過剰と思えるフシのあったことも否めません。

 アメリカ人の野性と活力には現在でも端倪(たんげい)すべからざるものがありますが、アメリカとアメリカン・ウェイ・オブ・リビングへの満々たる自信は、ヴェトナム戦争を契機に後退し始めます。ピース・コーについても、現地の人々と膝を交えてデモクラシーを説く往年の意気込みはどうなっているのでしょうか。若者の間ではそれが野暮ったいものになりつつあるのではないでしょうか。

 こんな見方があたっているとすれば、平和部隊と協力隊の比較は今の時点でやり直した方がよさそうに思えます。

 私自身まだその詳細に立ち入るまでのツメはしていませんが、大きな流れとしては、平和部隊からは世界向け"啓蒙"の意気込みが退潮し、技術協力的な意味で"協力隊寄り"の傾向が強まったとしても不思議ではありません。他方、協力隊では技術協力から一歩踏み込んで、個々の民族,種族の価値観に適合した職場のライフ・スタイルを目指すケースがそろそろ出始めるのではないでしょうか。

 若しそれがうまく行けば、少し大袈裟かも知れませんが「職域文化」とでも言うべき分野で、多様性に富んだ新しい協力カテゴリーが協力隊のリードで誕生しないとも限りません。

 何と言っても協力隊はその原点において、単なるボランティアではなく、なりわいの道、職域を同じくする者同士が、職場を共にする形で日々接触するという協力環境を想定して出発しているわけで、このことからすれば、その貴重な実践の中から土地柄に配慮の利いた職場が次々と形成されることは、あって当然のこと、それを期待するのは高望みでも何でもありますまい。

 そしてそれが若し二十一世紀中に、"職域文化"という名の新分野を誕生させる気運につながって行くなら、こんな素晴らしいことはないではありませんか。

 そこまで行けば、それは世界的な人間交流の上でも新機軸として脚光を浴び、途上国が逐次先進国入りした後も協力隊は、時代に即応した変貌を重ねながら、一方交通を相互方式に切り替えて益々その存続価値を高めて行くに相違ありません。

 技術協力は江戸期に学べ―江戸期を彩る職人文化

 青年海外協力隊時代、私は口癖のように「技術協力は江戸期に学べ」と言っていたものです。江戸時代、名工の丹精こめた努力や藩政に尽瘁(じんすい)する英邁の士の着眼から数々の優れた産品が世に出ました。戦後の地場産業も顔負け、高級品の名をほしいままにして今に至っているものも少なくありません。

 名著「日本的性格」の中で長谷川如是閑が、これこそ日本精神と言い切った職人気質(かたぎ)の、見事な開花振りであります。人づくりが主眼の技術協力で最も威力を発揮するのは、実はこの類いの職人的な「ソフト」でして、昨今の審議会答申に見られるような言語過剰のペーパーではありません。

 その土地の風土にどっぷり漬(つか)る。そしてその中から職人的な勘が閃いて現地の実情に即した着想が生まれる。技術協力では、こういう、江戸期模倣型の段取りでいくのが一番賢いやり方である場合が多いのです。

 また、この類いの閃きは、学歴に関係なく現地の人の中にもあっておかしくない。草履取りの"木下藤吉郎"みたいな逸材は途上国にもいるはずで、その意見を取り上げる人がいないだけなのかも知れないのです。

 そのことに気づく,と言うこと自体が職人的な勘の良さかも知れないんですが、外務省で技術協力課長になったばかりのとき私は偶然、幸運にもそんな人に出会うことができました。

 国連からインドネシアに派遣されていた星山という専門家で、現地の人との間で交わすさりげない会話に出てくる面白いアイディアを(専門家である)自分の発想にして当局に採用させて行った。「私の仕事は吸い上げポンプ」とは言い得て妙、目のつけどころが江戸期的だと思いましたね。

 現地の人の閃きなら当人の発案として上に上げればいいようなものですが、職場にはそんな空気はない。

「名は星山案でも実はオレの考えが通ったんだ」という、せめて半分量の満悦感を下積みの労働者に味わせていけば、積もり積もってかなりのインセンチヴになるだろう。インドネシアの発展を願う星山さんのそんな心情が伝ってくる思いでしたね。

 それだけでなく、この話で私の連想癖をくすぐったのが、薄々私の記憶に残っていた次のような江戸期物語です。

 無暗(むやみ)に朗読させ、暗誦させておいて「読書百遍、意自ら通ず」で押し通していた寺子屋流儀も荒っぽい。とても合理的とは言えませんが、この程度なら禅の不立文字(ふりゅうもんじ)と似たり寄ったりで分からんでもない。

 ところが、弟子を仕込むのには教えるよりも盗ませるに限るというに至っては言語道断、奇抜も度が過ぎるというものですよね。

 でもこんな、世界のどこへ持って行ったって通用しないような教育手法がかなり広く行われていたというのですから、江戸期が面白いんです。論より証拠、明治開国となって西洋の先進技術をあんなに素早く、あんなに巧みに取り入れることができたのは、こうして鍛え上げられた職人たちのど根性の賜(たまもの)なんですから。

 生業(なりわい)に発して〃道〃に到る、とでも言いましょうか、江戸期の奥行きの深さ、その頃の達人たちの知恵や気合いの入れ方。総じて職場に育(はぐく)まれていた精神文化の高さには粛然として襟を正さずにはいられません。少し褒め過ぎたかも知れませんが、一度は明治維新、二度目は米軍占領でダブル・パンチを食らい、その到達していた精神の技(わざ)を不当にも「旧来の陋習」でなで斬りにされたのが江戸期であります。

 それだけに、260年に亘る父祖の歩みを謙虚に見なおし、この期のために名誉回復を計ることは、平成の世に生きる我々子孫にとっては、ゆるがせにできない務めだと思うのです。事のついでに申し添えますと、よく人の口に上る武士道も"武士たちの職場"で打ち鍛えられた精神文化と見れば、広い意味の職人気質と言えないこともありません。

 こうして展望を広げて行きますと、江戸期の名誉回復は、単に平成世代の務めというだけでなく、日本のナショナル・アイデンティティを求める上でも欠かすことのできない知的作業になってきますが、武士道は別に日を改めて論議すべき独立のテーマと考え、ここではこれ以上触れないことにしたいと思います。

 ところでこの10年近く、言論界は日本ダメ論一色の観を呈して来ましたが、その中で極く少数の人が心配無用論を唱え続けており、その論拠に今も中小企業などに息づいている職人気質の頼もしさを挙げているのは特筆すべき卓見ではないでしょうか。

 以上、職人気質から得られる技術協力のヒントとでも言うべき話をしてきましたが、現代語に訳せば「プロの根性」となる職人気質を、素人イメージで通っているボランティアに期待するのはお門違いではないかという指摘もあります。ボランティアというと、いいことの代名詞みたいになって独り歩きしている今のご時世ではありますが、確かにその語感には、誰にでもできる善意の無償行為という、ある種の気楽さが漂っていることは否定できません。

 事実ボランティアで専門グループが活躍しているのは医療チームくらいのもの、と言えなくもありますまい。

 ただ協力隊はどうだとなると、正直なところ、すんなり答えが出せそうには思えないのです。

 当初のアメリカの米国平和部隊はピタリ、ボランティアでよかったと思いますが、日本の協力隊はメシの種にしろ余技にしろ技術、技能を身につけた概して言えば専門屋が、ボランティアとして海外奉仕に出掛けて行くという原型でスタートしています。

 大部分の隊員は、プロの道を歩み始めたか、プロたるの素養をあらかた身につけたばかりのところだと言うことができましょう。確かに「プロの根性」を口にするには早過ぎるけれども、仕事に対する取り組み姿勢の面では、プロの素質を備えていると見ていいのではないでしょうか。

 そこをしっかり踏まえておけば、やや重みに欠ける憾(うら)みはあり、少々気楽さが心配になるところはあっても、総体としてはボランティアでいい。そうしておいて隊員一人ひとりに見られる職人気質の度合いを一律に規制せず、そのバリエーションを大切に見守るということでいいのではありますまいか。

 このような隊員の特質に着目して、人生で感受性の最も豊かな時期に当たる2年を充実させ、できることなら更に一歩を進めて世界と〃くに〃に開眼することに期待を寄せていいのではないですか。

 そこで最後にこれに関連させて是非お話をしておきたいのが、シニア・ボランティアのことです。シニア・ボランティアは、プロとして成熟の域に達する時期ですから、職域でもそう身軽な状況にあるとは考えられず、家庭的、社会的諸条件まで勘案すると、2年もの海外ボランティア活動に飛び込める人は多くないと思います。

 更に言えばプロとしての完成期には、適正な報酬ということも重要で、単にゼニ、カネの問題とは言い切れない。

 その人の到達している技術に対する評価の物差しであり、本人にしてみればプロの見識という意味合いもあって、専門家として適正な品定めを受けての活動でもないのに、ボランティアだからといって気安く話には乗れないというのが、極く普通の人の考えることではありますまいか。

 ところが定年を過ぎる年齢になると、別途、今まで予想もしなかった新しい問題がクローズ・アップして来たため、話がすっかり変わって来る。平均寿命の延びた現代ではどう見たって老齢と呼ぶには早過ぎる60歳台を、如何に賢く生きていくかという、前代未聞の課題に我々は直面しているからです。

 体力的には今までのように無理が利かなくなっても、専門知識と経験は豊富で、そこから湧いてくる知恵は壮者を凌ぐものがある。そんな人があり余る程いて髀肉の嘆(ひにくのたん)に暮れているというのですから、こんな勿体無い話はありません。

 肉体的な抵抗力の面で青年協力隊と張り合ったりしないで、比較的寛いだ執務環境でたっぷり任国のお役に立つことができれば、一つの素晴らしい選択肢ではありませんか。その年にもなれば無償だからと言ってプロ仲間に後ろ指を指される心配もありますまい。

 プロとボランティアの見事な結合という点で全く問題なし。シニア・ボランティアの世界ではそのうち「花の60台」という言葉が飛び交うようになっても不思議ではありません。

 鎌倉の気風

 鎌倉時代になると、私の記憶に不確かな部分が増えてきます。

 でも日本のナショナル・アイデンテイティが時の話題として大きく浮上して来ている今、自分なりに持ち合わせている知識を掘り起こし、一種の憶測としてでいいから、鎌倉という重要な時代をデッサンしてみる価値はありそうに思うのであります。

 顧みますと、私が尊敬する人物として北条泰時を挙げるようになったのは、戦後も早いころ、大学で日本法制史の講義を聴いていた頃でした。

 尤もそのずっと前、中学で習った神皇正統記の一節、北条泰時論のくだりがうっすら記憶に残っていたということもあります。

 久々に読み直してみると「大方泰時心正しく政すなほして、人をはぐくみ物におごらず」で始まっており、国見という先生が授業で「北畠親房のような南朝の忠臣が、承久の変で後鳥羽上皇に弓を引いた泰時をこんな調子で褒めるのだからよくよくのこと」、とコメントしていました。大学(旧制)での日本法制史は、同じ石井さんの講義を二度も聴くほどの熱の入れようで、ほぼ同じ時期の西洋法制史と聴き比べるに及んで興味は更に深まって行きます。

 中でも面白かったのが鎌倉時代で、律令制度の影響を離脱して日本独自のものが出来上がって行く泰時の治世には驚異の眼(まなこ)を瞠(みは)ったものです。

 日本人の道理感覚に立ち返って物を見、事を裁いて行く過程で到達した占有訴権の法理が、何と完成期ローマ法のそれと瓜二つというではありませんか。

 完全に外来のものと思っていた権利の槻念が、驚くなかれこの時期、我が国で芽生え、何々職(しき)という呼び方で制度化して行くのです。

 それがどうして室町時代には消えて行ったのか。

「職」の思想を生い立ちからそこまで辿ることができたら、もしかして思想史上の鎌倉期が鮮やかに浮かび上がってくるのではないか。

 大学から司法修習生にかけ、米と大根を手に下げて一度ならず円覚寺に参禅したのは、そういう学問研究の手法にも思いを馳せながら、それだけでなく、直観で鎌倉時代に追まる方法もありはしないか、という考えからでした。

 それがどれ程の意味を持ったのかは今以って判然としませんが、持久一週間の修行のきつさは骨身にこたえましたね。ごまかさずにやれば海軍時代の如何なる時期の鍛えられ方よりも厳しい難行苦行でした。

 早春、風肌寒い北鎌倉の森閑とした居士林で東雲(しののめ)を迎えながら、鎌倉武士の精気はかくして培われたのかという想念が心をよぎります。

 目を半眼に開いたまま、眠ってもいけないが、考えたり感じたりしてもいけないという禅の掟には反していたわけですが、そのとき心に浮かんだ想念はまるで天の啓示みたいで、今でも私の鎌倉観の原点になっています。

 21世紀劈頭の大河小説「時宗」が、絶頂期にあった鎌倉武士の精気をどこまで真に迫って描き切れるか、結果的には平成日本の精神の高さを測るバロメーターになりそうな気がしてならないのです。

 と言うのも、西欧思想のコピーでない優れたものが日本にもありそうだと気付き始めている平成日本にとって、大陸の制度文物へのコンプレックスから自由になって世直しを成し遂げた鎌倉期が大きな暗示にならないという道理がないからです。

 話は戻りますが、20年以上も前、哲学以外の分野でもパイオニア的存在である梅棹猛さんがこんなことを言っておられます。

 現在(発表当時)の先進国は例外なく、その先祖が封建制度を経験している。逆に途上国でヨーロッパや日本式の封建制度を持ったことのある国は一つもない、というのです。

 封建という字は中国伝来なのですが実は内容が違う。世代毎に更新される主従契約では、軍事行動を内容とする忠誠義務と、今の言葉で領土保全に該当する「所領安堵」とが引き換えになっているのですが、こういう思想は日本以外のアジアには存在したことがない。ピレネー山脈以北のヨーロッパにそっくりのものがあるだけと言うことができます。そう言えば武士道に見合う言葉も、そういう国々の騎士道しかないですね。

 これから先のことはヨーロッパ封建制との比較で説明できるところまでツメていませんが、幕府という形で頼朝が編み出し泰時が仕上げた武家政治が、騒乱続きの世を久々に鎮め、律令制に代って日本列島〃静謐〃の仕組みを創設したことは、いま人類が直面している平和秩序の実効性を考える上で、大変参考になると思うのであります。そこには、いま世界で誰も考えていないような思いがけないヒントが秘められているのではないか。そんな気が私はしてならないのです。

 封建制という言葉は明治以来、因習、晒習の先入観纏(まと〉いの言葉になっていますが、それは見当違いも甚だしい。

 国の統治というものを客観的に観察しようとすれば、幾つか主要な視座を設け、それぞれ専門的見地から実体を突き止めて行かなくてはなりません。

 それが正しいアブローチで、その中の一つ、安全保障という視点に立って眺めますと、封建制度は、連邦制の延長線上にあると見立てるか、むしろ国際関係として捉えるかは別として、結構よく整った制度と言うことができるのであります。

 景も簡潔に言えば、地方分権の域を超え、「荘園の領主が宛然、国をなす」と表現していいくらい、地方政権が国すれすれのところまで独立国家的であるということです。

 荘園の領主に代って民主政権が出現したと仮定し、古い封建のイメージを払拭して考えれば、〃世界封建制〃は政界新秩序の一つの在り方として立派な選択肢たり得るでしょう。

 それだけでなく、これからの国や民族の推移を念頭に平和の実効性を追求するなら、世界連邦よりはむしろ思い切って〃世界封建制〃を念頭に置いて論議を進める方が遥かに建設的ではないかと思うのです。

 システムとしては封建側に、自前の軍の保持を含めて主権国家すれすれの地位を認めながら、イザという時には武家相互の間で「武家の棟梁」と認められている家系の長が棟梁の統帥権を発動して各所領から馳せ参ずる(多国籍的)連合軍を指揮する。

「いざ鎌倉」のこの仕組みは特に、その際の貴重な参考になると思うのであります。朝廷が存続しながら安全保障機能は幕府という武家政治の知恵も、変態は変態でも国連がらみで意外な暗示になる可能性を秘めているのではないでしょうか。

 鎌倉期についてはまだお話したいことが残っておりますが、それらは追い追い内容をツメながら発表したいと考えております。


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