「魁け討論 春夏秋冬」2000・夏季号
 

パラオ恋しや 上巻


 ご 挨 拶

 思い出の記とも戦争論ともつかぬこの小論文(パラオ恋しや上巻)は、平成一〇年四月二三日、防衛庁統合幕僚学校で行った「戦史講話」に由来するものですが、何度も筆を入れている中に、何時の間にかすっかり別論文になってしまいました。
 そういうわけで体裁は講話の形を残していますが、内容は積年の思いを随筆にして繋ぎ合わせたようなものです。

 どこでもページを開いて出てきたところを拾い読みして頂けたら幸いです。
 何か血の通ったものを、という筆者のひそかな思いが行間にでも出ていれば一先ずの成果、そして本望でもあります。平成一二年八月一五日    伴 正一

       目   次
第一 はじめに……………………………………………………………
第二 軍規は厳正だったと言えるか……………………………………
第三 侵略と開放の併存………………………………………………
第四 いい加減にされたままになっている統帥権論議………………
第五 戦争終結外交……………………………………………………
第六 東京裁判と日本人の大東亜戦争観……………………………
第七 ウルトラ・ナショナリズムとウルトラ平和主義……………………
第八 「世界の笑いもの」では困る……………………………………
第九 至上なるもの、我が命……………………………………………
第十 日本のアイデンティティー、そして二一世紀のロマン…………
第十一ナンバー・ツーを目指せ(二一世紀、日本の志)………………



 第一 はじめに

 大東亜戦争では、維新この方先人が営々として築き上げて来たものを根こそぎ失ってしまいました。物的なものだけではありません。明治国家以来かち得ていた名声や評価も総崩れに近い形になりました。

そうした挙句、祖国を貶(おとし)めることが知性の証しででもあるかのような、世にも奇妙な風潮が、一世を風靡するに至ったのであります。

 しかしこの風潮は、それに先立つ日本精神高揚の振り子が、刀折れ矢尽きた敗戦の日を境に、すさまじい勢いで反転した結果だと考えれば、全く分らないでもありません。

 外敵に侵されたためしのない日本国民にとって、降伏は処女体験であり、そのことが深層心理で、深い傷を更に深くしたであろうことも見逃せません。

 こうして陥った虚脱症状ではありますが、それがどれほど重症だったにせよ、敵国製の「日本性悪説」を丸呑みにしたことは、祖先や戦没の同胞に申し訳ないことであります。

 さりとて今になってみれば、戦後に氾濫した祖国冒涜の言論に一々咎め立てをしていくというのも、肩に力の入れ過ぎではないかという気がしてくるのであります。

 過ぐる大戦が大正後半以降の、愚かな選択の積み重ねの結末だったという感じは否めませんが、強大なアメリカを主敵に、アリューシャンからインド洋に亘る広大な戦域で、陸に、海に、空に戦い抜いた三年八カ月の力闘は、スケールの大きさといい、戦闘内容の壮烈さといい、我が国にとって空前絶後の民族体験であったことも間違いありません。

 そんな体験を身近に持ちながら、一回りも二回りもの民族的成長にそれを繋げることができないなら、その時こそ祖先や戦没同胞に合わす顔がないというものではありますまいか。

半世紀の距離をおいて視野も開けてきました。今こそ、少しでも高い見晴らし台を求めて過ぐる戦さを展望する、いい節目の時期ではないでしょうか。二十世紀の世界史を背景にした我々の「民族体験」が、以前よりずつと視界の利いた状況で観望できるようになって来ました。

 そういう中で生まれる極く自然な規模感覚、位置感覚こそが、我々日本国民のこれからの常識的歴史観の基本にならなくては、と思うのであります。

 じっくり反芻するにはこれから幾世代もの歳月が必要でありましょうが、我々の心の閃きや彫りの深さ次第では、それが即、国の進路を考えることに繋がるのではないか。国の進路の見定めにそのまま役立つようなヒントが、この極限的な重層体験のあちこちに潜んでいるのではないか、という気がしてならないのであります。

 スエズ以東の広大な地域を揺るがし、アジア史転換の軸になったとも考えられるこの戦乱は、世界史に与えたインパクトの上で、二百年前のヨーロッパを揺るがせたナポレオン戦役に匹敵する、幕開け的性格の戦乱ではなかったでしょうか。

 そんな心境で、自ら実戦に参加した過ぐる戦さを思い浮かべ、私なりに思い続けている幾つかのテーマを拾ってお話してみたいと思うのであります。
                                
 第二 軍規は厳正だったと言えるか

 多くの日本人は至極簡単に「戦争はいけないこと」で片付けていますが、戦争については戦時國際法という世界共通のルールがあり、そのルールに従っての戦闘行動はそう簡単に「いけない」とは言えないのです。

 それにしても、昭和の日本軍には軍規の弛緩が見られ、それが日本と日本人のイメージを著しく傷つけたことは、誠に残念なことであります。

 現に今なお日本軍の暴虐振りとしてマスコミに取り上げられている事例も、戦争が侵略戦争だったかどうかとはほとんど関係のない、軍規の弛緩や紊乱によるものが多いのであります。

 それとは別に軍規というテーマが、過ぐる大戦の史実を解明して行く過程で、思わざる展開を遂げる可能性を持っていることも見逃せません。

 そこで、いま私が疑問に思っていることや、気になっていることを幾つか拾い上げて、これから先の参考に供したいと考えます。

 その一

 私が物心ついて始めての戦争は満州事変なのですが、その時も、そして昭和十二年に始まる"日支事変≠ナも、敵の捕虜のことがどう報道されていたか全く記憶がなく、捕虜そのものについての問題意識も幼いとは言え私の頭にはなかったのです。

 ここらあたり、子供の時の記憶をもとにしての勘ですから見当外れかも知れませんが、どうも明治時代とは様子が違うように思えてならないのです。

 明治時代だって日本の将兵にとって、敵にうしろを見せたり捕虜となることは軍人の恥でした。

 それにもかかわらず敵の捕虜については、かりそめにもその扱いが万国共通のルールに反していて、世界から非文明国の烙印を押されるようなことがないように、いじらしいくらい神経を使っていました。

こういう努力の結果はいくつかの美談として語り伝えられていますが、最近知って驚いたのは、日清、日露の宣戦の詔勅に國際法規の遵守が諭されていることでした。

 昭和にはない、国を挙げての心づかいが伝わって来る話ではありませんか。

 その二

 非戦闘員の装いをしていて実は戦闘員である「便衣隊」なるものが盛んに出没した中国戦線で、國際ルールでは正規の捕虜の埒外にあった便衣隊を、わが前線部隊はどう扱っていたのでしょうか。

 また、便衣隊かどうかを見極めるノウハウは確立していたのでしょうか。

 日本軍は、経済力の上では中国全土の三分の二を制圧したと言われますが、それほどまで勝ち進んだのなら、その過程で投降した敵の正規軍捕虜の数もおびただしい数に上っていたはずですが、それらの捕虜にはどういう処遇をしていたのでしょう。

 論争の続いている「南京虐殺事件」については、反証の形でかなりの証拠文書が世に出ていますが、大陸戦線の全局面で実態がどうだったのかは、調べがついていないし、また今からでは正確に調べようもないのではないでしょうか。

 こういう事柄は得てして尾ひれがついたり話が大きくなったりするものですが、そうばかりも言っておれません。

 当時の日本人の間には中国蔑視の風潮がかなり広がっており、それが前線部隊に微妙に反映していたとしても不思議ではないからです。

 その三

 昭和十二年、日中間に戦争の火蓋が切られた翌月、我が郷土部隊である高知の第四十四連隊(和智部隊)が初陣の羅店鎮で敵を破りました。

 新聞には白兵戦で敵兵二十七人を斃した穂岐山中尉のことが大きく載っていました。あとから遅れて出征した剣道五段の西川先生も、「穂岐山中尉に負けない手柄を立てんかなぁ」と中学二年だった我々教え子仲間では話し合っていたものです。

 敵軍にとどめを刺す壮烈な白兵戦。この、勇敢な日本兵のイメージが、維新この方、どれほど相手の心胆を寒からしめ、際どいところで国家の浮沈にかかわる戦闘を勝利に導いたことでしょう。

 でもこれはどこの国の誰からも文句のつけようのない正当な戦闘行動だったのです。それを戦闘行動以外で発生した(国際ルール違反の)非戦闘員殺害と一緒にして「日本軍の残虐行為」にされてはたまりません。

いわゆる日支事変では、宣戦布告もなしにあれだけの規模で攻め込んで行ったのですから、国の行為としては侵略行動だとされても仕方がありますまい。こんなとき弁解の余地はあってもしないのが、さむらい(武士)というものなのかも知れません。

 しかし、国際ルールの上で通常なら合法であるはずの戦闘行動を、日支事変の場合に限って一切合切、ルール違反の「残虐行為」と認定するのは承服しかねます。特に同胞である日本人がそんな物の見方に同調しているさまは苦々しい限りです。

 その四

 軍規の視点で、過ぐる大戦の史実解明に取りかかろうとすると、以上の他にも敵、味方に共通する重大なテーマで、今もって思想的にも決着のついていないものがあることに気付きます。

 総力戦思想から来る非軍事施設や非戦闘員に対する軍事攻撃、例えば米軍による無差別都市爆撃や原爆投下を正当化してきたアメリカの態度などその最たるものではないでしょうか。

 第二次大戦の時点では既に地域ごとに、また世界全体でも、戦争の様相が明治のころとは著しく変わって来ていたことも見逃すわけには参りません。

 第二次大戦における戦時国際法や軍規の問題は、戦勝国、戦敗国の別なく、厳正な立場で解明して行かねばならない、奥行きの深い課題なのでありまして、今までのような日本性悪説を引きずったままで臨むことは到底許されないことであります。
                                 
 第三 侵略と開放の併存

 私はパキスタン在勤時代、田中弘人大使の酒飲み相手という恰好で、大変有益な耳学問をさせて貰いました。

 何しろチャンドラ・ボースがシンガポールでインド国民軍を創っていた頃、その秘書官に外務省から派遣されていたという経歴の持ち主でしたから、当時のことがよく話にでたものです。

 その田中大使が口癖のように言っていたのが大東亜戦争モンスター論で、

「あの戦争は一概に侵略であるとか、ないとか言い切れるもんじゃないよ」ということでした。

「中国大陸での戦争を侵略でないと言い張るわけにはいかんだろうが、南方作戦の方は何だかんだ言ったってやっぱり開放戦の部類に入るんじゃないかな」

 大使と私と二人だけの話の中で出てくる言葉でした。

 日本とアメリカはどうなるのか、その点は聞きそびれましたが、日本が先に手を出したからと言って、それがアメリカに対する侵略戦争だとまで決めつけるのには、どこか不自然な、腑に落ちないものがあります。

 ソ連の場合は先方がこちらに侵略してきているではありませんか。

 田中大使の大東亜戦争モンスター(怪物)説は中々いいところを衝いている感じで、強く印象に残っているのであります。

侵略であるなしに関係なく、戦争には革命と同じように、旧いものをブチ壊して新しい時代を拓く、幕開け的な性格を帯びている場合がよくあります。

 ヨーロッパで中世の幕を引くキッカケになった十字軍がそうでしたし、欧州大陸を戦火に巻き込んだナポレオン戦役も、アンシャン・レジームと呼ばれる欧州の旧体制を覆す地殻変動のキッカケと捉えていいのではないでしょうか。

 これは田中大使のではなく、私の脳裡に浮上しているひとつの仮説的観点であります。

   第四 いい加減にされたままになっている統帥権論議

 戦前に統帥権干犯問題というのがあって、それが軍部の台頭を促す重要な契機になったことは疑う余地がありません。

 司馬遼太郎さんが慨嘆の余り「統帥権という化け物」という言葉を吐いておられますが、その説明がきちんとされていないため、統帥権そのものが悪いもののような誤解を一般に与えたままになっています。

 しかし野球でも、試合運びが監督の責任であるように、戦さ運びは軍司令官の専決というのが経験則でありまして、その合理性に疑問が投げかけられたためしはありません。

悲憤のミッドウェー海戦がそうであったように、指揮官による瞬時の判断ミスが明暗を逆転させ、連戦連勝だった破竹の精鋭部隊を総崩れにさせます。

 こんなところでシビリアン・コントロールを持ち出したら大変なことになるのですが、同じ作戦用兵でも陸海空三軍全体の統帥となると話はすっかり違って参ります。

 誰が考えたって戦局全体の動きをよく見せてないで戦争終結の潮時をつかめなんて無理な注文で、ここらあたりになると戦争は専門の軍人に任せとけなどと言っていられる場合ではなくなります。

 外交と軍事は密接不可分、三軍を統べる統帥権と外交を司る内閣とがどこまで折れ合えるかという緊張場面が頻発することは避けられません。

 むかし西洋には「主権」の定義に軍を統帥する権能だとする学説があったくらいで、軍のトップはアメリカの大統領のように国のトップでもあるというのが国のかたちとしてすっきりしていると思うのであります。

 そこで戦前の日本を振り返ってみますと、立憲君主制を掲げながら、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」とし、更に別条を立てて「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定めてありまして、内閣が天皇の統帥権を干犯したとかしてないとかいう紛議の起る余地はなかったのであります。

 昭和の初期、天皇は、国政選挙の結果通りに組閣の大命を下されるようになっており、二大政党による英国型政党政治の慣行はほぼ確立していました。

 ただ、統帥面は一つ間違うと武力による動きが出てくる潜在性を孕んだ領域です。肝腎なところで天皇のコントロールをしっかり残しておかないと、イザというとき国が最高の裁定者を失って収拾がつかなくなるくらいのことは見えていたはずです。

 範を英国の王室に、と進言されたはずの西園寺公に、もう少しここらあたりの配慮があったら、世界恐慌下、内憂外患裡とはいえ、統帥権問題などで天下の権が武門に帰するようなことはなかったのではありますまいか。

ところで戦後日本はどうかといいますと、制服組に対する背広組の優位と履き違えたシビリアン・コントロールが幅を利かしているだけで、統帥権そのものについては議論らしい議論さえ聞くことがない、まるで荒れ放題の索漠たる有様だと言って過言ではありません。

 恐らく神戸大震災の時点で内閣総理大臣は、自らが自衛隊の最高指揮官(昔で言えば大元帥)であることさえ碌に意識していなかったのではありますまいか。

その自覚があったら村山総理は、崩れ落ちた瓦礫の下積みになった人々のうめき声を心に聞き取って、救助作業が手遅れにならないための布石を矢継ぎ早にしていたはずです。(そうすれば人命の被害は半分以下で済んだのではないでしょうか。

 総理も総理ですが、内閣詰めの英才官僚たちは何をしていたのでしょうか。また、こんな時こそ武の素養を自負する中曽根さんでもが、間髪を容れず官邸に乗り込んで総理の指南に当たるべきではなかったでしょうか。

 仮にどこかの国から不意のミサイル攻撃を受けるようなことが発生したとしますと、何千人どころか何万人、何十万人の人の命が統帥権発動の遅れで失われます。

「十年これを養う、一日これを用いんがためなり」という名言がありますが、年々五兆円も六兆円もの税金を何十年にも亘ってつぎ込み、この時のために育て上げてきた自衛隊が、その肝腎のときに何の役にも立たないで宝の持ち腐れになるようなことは、最高司令官たる内閣総理大臣の一瞬の不手際で現実に起り得ることなのです。

 国の場合だけではありません。アメリカが国連軍に気乗り薄なのは統帥問題にこだわるからだと言われていますが、これを見ても分かるように、世界の平和を実践面からつめていく上で、統帥は極めて重要な、永遠の研究課題でありまして、この感覚抜きではどんな平和論義も実務的意味のない神学論義に終わってしまう。今の日本の平和論議などその適例ではありますまいか。

 第五 戦争終結外交

 先程も触れましたが、勝っていても負けていても戦争終結外交というのは難しいもので、戦争になるかならないかの瀬戸際とどちこちないと言うところではないでしょうか。

 いくら軍の作戦用兵がうまく行っていても、外交面で潮時を見誤ると、すべてが水の泡になる。

 現にこうして戦争が泥沼化して行ったのが昭和一二年以降の日支事変でありまして、続く日米戦争も始めから収拾のめどのはっきりしない戦争で、全体としての大東亜戦争収拾過程は、高い史眼で解明しておかなくてはなりません。

 将来、国連軍や多国籍軍が作戦行動に出る場合を考えてみても、侵略兵力の制圧に一年も二年もかかっているようでは語になりませんし、そうは言っても交戦状態の収拾は傍で見るほど容易なことではないからです。

 ひと頃のように、ペンタゴンあたりからでも、

 Hit in a week, Otherwise don't get involved.

 (一週間で片付かないようならそんな戦争は始めからするな)というような極端な意見が出てくるのも無理からぬことです。

戦争を長引かせないということに関連して、丁度いいところですので軍規の問題にもう一度触れておきたいと思います。

 戦争継続中には勝ち負けに従って占領ということが起こりますが、占領軍というものは占領地域に、専制君主そっくりの形で君臨するわけですから、どんなに軍規厳正な軍隊でも二年も三年も長居していたら将兵の意識はどこかおかしくなります。何か起こらないとしたら不思議だと言っていい。

 これは正しい名分の立った軍事行動であろうがなかろうが、武装集団というものすべてについて言えることでありますが。それにしても特異づくめなのが、アメリカの日本占領でした。

 第六 東京裁判と日本人の大東亜戦争観

 中でも特異なのが、法的にも問題の多い極東軍事裁判でありまして、日本性悪説で貫かれたその判決文が、占領終了後も久しく正史並みの権威を失わなかったことは、世界の七不思議に数えておかしくないくらいです。何しろ一寸でも反論しようものなら忽ち言論界の村八分を招くのですから、専制治下の言論統制も顔負けです。

 インドのパル判事が心血を注いで纏めてくれた日本無罪の小数意見も、まともな論議の場を与えられずじまいでした。

 進歩的文化人と呼ばれる人々もさることながら戦後日本の知性はどこへ行っていたのでしょう。

 何だか空気みたいな得体の知れないところがある。その不気味さは、昭和一○年代に猛威を振るった「陸軍の総意」そっくりで、憲法で保障されている言論の自由も、現代史論議の場では有名無実でありました。

 第七 ウルトラ・ナショナリズムとウルトラ平和主義

 東京裁判史観と並んで見逃せないのが、戦争直後アメリカが行った、日本人に対する徹底した洗脳工作(精神面での武装解除)でした。

 国には軍などないのが理想だという、今から考えると、まるで現実離れした思想を、虚脱状態にあった当時の大多数の国民に浸透させようとした。

 その手段も常軌を逸したものでした。

 占領軍の権力で陸海軍を一兵も残さず解体し、軍の保有を禁ずる憲法を作らせ、容易なことでは改正もできないような仕掛けまでしてある。

 これではどう見たって世界の常識を超えた、ウルトラ平和主義の強要としか言いようがありません。

 (その証拠に、それから何年も経たない中に、他ならぬ当のアメリカから日本再軍備の話が持ち出されているではありませんか)

 ウルトラ平和主義というのは、私が言い出し、はやらせようとしているコトバなので、ここで注釈をしておきます。

 アメリカは日本のナショナリズムを、(常軌を逸した、あるいは行き過ぎたという意味で)ウルトラ・ナショナリズムだと決めつけ、諸悪の根源としてその抹殺を図りましたが、そういうアメリカが日本に浸透させようとした平和思想なるものだって、普通の平和主義を逸脱した、ウルトラ平和主義だったではないか。それは私なりに言わずにはおられないコトバなのであります。

 ところがそんな現実離れの思想を日本は、占領下は仕方がないとしても、占領終了後も是正することなく受容し続けたのですから、アメリカだけを責めるわけにもいきません。

 現行憲法が制定された、占領初期の昭和二一年秋頃には、「日本から手出しさえしなければ戦争は起こり得ない」という錯覚を普通の人が持つくらいまで、思想改造が急ピッチで進んでいたように思われます。

 内閣総理大臣が自衛権を否定する。

 それに対して一般国民はどうこう言う気力もなく、よく言えば 綺麗さっぱり潔く、どうにもならない敗戦国の立場を甘受していたとも言えましょう。

 この、世界に類例のないウルトラ平和主義の国家観で、将来を律するだけでなく、それまでの国の歩みを解釈して行こうとしたのですから、書かれる「国の歴史」がまともな歴史であり得ようはずはありません。なんとも特異なものになるのは当たり前です。

 朝鮮戦争が始まるとその落とし子、警察予備隊なるものが占領軍の指令で作り出され、やがてそれが自衛隊になって行きます。

 アメリカの身勝手さへの反発が、直接占領軍に向かってではなく、政府にぶっつけられたのが、かなり長期に亘る国会での違憲問答ですが、苦し紛れの政府答弁という印象は今も鮮明に記憶に残っています。

 ともあれ、有史以来始めての敗戦ですっかり虚脱状態にあった国民の厭戦思想を受け皿に、あれよ、あれよという間に根付いてしまったのが、今も衰えを見せぬ我が国のウルトラ平和主義でありまして、憲法解釈をめぐる現在の政府見解も、基本思想はこのウルトラ平和主義の域を出ていないのであります。

 第八 「世界の笑いもの」では困る

 それにしても、日本が鉾を収めたあの八月十五日から、星霜流れて既に五十有余年です。

 その間、今から考えるとおかしなこと、恥ずかしくて耳が赤くなるようなことが幾つかあるように思います。          

 敗戦国なるが故に勝者には抗し得ず憲法に掲げたのが    

「陸、海、空の戦力を保持しない」

という町人国家宣言だったはずのところが、いつの間にか、"世界に冠たる平和宣言"になってしまうあたり、国の風格を問われるところではないでしょうか。

 そうかと思うと逆に、その戦力保持禁止条項もどこ吹く風、自衛隊という名の、何故陸、海、空軍と呼ばないのか何度きいても理由のハッキリしない実質陸海空軍≠ェ産声を上げ、世界有数の軍事力にノシ上がるわけですから、日本国憲法に書いてあることを本気で信用する国などなくて当然です。

 そうしておいて、その自衛隊の海外不出をいかにも崇高なもののように護憲ラインと謳いあげる。

 危険を伴う役目は真っ平ご免、のホンネが見え見えなのに、そのことが自分で気がついていないのですから、これでは諸外国の失笑を買っても仕方がありますまい。

 国際紛争が武力衝突にエスカレートすると、重装備の戦闘部隊を投入するしかない事態が起こり得るのですが、そういう乗るかそるかの話になると、日本は終始一貫逃げ腰で、     

「何とか話し合いで」

という、耳ざわりのいい"空砲≠ナお茶を濁してきました。まともな対案を打ち出す意欲が始めからないのです。

 湾岸戦争で世界が固唾を呑んで事態の推移を見つめていた時、日本の態度が諸外国の眼に徴兵逃れ的に映った。そしてそれが、物笑いの種というか、格好の話題になって世界を駆け巡ったことは記憶に新たなところです。

 憲法を改正して集団的安全保障行動参加の道を開いたとしても、筋の通った留保をつけられないわけはないでしょう。

 前大戦で日本が武力進攻した国については、あらかた怨念の消える時期まで行動を留保しても、尤もな配慮として諒承されるに違いありません。

 将棋でいうあの手、この手の思案もせずに、今まで通りの言い方を繰り返してきたのが、残念ながら戦後日本の姿で、その口実になっていたのが、ほかならぬウルトラ平和主義だったわけです。

 第九 至上なるもの、我が命

 ウルトラ平和主義と車の両輪で、戦後日本の平和思想を形成して来たものに、我が命こそ至上とする、人命至上主義があります。

 戦後アメリカが持ち込んできた人命尊重の思想は、果てしない広野に人煙稀だった建国当時が偲ばれる思想で、人が多過ぎ人命軽視に陥り勝ちだった日本には良薬と言っていいものだったと思います。

 ただ、持ち込んだアメリカには日本の精神的武装解除という占領目的があったため、持ち込み方が荒っぽかった。

 虚脱のドン底にある敗戦国民に厭戦気分を煽りまくり、国に尽くすことを犬死に呼ばわりして憚らない。さしもの大義「国のため」をすっかりタブーにしてしまう。

 日本人の物の考え方は、自分のこと、それも損か得かの一色に塗り潰されるわけであります。

 こうして戦後日本の人命尊重は、本家のアメリカを通り越し、「恥も外聞もあったものではない。危ないと見たら逃げろ」というところまで来てしまいました。

 しかもそれを、一挙にきれいに、根付かせたのが、他ならぬ日本人、しかも内閣総理大臣の地位にある人だったから開いた口が塞がりません。

 ハイジャックされている人質救済のためとは言え、超法規措置と称して犯人の要求に屈し、まだ刑期も終わってない連合赤軍の大物を釈放する。その正当化のためにどこかよその国の文献から拾い出して来たのが「人命は地球より重い」の名(迷)文句だったのです。

 表現が奇抜だし、耳ざわりがよくて、誰でも一ぺん聞いたら忘れない。あっという間に「平和」や「民主主義」と並んでパンチの利いた人気セリフになってしまい、「大いなるもののために」は死語と化するのであります。

 国もさることながら、世界の平和のためにと言っても自分の命には換えられないというのが、今の日本人にとっては当たり前のことになっているのではないでしょうか。

 誰だって命は惜しいし、母親なら手塩にかけた息子を戦場になど送りたくない。それは世界中どこの国にも共通する心情で、日本だけのものではありません。しかしそうは言っても戦争は避けられない場合があるし、死傷者が出ない戦争ということも考えられないし、というあたりのところで、言い継ぎ語り継ぎか言わず語らずかは別にして、戦さに伴う不慮の死を、運の悪いときにはやってくるものと受け止めているのが世界の国の平均値だと思います。

 日本でも、講和条約の前、アメリカのダレス特使に再軍備の話を持ちかけられた際、時の吉田総理がそれに応じていたらどうなっていたでしょう。恐らく憲法九条のような特異な条項は手直しされ、何年かの後には世界各国並みの常識が通用する国になっていたでしょう。

 日本を世界でも定評の国家意思決定能力欠落国家にしている"神学論争"の火だねなど、とっくの昔に消えてなくなっていたはずです。

 武士道そのものとは申しませんが、名誉を重んじたローマ興隆期の精神や、ノーブレス・オブリージュの言葉に残る西洋騎士道の精神に匹敵するくらいのものは、今も日本に息づいていたと思うのです。

 第十 日本のアイデンティティー

 そして二一世紀のロマン

 戦前に岩波新書で出た本にドイツ人建築家ブルーノ・タウトが書いた「日本美の再発見」という名著があり、伊勢神宮と桂離宮を取り上げて、簡素な中の美しさに目を瞠(みは)っています。

 フトしたことでこの本の名前を思い出し、「そうだ。何も建築に限ったことではなかろう。仕事や生活、更には死生観に亘って日本の文化的特色は広汎に賦存しているはずだ。失われたものまで含めると、意外に多彩な形のものが多量に検出できるのではあるまいか。」と思い始めました。

 人命至上主義のことで「覆水盆に帰らず」の懸念が深まるようになってからです。

 そして、どこを登り口にするかということで「自分ならやはりこれだ」と決めたのが、そう遠いことではない、じいさんたちから後(あと)日本が歩んで来た道、ということでした。ついでですが私のじいさんは、同じ高知の上町生まれ、坂本竜馬と年も違いませんでした。

 子供の時に教わった"国史"よりは広い視野で、世界全体の見晴らしの利く"眺望台"から、という気持ちで日本の近、現代史を反芻(はんすう)しているところですが、予期していた以上に眺めがよくなっている。

 日本人自身が気のついていないような、世界史的意味のある出来事が少なくないのです。

 明治維新が成るか成らないかで、阿片戦争後のアジア全体が、その辿る道を異にしたであろうことは想像に難くありません。間違いなく世界史の分岐点でしたよ。

 日本海海戦で我が方が露国バルチック艦隊に破れ、勢いを盛り返したロシアの大軍が満州から鴨緑江を渡って朝鮮半島を南下したと想像してみて下さい。

 帝政ロシアの鋭鋒を遮(さえぎ)る力が東アジアのどこにありましたか。
 ゾッとするような、目からウロコが落ちるような話ではありませんか。
 しかもこの頃は、人間が躍動しています。

 そこには、波瀾の世を変幻自在に疾駆した、高杉晋作たちの闊達な(しかしその多くは短い)生涯や、日露戦争を際どいところで戦勝裡に収拾する、児玉源太郎たち文武逸材の鮮やかな連携プレーなど、読む者の血を沸かせ、手に汗を握らせる感動場面がちりばめられています。

 明治を描いて卓抜だった司馬遼太郎さんが、その時期を明治国家と感動的に呼んだ気持の中には、じいさんたちのロマンに惹かれる孫たちの熱い思いが息づいていますよ。

 しかしそんな躍動の一五〇年も、マルクス史観の人々や、戦後のいわゆる進歩的文化人の手にかかると、まるで違ったものとして描き出されるわけでして、人間とか歴史とかは真っ黒にも真っ白にも書けるものだということが空恐ろしくさえあります。

 さてそういう感慨の裡に今年はもう平成一二年、明治維新から一三〇年超、長さでは徳川二六〇年の半ばに達しました。偶々(たまたま)西暦ではミレニアム、千年に一度の節目です。

 大きく深呼吸をして、注意深く、虚心に"父祖の歩み"を見つめるのにふさわしい年ではありませんか。

 "皇国史観的な行き過ぎが再燃しないように、予め布石をしておくという意味でもそれは重要なことです。

 自らのアイデンティティーを確かめることは、次の世代の心を揺さぶる瑞々しい国是を目指すに当たっての基礎工事でもあります。

 国是のようなものは、アメリカ的な人工国家の場合でさえ、理性だけで積み上げられる性格のものではありません。それを自然国家の日本でやろうとしても国民をインスパイアーするようなものが仕上がるわけがありません。

 それだけでなく、デカルトからマルクスヘ、久しく世界思潮の主流を成して来た合理主義にもひと頃ほどの精彩はなくなっています。

「日本美の再発見」から得られるものが予想以上に大きいのに驚いている今日この頃であります。

 丁度いいところですので一服代わりに、私の英仏比較を一くさりやらせて頂きましょう。

 フランス革命の最中フランスは、年号まで西暦を廃して理性元年を布告するくらい、"理性信仰に傾いていました。その反面英国は、エドモンド・バークの影響などで、いい線まで自らの国の伝統思考に戻っていました。

 革命に次ぐ革命で夥(おびただ)しいエネルギーを消耗したフランスが、アングロ・サクソン伝来の自由にほぼ踏み止まった英国に、大きく差をつけられたことは、他山の石、考えさせられることではありませんか。

 そこでこれから「お前の案は?」と訊かれた場合を想定して、整理不充分で重複を免れませんが私なりに思うところを述べてみたいと思います。

 清国が阿片戦争に破れる。香港が取られる。北では黒龍江以北、ウスリー江以東を次々に失う。

 さしも強大だった清朝に、もはや西力東漸(列強のアジア領土拡張)の勢いを食いとめる力はなくなっている。     

 日本の運命は風前の灯(ともしび)という戦慄の予感が走る。

 例えば坂本竜馬が一介の"剣術使い≠ゥら、脱藩してまで国事に奔走するようになる動機は、これしか考えられません。

 因みに、世界の海援隊が竜馬のユメで、明治維新は手段だったという、感嘆をこめての司馬遼太郎説は、西郷に語った竜馬のホラを司馬さんが真(ま)に受けての誤解に相違ない。それは土佐人で、しかも竜馬に私淑してきた私には想像がつくのです。

 一歩誤ったら国が滅びるという危機感の中で、日本は一つ一つ危急を脱して国の保全に成功して行きます。その過程で、抑圧されていたアジア諸民族が目を覚ますわけです。

 日本がロシアを破る!

 その報道に少年ネルー(後に、インド独立時の首相)がいたく感動したことは自叙伝にも出て来る有名な話ですよね。

 アジアの先覚者たちが日本の後姿"を見て奮起して行く姿です。

 今から思えば夢のような、そんな一時期がアジアにあったということは、心の洗われる話ではありませんか。

 それはまがいもなく日本にとって名誉なことであり、二十一世紀日本の在り方に深い示唆を与えるものではないでしょうか。

 明治の末以降、思い上った日本には取り返しのつかぬ過ちが相次ぎました。

 しかし、数世紀にわたって西力東漸の波に洗われたアジア屈辱の歴史を考えれば、その中にあっての先人の歩みには、頭(こうべ)を垂れてその労苦をねぎらわずにはいられません。

 前置きが長くなりましたが、大東亜戦争を自分でも戦ってきた私の胸中からは

 「アジアのために日本は健在であらねばならぬ」

という言葉が、若い人たちの切磋琢磨を促すかたちで極く自然に出てくるのであります。

 理屈を言えば、若者の心にロマンの灯をともし、そのことによって民族の活力を持続させようとする新しい国益論であります。

 ついでに補足しますと、アジアの語は、簡潔な一語で非ヨーロッパ全体を代表させようとする趣旨のものでもありまして、貧富強弱をごった混ぜ"にした「世界」の語感とはそのニュアンスにひと味違ったもののあるのは当然であります。

 形ばかりの今の日本デモクラシーを何十年掛ってでもいいから成熟させ、本家の英米顔色なしというところまで行けば、明治の一時期のように、アジアの国々は日本の後姿を見て何かを学び取ってくれるでしょう。

 私は、青年海外協力隊にいたころの隊員、今ではOBでも年長組になる諸君に向かって、「日本にいたままでも協力隊時代の続きができるよ」と言っているのですが、日本での村づくりだって、「アジアの視線を背中に感じながら」やるのとそうでないのとでは、同じ仕事をしていてもやっている本人の意識にはお月さんとスッポンの違いが出てくる。

 任地で気の合っていた仲間に「この俺を見てくれ」と言い続けられるくらいの自分を目指すところに、生き甲斐は生まれ、「アジアはモラルでも仕事に対する情熱でもヨーロッパに負けまいぜ」と励まし合うところに、アジアの共感をバックにしたロマンは根付くのではないでしょうか。 
                                    
 第十一 ナンバー・ツーを目指せ(二一世紀、日本の志)

 昭和一九年六月一九日の朝、今度こそは勝つぞと胸を高鳴らせた太平洋上の短い時間が、生涯に亘って私のアメリカ観に影響を与え続けています。

 国の滅亡を思う悲運のマリアナ沖海戦ではありましたが、ただの負け戦さではない。"決勝戦≠ノ臨んで敗れたのだという思いが募るのです。

 この思いがなければ、「ナンバー・ツーを目指せ」などという発想が私の脳裡に浮かぶことは多分なかったでしょう。

 「アジアのために日本は健全であらねばならぬ」という言葉には、ただ「元気を出せ」と言うのとは違って、「父祖に恥じぬ」の思いがこめられているのですが、それと似た感じで、「ナンバーツーを目指せ」の掛け声にも、世界最強の艦隊に挑んだ往年の闘魂が潜んでいるのであります。

 「お互いによく戦ったなあ」でいいのだ。
 私の心の中には先ずそのことがあります。

 言い出したらキリのない愚痴っぽい話はやめだ。むしろ長い冷戦を勝ち抜いたアメリカに敬意を表し、これからも「頑張れ、アメリカ」と惜しみない声援を送ればいいではないか。

 そんな今の私の心境も、私の青春、マリアナ沖の海戦絵巻と無縁ではありません。     

 これからの世界で最も責任の重い国はアメリカです。

 中でもアメリカならではと言えるもの、司馬さん流に言えば"アメリカのかたち"の中核になるのが安全保障、平和の仕事でありましょう。

 冷戦時代の世界は、二つの国家群対立の時代でした。それぞれのグループは単なる平等な主権国家の集まりでなく、棟梁格の国があってその国の意向を無視できないと同時に、集団内部はかなり実効性のある安全保障体制下に置かれていたことになります。

 それがあっという間に世界でたった一つの超大国になったのですから、アメリカにとっては冷戦四〇年の功空しからず、機を逸せず世界新秩序を目指すべきだったと思います。

 その追い風に湾岸戦争がありました。

 多国籍軍とは言ってもアメリカの投入兵力五〇万人、その実勢からすれば実質米軍の大戦果と言っていい。

 その余勢を駆ってバルカンの危機に臨んでいたら、一兵も動かさずに野心国家の暴発を抑止するという見事な先例をアメリカの手で打ち立てることができたと思うのです。

 このあと手綱を緩めず、幾つか続けざまに同様の実績を挙げれば、実際の武力行使は湾岸戦争だけですみ、待望久しい世界の平和秩序が、やっと陽の目を見るということになったのではないでしょうか。

 そんなにすらすら物事が運ぶとは限りませんが、アメリカの役割はどの国でもが代って果たせるものでないだけに惜しいことをしたものだという感じは否めません。

 こうなると、アメリカが一目置くような知恵袋、アメリカを天下人たらしめる御意見番の国、実例を挙げればチャーチルやサッチャー時代の英国のような国がもう一つか二つ現われないものか、という待望論が浮上してもおかしくありません。

 優れた素質に恵まれながら、夢と希望を失い始めている日本にその可能性はないのでしょうか。

 小沢一郎が七年前に打ち出した「普通の国」という目標でさえピンと来てない日本人に、いきなりナンバー・ツーは無理かも知れませんが、それはポストとか地位を目指すのではない。その資質を養い識見を高めようとする自己研鑚目標なんだと説明して納得は得られないものでしょうか。

 「まだ老い込むのは早いぞ」という父祖の声が、どこか遠いところから聞えて来るように思えてなりません。

 そんな国にはなれないよ、とひるまれてはこまりますので、司馬さんの「明治国家」は繰り返し語り続けさせて貰わねばなりません。

 何と言っても"リハビリからやり直す♀o悟が要るのが安全保障の分野ですので簡単にその基本に触れておきましょう。

  1. 武力の行使は物騒なことだけにその発動には"自制≠ェ求められる。
  2. ハイチに軍事政権が出来たからといって武力で是正を図ろうとするのは度を越えている。自由や民主主義は、武力を使ってまで他国に押しつけるべきものではない。
  3. いくらアメリカの腰が引け気味だからといって、安全保障の仕組みをリージョナル.べースに切りかえるべきではない。アジア一つを取ってみても、アメリカの出る幕のない地域主義構想は、域内大国間の覇権争いを誘発させるだけだ。
  4. 集団指導の建前で行く限り、安保理改革は決定打を打ち出せないで終わるだろう。國際司法裁判所は重要だが、本格的な領土紛争が持ち込まれるようになり、武力による判決執行が実現しない限りまともな役割は果たせない。
 最後にひと言。

 明治この方、東西文化の架け橋になることが、日本の史的使命だと言われて来たものです。

 それが敗戦による自信喪失で半ば死語になりかけていましたが、千年紀、ミレニアムはいいチャンス、今こそ先人の気宇、気概を想起して志を新たにしてはどうでしょうか。

 ただここで一つ留意しなくてはならない重要なことがあります。

 維新この方日本人は本当によく西洋のことを勉強して来ましたが、目立ってまだ勉強不足と思えるのが政治思想の分野です。

 この領域では更に一層の研鑚を積んで理解の度を深めなくてはなりますまい。相手の論理、論法に乗せてこちらの言いたいことを述べ切れなくては、東西の架け橋はおろか、アメリカ人に一目置かせることもできません。

 本家(格)のデモクラシーでも、うっかりしていると実際運用面で日本にお株を取られるぞ、とアメリカが危惧し始めるところまで肉薄して行ったら痛快ではありませんか。

 しかも知性や徳性上の体質強化は、経済分野でのシェアー拡大などと違って何処の誰に実害を与えるものでもありません。

 やっかみ的な黄禍論は出ないとも限りませんが、脇目も振らずその道に精進する「日本健在」の様子は、その後姿を見つめるアジアの更なる発奮を促すでしょうし、長い目で見ればアメリカやヨーロッパ諸国の日本評価を高めることにもなりましょう。

 日本の若者頑張れ。日本の有権者頑張れであります。(途中から題名を逸脱した内容になった点は悪しからずご諒承下さい)
 


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