伴正一講演記録1999年3月
 

平和の仕事−北朝鮮は鶏か

3月20日、高知市内のラ・ヴィータで開いた「平和の仕事」と題した「ふるさと講演会」のまとめです。

 皆さん今日は。今日は寒くて雨が降るし、どれくらい来ていただけるかと心配しておりましたけど、これだけ来ていただけたら大変な盛会でございまして、どうもありがとうございました。それでは早速、話に入ります。


 北朝鮮は鶏か

 さっき植野が申しました朱建栄の発言を導入部門にしてお話したいと思うんですが、三月十二日の毎日新聞、お手許のコピーに朱建栄と横文字で大きな字があります。その二段下に「中国のある軍の幹部が『鶏を殺すのに牛刀は要らぬ』と言っています」というくだりがありますね。

 北朝鮮のことですけれども、北朝鮮を相手にしてアメリカと日本がこんな大騒ぎをするのは、ちょっと騒ぎ過ぎではないか。鶏を殺すのには小さい刀がある。牛刀を用いる必要はない、という言い方ですので、ここから入ってみたいと思います。

 北朝鮮は鶏かということです。鶏ならいくらバタバタしてもこちらは悠々と構えとればいいわけで、相手にすることはないんです。けれどもこの間はミサイルがほんとうに飛んで来て、日本列島を通過してしまいましたよね。これがもし敦賀の原発の近くにでも間違って落ちていたら、神戸大震災の十倍位の人が死んだかも知れません。そんな数の日本人が殺されて、相手は鶏だなど、呑気なことは言っておれない。北朝鮮が核開発をするとなれば、矢っ張り国は小さいかも知れないが、サソリか毒蛇みたいな感じで、小さいからと言ってそう悠長に構えてはおれません。

 そこでですねえ、北朝鮮がやりそうなこと、北朝鮮になら起こるかも知れんなあ、というようなことを考えてみましょう。結構ありますよ。

 小人数の隠密部隊を上陸させて人をさらって行くなんてことも、現に新潟県あたりであったわけですから、これからも無いとは言えない。数の上ではどうあれ、身の毛がよだつ話です。

 二つ目。北朝鮮が三八度線を越え、怒涛の進撃をして来たらどういうことになりますか。北朝鮮の兵力は日本の自衛隊の5倍、百万人ですよ。

 韓国には、いわゆる在留邦人のほかに、いつも大体一万何千人規模の日本人観光客がいるようですから、合計すると三万人内外になります。

 それだけの日本人が北朝鮮軍の占領地区に取り残されることだってないとは言えない。そうなったら神戸大震災どころの話ではなくなります。

 それともう一つは、さっきのミサイルです。

 北朝鮮という国が比較的常識的な国であれば、こちらの対応もそれほど神経質にならんでいいのかもしれませんが、どうもこの数年、特に金日成が死んだ後の北朝鮮は異様です。

 人間社会でこんなことあるんかなあと思うような光景がニユースに出てきますねえ。片っ方では飢え死にする人もいるのに、兵力百万。ミサイルの引き金を引くのは多分、ジャンバーみたいなのを着たあの異様な人でしょうから、余計に不気味ですね。あの人なら何かの弾みで引きがねに手をかけないとも限らない。今では日本人も八割九割が、ひょっとして暴発するかも知れない、くらいの見方になってきたようですね。

 それでは暴発ということが実際に起こったとして、その時、日本は何ができるかなんですが、文芸春秋の今月号に田原総一朗司会で「第二次朝鮮戦争勃発す」というセンセーショナルな討論が載っていました。今日お見えになっている浅井さんの甥になられる中谷元さんも主役の一人で大いに論じておられます。

 ところが今の日本の安保論議というヤツは、ガイドライン論議がそのいい見本なんですが、何といっても分かりにくい。私みたいに海軍出身で外交官を30年も務めた人間でも、さっきの文芸春秋の記事は一回読んだだけではすんなり頭に入らない。今日来る前に読み直して来たようなわけなんです。

 その中で、非常に注目すべきことの一つは、朝鮮半島にいる約三万人の日本人を確実に助ける道はないという結論になっていることです。

 中谷元さんに別のところで聴くと、アメリカとのガイドライン協議で日本人の救出を頼んでみたけれど断られたそうですな。それはそうでしょう。アメリカだってアメリカ人を先ず助けなきゃいかん。そんな緊急の時によその国の何万人もの人を助ける約束なんかしていて、助け切らなかったら大事ですからね。

 そうすると朝鮮半島にいる3万人内外の日本人の運命は北朝鮮の思うままではありませんか。その文芸春秋、今日でも帰りに本屋に寄って、買ってお読み下さい。

 もう一つ、ミサイルをぶっ放して来たとき、さあ、どうする。デポドンが日本の領土に落ちた時は?二発目が来るかも知れんとなったら?

 二発目が来るのを防ぐためにはミサイルの発射基地を"間髪を容れず"叩かなければならん。

 ところが日本にはその能力がないそうなんですよ。

 日本の飛行機は、日本が侵略行動に出られないように、長距離飛べないようにわざわざ作ってあるんだそうです。軍艦も同じ思想に基づいてこんな場合の攻撃用装備を持ってないのだそうです。

 結局、アメリカへお願いするしかないというのが、自民党、自由党、民主党の若手の代議士が集まっての結論です。

 えらいことですわな。どちらが鶏か分かったものではありません。
 

 日米安保条約は保護国条約か?

 そこで、丁度いい機会ですから、暴発するかも知れない(火遊びをやりかねない)北鮮のことを思い浮かべながら、大きなところで日米安保条約の骨組みがどうなっているか見てみましょう。

 細かいことは色々あってもやはり大筋では、アメリカに守ってもらう方に軸足が寄り過ぎた構図になっていますね。

 私には不見識なことに思えてならないのですが、少し歴史を振り返ってみればそれも無理からぬことかも分かりません。

    「もう二度と戦さなどする気は起こしませぬ」

とばかり、自衛権さえ捨てたつもりの新憲法でスタートしたのが戦後日本だったのですから。

 平和に徹すると言えば聞こえはいいが、一皮むけば、弾丸の飛んで来るところへ金輪際行かないという「町人国家宣言」に外なりません。

 町人でも戦費調達という形で結構カネを召し上げられるものだということは、湾岸戦争の時になって思い知らされるのですが、弾丸の飛んで来るところへ行かなくていいという「身の保全」については、憲法という「お守り」があってまだ"持っとる"。

 これはカネの場合のように「ああそうですか」と簡単に思い直すわけにはいきません。いったん手に入れた"お守り"を後生大事に身から離すまいとしているわけです。

 突飛なことを言うようですが、憲法第九条、短いものですからよく読んでご覧なさいませ。町人宣言と読むのが一番素直な読み方だと思いますよ。

 そうした上でガイドライン論議を見たり聴いたりすると、そこにしょっちゅう出てくる「後方支援」とか「武力行使と一体にならない」とかいう用語の意味するところが手にとるように透けて見え、ハハーンと納得がいくと思いますよ。

 憲法の許容範囲がどうこうと難しそうな理屈を並べ立てているように見えますが、何ということはない実際のホンネは、「そこは危ない」「ここまでなら危なくない」という話ではないんですかねえ。それも日本側だけの身勝手な線引きで、敵がそのとおりに行動する保証はありませんがね。

 かつては卑怯者の行動原理とされていた「命あってのものだね」が今やホンネのところでは日本全体の行動原理になっている。

 現にブレジンスキーのような著名人が「日本は保護国」と言っているのに、日本では知識人も一般国民も顔色を変える様子がない。その通りだとか、違うだとかいう論議が巻き起ってもいいのに、そんな気配もみられない。

 不名誉などにこだわるよりも、危険に身をさらさないことの方がどれほど重要か、という意識なんでしょうが、「身の保全」にかけては、もう元の日本人には帰れないかも知れませんね。よくもまあ、ここまで、一つの伝統的美意識が影をひそめたものです。

 ところで今のアメリカは世界唯一の超大国、それと全く対等な形での軍事同盟というのは、意地の張り過ぎかも知れません。アメリカ本土がやられたからといって、日本から救援に赴くまでのことはない、というのも納得のいく話です。

 しかし、日本周辺に限定して考えれば、日本とアメリカはもっと対等な関係になっているのが自然体ではないでしょうか。

 集団自衛権行使は違憲という、政治がその気になればいつでも変えられる、法制局の憲法解釈を理由に、隣でアメリカの軍艦がやられているのに、日本は知らん顔をしているしかない(対敵反撃行動がとれない)。そんなことがあっていいでしょうか。恥を知れ、日本。と言いたくなってしまいますよ。

 平和の仕事

 恥の文化とさえ言われた武士道精神を台無しにしたのが、アメリカ占領政策による日本の精神的武装解除だったことは争えないところで、そのアメリカが後になって「安保タダ乗り」などと日本を恥知らずのように言う資格はありません。

 しかし、だからと言って「こんな日本に誰がした」など、身を持ちくずした女の言うようなセリフは、日本男児、口が裂けても口にするわけにはまいりません。

 アメリカを語るとき心しなくてはならないのは、そんな未練がましい話はもうしないことだと思います。

 史実解明は結構、ひたむきに取り組む人も増え、徐々に進展が期待できそうです。だからこそそうした史実の扱い方には民族的なプライドが反映しなくてはなりません。それを糧に、大東亜戦争の勝者であった"昨日の敵"に恨みつらみをぶっつける仕草は、まさに劣等感のムキ出し、二十一世紀の日本ナシヨナリズムがそんなものに支えられていてどうなりますか。

 ところでそのアメリカですが、今あの国はグローバルな立場で、平和の仕事に精出していると思いますよ。

 「平和の仕事」というのは私の造語でありまして、こんな耳慣れない言葉、大抵の方は、いろんな団体主催のイベント型平和集会のことかな、くらいにしか考えて下さらないでしょうが、実はさにあらずなんです。

 私がことさら「平和の仕事」という言葉を使って取り上げたいと思っているのは、いま引き合いに出したイベント型のものとは似ても似つかぬ、この世の荒仕事でして、日本人が久しく見落してきたもの、即ち、平和への望みの糸がもうこれで切れるのかという瀬戸際に求められ、巨大な瞬間エネルギーを要するような壮絶な力仕事であります。

 それがどんなものか分りやすく説明するのには丁度いい時です。まだ記憶に生々しいだけでなく今に尾を引いている湾岸戦争、それから、文字通り命をかけての民族抗争が続いてきたバルカン、という現在進行形と言える戦火の実情を教材と見立ててお話をすることにいましょう。

 こんな局面に今まで日本はどうして来たかと言いますと、政府もマスコミも決まり文句で「あくまで話し合い解決を」と訴え、戦闘が勃発すると政府は多少のニューアンスを持たせながらアメリカのサイドを支持、少なくとも理解を示し、マスコミは「フセインもよくないが」くらいのことは前置きにしながら概してアメリカを悪者に仕立ててきました。

 私に言わせれば、太平の眠り覚めやらぬ極楽トンボ、関係国で神経を擦り減らして来た人々の苦衷などどこ吹く風ではありませんか。こんなにも実際には世界の平和に無関心でいて、よくも「平和憲法の理想」だヘチマだ言えもんだと思いますよ。

 あっという間に攻め取ったクエートを頑として手放そうとしないフセインを攻め得に終わらせる重大懸念、この世の地獄絵巻とも言える先般ボスニアの燃え広がる戦火、ミロシェビッチ(ユーゴ大統領)の胸三寸で交渉決裂、NATOとの戦さが始まりそうになってきた今のコソボ。

 そんな緊迫した局面で、周辺国に送った数十万の米軍部隊で不退転の決意を示しつつフセインの翻意を促したり、収まりかけては再燃する戦闘行為をやっとの思いで収束させたり、世界が息をつめてツメの作業を見守っている中で、ギリギリの合意点を模索して行く。

 こういうのが「平和の仕事」の実務部分でありまして、国際世論も無論大切な要素に違いありませんが、早い話「止め男」役に腕っ節の強い国がいないことには話が進まないという現実も厳然としてあるのです。こんなことは世界の常識だのに、そこをよく踏まえてないから、日本の議論は「神学」論争で終わってしまうわけでして、平和ボケ症状のなかでも一番の悪性の疾患部分は正にここだと言っていいのではないでしょうか。

 以上のことを踏まえ、先ず中東のイラク問題を例に取って、平和の仕事の実際に触れ、その中でのアメリカの存在意義を考えてみましょう。

 この前、国連の査察妨害を理由にアメリカがイラクを空爆しましたね。それを日本のマスコミはアメリカの暴挙だと非難しました。

 主権国家に対し、国連の決議もなしに、ということで暴挙と決めつけたわけです。

 しかしねえ、イラクという国は ほんの少し前の平成二年、突如クエートを攻め取ってイラクの一州だと宣言した国ですよ。

 その前にどんな事情があるにしろ武力で、国連の加盟国にまでなっている国を攻め取ってしまう。そして、国連が何と言おうと、色々の国がどう動こうと頑として撤兵に応じない。多国籍軍の実力でやっと屈服した国なんですよ。

 その後もイラクが化学兵器とか、核とか、大量破壊兵器を開発する心配があるので査察制度を課されているのですが、イラクは査察の妨害を繰り返しています。

 国連は湾岸戦争当時、実効性のある「平和の仕事」が出来そうになるのですが、今では常任理事国であるロシアと中国の協調が期待薄になり、国連は正直なところ休眠状態に逆戻りしかけています。

 イラクはそういう国連の足元を見透かして、何度決議を出されても馬耳東風、何だかんだ言いがかりをつけては国連査察を妨害したり拒否したりし続けているのです。

 こうなると今では、イラクが恐しいのはアメリカだけになるんですね。アメリカは本当に軍事行動に出てきますからね。

 アメリカのその怖さがなかったらイラクは怖いもの知らず、何を仕出かすか分かったもんじゃありませんよ。アメリカがひょっとして怒ったら酷い目に遭うと内心思っているからこそ、口では偉そうに言っていてもイラクは、そうひどい暴発はしないで、国連を適当にあしらうぐらいのところで止っているのではないでしょうか。

 こういう国は、日本人の口癖になっている「話せば分かる」ような段階ではない。何か決定打を打ち出して決着に持ち込むことのできる「止め男」役は、腕っ節の強いアメリカをおいていないというのが、好むと好まざるに係わらず世界の実情なんです。

 今の日本人には分かりにくいでしょうが、実はこのポイントこそが,実務的に考えていく限り、平和論議の本体部分にならなければウソだと思うのであります。

 世間でも、怖いものがあるから乱暴者も手控えをするということがありますね。昔だったら親父というのは怖い存在で、地震、雷、火事、親父と言ったものです。それくらい親父が怖かったから子供は悪いことをようせんかった。それが親父が優しくなってしまったんで、子供は勝手気まま,手がつけられなくなっているのではありませんか。

 「怖い存在」とよく似た役割を演ずるのが「悪者役」です。

 悪者役になることをそれほど意に介しない、あるいは敢えて悪者役に回ることを辞さない人間がいないと、利口者ばかりでは事が収まらないということが世間でありますね。理屈ではない。人の世の性(さが)みたいなものでしょう。

 その感じでいくとアメリカは、怖い存在であるだけでなく、悪者役にされていることをそれほど気にしないで悪者役の機能も果たしているように思えてならないのです。これは今の世界での貴重な希少価値と言わなくてはなりません。

 アメリカだって自分の国の国益を度外視して行動しているわけでは勿論ない。しかし世界の何処でなにが起こっても、自分の守備範囲ででもあるかのような感覚で捉える。冷戦期を通じて出来上がったと見られる、世界に対するこのような責任感覚は、世界各国の中でもアメリカがズバ抜けていると思います。

 きれいごとばかり言っておられない。国連が機能しないからといって、「仕方がない」では放っておけない。いつもそうとは限りませんが、アメリカには概してそういう気概がある。

 こうして、国連が機能さえしておれば国連軍の仕事になるはずの作戦行動を、アメリカは自らの主導でやってのけるわけであります。

 その一例が多国籍軍なるものでして、国連(安保理)のお墨付がうまく得られないような場合は、その軍事行動(武力行使)に対して世界から非難の声が上がるのが普通であります。

 しかしアメリカを非難するのなら、「軍事行動を起こさなくても,こういう方法がある」と、実効性ある代案を提示してこそ、非難そのものにも重みが伴うのでありまして、かなり札付きになっているイラクのような国を、「いやしくも主権国家に対して」という論理で普通の国並みに扱ったり、国連が機能麻痺の状態にあるのに「国連の決議も得ないで」という論難を平然と行うようでは、「もっと話合いを」と言うのと同じ"お決まり文句"に過ぎません。いい子になっているだけです。それに付き合うことを適宜やりながらではありますが、大筋ではアメリカが悪者役を引き受けている。壮観じゃありませんかなあ。

 悪者役ということで序に申し上げますと、アメリカは、民族運動であろうと宗教運動であろうと、時には国である場合でさえ、テロを容赦しません。だから世界中のテロ組織から目の仇にされ、時には国際世論からも非難される。

 その反対に、官、民を挙げて「いい子」になろうとしたがるのが、戦後日本でありまして、福田内閣がテロに屈した時の超法規的措置など、今もってその適否が、政府によっても、世論でも、総括されておりません。

 ペルーでの日本大使館人質事件の際も、日本側は何ひとつ具体案も示唆せず、フジモリ大統領に平和的解決の要請を繰り返すだけでした。

 国際的なテロのことでは、アメリカを悪者に仕立てて自分たちが「いい子に」なろうとしている手合いが,国でも個人でも多すぎるのではありませんか。

 ここで今お話したようなアメリカの怖さの続きとして北朝鮮にもう一度立ち帰りましょう。

 イラクに対してひどく強腰に出ているアメリカを横目で見ながら、北鮮も内心では、「俺らもあんまりアメリカを怒らしたらイラクみたいな目に合うかも知れんぞと」ぐらいのことは考えているのかもしれませんね。

 ここまではよかろうとか、これ以上出ると危ないとか、北鮮なりに安全度を計りながら強くでたり歩み寄ったりしているんだと思いますよ。一昨日妥結した米中合意も、あのしたたかな北鮮がアメリカには一目おきながら、またアメリカもイラクに対する場合に較べると均衡を失するくらい控え目に出て、やっとこさ仕上がったのではないでしょうか。

 だからアメリカの国内でも共和党から甘過ぎるという批判が出るわけです。核を開発しながら食糧援助を引き出しとる。まるで核開発が食糧援助を手に入れる手段みたいじゃないかと。そりゃそんな格好になっていますよ。核で脅かして今度は六十万トン。前より十万トン上げてもらっていますものね。

 でも、そういう中で、したたかな北鮮相手にアメリカは、すれすれのところで丁々発止よくやっていると思いますよ。口先だけの平和主義で通して来た、苦労の足りない日本とはとても較べものになりません。

 そもそも和戦の岐路に際しては、普通なら双方秘術を尽くし、端倪すべからざる駆け引きが展開するわけでありまして、戦争と腹を決めている時の方が却って最初は下手に出るという戦術もあり得る。それによって国際世論を有利にし、国内的にも、尽くせるだけのことは尽くしたという実績を積んで先々反戦気運なんかが出ないようにする、という政治的配慮も考えられるからであります。

 相手を叩くつもりがないときはむしろ逆に強く出てた方が賢明の策かも知れませんね。強引な相手ほど、優しい言葉では相手を思い上がらせ、かえって平和的解決の潮時を逃がしてしまう危険があります。

 日本みたいに、何をされても言われても、過剰反応になることの心配ばかりして平和づらで通していたら、攻めてもリスクは知れたものと、却って相手の出来心を誘発するかもわかりません。強い態度や不気味な沈黙が抑止力になることは珍しいことではありません。

 もう日本も、話せは分かるの一点張りで何でも片付くというような幻想からは足を洗わないといけませんね。

 イラクと北鮮ということでもう少し考えてみましょう。

 恐らくアメリカは、イラクで強い姿勢に出ていることを北鮮に見せつけながら、北鮮と交渉してるんじゃないでしょうかね。イラクに優しくしていたら、北鮮も、アメリカは以前ほど怖くなくなったと思い込んで、言うことを聴かなくなる心配がある。世界全体を相互に関連づけながら見るクセのついているアメリカなら、それくらいの頭は回らなければおかしいですよ。

 そんなアメリカと、さっき言ったような音痴気味の日本。それが経済的には世界で一位と二位だからチグハグなんですよねえ。ホットラインはあっても、こと平和の仕事になったら、秘中の秘どころか極く簡単な会話でも、内容らしい内容の個所ではスレ違ってしまうんじゃないでしょうか。

 和戦ぎりぎりのところで決断内容やタイミングについて知恵を絞り合う日は何時になったらやって来るのでしょうか。日本の総理とアメリカの大統領が、ホットラインでそんな相談をするようになった時、日本はほんとにナンバー・ツーの国になるわけでしょうが………。

 今だと日本の総理に言ったって、何とか平和的に片付けて欲しいと言われるに決まってますから、ホットラインで話す実質的な意味はない。でもイギリスにはかなり突っ込んだ相談をしているんでしょうね。「どうだ、ちょっと早すぎるか」とか、「今飴がいいのか鞭がいいのか」とか。

 平和の仕事とその中でのアメリカの役割をお話した締めくくりとして、湾岸戦争以来の世界平和の問題で幾つかのポイントを挙げてみたいと思います。

 アフリカとバルカン、特にコソボについて

 まずアフリカです。アフリカは今戦国時代の様相を帯びています。難民は出るわ、内戦は続くわ、アフリカで作った多国籍軍が同士討ちを始めるわ、平和の仕事では主役であるはずのアメリカも、アフリカには匙を投げている格好なのであります。

 ところがバルカン半島の話になると俄然アメリカはシャンとして来るんですね。そこで今が危機一髪というところのコソボ問題のお話をしておきましょう。

 アメリカがミロシェビッチ(ユーゴ大統領)にNATO軍のコソボ受け入れを迫っているところですが、それはどういうことかというと話はかなり込み入っているんです。

 ユーゴではミロシェビッチのセルビア民族主義運動が裏目に出、連邦内の共和国が相次いで離反、独立し、残るのはセルビアとモンテネグロの二つの共和国だけになっています。

 コソボはそのセルビア共和国の中の特殊な州でして、二百万人の人口のうち実に九割がアルバニア系の住民なのです。そんなところからチトー大統領の存命中は、自治州は自治州でも連邦構成員として共和国に準じた地位を与えられていました。その自治権をミロシェビッチは、セルビア民族主義運動の手始めに取り上げた。そのコソボ住民が、悪名高いエスニック・クレンジングによる追い立ての対象になっているのが、いま現在のコソボ問題なのです。

 そのコソボ問題を解決する為にNATOがぐっと前に出て来た。NATOというのはヨーロッパ、アメリカ、カナダなどの軍事同盟ですよね。

 NATOの仲介で和平合意はあと一息というところまで来たのですが、それが絵にかいた餅にならないための保障に、NATO軍がコソボ州に進駐するという条項があって、ミロシェビッチがどうしても呑まない。アメリカの国務長官が今朝のニュースでも言ってましたが、ミロシェビッチが折れなければNATOの軍事行動(空爆)は避けられないようです。日本憲法では禁じられている「武力による威嚇」に間違いないのですが、バルカンの平和を守れるか守れないかは、ミロシェビッチがこの威嚇に屈するかどうかにかかっているわけです。

 こう言うとアメリカをふくむNATOサイドがゴリ押しをしているように見えるのですが、そういうことをされても仕方のない"前科"が実はミロシェビッチ側にあるのです。

 というのは、彼には、今様ヒットラーと言うあだ名がついているくらいで、1990年代におけるバルカン半島戦火の火の元は、いつも彼の推し進めた大セルビア主義民族運動に外ならなかったからです。ボスニアヘルツェゴビナで繰り広げられたエスニック・クレンジングの地獄絵巻には、ヒットラーによるユダヤ人狩り立てを思い出させるものがありました。死者の数も難民の数も百万人単位でしたよね。  前大戦は、かの有名なミュンヘン会議がヒットラーに甘く出たことによって、もう引き返すことのできない道を滑り降りることになった。これは私より上の方はご存じでしょう。

 その時ヒットラーは、これが最後の領土的要求だと言って、チェコのズデーテン地方併合への了承を求めたのですが、若しこの時英仏が重大決心の下にこれを退けていたら、ヒットラーの膨張主義は多分ここでとまっていただろうといわれています。

 ミロシェビッチ。これからよく出て来る名前ですから覚えていてください。アメリカはアフリカでは匙を投げてるけれども、バルカン半島ではNATOの大黒柱として、それこそ一歩も引かぬ強硬姿勢でミロシェビッチとは向かい合っているのです。

 今考えてみると、本当はアメリカがボスニアヘルツェゴビナ戦乱の前、クロアチア問題の時点で、今と同じようにミロシェビッチに強く出とったら、あのバルカンの流血と生命の喪失は無くて済んだ。あの時にアメリカが「出たらやるぞ」ということをはっきり言わんもんだから、ミロシェビッチは大丈夫と踏んで出て来た。そして戦火が燃え広がって行ったわけです。

 そこらへんの具合を振り返ってみますと、今度はアメリカも気を抜かずによくやっているのではないでしょうか。

 悪者役は悪く言われるに決まっている。だからそう呼ばれるんではありますが、大役を果たさなければならない国になったら、いい子でばかりはいられない。悪者役に回ることによって大役を果たすということも珍しいことではありません。日本もそういうことをそろそろ考えはじめたらどうでしょう。アメリカをけなしてはいい子になっている常連たちには、適当なところでお引取りを願いたいものです。

  特に日本は先々アメリカに、敵の基地を叩いてくれとか、ソウルに閉じ込められてる日本人を助けてくれとか、頼みごとが出て来る可能性が充分にあるのですから、今アメリカが折角イラクなどに対して悪者役を引き受け、強い態度に出ているとき、対岸の火事みたいな軽い気持ちでケチをつけてはいけないと思うのです。

 その点では今度の小渕内閣、ボソッとしておる割にぱっとやりましたね。あの時アメリカのイラク攻撃にいち早く支持を打ち出したのは日本ですよ。

 いつもなら日本はですね、ドイツはどうしてる、フランスはどうしていると探りを入れ、流れに外れる心配がなくなったところで決定する。だからいつもビリケツの方になってしまうんです。

 小渕内閣は今度、きょろきょろしないでケロッと支持を声明しましたね。大した度胸ですよ。大石内蔵之助には昼行灯というアダ名があったそうですが、小渕という人にはそういうところがあるのかも知れませんね。

 アフリカで手の汚れてない日本

 まだまだ色々お話したい事が沢山ありますけれども、あと一つだけ突飛な話をして、終りにさせていただきます。

 アフリカは今アメリカが匙投げとると言いましたよね。そのアフリカは、日本にしてみれば、全く手の汚れてない地域なんです。ヨーロッパ諸国のような侵略歴が皆無なのです。アジアのように日本が、かつての軍事支配を咎め立てられている地域とはわけが違う。アフリカで、ヨーロッパが悪びれるというのなら話はわかるのですが、日本が悪びれたり前科者視される理由はどこを探しても見当たるはずがないのであります。私はパキスタンに二年あまり在勤しましたが、そこらあたりでも侵略国日本のイメージはほとんどありませんでした。

 日本が内心、徴兵逃れ的な気持ちで平和愛好国づらをするのではなく、自らの良心に誓って平和の仕事に打ち込もうというのだったらですね、憲法は憲法として別途論議を進めながら、アフリカのように全く手のよごれてない地域での平和の仕事を、雄大な構想で検討し始めていいではありませんか。

 平和というものへの思い違い

 それで思い付いたことなのですが、そもそも平和とは何かということについて、日本人は思い違いをしているのではないでしょうか。それにはどれだけ苦労があり、それを守るためにどれだけの血が流れているか、ということが分かっとらん。そういう苦労や犠牲によってやっとありついているのが平和だということが分かっとらんように思えるのであります。

 放っておいたらジャングルの論理で人間以外の世界、鳥や獣と同じように一晩たりとも安閑として寝られはしませんよ。それが大自然でしょう。その中で人類だけが苦心惨憺して、平和な十年とか、平和な二十年を持ち得ている。

 それを当たり前と思い違いしているから多くの文化人の平和論がおめでたいものになってしまうのだと思います。平和がちょっとした心掛けで簡単に得られるものなら、人類は二千年前から平和で、戦争なんかとっくの昔になくなっている筈じやありませんか。

 では皆さんどうぞご質問を。
 
 

 質問に答えて(抜粋)

 (1)ナンバー・ツーを目指せ

 アメリカであろうが、どんな権力であろうが間違いは起こす。

 今いい質問をして下さったから悪ノリさせて頂きますと、そこで、アメリカに「アメリカさん、ちょっと待ちなされ」と言ってアメリカが耳を傾けるような助言者、たまには指南役に日本はなろうや、というのが私のナンバー・ツー論なのです。ナンバー・ワンのアメリカが薩長藩閥政府みたいになったらいかんからその横から、間違った時はストレートにものが言えるだけの国に、日本はなろうじゃないかというのです。

 それにはやっぱりですね、平和の仕事の方でもしっかりやらんといきません。厳しい局面になると逃げ回って「血を流す役はよその国でやってくれ」みたいな、身勝手なことを言いよったら、そんな日本の言うことにアメリカが耳を額ける筈がありません。

 もう一つは見識が無ければいけません。

 アメリカが一目置くような見識を日本が持ち備えるようになるということは、国家百年の計と言える大目標です。素晴らしい若者の夢にもなり得ましょう。いい大学とかいい会社、そんな次元でしか目標を立てられないようなことでどうなりますか。日本は維新この方、有色人種の先頭を切ってきた国ではありませんか。

 ところで私が、アメリカの行動でこれはよくないと思ったことがあります。それはハイチへ攻め込もうとしたことです。

 カリブ海にハイチという国がありますが、選挙で通った大統領がクーデターで軍部に追放されるということが起こったのですね。

 多数の難民がやってきて対応に手を焼いたからかも知れませんがアメリカは、ハイチへ軍隊を送ろうとした。かなりの独裁政権には違いなかったようですが、
コソボやルアンダのようなひどい事態になっていたとは考えられない。

 軍事政権が隣のドミニカを攻め取ろうとしているわけでもない。人権とか政治的自由とかアメリカなりには一応の大義名分はあったのでしょうが、カリブ海は自分の庭先という、今まで式の思い上がった感覚もあって軍事行動に出たんじゃないでしょうか。幸いカーター元大統領の軍事政権説得で危機一髪、アメリカの軍事行動は回避されましたが、こんなケースのとき助言、進言が受け入れられるくらいの重みのあるナンバー・ツーになることを日本は長期目標に立てるべきではないでしょうか。

 国連査察を拒むイラクに対してアメリカが攻撃を聞始した時、その作戦に協力したのはイギリスだけでしたが、私はそのときハイチの場合とは逆に、アメリカのやったことは正しいと思いました。

 フランスは先々のイラクにおける利権のことが念頭にあってイラクに気がね気味だったのでしょう、苦渋をにじませた発言が印象的でした。

 問題は中国とロシアです。すらすら何のわだかもりもなく、アメリカはなっちょらんとアメリカ叩きをしているんですなぁ。

 しかし叩くだけで事がすむのですかねえ。国連との約束を守ろうとしない国にも色々あるでしょうが、イラクの場合など口だけの説得では十年経っても埒があかないかも知れません。

 でもそうした事態を打開する武力発動決議を国連の名で打ち出そうとすると、中国とロシアが安保理で拒否権を発動し、国連の機能を麻痺させる。そうしておいてアメリカでもNAT0でもが、国連代わりに何かやろうとすると「国連の決議もなしに何事だ」と非難を浴びせる。

「もう一年説得を続けろ」なら結構ですよ。イラクが国連との約束を守るように仕掛ける方法論を提示するなら分かるのですが、どうも中国やロシアのやったたことはそうではなくて、アメリカを悪しざまに言って自分たちの存在感を高めようとしているだけのように思えるのです。

それで北鮮の場合でも本来なら、国連として、いざ暴発となったら北鮮のミサイル基地を叩けるだけの状況を作りながら事態の推移を見守る義務があるわけですが、安保理常任理事国で拒否権を持っているロシアや中国の気心が分からないのでは、それは吹けば飛ぶような他愛ない期待にすぎません。

 (2)橋本知事の非核条例案

 ミサイルが敦賀へ落ちようが東京へ落ちようが、アメリカには何も頼まん。

 ソウル周辺で一万五千人の日本人が北鮮に包囲されていてもアメリカに頼まんという腹がすわっているなら、橋本知事のようなことを言ってもいいと思う。

しかし、いざとなりゃ国民の命をかけたことを頼むアメリカなのに、そのアメリカをあたかも対象にしたような非核条例は虫が良すぎると私は思います。

 いざという時何万人という人命に関することをお願いするのだから、そういう可能性を孕んでいるアメリカに対して、偉そうに自治体がツベコベ言うな。高知からの最光団一○○人がソウルで死にかけていてもアメリカのカは当てにせんという覚悟が決まっているなら話は別、というのが私の意見です。

 日本周辺に関する限り、こっちも頼むし、向こうから頼んで来たら気前よく応ずる。そういう持ちつ持たれつの関係を大切にするのが日本の良心であり、見識であるというのが私の持論です。

 (3)見通し立たぬアフリカでの平和の仕事

 今まで言ったことの繰り返しになりますけれども、止め男は腕っ節が強くないといかんというのは緒方貞子さんでも言っている訳ですよ。

 弱わっちいのが「やめて!やめて!」言うたって「黙っとれ!」と一喝されたら終わりです。すごいのが来て「やめ!」ってドス声で言うたらやまります。

 国際関係も全く同じなのですが、アフリカではソマリア出兵に懲りてかアメリカの腰が引けていて、外に止め男が務まりそうな国なり国際機関が見当たらないんですね。

 地域紛争の根っこにある今のアフリカの国境線などは、イギリスやフランスのいい加減な植民地政策の爪あとともいうべきもので、欧州主要国の手はすごく汚れている。

 このままでは、アフリカには気の毒だけれども打つ手はないんじやありますまいか。アフリカで何か出来そうな潜在的条件を備えているのは日本かも知れないのですが、それとても二十年、三十年の世論醸成期間が必要でしょう。

 NAT0がアフリカをカバーできないか、というのも気の遠くなるような話だと思います。

 (4)千載一遇の好機

 橋本さんの出した修正案は最初の案よりはましです。県知事の権恨でアメリカの艦船の入港を拒否するというところはもう取り下げたわけで、その点は進歩があるんですが、所詮は大きな目で見たら四の五の言っとる訳ですよ。

 その背景を考えると橋本大二郎だけが悪いのじゃない。県民の軍事アレルギ−が嫌米感情と重なってこんな屈折した発想になってくる訳で、軍事力を悪と決めつけて世界中から無くしてしまったら平和になるのかという、人類がまだ解き得てない課題まで遡る話になるのです。

 知事は六月県議会に再提案するように言うておりますが、はっきり言わしてもらえば橋本さんはまだ国際問題が分かってない。おそらく進歩的文化人の先生から習ったことをまだひきずっていて、何となく聞こえのいいことで一石を投じようとしているくらいのことだと思いますね。まだ高知県なんかろくに船も入って来ないのに、あんなに偉そうに言うことないやないですか。

 少々雑談的なことを言わせてもらいますど、前回の知事選挙の終わり頃のことです。「しもうた!」と思った。橋本さんのところへ行ってね、「あんた今度はいくら票が減ったって落ちることはないのだから。こんな時こそ思い切った事を言いなさい。沖縄の基地の一部分を本土の代表として我が高知県は引き受けますと大見得を切りなさい」と言いに行っとけばよかったと思ったのです。

 どこの県も尻込みして、気の毒な沖縄に義侠心を見せる県がない。そんな腰抜け県ばかりの本土の中で、坂本龍馬じやないが、颯爽と土佐がさむらいの気概を示す。

 戦時沖縄県民の力戦奮闘、余りにも長かった戦後の異民族統治、そして今も続く過重な基地負担。それを見て我が高知県が立ち上がる。その狼煙(のろし)を橋本さん、あんたが上げなさい、という勧めをやっておけばよかったということですよ。

 そしたら票は半分になるかも知れん。半分になったって勝ちますがな。

 そうなったらですよ。アメリカも日本を見直すでしょうし、日本に対する世界全体のイメージにも変化が出て来るに違いありません。

 国内からは「さすがは土佐、龍馬の気宇は今も生きとる」となるところだっだろうに。もうちょっと早く気がついたら良いかった。惜しいことをした、と今でも思っているのであります。

 (5)勝った国、強い国にひがみ根性を持つな

 憲法制定の経緯ですが、占領中は、もう負けたのだから潔い敗者になろうと言う心情で、あの憲法を国会で通したところもあるでしょう。

 しかし占領が終わったら心機一転して憲法論議を盛んにし、アメリカの悪口を言うんじゃなくて、これからの憲法はどんなのがいいかという議論をじゃんじゃんやるべきだった。

 にも拘わらず、それをやらなかった日本の学者、インテリ、オピニオンリーダーは何という腑抜けだったかと思うのです。

 それからもう一つ、吉田茂さんは今何でもかんでも褒められますけれど、憲法については大失敗をしていると思うのです。

 講和条約の前に、のちに国務長官にもなるダレス特使(講和条約担当)から、もちろん朝鮮戦争も始まってからですが、日本の再軍備をせんかと持ちかけられるわけです。

 吉田さんがねえ、それを断らずにですね、渋々という顔をして「あんたら身勝手やないか」と少し厭味も言いながら、「そうまでおっしゃるなら変えましょう」と応諾の返事をする。「そのかわり十万も二十万もはいきませんぜよ。あんたらぁがこんなに超平和主義の国民にしてしまったんだから。せいぜい五千ですなあ、陸・海・空で。はずんでも一万ですなぁ」とやっておけば、アメリカに恩を着せながら、一万人の軍隊というものが出来る。

 軍が出来れば今みたいに国の交戦権は認めないだとか、陸・海・空の戦力はこれを保持しないだとか、憲法解釈混乱のもとになる規定は全部姿を消していたわけですから、その後、半世紀にわたる不毛の神学論争は無くで済み、日本はどれだけすっきりした、アジアからも世界からも分かり易い国になっていたことでしょう。

 借しかったですねえ。あの時だったら出来たんだから。

 負けた方が勝った方の悪口を言うくらい見苦しいものはないのですが、あの憲法で、衆参両院それぞれの三分のニの賛成がないと憲法改正の発議が出来ないとしたのは乱暴ですなぁ。

 占領軍は食べるものはくれたけど、精神的武装解除はやりまくったですねぇ。江藤淳なんかがぼやくのは無理ないと思いますよ。

 ぼやきと言えば中国のことに触れたくなるのですが、中国は戦勝国とはいっても個々の戦闘では負け戦が多かった。その恨みつらみめいたことを動機が何であれしつこく言うのは大国の風格と言えませんなぁ。同じように日本もアメリカに対しては気をつけなくてはなりません。

 昔のことでなくてもアメリカにはいくらでも悪口を言う種はあります。横暴ですよ。しかし薩長藩閥政府が横暴だったからといって明治維新は失敗だったとは言えません。横暴でも、やっぱり日本をあれだけ高めた功績はあるのです。

 権力者の悪口を言ってメシの種にする傾向が、学者や評論家にはありますが、実際の国家運営は難しいですよ。そこらの大学教授が言うようにいきますもんか。

 (6)占領統治の裏表

 共産党の野坂参三が国会での質間で自衛の必要性を述べたことは有名な話ですが、答弁に立った吉田茂さんはこう言っています。

「今までの戦争と言うのは皆、自衛戦争の名において行われております。今野坂議員のおっしゃることは誠に有害無益……」

 それが内閣総理大臣の答弁ですよ。それに「そうだ、そうだ」と思った国民が何人いたか。黙っとった国民は、もう負けたのだから、負けた者が未練がましいことは言うまいというのが半分じゃなかったでしょうか。

 私はその時は大学へ入学していました。自衛権が無いような国があるかと思いましたが、そういうことをあのころ言おうものなら、大学の学生仲間から袋だたきになったでしょうね。アメリカの精神的武装解除が徹底していて、とても自分の自由意志で物が言えるような雰囲気ではなかったというのが私の実感でしたよ。

 それどころか私のような軍人出身者はそれに輪を掛けて酷い仕打ちを受けたものです。

 海軍のクラス会をやるのにハガキを出したら危ないのです。追放者が三人集まったら犯罪になる。戦争が終わった時、まだ二十一歳でしかなかった私ですが、海軍士官だったというだけの理屈で公職追放になり、それだけでなく、三人集まったら犯罪になる。そんな苛酷な、人権無視の進駐軍命令だったのです。その後、私は結婚するのですが、女房とのラブレターなんかずいぶん検閲されたものです。その時に生きた人達の素直な気持ちを、それぞれ自分の胸に手を当てて思い出してもらうと色々なことが浮かび上がってくるでしょうが、今からではもう遅いでしょうね。

 (7)特に政治家にとってタブーだった防衛論議

 国を守るためには戦争もやむを得ん。やっとそこまでは、それほど抵抗なく言えるようになりましたね。

 ところが今から十年か十五年前、ロンドンの大学にいた森本という学者が本を出しましてね。敵が攻めて来たら降伏だ。そしたら国民の生命は一つも失われずに済む。下手に守るじゃ言うて血を流すのは阿呆の骨頂や、と書いて結構世間受けしていました。

 私は十年選挙をやりました。最初は参議院、全部で三回。その間、なんとか防衛問題を言おうとず−っと思い続けながらとうとうよう言わなかった。

 それを正直に言うたら票がガクンと落ちるに決まっている。当選はあり得ないとして出馬した最後の選挙でもですねえ、それを言うことによって、さなきだに減っている票がさらに激減して目も当てられぬ票に落ち込む。それが恐しさにとうとうよう言わなかったですよ。

 しかし、内心本当は言いたかったですね。

 森本教授の言うようにみな降伏して、人が一人も死ななんだとしてもですよ。ソ連軍がダーッと重戦車で入って来る。さあ、生活水準は日本の方がソ連よりも数倍上ですがな。ソ連が自分の国より数倍上の日本の生活水準を許容するなんてことが考えられますか。マイカーも影をひそめること請合いですよ。でもそこまでは命を助けて貰ったんだから仕方がないとしましょう。

 それに追いかけるようにして、ソ連が日本の工業力を軍事産業に転用し始めたらどういうことになります?日本の工場の半分とは言わんけど三分の一位はソ連のための軍需工場になってしまう。人を殺す弾や、戦車を作る工場になってしまう。

「こうなったとき皆さんはその、人を殺すものを作りに行きますか」と選挙民に聞いたら

「そりゃ行けん。拒否する」という答えが返って来るでしょうね。そこで更に問いかける。

「おまさん、ソ連の言うことを拒否して命の保証がありますか。デモをやる?ソ連でデモなんて聞いたことがない。それでも命がけでデモをやるんですか」とですね。

そこで、「構わん、命がけでやる」と言えば立派ですが、こういう土壇場に来てですね、「そりや命は地球より重いきんのう」と言うんだったら何ということはない、自分たちの命を守るためなら人殺しの手伝いもするというところへ結論は行ってしまうじゃないですか。

 そんな見っともないことはできん、と土佐人なら言う人が少なくないでしょうね。

 ここまで話を持ち込むことができたらあと一息、

「命がけで占領軍に楯つくくらいなら、始めから占領などされないように命がけで戦う方が、考え方として数等上だ、ということになりませんか。占領されてしまった後でソ連に追い込められて銃殺になったり、監獄で絞首刑になるんじゃ人間の在り方としてみじめ過ぎはしませんか」

 私が有権者の皆さんに訴えたかったのはこういうことでして、一生懸命、上のような理論構成をしたわけですが、三段論法式で回りくどい。とても一ぺんで有権者の頭に入りそうにない。

「若者を戦場へ送る伴」

などと連呼でやられたら一コロですわ。今でも五分かかっていますでしょう。五分もかかる話は選挙では禁物、やっぱり車で走りながら連呼で言えるスローガンには歯が立たない、ということでとうとう言いたいことをよう言わなんだというわけであります。今だからこそ票が要らんから、思い切ってこういうことが言えるのです。

 でも政党ともなると今でも、国を守る話を戦争につながる形でして大丈夫か。

 まだちょっと危ない、要注意だぞ、という懸念があると思いますよ。

 現に自民党の中の議論は腰が引けています。それだけまだうっかり言うたら自民党の票が減るというすごい恐怖心が、もの言わぬ先生方にあるのだと思いますねえ。私自身にあったのだからそこはよく分かりますよ。

 日本人はまだまだ目が覚めてない。目からうろこが落ちるのはかなり先のことだろうと思います。ご清聴どうもありがどうございました。
 


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