「魁け討論 春夏秋冬」1998夏季号
 

日本デモクラシーに明日はあるか 3 --所得勢振替方式で政治資金を(その1)

1、 はじめに ……………………………………………………………
2、 革命思想における政治家の定義 …………………………………
3、 勉強会と後援会 ……………………………………………………
4、 政治活動 ……………………………………………………………
5、 インターネット ………………………………………………………
6、 選管の資金管理とその功徳 ………………………………………

夏季講演会のご案内  
演題は「私の政党論」  8月8日(土)午後1時半より、ラヴィータ(大橋通電停西)8階で


1、はじめに

 ● いくつかのコメントに答えて

 前号「日本デモクラシーに明日はあるのか」は、「静かな革命、発進せよ」と大上段に振りかぶってはみたものの、いま読み返してみて書き直したいところだらけである。

 どの部分も私にとっては重要な思想部分に違いないのだが、簡潔を旨としたつもりが行き過ぎて意味不明がちになっている。前後の脈絡もうまく取れていない。

 中でも所得税1%の振替構想は全体の心臓部に当るのに、入口のあたりで話がもたついて、何を言おうとしているのか、はっきりしなくなっている。

 そこで今回は、前号に寄せられたコメントも紹介しながら、「1%振替構想」を、冗長をいとわず丹念な語り口で書き綴ってみたい。

 振替寄附の相手がいない!

 先ずサラッとした矢田部兄のコメントから。

所得税の1%、チェック・オフ制度というのは初めて聞きましたが面白いと思いました。ただそれを注ぎ込みたいと思う政治家のいることが前提です。見渡してもそういう政治家がいないことが悲劇でしょう。
 自分でも思い当るコメントだ。正面から受けとめてお答えをしよう。

 今や国政選挙での投票率は毎回のように下降し、50%を切る事例も少なからず出ている。

 これでは大雑把に言って投票に行くのは有権者の半数。その中でも、この人ならと納得して票を入れるケースが半分に届くだろうか。となると、まともな主権行使は4分の1以下だ。

 現に私自身、外務省の現役だった頃、行かないと子供の教育上よろしくないと思って家は出たものの、投票所での候補の名前を見較べて戸惑ったことがある。当時の私には白票のことまで思い至らず、いい加減に名前を書いて入れた覚えがある。今くらいの政治意識が当時の私にあったら、定めしあてどのない無力感にさいなまれた形で白票を投じたに違いない。

 では今、心ある有権者たちが陥っているであろう大なり小なりのフラストレーションを治癒する方法はあるのだろうか。

 それには、魅力的な人物が立候補の名乗りを挙げ易くするしかないのだが、そのための仕掛けこそが、この小冊子の主題、所得税1%の振替寄附制度なのである。

 泥沼的宣伝合戦にならないか

 安藤先輩から寄せられたコメントの中に次のような一節がある。

1997年春季号、感銘とともに読了しました。「当選していようがいまいが」。経験者のみが知る欠陥の剔抉……。ただ「所得税の一部を個人、献金に」という方法には疑問を感じます。もしこれを実行すると泥沼的な宣伝合戦が現出するだろうからです。次号でのご提言に期待します。
 安藤コメントの指摘する「泥沼的な宣伝合戦」が、投票依頼と同じ形で在来型政治家の間に現出する可能性は大いにある。

 振替制度が立法化されるまでには、かなり長期に亘る運動を続けなくてはならないが、そういう啓蒙期をくぐり抜けたあとでも、旧態依然たるお願い文句での振替依頼は確実に予想される。そんな子供だましの宣伝合戦で安藤さんの危惧するように振替制度が意味を失うようなことがあってはならない。それにその激しいお願いの大合唱に対抗する形で心ある有権者たちが行動を起し、まともな振替を精力的に進めていくしかない。

 これと同時併行的に、振替の対象となる適材探しが心ある有権者たちによって繰り拡げられていれば、願ったり叶ったりである。

 立法運動の方が陽の目を見る頃タイミングよく、幾何(いくばく)かの逸材がかなりまとまった数の心ある有権者の支援を得て名乗りを挙げているようだとしめたもの、振替制度が泥沼的宣伝合戦でモミ苦茶にされるという難は免れることができよう。

 しかしこうしてスタートが切れても、今の日本人の(政治的)知性度では、あの歯の浮くような在来型のお願い文句に、たやすく競(せ)り勝つことができるとは思われない。

 ただ、ここで見落してならないことは、振替制度の適用を受けるのが、納税者に限定されることである。年収が免税点360万円以下の有権者は、働きかけの対象から外れるため、労働組合、宗教団体などの威力も、集票力の場合ほどには冴えないはずだ。

 また、振替制度を選挙区で縛りさえしなければ、舞台が全国に拡がるので、ポスターや連呼のように、物量や声量による集中豪雨式のものには効率上限界がある。

 集票力で鳴らした組織体の底力を過小評価することは禁物だが、その物量作戦で振替制度がモミ苦茶にされるとまでは考えなくていいのではないか。

 よくよく考えてみれば、労組・宗教団体などが政治的な圧力団体として不均衡に猛威を奮っているのは彼らが悪いのではない。一般有権者の関心と責任感が稀薄で、安易に投票権限(主権)を放棄してしまうのがいけないのだ。この根っ子のところが変わらない限り、特定固定票の威力は、振替制度のあるなしに関係なく、日本デモクラシーの機能障碍要因たり続けるだろう。固定票の威力を与件に立てての振替制度有害論は少しお門違いではなかろうか。

 何はともあれ、働きかけの対象が納税者にしぼられる意味は大きいし、働きかけの舞台が全国であることも、振替制度の発進を考える上では好材料ということができる。

 革命に苦難はつきものではあるが、安藤コメントの泥沼合戦は何としても乗り切らねばならぬ。心ある有権者たちの堅忍不抜の闘魂で、武力によらない革命を成功に導きたいところだ。

 適材はいる。発掘し、育てる人がいないだけだ

 これぞと思う人物が見当たらないとよく言われるが、この問題には取り組み方次第で打開の道がありそうに思えてならない。

 心ある有権者たちが、いま自分たちが陥っているフラストレーションからどうすれば立ち直ることができるか、胸に手を当てて考えて欲しいところだ。

 埋もれた人材はいないのではなく、見つけ出せないわけでもない。

 志のある逸材が政治資金の無鉄砲に高いカベに阻まれているだけだ。そのカベを所得税の振替制で克服する目算が立てば、選挙に出ることが今のように苛酷なものではなくなる。出馬の決心が、これでどれほどつけ易くなることか。

 他方、その目算が立つように、所得税振替制度に肉づけをする実践行動は、慨嘆に明け暮れている心ある有権者にとって、どれほどピッタリの役割であることか。この実践行動に火がつきさえすればいいのだ。こうして片や政治を志す者にとって道筋が見えてくるし、片や心ある有権者のフラストレーション解消も夢ではなくなるというわけである。

 有権者の意識を変えるまで

 もとより、そうなったからといって政治家への道が二世や資産家の独占状態から一挙に解放されるわけのものではない。静かな革命も、武力革命に劣らず険(けわ)しい道である。

 当選していようがいまいが世間が政治家と認める。デモクラシーの歴史で初登場となるであろうこういう政治家が10人に達し、その中に初の当選者も現れる。そんなところへ漕ぎつけるまでに、選挙の数にして、4、5、時間にして10年の歳月は必要だろう。

 その間、特に初回あたりは票数不足で供託金没収の憂き目に遭うこともあろう。

 選挙民に阿(おもね)らぬことを目玉戦法に掲げても、今の選挙民や選挙プロがオイソレと乗ってくるわけはない。彼らが立ち止ってそれに注目し、「ひょっとして本物かな」と思い始めるのは選挙でいえば早くて3回目、それまでは「変り者」で通す我慢が必要だ。革命児の意地の見せどころというものだろう。

 振替制度下の創業期には、このほかにもいろいろの苦しい局面が予想される。

 一つだけ道草のつもりで例を挙げておこう。

 決心をしてから出馬までの繋ぎ資金の厚いカベである。

 決心がついたら、次回の衆、参何れかの選挙に出馬する意思を表明して、選管に自分名義の政治家口座を開設して貰うわけだが、その時点で今までの仕事から手を引かねばならないとなると、サラリーマンからの転進組にとってみれば、清水の舞台から飛び降りるくらいの話だ。

 それまでの貯えや退職金などを足し合せれば、一年や二年分の生計費と活動費を捻り出すメドは立つかも知れない。だが、プロの政治家としての経済基盤が固まらない中にそのカネを使い果たすことだってあろう。

 商売だって同じではないかと言う人もいようが、商売とこれとは違う。土地、建物を担保に入れてカネを借りても返すカネは儲けの中からはじき出すのが商売というもの。だが政治では返すカネを儲ける余地はないのだ。そもそも、借りて使うカネが金儲けの元手であってはならないのだ。

 振替のカネが政治を志す本人の資質に期待してのカネである限り、政治活動の内容がよければ振替額にも伸びが期待できそうではある。だが、いつもいつもその通り因果関係が廻るとは限らぬ。カネの苦労はハタで見ているような簡単なものではない。

 ついでだが、よく引き合いに出される 井戸、塀 の美談は資産家の武勇伝であって普通の人間には、もともと、当てはまらない話だ。

 

2、革命思想における政治家の定義

 前号以来述べてきた政治思想の革命性の中で、目玉は「政治家の定義」にある。当選していようがいまいが、政治家は政治家として世間から認知され、世界の在り方、日本の役割を専門領域として、日夜そのことに専念するプロフェッショナルだとする新しい定義である。

 しかし、それと表裏一体のものとして強調しておかなくてはならないのが、衆、参何れかの国政選挙には欠かさず立候補する者でなければならない、という点である。

 ファッシズムに勝ち、マルキシズムから守り切ったデモクラシーであり、それをヨーロッパに源を発する優れた政治思想とするにはやぶさかでないが、それを、今のままで、人類普遍の原理と謳うのは少なくとも時期尚早だ。

 身近なところ、(ヨーロッパやアメリカのように)血をもって贖(あがな)ったものでもなく歴史も浅い日本でデモクラシーは未成熟、国の風土の中で土俗化している嫌いさえあって、デモクラシー論議は幼稚を極めている。

 何故だろう。

 日本で政治家と言われる人々を見渡して痛感することだが、彼らは来る日も来る日も選挙のことで追われている。それは戦国非情と言っていい、背に腹は代えられぬことの連続でもある。

 その一方で、そんな苦衷はどこ吹く風、修羅場感覚ゼロの別の人種が、新聞、テレビ、あらゆるメディアで政治を論じまくっている。学者、評論家がそうであり、特にマスコミを担っている働き盛りの政治部記者たちがその典型だ。

 そして、そうした、地に足のついてない言論に、世論形成層であるべき知識人が振り廻されているのだ。これでは国全体の政治論議が稚拙の域を脱し得る道理がない。だがこの脱出こそ日本におけるデモクラシー成熟の必須条件であることに間違いはないのだ。

 そしてそれには、議席はなくとも選挙の実践感覚で理論武装した新しい型の政治家が少しずつでも誕生し、やがて日本における政治論議の主役になっていくしかあるまい。

 そのための仕掛けが、政治家の資格条件としての連続立候補そのことなのである。

 

3、勉強会と後援会

 勉強だけという勉強会の現状

   政治経済分野で勉強会と名のつくものは多い。そしてそのほとんどは、

   世界と日本はどうなって行くのか

 自分たちなりに意見を持っていたいという欲求に端を発している。

 内容は、著名な講師を招いて話を聴く会であり、メンバー同士が議論を闘わせて切磋琢磨するという話はあまり聞かない。

 また、相互に議論を交わすタイプのものでも、その結果、実践的な行動目標が浮かび上がってくるということは先ずなく、精々が提言をまとめて要路に提出し、同時発表で広く世に問うくらいのところである。

 私が毎月東京で開く勉強会は討論型のものだが、参考までに実情を述べると、テーマ毎に議論が収斂して、争点のいくつかが淘汰されるとか、論点が次の段階に前進移行するようには中々ならないし、実践指向にも程遠い。

 それでも発足以来百回を越えて存続しているだけましな方だ。普通は発足当初にはかなりの盛り上りが見られるが、その中に欠席がふえ、全く顔を出さなくなる人もでてきて段々先細っていくもののようである。

 後援会の熱気

 対比して注目に値するのが政治家の後援会だ。

 表看板には調査研究や会員相互の切磋琢磨など一応もっともらしいことを並べ立てているが、政治思想も政策も概して言えば空っぽ。大多数は「〇〇先生を男にする」「次は大臣に」あたりのところが目標のすべてではないか。スピーチも、名の通った応援弁士の挨拶程度の内容で、それを歯の浮くようなコトバで水増ししているに過ぎない。

 それなのに、あるいはそれだからこそと言っていいのかも知れないが、結構気勢の上っている例が少なくないのである。

 選挙という 勝った、負けた のある、また泣いても笑ってもといった劇的シーンにも事欠かない修羅場が控えていて、実践ムード上々だからだろう。男にすると言えばヤクザっぽいが、庶民感覚なりに政治家を育てるということではあり、知識人の勉強会に欠けている野性、意気込みを後援会は持っている。アクション・オリエンティドであることは間違いないのだ。

 識者よ立て

 思い切って、と言いたいところだが、せめてもう少し、勉強会を後援会みたいにできないものだろうか。

 日本がここまで落ち込んで来たら世の識者たちも、慨嘆する口説(くぜつ)の徒から脱皮して革命児の風貌 (ふうぼう)をちらつかせ始めてよくはないか。 具体的には、仲間で知恵や情報を寄せ集めて、現代の「白楽」を演じることでいい。白楽は中国の故事に出てくる名馬識別の達人である。

 勉強会でなくてもいい、ロータリーのような既成組織の集りでもいい。政治を志しながら、二世でもなく資産家でもない、そんな人がいるという噂を耳にしたら、とにかく話題にしてみる。そういうことから、よし、その人を育てようとなればメンバーがそれぞれの人脈に向かって振替寄附の呼びかけに走り出すという運びだ。

 これで勉強会も俄然、実践指向のものになる。心ある有権者のフラストレーションが解消されていくシナリオとして、そんなに無理のない図式ではなかろうか。

 各地、各界の勉強会が、少しずつ、こういう風になって行って連絡を取り合うようになると、そこから色々の組合せや思いがけない展開も見られよう。

 自分たちの目にかなった育て甲斐のある人を探し出し育て上げることに、それぞれの世代がそれぞれの世代にふさわしい動き方で行動に移って貰う。所得税の振替制度には、その種の行動を誘発する仕掛けという意味もあるのである。

 静かな革命を鼓吹したついでに、もう少し気焔を上げさせて貰いたい。

 革命の息吹

 日本デモクラシーを、マッカーサーが持って来たものとするのは適切ではない。明治の自由民権運動、大正デモクラシー、5・15事件までの政党政治という歩みがその前に存在している。

 しかし、日本デモクラシーが日本人の血をもって贖(あがな)ったものでないだけに、武力によらない革命にかけては「欧米に負けてなるものか」という意地があってもよかろう。それはアジアのイメージが停滞している中で、アジアの名誉のために万丈の気を吐くことにもなるし、二十一世紀にかけた民族の夢と呼ぶにふさわしいものにもなり得る。

 落ち込んだといっても、世は泰平、物は豊かで、革命とはオーバーな!とホンネでは思っている人は今でも沢山いる。たしかに、おだやかな改革で直せることがいくらでもあるのに、といわれればそれもそうだ。

 評判のわるい官僚世界だって、菅直人みたいな大臣があらわれなくても、気骨のある課長が1人、(2年でなく)4年か5年代わらないでいてくれさえすれば、一定領域のなかは見違えるほどよくなるものなのだ。

 政治が気づいていようがいまいが、一隅を照らしている官僚はいる。そしてそういう 職域の職人気質(かたぎ) にこれからも期待が持てるのだったら、国全体のオーバー・ホールはあきらめて、その気風を助長していくほうが、賢い選択かもしれない。下手に革命熱にうなされておびただしいエネルギーを消耗するよりも、国の歩みとしてはそのほうが健全だ。多少デモクラシーが薄目のものになるかも知れないが、政治の役割はそういう気風を助長することだ、としたっていいではないか。

 だが、やはり全体として空気が淀んでいる。

 どちらが賢明かの判断は後世の史家にゆだねるとして、いまは、革命のグランド・デザインを打ち出すときではないだろうか。

 うんざり気味の国民の心を揺さぶることのできるのは、そこから迸りでる革命児の気迫でしかありえないような気がしてならないのだ。

 

4、政治活動

 政治家の日常

 政治活動といっても在来型政治家の日常活動を見ていると、その大部分は、(1)陳情処理を主とする選挙区サーヴィスと、(2)冠婚葬祭にまで及ぶ夥(おびただ)しい数の集いに顔を出すことだ。それに、(3)個別訪問。

 まだ渡辺グループといっていた頃、渡辺美智雄は、グループ入りしたばかりの私に、政治活動の一つの目安を示してくれた。名前と顔だけでなく家に行く道順まで3000人分覚えたらそろそろ当選だな、と。

 どれもこれも一人でこなせる仕事量ではない。スタッフは殖え、人件費はかさんでいく。そしてこれを裾野でバック・アップしているのが、さきに述べた後援会だ。政治家たちの多くは、地域々々の後援会幹部には、海外の旅行先から小まめに自筆の絵ハガキを出している。

 だがこれだけの、涙ぐましいまでの活動が眞正の政治活動だと言えるだろうか。多分答えは「ノー」、その九割方は次の選挙への地固めでしかない。

 これでは政治家の識見を深め、有権者のレベルを上げることさえ期待できないではないか。

 政策は一体どこで練られるのか。これでは官僚に太刀打ちできないのも無理はない。

 官僚は、政治家たちのこんな営みを余所(よそ)に、司つかさで分担は違っても国務に専念しているのである。

 私の実験
 私はいま、自分を新しい定義の政治家に見立てて、いくつかの政治活動実験をしてみている。

 毎月第1火曜日の東京勉強会、年3回の高知での講演会もそうだが、骨の折れるのは、ほかならぬこの小冊子である。

 季刊で、世界新秩序(1〜5)日本新秩序(1〜6)と続いたあと、大病をやり、手術後、年に1、2度の頻度に落ちてはいるが、それでも1500通に、一人々々簡単ながらハガキ大、手書きの書状を添えて発信するのには、かなりの根気が要る。

 直前号にコメントを頂いていたらそれを読み直してからである。儀礼で終ることもあるが、心の通った手紙のやりとりにしようとして、俳句をひねる思いで言葉を選ぶこともある。こうして佳境に入っているとき、フト今日一日分のノルマが気になりだしたら艶消しで、そんなこともよくあるのだが。

 今回のように、そういうことを省いてしまうと発信の時間は大幅に短縮できる。だが、メイリング・リストの整備という日常事務は省略のしようがない。

 小冊子を出していて霧中航行の心細さに襲われることがある。反響は毎回概ね一割止りであって、一体どれだけの人が読んでくれているのかと思うとメイリング・リストは取りあえず1000くらいに削減したい衝動にも駆られる。そうかと思うと、意外なところで礼を言われたり、読んだ感想を告げられたりして気を取り直し、整理縮小を思い止まるのである。

 どれほどか見当は立たないが結構読んでくれている。忙しくて返事を書きそびれる人、取り上げているテーマが重いために書きかけた返事が仕上がらない人……いろんなケースを思い浮かべながら、体力の続く限り、もう少し今のままで様子を見てみようということなのである。

 さきほど私は政治活動の実験をやっているのだと言ったが、小冊子は、国会議員たちが出している派手な後援会ニュースや国会報告に対抗意識を募らせながらの挑戦でもある。

 内外著名の人士と握手をしたり、やさしげに子供たちと遊んでいる写真がやたらと目立つ。行事、催事の盛会を誇張気味に記事にしているほかはいつも同じ調子のご挨拶ものである。

 こんなもの!と思うのだが、まだ現状ではこの式のPRの方が、本人自ら心血を注いで書き上げる私の小冊子よりはメッセージとしてずっと効き目がいいようなのである。負けてなるものか。歌の文句ではないが闘志が燃える。逆転させるまで、こちらも工夫に工夫を重ねるぞ!

 この何十年、何もかにもPRの世の中で人は耳ざわりのいい言葉探しに熱中した。タネ切れの観もあって、ほとんど意味をなさない、語感だけのアピールも目につくようになった。言葉の遊びが、さも実体論でもあるかのように幅を利かせている時代である。

 政治の世界でも「心の通った」という言い廻しが、実体のツメもなされないまま、いとも安直に使われ、有権者を甘い幻想に陥れている。

 だが自分で実験してみての実感を言うと1500人でさえ、まともに心を通わせるには人数が多過ぎる。また支援者と支援される政治家の人間関係の濃淡を考えると「心を通わせる」などという言葉を十把一からげに使えるものではない。

 (小)選挙区で当選圏となると何万というケタの数字になる。振替の場合だって1万人台になることはあるだろう。そんな中での誠実とはどういうことなのか。

 それは世界のデモクラシー論の中で今まで碌に取り上げられてない実践論の領域だ。

 デモクラシーは虚構だと言い切った人がいる。多過ぎる有権者との誠実な人間関係!それはどうやら白紙から自分の頭で考えるしかなさそうである。実際的で為になるような手引きは日本のデモクラシー論のどこを探しても見当たらない。本当に今までのデモクラシー論は観念論ばかりの抜け穴だらけなのだ。

 

 そんな思いのところへ最近になって浮上してきたのが、東洋倫理の中の「徳」である。

 これは個別識別というような無理な前提を置かないで有徳の人と天下万民の心の通いを構想している。

 これを振替制度に当てはめてみると、振替に応じている人々すべての個別識別など、できもしないことを求めるのは「過ぎたるは及ばざるが如し」で中庸の道を外れる可能性がある。

 そうなると政治家に求められる「誠実」も実行可能なものになってくる。ありふれたPR文書ではいけないが、心そのままの語りかけであれば印刷したものでもいい。そして個別識別や個別のやりとりも、国務を放ったらかしにしてまですることはない。捨てないでできるだけ拡げていけばいいことになる。有権者も政治家に人間技(わざ)以上のものを求めない。政治家もそう装う必要はない。そういう 弁え (わきまえ)で行くなら、それは正に政治家の人間解放ではないか。

 選挙で票を入れる人々とは一味違った層が、政治資金面での活動に連動し、右のような道理感覚で、支援している政治家との人間関係を作りあげることができたら、多分それは、この日本で初めて実践味を帯びた良識層が形成されたということになるだろう。

 その姿をあれこれ頭に描きながら、日本デモクラシーのグランド・デザインを目指そう。慨嘆よ、さようなら、で行こうではないか。

 

5、インターネット

 半年前から自分のホーム・ページで小冊子の抜萃を発信してくれていた京都の長男が、このほど私名義の別のホーム・ページを開設してくれた。

 週に一度程度の頻度で、400字詰め原稿用紙3枚前後の短い政治論を書き始めた。

 かれこれ2カ月になるが、Eメールに入ってきたのはたったの一通。しかも内容は職場の学校でのイザコザを事細かく述べたあと中国語教師の口を探してくれというものだった。

 すぐに反響が出るものでないことは、予め覚悟していたことで別に失望はしなかったが、就職相談の初反応には参った。これから先この式のものがワンサと入ってくるようになったらどうするのだ。そうでなくても受信者が鰻上りに殖えて行ったら量的にお手上げになる。捕らぬ狸の皮算用かも知れないが、万が一の場合のことも頭の体操と思って考えておこう。

 振替制度の目指す目標は、いつの日かそれが政治資金の流れの中で王座を占めることだが、同時に個々の政治家を中核とする、自然体で有機的な人間関係、交流パターンを構築することでもあることはさきに述べた通りである。

 してみれば、自らを新時代の政治家に見立てて実験に当っている私にとって、インターネット交流のメリットとデメリットを吟味することはもともと予定に入れておくべき作業だった。中でも百単位、千単位で返信が殺到する状況を想定しての対応策は、革命戦術的な目で見ても重要な位置づけをしなくてはならない。しかもそれを自然体で、現実的に、という注文なのだから中々の難題である。

 こんなときにうっかりすると、こちらの眼力不足であたらダイヤモンドの原石を見落してしまう心配がある。そんな見落しがあって、ただの礼状が出ていくようだと、それは慇懃無礼というもの、そんなことが二度もあったら、相手はそれだけでこちらに見切りをつけてしまうではないか。これでは肩にまで飛び降りて来た青い鳥をみすみす逃してしまうようなものだ。

 玉と見抜いていながら代筆で急場をしのぐということもあろう。一応うなずける話ではあるが長続きするとは思えない。第一、そんな大事な相手宛の代筆ができる一心同体の協力者にうまく恵まれるだろうか。そんな協力者を見つけて育てるのにも、玉を逃していたりしてはいけないのだ。

 何といっても一つの革命である。目指すところが、日本を蘇らせて再びアジアの先頭に立たせ、(この点はずっと前に論じたことだが)世界でナンバー・ツーに仕上げることなのだから、夢も大きいが苦労も多いというわけだ。

 

6、選管の資金管理とその功徳

 選管口座は所得税振替制度の中の重要な柱であり、別途、順序立てて行き届いた説明をしなければならないが、とりあえず要点だけここで触れておくことでこれからの話を進め易くしたいと思う。

 振替制度による政治資金を政党にではなく、個々の政治家向けとするのは、日本での政党が未成熟であるとの認識に基づく。その上で、政治を志す者が今よりは容易に政治に乗り出せるように、政治資金面での環境整備をしようというわけである。

 また飜って思うのに、政治資金は、いつの世にもそうであったように、デモクラシーが確立しているはずの国々でも、そのいかがわしさが色濃く残っている領域である。日本も症状の軽い方ではない。

 このような現状を考慮すると、政治資金の王座を目指す振替資金を、透明性の上で心配のない県段階の選管(選挙管理委員会)に管理させることは時宜を得ているし、罰則だらけの現行政治資金規正法(の威嚇主義)より遥かに気が利いている。

 それだけでなくて、経理を選管がやってくれるということは(銀行の個人口座のことを考えれば)選管定員の大幅増員をしなければならないほどの負担増にはならない反面、立候補者、特に新人の場合は本当に助かるのである。

 私が中国公使をやめて参議院に立候補したときのことだった。「公職選挙法」という自治省刊行の部厚い条文集に目を通していてうんざりしたのは、そこに張りめぐらされた(と言っていい)無数の禁止規定と罰則だった。普段なら何でもないことがここでは犯罪とされ刑罰が定められているのである。

 警察出身か、(あまり聞こえのよくない)選挙プロでも雇っておかないと、どこで法の網に引っかかるか分かったものではない。少し大げさにいったら地雷におびえながら足を運んでいるようなものだ。

 これは大分あとになって分かったことだが、選挙運動に使ったカネを領収書の日付操作をして政治活動費目で落としておけば、経理面での 地雷接触は大抵避けられそうなのである。そんな知恵のあるなしで陣営、殊に候補の安心度に格段の差が出てくる。選挙をやっていてイヤになることの一つだ。

 もう一つの例を挙げると入金の記帳ミスがかなりの政治家の場合でも命取りになることがある。うっかり記帳を忘れたために政治献金にしておくことができたはずのものに収賄の嫌疑がかかってくる。そうなってしまうとあとは検事のサジ加減、裁判官の心証一つで政治資金規正法違反ですむか収賄になるかという際どいことになってしまうのである。

 そんなわけだから、初めて立候補する場合、違反まみれが心配になるのは無理からぬこと、経理マン人選の持つ意味合いが並大抵のものでないことは容易に察しがつくであろう。

 だが、通常、人の敬遠する法規のことにも呑み込みが速く、安心して経理を任せられるような人間が今どき遊んでいるはずはない。

 候補本人がかねて着目していた心当りの人がいても、本人が有能であればあるだけ、現にいる地位を捨てて三顧の礼に答えてくれることは望み薄だ。

 こうしてみると、選管が記帳を含む経理事務をやってくれることの有難味が腑に落ちるだろう。それで大きな頭痛の種が一つ消えることになるわけだから。

 スタッフ揃えの落し穴

 「宗教と政治くらい腐敗し易いものはない」というコトバがある。それは君主制であろうと民主制であろうと、何制であろうと通用する古今の真理である。

 その上にデモクラシー下では「選挙というものくらい得体(えたい)の知れない人物が紛(まぎ)れ込んでくるものはない」ということが言えるかも知れない。

 大体旗上げが急だと余計にそうなる。経理マンに限らず今どき優秀な人間が遊んでいるわけがないのだから当り前のことだ。

 だが二世には親譲りの一族郎党が残っているし、事業のオーナーやその息子なら、会社組織を上手に使えば、にわか仕立てでゴロツキを抱え込むような失態をやらかさずにすむ。問題はこんな有利な体制は普通の人間が新しく出馬する場合には考えられないということだ。

 このハンディキャップを縮めようとすれば、新人がかなり前から計画を立て、急いで旗上げをしないですむようにするしかあるまい。その意味で、選管口座の方式は、資金の伸びを見計らいながら徐々にスタッフを揃えていくのにうってつけだ。新人にとって思いがけない功徳(くどく)というものであろう。(つづく)