「魁け討論 春夏秋冬」1998・春季号
 

日本デモクラシーに明日はあるのか 2―「静かな革命」発進せよ(序説)


    目    次

一、漂流する巨船……………………………………………………
二、政治家への道……………………………………………………
三、選挙区サービスに明け暮れ……………………………………
四、政治家業をプロフェッショナルに………………………………
五、企業献金…………………………………………………………
六、個人献金…………………………………………………………
七、党費………………………………………………………………
八、政党助成…………………………………………………………
九、一つのモデル・プロセス…………………………………………
一〇、所得税の一部を個人献金に…………………………………
一一、市民立法の動き………………………………………………


 一、漂流する巨船    

 政治家も、オピニオン・リーダーたちもマスコミも、日本の在るべき姿を描き切れないでいる。 

 高い教育を受け豊富な知識を備えた日本人がこれだけ沢山いて、日本の進むべき道はおろか、その方向さえ見出すことができないでいる。

 国の内外で既存の仕組みがうまく機能しなくなった今、世界の新しい秩序を模索し、その中に日本人の役割と日本の国益を新たに設定することは時代の要請であり、そのための知的作業は直ちに発進しなくてはならぬ。

 だが、それには明けても暮れてもそのことを考え、そのことに専念しているプロが必要なのではないか。そしてそういうプロの中核的存在で政治家はあるべきではないのか。与党にいようが野党にいようが、当選していようがいまいが、である。

 だが現実はそれに程遠い。

 二、政治家への道

 政治をよくしようとするとき、真っ先に目にとまるのが、政治家の資質の現在の低さである。

 いつの間にか政治家は、なろうと志しても、努力や能力ではなれないものになってしまっている。司法、行政、外交官の場合だと、難しいといっても登り道はついているのに、そして登るために蛍雪の功を積めば積んだだけのことはあり得るというのに、である。

 政治家への道にはそのことがない。早くから政治を志して政道の修業に励んでも、そういう切磋琢磨は志望達成につながらない。一切合切が決まるのは選挙。それしかないのである。

 タレントは例外かも知れないが、選挙を戦うには常識で考えられない額の戦費が要る。

 それを調達するメドが立たないと出馬資格は無いに等しいのだ。戦費調達という、人物、器量とは関係のない基準で、どんな人材でも容赦なくふるい落とされる。それが分かっているものだから、有為の人材がどれほどいようが、そのほとんどは挑戦する前から志望を断念してしまうのだ。

 では「戦費調達のメドが立つのは……」といえば、二世であること、大規模な集金マシーンに繋がりのあること、などの理由で直接、間接、カネに縁のある人士に限定される。

 昔、どれほどの器量を備えていても士(さむらい)の子でなければ士になれなかったのとどこが違うのだろう。国全体でみると、おびただしい数の優れたヒナがこうしてしょっぱなから政治から排除されている。人材面から見た、お寒い限りの日本の政治の現状である。

 ドングリの背くらべでいい馬のいない競馬のつまらなさ。それそっくりの感じで、心ある有権者たちが選挙に行かなくなってきている。恐ろしいことではないか。

 三、選挙区サービスに明け暮れ

 これでは政治はよくならない、なりようがないと思わせる、もう一つの状況は、現職国会議員たちが強いられている過密なスケジュールとその中味だ。

 およそ人間生活のあらゆる分野にわたる頼みごとが、ひっきりなしに、有権者から持ち込まれる。どれをとっても票につながり、カネにつながるとあっては、次の選挙を考えて、こういう義理立てや世話活動に体(からだ)を張らざるを得ない。それもそうだろうが、現状はどう考えても目に余る。こんなことを日常茶飯事として憚らぬ有権者たちの意識が、恐るべし、デモクラシーを自滅に迫いやるのだ。

 現に政治家の圧倒的多数は、本来の務めを果たす時間も、思考力も、余すところなく選挙区サービスに吸い取られているではないか。票田の手入れを怠って落選でもした日には、落城さながら、自分の食い扶持を失うだけでなく、かけがえのない家の子郎党に暇(いとま)を出す羽目に追いやられることさえ珍しいことではない。極度の落選恐怖症が蔓延している中で、過密スケジュールは、来る日も来る日も途切れることがないのである。

 私の知っている国会議員で「選挙民は鬼ですぜよ」と言った人がいる。政治家だけの心構えでこの無間(むげん)地獄から這い出せる道理がない。それを責める資格が学者や評論家の手合いにあるものか。

 四、政治家業をプロフェッショナルに―その門構えとくらしを支えるもの―

 発想の転換が求められる。

 議席がなくても政治家は政治家、レッキとしたプロフェッショナル(自由業)の士としてその門構えを維持し、くらしを立てて行ける、ということにできないものだろうか。

 そもそものデモクラシー思想がそうだったように、日本でも政治は、各方面の名望家がその余力なり余生を捧げる場とされていた観がある。若くして志を立て、ほぼ真っ直ぐに政治の道に進んで生涯を捧げる、というタイプはどちらかといえば例外ではなかったか。

 それが近年には、官僚からの転身組でさえ二世が主流になり、しかも役所勤めを早々と切り上げて政界入りをする傾向が強まってきた。これは、一種の制度疲労現象ともいえる国会議員の年功序列化への対応でもあろうが、政治上の能力やカンが、短時日で、あるいは余暇の投入くらいで身につけられるものではなくなったことに、より大きく影響されているのではあるまいか。

 端的に言えば、専門職のプロでなくては勤まらない仕事内容になってきている。

 それこそ、明けても暮れても世界の動きを見つめ、その在るべき姿を考え、そうしたグランド・デザインの中で日本人の役割と日本の国益を考える。こうして身についていく政治思想と識見で、まだ形の上での主権者にとどまっている有権者を、実質的にもそうだといえる域にレベルアップして行く。

 大別してこの二つのことを専門にするプロが求められているのだ。

 国といっても古代ギリシャのような小さい都市国家や、住民のほとんどが農民であったジョージ・ワシントン時代のアメリカのように、簡素な仕組みで統治が可能な国ではもうない。知事や市長でも、一期や二期の間に会心の仕事をしようとすれば、それに先立つ五年や十年、素地の培養に専念する雌伏期があっていい。

 ましてや国政の場合は仕事の内容と規模がケタ違いだ。官僚という頭脳集団に君臨するには、彼らを上廻る底力が、本当のところは必要不可欠なのだ。だから思い切って、ここで(単に時勢に対応して行くだけでなく)これまでに述べたようなライフ・ワーク化の趨勢を見越し、先取りして政治家の定義から、落選恐怖症の原因になっている議席要件を外せと言うのだ。

「十年これを養う。一日これを用いんがためなり」とは武の心を謳ったものだが、戦う期間と、錬る期間というその着眼に倣って、政治システムの中にも「錬る期間」の設定を敢えてするのだ。

 このようなコペルニクス的発想転換を有権者が容認し、新しく政治家として認知される人々の有用性を理解するようになったら、その数はかなりのものになるかも知れない。医者や弁護士ほどは要らないにしても、有権者一万人につき一人くらいの比率で潜在需要が生れても不思議はない。

 ただ実際的には個々のケースで、政治資金を調達し、新しい政治家のイメージにふさわしい門構えと暮らしを維持していくことが前提になるから、新しい定義での政治家の実数は、これから述べる資金源の在り方に大きく左右されることになる。冒頭でも触れたように、政治資金源は、デモクラシーでも克服が危ぶまれる政治最大の課題でもある。一つ一つサブ・テーマを立ててじっくり考えていこう。

 五、企業献金

 保守系は企業、革新系は労組というのが戦後資金源の常識だった。

 革新系については、社会党が総評の、民社党が同盟の、政治部と蔭口をたたかれたものだ。

 保守系では企業が経団連の割当に従い、経団連経由で自民党に献金するほか、党内派閥や個々の政治家直接の要請にも応え、表に出ている分だけでもかなりの額が支出されていた。こういう状況は冷戦の終結に伴って一変し、経団連経由の献金は、日本共産化の恐怖が消えて政治的意味を失い、五五年体制の終えんを契機に廃止された。

 いま企業献金といわれるものは、いくつかの名目で企業やその団体から出ている政治資金のことであって、このカネと労組からのカネが止ったら日本の選挙は成り立たないのかもしれないという現実がある。

 だが、そういう一面はあるにせよ、公(おおやけ)の、しかも枢要の地位にある者(就こうとする者)が営利事業に携わる民間人から札束を受け取る図は、私自身やったことではあるが、どう見ても日本の思想・文化にはそぐわない、という気がする。どこか、いかがわしい感触が残るのだ。

 その一つは、贈収賄との差が紙一重だということである。その差には権限のあるなしもあるが、もっと際どいのは請託のあるなしだ。「よろしく」と一言添えるか添えないか、あとで礼を言うか言わないかで罪になったりならなかったりする。大は三%が相場といわれる工事落札の謝礼(口利き料)から、小は十枚前後のパーティ券の購入まで、このことは当てはまる。

 同じ国の法体系の中で、会社の利益にならないカネの支出をした役員の行為を違法とし、背任罪の適用を定めておきながら、他方で、社の利益を図るためだとなるとこんどは贈賄でやられるというのもおかしな話ではないか。

 その二は、献金として政治家の受け取る札束が、同じことをして罪になる官僚に違和感を与えても不思議ではない。自分が政治家から頼まれてやってやったことの礼を、自分は受け取ってないのに、自分と同じ公務員である政治家は(政治献金に仕立てることによって)堂々と受け取ることができるというのだから。

 政治家の族議員化が止らない限り、素直に考えて腑に落ちないこの種の事例は、殖えないとしても減ることはなかろう。規制強化で族議員存続の根を断つことができるかどうか。特に前述の口利き料などというものは、その名目では全く表には出ない性質のものなのだから。

 六、個人献金

 無条件に、個人献金は浄財とする議論が新聞などに散見されるが、それは勉強不足だ。

 献金の目的が企業献金そっくりのことだって、資産家の場合にはいくらでもあり得る。

 また、利害が絡んでいなくても、政治家の資質を見定めての、政治意識に基づく献金といえるものがどれほどの比重を占めていることだろう。

 今になってじっくり考えてみると、私の場合でも初回は、華麗なる転身(?)への餞(はなむけ)の意味が多分に籠められていたようだし、金額もそれだけに張っていた。

 ところが二回日になるともう餞ではない。

 惜しいところだった。この調子だと次はいけるという状況なら、丁度、相撲取りのひいき筋のような心理が動いて、勢いが失速しないですむし、集まるカネが激減するということもない。しかし初回の得票が芳しくないと、上がりそうだという予測も消え、上げようとする意気込みも萎(な)えて、再挑戦の環境は目に見えて悪化する。竹馬の友のような親しい間柄の中でさえ、パーティ券一枚の二万円を出す出さないで夫婦のいさかいが起りかねないところまでくる。

 集まるカネの激減は不可避だ。

 ついでに余談めいたことを述べると、もう上がらん、という情勢が見えてくると、人物最適と見て支持してくれていた票が、ドッと次善の候補にシフトするものだ。当初の候補に入れても死に票になる、という論理だ。この現象と論理についてはいつの日か改めて詳述したいと思っているが、現状では新聞なども無神経にそれを容認している。選挙への競馬観が幅を利かせて、多くの新人の芽を無残につみ取っているのだ。

 さてこのように個人献金については少なからず問題も伏在しているのだが、何といっても大問題なのは政治資金総量の中に占める割合の少なさである。

 政治資金の王座を占めるべきものとされながら、それを口にするオピニオン・リーダーに具体的提案が欠けている。市民運動の発進も見受けられぬ。政治家自身にさえ、これを主財源にしようとする意気込みは見受けられぬ。そんな自信のあるのはかつての市川房枝くらいのものではないか。

 これは寄附というものが今の日本の風土に合ってないと薄々分かっているからだと思う。

 ファン心理から、それが高揚する一時期、線香花火的にカネが集まるということはある。選挙でも終盤の形勢伯仲のようなとき、勝手連の資金カンパが予想外に功を奏することもある。しかし、全体的に見ると日本人の寄附は、断われない義理がある場合がほとんどであって、その要因が介在しないとコーヒー代そこそこのカネも出し渋るというのが普通である。やはり義理人情が人の意志決定に作用する力は、日本人の場合絶大である。

 そういう要因を超え、政治参画の意図で個人のカネが大量に動くほどに日本人の政治意識はまだ高まっていない。その段階で個人献金が政治資金全体の王座を、と期待するのはどう考えても現実的ではない。私のささやかな体験でも、友人たちがよく出してくれた初回で、その総額は企業献金の一割強。二度目になるとその比重は更に落ち、三度目に至っては、労多くして功少なく、その上徒らに友人を失うことの多い個人献金は、こちらが呼び掛けを控えてしまった。

 七、党 費

 政党への党費を個人献金と並ぶ浄財に祭り上げる向きがある。

 だが今の日本の政党の実情を知ったら、そんな机上の空論をうそぶいてなどいられないはずだ。

 個人献金が社債なら党費は株式みたいなものだが、党費は実質個人献金の部類に属する。その党費をことさらここに取り上げるのは、その実体が怪しく、党員名簿の中には假空のものさえ存在し得るという、政党体質論につながる、見逃せない問題があるからである。

 普通なら「まさか、そんなことが」といぶかしがるところだが、実は私にこんな経験があるのである。初回選挙の経緯があって入党容認をさえ渋っていた自民党の高知支部に、追っかけて公認申請を出さなければならなかった私は、党への貢献度稼ぎに三〇〇名メドの党員づくりを始めた。当初から党への寄附の積りで、一人一年三〇〇〇円(当時)その三〇〇名分のカネを用意した。

 確かに極く一部の人々は、伴支持の気持で党費も出してくれた。しかし八、九割の人の場合は違う。党員集めには担当が手分けをして動いてくれたのだが、多くの場合「おカネはいいですから名前だけ貸して下さらんか」という頼み方をしている。支部に納入する党費は一括して、そのときも翌年も、その翌年も私の事務所から納入した。

 名前を借りただけの人の半分は、名前を貸したことさえ忘れているかも知れない。假空の人がいても、それをチェックする仕組みにはなっていなかった。このような例は決して特別なものではなかったと思う。参議院比例区で党内順位を高めるため、多くの立候補者は、私とそっくりの形で、私の何百倍規模の党員づくりをやってのけたに違いない。順位が五、六番、上に上がるかどうかで当選は決まるようなものだから、その場合の切実感は私の場合の比ではない。

 党費浄財論をブッている人たちにはこんなことに気づいていない公算が多分にある。

 八、政党助成

 国全体の政治資金の中で企業献金の比率が飛び抜けていたことから、一挙に廃止は無理だとあって当面その一部を肩替りする意味での政党助成法が制定された。大筋で方向はいい。だが、その出来栄えには拙速の形跡が見られ、公的助成全体の検討はこれから先の課題であるとの感を深くする。

 第一に、こんどの仕組みには確たる政党論の裏づけが欠落している。三八年の長きに亘った自民党の天下が一旦野党の手に渡ったとき、そんな名門の党が一年で息切れをし始めたことは驚きであった。はっきり分かったことは、どんな党でも与党であることが至上命令、裏を返せば野党への転落は致命傷なんだなということである。

 こんな恐怖心が党内に充満している間は、政党は血眼になって一つ一つの議席攻防に狂奔する。候補者の資質を問う余裕などあらばこそ、恥も外聞もなく、頭をかしげたくなるタレント候補まで担ぎ出すのだ。こんな政党の現状では、公費で助成された政治資金が、優れた新人の発掘や育成に用いられ党の体質向上に資する見込みは絶無に近い。自分個人の資力で当選圏に到達し得たカネづる候補にしか、助成された公費の配分は行きわたらないだろう。これでは旧態依然だ。

 政党助成に議席要件がつけられていることも問題である。

 二大政党論の骨子は、過半数でなくても第一党が単独内閣を作り、その内閣がつまずいたら第二党単独の選挙管理内閣、ということで、第三党以下が政権づくりに色目を使わないということではないか。

 さりとて国会におけるミニ政党や一人一党の存在意義を見失ってはなるまい。第三党以下が、たとえ、ミニ政党であろうと、将来第二党に、また第一党に躍り出ることを目標に、政策理念の上で独自の存在を続けていくことは、二大政党論の考え方をむしろ補充するものでさえある。政党助成が五人以上の国会議席保有を条件としていることをうかつには看過できない。

 更に、政党助成が過去の実績から割り出されているのも、官僚審査の余地を封ずるメリットはあるにせよ、新しい政治勢力への配慮に欠けている。心ある有権者が選択に苦慮するくらい、目を見張るような候補者が続々名乗りを上げる状況を、もっと真剣に目指すべきではないか。

 九、 一つのモデル・プロセス

 以上、政治資金源についての現状と問題点を見てきたが、本命の提言部分への繋ぎとして、思いつくままにモデル・プロセスのハイライトに光を当ててみよう。

 初回に一発で当選しなければならないという脅迫観念にさいなまれていなければ、選挙民へのご機嫌取り一色の選挙風景を一変させ、理想選挙への風を吹き込むことが可能になる。
 二回目も三回目も、心ある有権者の資金援助があって、引き続き選挙に臨むことが可能となれば、フィヒテが残した「ドイツ国民に告ぐ」なみの格調で選挙戦での訴えを続けることができる。
 国士のイメージで票を伸すことは至難の業とされてきたが、こうして四回目惜散、五回目で当選といくなら、
 プラトンの言うような哲人政治の域には届かなくても、心ある有権者、更には国民の大部分が待ち望んだ高邁の士が、選挙の修羅場で見事、金的を射止めたという、荘厳な歴史的現実を目のあたりに見ることになる。
 なせばなる。その意義は絶大だと言わなければならない。   
 誰もが「そんな手品のようなこと」と内心では思っていたことがここで陽(ひ)の目を見る。それが、どれだけ国民を元気づけることか。
 ゼロから一までに十年かかることでも、ひょっとすると一から十までには五年とかからないかも知れない。
 こうして一人から二人、三人と登場する国会議員を待ち受けているのはやはり選挙区サービスの試練であろう。
 「成熟したデモクラシー」を描くに当って掲げることのできる一級品の政治家像をここで身をもって具現して欲しい。
 一〇、所得税の一部を個人献金に

 数年前、堀田力氏が政治資金源として所得税一%のチェック・オフを提唱している。納税申告書に政党(又は政治家)を指定して政治献金化するという構想である。実績の伸びそうにない個人献金神話に見切りをつけた画期的な提案として評価したい。ただ堀田氏の発想は、献金先が主に政党のようであり、どこまで政党を信頼していいかという点の吟味が欠けているように思われる。

 日本の政党が英国並みの成熟を遂げていれば話は別だが、現状では所得税一%の振替献金先は専ら個人向けとし、強度の落選恐怖病から政治家たちを救出する特効薬に仕上げる方が時宜にかなっているのではないか。

 こうしておいて、政党には、原則として政治家だけで構成するシンク・タンクの役割を担わせるのだ。

 自民党地方組織の役付にされ、党員増強に携わったことのある私には、今の政党が、資金吸い上げ専用のマシーンに堕し、本来機能の面での空洞化が救い難いものになっている状況が手に取るように見える。私の場合には、また、所得税一%の振替提唱理由のひとつに、心ある有権者のフラストレーションを何とか解消し、選挙区の垣根を越えて、これと思う人材の発掘、育成に向かわしめるという狙いがある。

 慷慨(こうがい)の志あって行動への出口をさぐり当て得ないでいる彼らに実践活動に立ち上るキッカケを与えるのだ。

 いわゆる勉強会なるもの多くは、学者、評論家などの話を聴く会に終わっていて、討論らしいものも碌に芽生えるに至っていない。たまに討論が盛んなグループがあっても、提言をまとめ上げるところまでで、アクション・オリエンティドなものに進みそうな気配はない。私の主催している伴正一勉強会もそうであった。

 それがこの一%のテーマが緒(いとぐち)になって、インパクトを求めて行動することを意識するようになった。勉強会が発足して何と十年もしてのことだ。

 一一、市民立法の動き

 そうこうしている中に市民立法が話題に上がり、NPO法案が動くようになった。方向としては私たちの指向しているものと同じだ。考える輪を行動の輪にしていって議員立法を目指す点では全くその軌を一にする。

 だが同じなのは方向と手法だけであって、そのバックになっている政治理念は、もしかすると互いに異物同士なのかも知れない。

 私たちが勉強会で確認し合ってきたことの一つに公民と私民の使い分けということがある。一口に市民とか国民といっても、民主国家では、個の幸福を追求する私民の(求める)立場のほかに、国の統治に携わる公民の(与える)立場があるということである。また有権者とか選挙民という呼び方を、国民を公的な職責を持つ公民と認識したときの呼び方にふさわしいものだと考えるのである。

 欧米社会での発展の経緯がどうであろうと、わが国でデモクラシーを育てていくには、権利思想と並んでその裏腹に義務、やまと言葉で言うなら「つとめ」の思想を立ててかかることが、どうやら欠かせないことのように思われる。

 古来日本では、国をしろしめす行為を、王権の行使としてではなく、王の道を体現していく「つとめ」と認識し、その王道が臣子の道と一対になっていたように考えられる。

 そうだとすると主権在民の場合の理解についても、国民の権利と表裏の関係に立つ、公民としての「つとめ」にも注目するのが、日本人のバランス感覚に合致し、主権在民を分かり易くする上で適切なのではあるまいか。私たちの目から見て市民立法論が(市民の概念のことはさておき)どこか与える公民的立場を二の次にし、求める私民に重心を置いているように思えるフシがある。

 私民の共同の利益がどこらあたりから公益になっていくのかというデマーケーションの論議が互いに交されていくことを期待してやまない。(つづく) 


トップへ