「魁け討論 春夏秋冬」1995・夏季号
 

日本新秩序7 武とは―国家統治と平和の仕組みに跨がるその役割


  目   次
一、武の喪失…………………………………………………………
二、世界平和への取り組み…………………………………………
三、デモクラシーの成熟に賭ける―平成日本のユメ……………

  一、武の喪失

 阪神大震災は、日本のこの半世紀のウソやメッキの部分を、われわれの目の前で裸にして見せてくれた。この半世紀、日本が捨てて顧みなかった価値感覚の中のあるもの、を見直す機会を与えてくれた。その一つが武である。

 震災発生の当日、村山総理の内閣記者会見をテレビで見ていて私が直感したのは武の喪失ということだった。

 麾下に二十四万人を超える非常時専用の大軍団を擁している総理の口から、そして並み居る記者の質問からも、自衛隊という言葉が出なかったのだから驚きである!

 瓦礫の下のうめき声が、東京にいる私にも伝わってくる思いがしている最中である、百とも千ともつかぬ命が、あと二十時間も三十時間も持つはずがない。今なら救える、という感じの際どいときである。時と場合というが、こんなときはかなり情報不足でも早目の行動に出るのが武の定石、情報の出揃うのを待っていては、戦さだったらさしずめ、敵の先手でこちらの負けというところであろう。

 内閣総理大臣は自衛隊二十四万人の総指揮官ではないか。出動待機命令くらいは、目を覚まして一時間くらいの間には、近畿と周辺部隊に発令していなくてどうする。

 人命尊重はどこへ行った!

 救える命を救えなかったということは、結果的には不作為による殺人行為と選ぶところがない、とさえ言えば言える。

 武の体制は、戦争、内乱、災害など非常事態に対応する仕組みであって、行動は迅速果敢を旨とする。あれこれ条件をつけ、キメ細かい配慮を求めていると、武の本領は失われてしまう。世に言う小田原評定の轍を踏んではならないのだ。ただしかし、武の本領がそのようなものであるだけに、みだりにその発動を許しては危険である。国家統治の最高権者の決断を待たずには一兵たりとも動かすべからず、とするのが(警察行動とは決定的に違う)武の発動原理なのである。

 自衛隊法第七条に定める内閣総理大臣の指揮監督権は、このような点で、通常、稟議方式で運用されている文治機構上の権限とは著しく質を異にする。その点の区別を明確にするには、指揮監督(権)という統帥(権)という用語が適切だと言える。

 軍を統帥する資質が村山にあったら中部方面総監や兵庫県知事がどうあろうと、十七日の午前中には、官邸で、あるいは自ら坐乗する神戸上空のヘリコプター上で、三軍の長の座に就いていただろうそして一人でも救えるだけ救うぞ、という力強い態勢を逸早く固めることができていたであろう。

 しかしそのような素養が、村山にはおろか、日本のどこにもなかったのではないか。

 問題はやはり憲法に遡(さかの)ぼる。

 いずれ後になって自衛権を認めるのなら、憲法は、今の九条ほどに断定的な表現で武の抹殺を謳い上げるべきではなかった。

 比重は下げても、重要な統治原理には変わりのない武にひとこと触れ、併せて、文民である内閣総理大臣の統帥権掌握を宣明しておくべきであった。

 統治権のことだけではない。文化そのものの中での武の位置づけは、日本の場合、特に高かった。それを抜きとり去って伝統文化が枯渇する心配はないのだろうかとさえ思う。大震災で直感的に武の欠落を見せつけられた私の脳裡には、こうして次々と色々なことが思い浮かんでくる。

「治にいて乱を忘れず」とは、古来名君と言われる人たちが大切にしたことばである。治は「郁々として文なるかな」でいい、だが乱に臨んでは武を重しとする。その武は、乱を見てからのにわか仕立てでは間に合わないのだから、日頃から錬磨を怠るな。心とわざを、いつ何時でも役に立つように研(と)ぎすましておけ、というわけだ。落着きのあるいいことばだと思う。

「十年これを養う。一日これを用いんがためなり」というのも名言である。兵を養うことは国にとって大変な負担である。確かに、抑止力という目に見えない効能は果しているのだから、それだけのことはあるとしても、やはり、兵は、これを用いなくてはならないとき適切に用い得なければ長年これを養ってきた意味が失われる。

 だとするなら、兵を用うべきとき機を逸せずに決断し、引くに当たって、絶妙の潮時を計る(政治家としての)武の素養が、内閣総理大臣には期待される。

 だが、このような感覚はすっかり日本から消えていた。武の喪失である。

  二、世界平和への取り組み

 武の心の喪失は、武以外の分野でも機能障碍を来たしている。その最たるものが外交と世界政策だ。グローバル・パートナーと言いながら、日米安保を越えたグローバルな平和の仕組みについて、海部首相とブッシュ大統領が突っ込んだ議論などしていただろうか。イラクに対する武力行使が既に決意されていた時点でも、海部首相は、何とか平和に頼みます、と言っていたに違いない。これで噛み合った話になるはずはない。

 私が言いたいのは、和戦のことになったら、日本のトップ・レベルは、呆れる程の音痴だということである。

 実は、こんな話がある。

 十六、七年前、私は北京の日本大使館で次席を勤めていた。そのお蔭で、日本からの総理級の要人とケ小平との会談に陪席する機会が時折回ってきていたのである。そんな場合、経済で話がはずんでいるときはいいのだが、談ひとたび東アジアの政局に及ぶと、彼我の見識の落差は、どうひいき目に見ても埋めようのないものになってくるのだ。中にはこんなやり取りもあった。

 こちらが、平和外交強調のつもりであろう、得々として当時はやりの全方位外交を弁じ立てる。アメリカと軍事同盟を結んでいて、よくもそんなことが言える、と私でさえ思う。

 だが、さすがはと言うべきかケ小平はそんな素振りを見せない。

「中国も実はそうなのですよ」

はてさて一体何を言い出すのだろう。落し穴がないはずはないが、と思っているとやっぱりだ。

  「でも相手によって受け止め方が違いますよね。どこかの国のよう
   にお国の領空すれすれに軍用機を飛ばし続ける国もある……」

 まるで子供に言って聞かせるような調子だ。ああ、やれやれである。中国が、口を開けばソ連の覇権主義を攻撃していた頃のことだ。話を反ソに持っていかれて相槌を打つわけにはいかないが、さりとてこれほど明快に指摘されると反論の余地はない。逃げ道は話題をそらせるしかない。

 私が中国へ赴任するに当たって、日中国交回復のときの中国課長で、陰の立役者だった橋本恕氏が、これから十年、二十年、中国に振り廻されるよ、と言っていたが、その通りだった。世界の中の日本を見つめていて気になるのは、カッコいいことばで彩られている割には、中味の政策が貧困だ、ということである。

 態度が場当りで、それを作文でゴマ化している。

 それでも経済のことになると、それでは持ち切れない部分が元々多いし、環境や福祉でも、ひところのように歯の浮くようなことばかり言ってはおれなくなってきている。そういう中で変わりばえのしないのが外交であり、中でも世界平和への取り組み姿勢である。時折、平和憲法をひけらかしたり、東京で重要な国際会議を主宰したりはするが、根は大勢順応、というのが戦後の日本外交で、それも一概にけなすべきものではない。

 だが冷戦が終わり、やがて湾岸戦争のような新しい形の国際行動が出てくるようになると、果然、平和憲法との矛盾にさらされ、どの国からも尊敬されることなく、カネだけはゴッソリ巻き上げられる、みじめな結果を招いたりするのである。

 これでは先が案ぜられる。世界の中の日本をデザインしようとしても、現行憲法に足をとられ、もたつき続けていてそれができるだろうか。世界共同体の中で名誉ある地位を占めることなど夢のまた夢ではないか。

 現行憲法は、日本人だけが平和憲法と呼んで平和の守り神のように扱って来たが、その思想を突きつめて行くと、世界平和に武力は不要、話し合いだけで達成し切れるとする超平和主義の哲理に突き当る。「国に統治権力は無用」とする無政府主義と並べて、双生児(ふたご)の理想主義と位置づけてピッタリの思想だ。

 だが、国内にサリンを撤く人間がいるように、国際社会に今様ヒットラーが現われる危険はある。われわれの記憶に新しいところでも、一日で隣の国を攻め取ったフセイン大統領のような人物がいるではないか。

 平和問題に無政府主義者流の、超平和主義の思想で臨むことは、幾多の史実が教えるように、力を信奉する野心家の跳梁を許すことになる。

 やはり平和の問題は,侵略行動に対処する仕組みだとして、武の原理でツメていくのが、実践派の流れを汲むまともな考え方だと言わなくてはならない。

 第一次大戦後の国際連盟といい、第二次大戦後の国際連合といい、そういう実践派の思考で発想され、構築された平和の仕組みであった。確かに勝者によって編み出されたものではあるが、何れも戦争の惨禍を痛いほど体に感じ、平和への切実な願いを籠めて考案されたものであることは銘記しておく必要がある。

 そこでこの際、国連憲章の大黒柱でありながらまだ実現に至っていない、(そのせいか日本人が碌に読むことさえしてない)第七章第四二条以下数条の仕組みを考え、そこに流れている思想が具現した実例はないのかどうか、史実をたぐってみることにしよう。

 先ず思い当る、というより私がかねがね着目してきたのが、わが国の鎌倉時代である。

 律令国家制が、その頃の統治能力では支え切れないことが実証された、そのあとに出現したのが鎌倉の封建体制だった。当時の統治能力の限界を弁(わきま)え、体に合った統治方式を編み出したという点でそれは、英、独、仏などの封建制と意外なまでの共通点を持っていた。また、その完成期とも言える、泰時の治世は、かの神皇正統記ですら讃辞を借しまなかったところである。

 その鎌倉期の日本を、国と把えるにはまだ未成熟な、半ば国際社会的な時期にあったものと見立て、その封建制を平和の仕組みという目で理解する余地はないものだろうか。こんな衝動に私は、石井(良助)日本法制史講義を聴いていた頃から駆られていた。

 北条氏の武家領に対する掌握は確かなものだったが、武家領は武家領でレッキとした軍を保有し、国家然というか、かなりの度合いで国の性格を帯びた存在であった。そういう準国家の軍勢がいざ鎌倉の呼集に応じて馳せ参ずるさまは、国連憲章七章後半の仕組みそっくりではないか。

 合戦は合戦だが、こういう形での軍事措置が確実に発動されるという安心感に支えられていたところに、鎌倉型安全保障の、仕組みとしての卓越性がある。今で言う「領土保全」と同じ意味と響きを持ちながら、所領安堵は揺がぬ実効性を具備していたのである。

 平和を担保する軍事体制の実例が世界規模ではまだ日の目を見ていないだけに、これからそれを考えていく上で鎌倉型安全保障の実際は好個の参考例になるのではあるまいか。憲章通りの国連軍ではもとよりなかったが、平和を担保する軍事体制という意味で、領土保全の成功例に挙げられるのが、先般の湾岸危機における多国籍軍であった。

 アメリカが、世界でただ一つの超軍事力保有国になったとはいえ、(国連の安保常任理事国でもある)ロシア級の国が侵略行動に出たときの有効な手立ては、容易なことでは見つかりそうにない。しかし湾岸ケース級の成功例が一つ仕上がったことによって、同規模、あるいはそれ以下の規模の侵略行為には、いざ鎌倉の決意だけで対処する可能性が芽生えかけていたと思われる。世界の鎌倉時代も、まだ程遠いとはいえ、強ち夢物語でもなくなっていたかに見える。

 だがその望みは、不幸にしてバルカン(旧ユーゴ・スラヴィア)で断たれてしまうことになる。

 あれほど果敢に侵略行動を叩きのめした湾岸戦争の成果も台無し、既にバルカンでは攻め得、取られ損が既成事実化し、それを大幅に追認した形の妥協案でしか、現実には戦乱収拾のメドが立たなくなっているのである。こんなことが、国境線に問題の多いアフリカ大陸にでも飛び火したら一体、どんなことになるのだろう。弱肉強食!軍縮どころの話ではない、オチオチ眠れない国があちこちに出てくることは必至である。

 不吉な予感がするのはアフリカ大陸だけではない。既に国際紛争化しているいくつかの領土問題がある。そのほかに、元来は国内事項であるはずの民族問題の多くが、いつ独立運動に発展し、国際武力紛争に転化するか見当が立たない。それが、この地上の広汎な地域の実情なのだ。

 戦火に附随しては、難民の発生が物語るように、人道的な救援活動が差し当り必要とはなるが、そうした限定的日的のための活動においてすら、バルカンでは輸送を守るはずの国連部隊に、敵襲で戦死する兵士が出る始末である。

 禍根を断たないでいて、結果的に発生する事態への対応に追われているとこんなことになるのだ。

 どうしてこんな泥沼の事態になったのか。色々あるだろうが致命的だったのは、バルカン発火寸前の時点でアメリカの腰が引けていたことである。その時アメリカが、大セルビア主義の動きを牽制する、重大警告声明に踏み切らなかったことが悔まれてならないのだ。

 長い冷戦の終結を勝者として迎えただけではない。湾岸戦争で輝かしい戦果を収め、声望隆々たるアメリカだったではないか。そのアメリカの決意表明を、狼少年の類(たぐい)と受け止める国はなかったはずだ。今様ヒットラーといわれるセルビア共和国大統領ミロセヴィッチの動きを、この時点で喰い止めてさえおけば、という見解はヨーロッパの専門筋にもある。

 それが首尾よく運んでいたら、旧ユーゴの戦乱を未然に防止できただけではない。湾岸なみの出兵をその都度行うことなしに、いざ鎌倉への怯(おび)えだけで数多くの侵略行動が思い止まる、という平和の仕組みが、緒についていたのではあるまいか。

 これから先も、まだ地上唯一の軍事超大国であるアメリカの役割は絶対的と言えるくらい絶大であって、そのアメリカの腰が引けたら、平和の仕組みについてどんなことを考えてみても、つまるところ絵に画いた餅になることは請け合いである。現に平和の仕組みに対するひところの期待は、バルカン以降のフラストレーション続きですっかり冷めてきているではないか。

 しかし、投げてしまうには時期尚早だろう。世界史の大きな節目の時期はまだ続いていると見ていい。中でも日本が、世界の平和論議に、貢献度抜群のメンバーとして加わろうと志すなら、今から勉強に取りかかって遅くはないのかも知れぬ。

 ただ、戦争を呪(のろ)ってさえいれば平和が来るような、超平和の信仰と先ず訣別しておく必要はある。いつまでも無政府主義と瓜二つの超平和主義をまくし立てていたのでは、議論をマゼ返すだけだからだ。

 だがこの先入観を払拭することが、今の日本では、想像を絶するほどのハードルになっていることも認識しておく要がある。デモクラシーでさえなければ、そんなに難しいことではない。うまく運べば二年か三年で十分その態勢を整えられもしよう。しかるに、皮肉といえばこれほど皮肉なことはないのだが、デモクラシーなるが故に、それが易々とはかどっていかないのだ。

 この五十年、日本人がどっぷり浸ってきたのは、武の否定、「軍はあってはならないもの」とする平和信仰だった。それを一皮むくと、いのちこそ至高のもの、平和のためだろうと自由のためだろうと、危ういところへは人の子一人出してはならぬというのが、日本国民のホンネに近いところではなかったか。

 このことにかけては、恥も外聞もない。外でどれだけ顰蹙(ひんしゅく)を買おうと国内はずっとそれで罷り通ってきたのである。これほどの徹底した先入観か、五年や六年で払拭されるわけはない。うっかり選挙で、この平和信仰に異を唱えようものなら、それだけて勝てる戦が負けになる。

 だが、さはさりながらである。この先入観の実勢を先ず挫いておかないことには、平和論議は永久に不毛、何年経っても、果てしない水掛け論が繰り返されるだけであろう。

 さあ、どうしたらいいのか。事は誠に深刻だと言わなくてはならぬ。
 飛びつくような名案が浮ぶ余地はない。

 そこで窮余の策、こうなれば破れかぶれ、正攻法で、というのが、何十年かかろうとデモクラシーそのものの成熟の中に活路を見出そうという発想だ。もしかしたら急がば廻れの知恵になるかも知れないのである。

 三、デモクラシーの成熟に賭ける―平成日本のユメ

 その前に近、現代史を一瞥しておこう。

 進歩的文化人たちの言論を帰謬(きびゅう)法で総括すると、日本という国さえなかったらアジアも侵略される目に遭わなかったし、世界もずっと平穏だったに違いないということになりそうである。確かに日清戦争はヨーロッパ列強の中国蚕(さん)食を加速させたきらいがある。だが、さればとて日本さえ存在しなかったらその中国は安泰であり得たかというと、そんなことはさらさらない。

 一八五八年、同六〇年と相次いでアムール、沿海の二州を奪った帝政ロシアはその後も南下の勢を続け、義和団事件出兵の後も大兵力を満州から引揚げようとはしなかった。当時の清朝に独力でその撤退を迫る力があったかどうか。その清国への隷属がまだ続いていた李朝の朝鮮も、ロシアの手に落ちないという保証はなかった。

 目を転じて南アジアやインド亜大陸はどうだったか。タイ以外、べったり欧米の領有に帰していたカイバル峠以東のアジアに、自力で英帝国の牙城シンガポールを攻略する力があっただろうか。それとも欧米の列強は、そんなことをしなくても、攻め取った土地をおとなしく戻して帰って行くつもりだっただろうか。

 アジアにおける近、現代史を通観して、その中における日本の功罪を考えていると、進歩的文化人たちの言っていることは、何かに取り憑(つ)かれているとしか思えないほど奇妙である。

 我々の父祖の歩みにも、多くの重大な誤りがあったことは認めて、あまり身びいきにならないことは肝要であろう。しかし、自分の国のことなのに、アラばかりあばき立て、よかったことを切り捨てて顧みないのは正気の沙汰ではない。

 祖国の歴史は多少美化気味に綴っていいのだ。遺徳の顕彰と青少年への励ましに資するための許容誤差を、適度に認めることは、どの国の場合でもあっていいし、現にそうなっている。そうでないのは日本だけだ。   

 こんな前提で日本が歩んだ百三十年を世界的視野で眺めてみよう。

 ヨーロッパ列強が力づくでアジアを席捲しつつあったとき、日本がこれに屈しなかった姿は、壮観である。これから先も日本人が誇りとしていい。というよりわれわれは、父祖が体を張って示したこの気概を顕彰して後世に伝える義務がある。問題の多い大東亜戦争でさえ、十字軍やナポレオン戦役と並べてその歴史的意味を探る余地はあろう。一っの時代の幕開け、呼び込みに戦乱があるという図式は、史上その例が少なくないのである。

 徳川二百六十年のあとを承けての百三十年間、今から見れば幾多のねじれ現象を包蔵しつつも、大観して祖国日本は、常にアジアの先頭に立って進んで来た。そしてその姿は、これからさき日本の進むべき道を示唆する。アジアのために、まだしばらく日本は健在であらねばならぬ。何事につけても、アジアの視線を背中に感じながら進むことだ。それが、われわれの生き甲斐にもつながるのだ。

 アジアを向いて兄貴面(づら)をするよりも、背を向けて先頭を走り続ける。常に自らを高めようとする。新たな目標に向かって励み続ける………。それを言わず語らずのうちにアジアの励みになるという図式だ。

 こう考えてくると、前章では破れかぶれと言ったが、デモクラシーの成熟は誂え向きの目標に思えてくる。アングロサクソンに追いつき追い越せといっても、軍事力や経済力のようにはいかない。壮大なる知的作業である。その達成には何十年かかることだろうか。西洋文明の摂取に成功したかに見えてそうでないのが政治思想だからだ。

 ここまで考えが辿りついてきて思い浮かぶのが、旧制高等学校の学風である戦前日本の知性層形成に果したその役割には、確かに測り知れないものがある。型破りなバンカラ姿の生徒たちが、「野ばら」や「ローレライ」をわざわざドイツ語で歌っていた、私たちにとっては古き、よき時代が回想される。

 その風物語が物語るように、旧制高校の学風は至ってヨーロッパ風であった。

 だがしかし、そこを巣立って行った秀才たちは、本物のヨーロッパ思想に触れるところまで行っていたかどうか。中学の同級生など、つき合いのある同年輩の旧制組を見ていて、彼らがむさぼり読んだに違いないヨーロッパものが、どれだけ血となり肉となっているか疑わずにはいられない。

 無理もない話ではある。碌に国情も知らぬヨーロッパの風土に根ざし、しかも伝来して日が浅く、日本全体としてもこなし切るには程遠い外来思想だったのだ。飛びつくには飛びついてみても、日本人としてさえ未成年の域を出てない十七、十八の子供たちに、どれだけの理解力が期待できようぞ。

 先立つ語学力からして、名だたる先哲の大著を原書で読み切る力は、ほとんどといっていいくらいついていなかったはずである。しかも大学に進み社会に出てから先、自由な学風の下でひもといた思想もののぺージを改めてめくり直すような気風が、彼らの中にあったとは思えない。彼ら、戦前戦後を通じ昭和を動かした人々には、明治を動かしたリーダーたちに見られる武士道や儒学的バック・ボーンは既になかった。

 さりとて、西欧思想が血肉となって、新しいバック・ボーンが形成されるには日が浅過ぎた。

 ここに思想の谷間ができていたのだ。ナショナル・リーダーたちの無思想時代と言ってもいいくらい、その知的体力は落ちていたのである。戦後アメリカの占領政策によって鼓吹されたデモクラシーを丸呑みにしないですませるわけにはいかなかったのだろうか。内心ではあくまで、一つの政治思想と受け止めるくらいの心のゆとりはなかったのだろうか。

 少なくとも占領終了後は、大正デモクラシーに至る近代政治思想史を下敷にして、本格的な、デモクラシー研究を発進させるくらいの気力はあってよかった………。

 咀嚼も反芻もできていない。それが今の日本のデモクラシーなのだ。恐らく自由とデモクラシーの識別さえ碌にできていない、薄っぺらな政治評が氾濫している。そんな中で、日本には哲学がないとか理念か描けないとかいうことを まるで他人ごとのように、学者や評論家が言い、マスコミがこれに和している、

 何という無気力!

 日本も先が見えてきた、などと言うに至っては言語道断、そんな老成ぶった言辞がマスコミを通じて流布して行ったら、その暗示が効いて、思想の谷間から這い上がって行く国全体の気力が萎(な)えてしまうではないか。治世の学である儒学が日本のエリートの素養として揺るぎないものになり、マグマが溜まるさまさながらに強力な政治行動を誘発するまでには、千年の歳月を要している。

 昔は昔、今は今といっても、欧米に生い立ち、そこでも今なお成熟途上にあるデモクラシーだ。本当はかなり難解なその政治思想を、日本人がそう易々と摂取、吸収できるとは思えない。

 適確に把握し、日本向けに十分な仕立て直しを終え、命に替えても守る
大切なものに仕上げるまでには、事によったら百年単位の時が必要であるかも知れぬ。

 かつての政党政治は、軍部が抑圧したというより、国民が愛想を尽かして捨てた観がある。本家のヨーロッパでさえ、ナチス独裁のような鬼子をデモクラシーは生み落している。自分で自分の首を締めるような選択を、有権者はいつ何時(なんどき)仕出かさないとも限らないのである。

 デモクラシーはまだ、日本に根づいてなどいない。追いつけ、追い越せの始まりなのだ。

 政治で一流になることは、軍事大国になるよりも経済大国になることよりも難しい。軍事、経済で大国になることが強者の競う栄冠だとすれば、政治で一流になることは王者の徳を目指すものに譬(たと)えられる仁骨の折れ方が違うし、何倍もの根気が要る。

 デモクラシーを横に置いて自由主義思想に焦点を当てみても、日本のものは、まだとても本物とは言えない。それより命の方が大切なのだ。この価値観が今の日本人にはしみついている。

 自由やデモクラシーの思想が、命を大切に、という教えと程よくバランスしていて、ノーブレス・オブリージュのような精神が高貴なものときれるアングロサクソン思潮……。それと見較べて、武士道を失ったわが日本の場合が、ひときわみじめなものに思えてならない。カネはせびられても尊敬はされないのも宜(うべ)なるかな、である。

 何としても、こんな思想の谷底からは抜け出さなくてはならない。今のような思想の貧困が平成の世いっぱい続くようだったら、日本も先が見えてきたという忌(いま)わしい予測が、本当に的中してしまうかも知れないのだ。


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