「魁け討論 春夏秋冬」1994・冬季号
 

日本新秩序5―体験で綴るいまの政党―

   目    次
一、戦い、すんで……………………………………
  思わぬ拾いもの?………………………………
  自民党の裾野に立つ……………………………
  名ばかり党員≠フ怪…………………………
二、躍らぬ前線の人々………………………………
  選挙好き、組織委の顔ぶれ……………………
  一くせある分会のボスたち……………………
  ベテランも避けて通る党員づくり=c……
  分会さまざま……………………………………
三、指揮官、先頭に…………………………………
  うっとうしい党費集め…………………………
四、見せつけられる政党の実態……………………
  最後の突撃………………………………………
  身にしみる政党未成熟の現状…………………
五、いずこも同じ……………………………………
  垣間見た民社……………………………………
  脆かった野党連合の選挙協力…………………
  ああ、社会党……………………………………
  立ち直れ、自民党………………………………

   一、戦いすんで

 選挙のさ中、裁判所から入ってきた民法による遺産管理報酬五〇〇万円がなかったら、私の終戦処理はどうなっていただろう。思っても背筋が寒くなる。

 カネ集めが役目の東京事務所は、無残、私が見届けるいとまもなく離散してしまう。国元の高知でも、参院選以来苦楽を共にしてきた宮崎運転手を手離したあと、新たに正規職員を雇い入れる力はもう私には残っていなかった。

 県庁前電停の角、高知では目抜きの場所に構えていた事務所も、やがて規模を縮小して同じビルの六階に越すことになる。その中、それさえ持ちこたえられなくなって、机一つ、電話一本に痩せ細った身を、兄弟つき合いの植野克彦関係会社の片隅に寄せる。

 落ちるだけ落ち、うらぶれ果てて再起のメドなど立つべくもない。

 東京体制の消滅で資金源は干し上がる。新たに取り組もうとしていた弁護士の仕事も、同期の坂野事務所(銀座)の厚意に与っているだけ、先行きは不透明のままだ。

 将来のことを考えてみても始まらない。あと何カ月持つか、行けるところまで行ってみるしかない。

 そんな境遇の中で、月の半分高知にいた私は、自民党の県連や支部の会合に小まめに顔を出していた。根が楽天的だったからなのだろう。

 思わぬ拾いもの?

 そんなある日、市の支部総会か何かの席上、事前の予告もなく、組織委員長は伴さんにお願いしたいのだが、という発言が飛び出す。

 一瞬、「いくら何でも」という思いがする。まだ国政への志を捨ててないとか、元中国公使だとかの気位が反撥するのだ。

 だがそれと同時に、「待てよ」という思いも頭をかすめるのであった。
 政党なるもの、特にその地方組織の正体をつきとめるのに、願ってもないポストだ、と思えたからだ。
 この頃の私は、外務省現役時代の私とは打って変って、なるようになれ、で、場当たりの行動に出ることがよくあった。この時なども、その例で、二こと三こと押し問答はしたが、その場で就任を承諾してしまう。

 いよいよ魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界に足を踏み入れる?フトそんな予感が頭をかすめ落魄(らくはく)の思いを誘う。

 後でこのことを知った伴陣営の面々から文句の出たことはいうまでもない。その中には「オレ達まで肩身が狭くなるではないか」というのさえあって、強情に押し切りはしたが後味のいいものではない。

 しかし今になってみると、組織委員長受諾は正解だった。果せるかな、遠景で見ているのと違って、大政党の裾野で起こっていることが日常的に、しかも内側から見て取れる。一年足らずではあったが、気位などにこだわらなくてよかった、と今でも思う。

 自民党の裾野に立つ

 高知県支部連合会、略して県連は、お濠端の小さい三階建のビルにある。上が会議室でその下の二階が事務用のスぺースだ。市の支部にあてがわれているのはその中の小さな一室で、四十がらみの女子職員が一人、専従でいる。客の坐れる場所といえば、その職員に向かい合ったスぺアの机と、廊下の窓に沿った、三人掛けがやっとのソファーだけだ。前の私の事務所の半分もない。

 これが、有権者二十二万人、県都高知の自民党のヘッド・クォーターなのである。党員数の方は、参院選で膨れ上らない平年で三〇〇〇人だから、有権者人口の一・五%。ということはそんなに見劣りのする数字ではない。英国でも有権者人口に対する保守党員の比率は五年前で三%、今はその半分にも達していない。

 全国規模の団体でも個人会員の数は伸び悩んでいるところが多く、一つの市だけで三千人というメンバーを保有していることは、これらの団体に比較しても、遜色はない。だが、その財政は火の車である。党費四千円の中、本部、県連への上納金を差引くと残るのは千二百五十円、三千人いても全体で党費の年収は四百万円に足りない。これでは専従一人がやっとなのもムリはない。

 大体、経団連から年々じっとしていても百億円以上が入ってくる党本部が、党費四、○○○円の中から、その四割近くにも当たる千五百円も捲き上げていくのが大間違いだ。支部がそれで黙っているのもどうかしている。本部に文句を言わないのだったら、別途地元の財界から、本部の真似をして献金を貰うようにでもすればよいのにそれもしない。これでは市長選で十何回負け続けるのも不思議ではない。

 財政もひどいが、もっとひどいのは三、○○○人の中身(なかみ)だった。党費を自分で払っていない名ばかりの党員が相当いる。中には、名ばかりであるだけでなく、名前を貸したことを忘れ、従って自分が党員になったことも忘れている手合いまでいる。これでは犬や猫だって党員になれるという話題の架空名義党員だって、混ざっていないとはいえない。

 そんな中で、支部の党員増強日標が六、五〇〇というのだから、フザけている。もともと、全国目標五〇〇万というのからして、練上げた形跡も見あたらない、かなり当てずっぽの数字みたいなのだ。

 名ばかり党員の怪

 新興宗教では、信仰の篤さを入信勧誘実績で測ることが常識化しているようだが、自民党でも、参院選比例区では、入党勧誘実績で党への貢献度を高め、公認順位を一つでも二つでも繰り上げて貰う手が盛んに使われた。

 どれもすごい数だが、新規入党五万人だと党費納入額は二億円。カネづくりも大変だが、五万人の名簿づくりも、知らない人が聞いたら目を廻すほどの作業量になる。一回ハガキを出せばそのハガキ代だけで二〇〇万円なのだから作業量も想像がつくだろう。本部は小むつかしいことを言わないにきまっているから、適当にごまかして手間を省くようになるだろう。政治資金規制法さえなければ、政治献金に切り替えるのが人手を省く上では一番すっきりする。

 かく言う私の事務所でも、少しは党に貢献した実績を作ろうとして二〇〇人余りの党員づくりをしたことがある。だがこの二百人でさえ、どこまで一人ひとりから同意を取り付けていたか、疑問なのだ。というのは、選挙が終わったあと、私が一人で事務所の書類点検をしてみたことがある。するとどうだろう。その二百人向けの書類や党員証二年分が、支部から事務所に届いたまま、キャビネットの底に眠っているではないか!

 この調子だと総裁選があっても、郵送だから私が勝手に二百人分の代行投票をシレッとしていることができる。私が組織委員長になった時、この二百人は五〇人くらいに目減りしていたが、間違いなく支部党員数三千の中に入っていたのだ。危うく気づかないでいたところだ。怪し気な事務処理が自分の膝元で発覚した例である。

 この種の、思わざる新事実の発見は、組織委員長になって俄然ふえる。紙数の許す範囲でいくつかを紹介することにしよう。

  二、躍らぬ前線の人々

 選挙好き、組織委の顔ぶれ

 事務局がくれた組織委員会名簿には、私以下四十五人の名前が並んでいた。その中には私の知っている人の名前も何人かあって心強い。何回か開いた委員会への出席は十数人といったところだっただろうか。出席率としては上々だ。更に全体の実感をつかむため、私は委員一人々々の家を訪ね歩いてみた。

 町内会の世話役をしている人がかなりいる。氏神様の月例祭などで見る常連の顔とも一、二の地区では重なっている。ほとんどが五十代、六十代だ。通観すると選挙のようなことが性(しょう)に合っていそうな人たち、自民党員なるものの代表的な顔といっていい。中には集票力で鳴る潮江の女三人衆もいた。

 こういう組織委員会のメンバーと並んで、私にとってはそれ以上に重要なのが分会長である。

 一くせある分会のボスたち

 党支部は高知市を、小学校校区を参考に二十八地区に分け、五台山など未組織の五地区以外には分会ができている。その数二十三。党員増強の正攻法がこの分会長を動かすことだということは、前任者の植原元海軍兵曹長から聞いていた。

 私が召集した分会長会議はいつも侃々諤々(かんかんがくがく)だった。私は、子供の頃のオジサンたちを思い起こしたものだ。というのは、元来土佐人は司馬遼太郎も指摘しているように、理屈っぱりで議論好きなのだ。それがどういうわけか終戦後、人間に丸味を帯びてきて、最近ではすっかりつまらなくなってきていた。ところが、この分会長会議ときたら、往年の民権運動家さながら、喧嘩ごしの激論である。

 これはいける。そんな第一印象だったのだが、そのあとがいけない。聞くほどに内容が低次元であることにうんざりしてきたのだ。いごっそうというのも吉田茂くらいのになると一つの風格を成すが、次元が低いと鼻持ちがならない。この侃々諤々もここまで低次元だと、長所は変じて丸々短所になる。そうか、これが土佐をダメにしたのか、と妙なところで合点がいく。

 それだけではない。本当に入党勧誘に歩いてくれそうな不言実行型は、せいぜい二人か三人しかいそうにない。確かに選挙となれば、みな夫々、数十票くらい携えて誰かの陣営に馳せ参ずるだろう。ガソリン代などに、なにがしの活動費があてがわれるのは間違いないだろうが、大方が、選挙と聞いて血の騒ぐタイプ、燃えようでは、それに自分のポケット.マネーを足してでも飛び歩くに違いない。

 ベテランも避けて通る党員づくり

 だが、その彼らが、党員増強では、いま述べたように、理屈は言ってもさっぱり燃えてくれないのだ。何故だろう。集票だと、道でバッタリ会っても、「よう、これはいいところで会った。コーヒーでも」と誘う。庭先で取れたトマトを下げて訪ねる代りにコーヒー代をおごるわけだ。

 目頃のつき合い方次第ではそんなことをしなくても電話一本で用事はすませられる。だが何かお供え物でもないと、手ブラでは物が頼みにくい場合もあるものだ。そんなとき集票なら玄人はこれでちゃんと格好をつけるだろう。

 だが入党勧誘となると、そんな具合には事が運ばない。頂くものが違ってくる。票はいうなればタダのものだが、入党だと額面通り四千円、身ゼニを切って貰わなくてはならない。見ようによっては、「ちょっと一杯引っかけたと思えば」でアッサリいける値ごろ感のものだが、むしろ多くの場合はそれほど簡単にいかない額でもある。何かで世話になったことのあるような人でないと、おいそれと出す気の起こらない額、毎年毎年出しているのが知れると女房からイヤ味を言われないとも限らないようなカネ目だ。

 分会長たちは、この額を多勢の人にポンと出させるほど、日頃、人の世話はしていない。と見るのが正解ではないか。では党員増強の仕事もしなくてはならない分会長などに何故なるのだ。という疑問が出て来ようが、それは肩書きというもの、これで町会長並のハクはつくのだから仕方がない。

 分会さまざま

 尤も、分会長がみんな、いま述べたようなタイプばかりであるはずはない。分会にも色々ある。そんなことが、段々と分かってくるのだった。

 旭地区は有権者が二万五千人もいて党員はたったの百人だ。一度その総会に出てみたが、来ているのは役員ばかり、分会長、幹事長、その他、長のつくものを除いたら、ほかには五人いただろうか。それでもまだ総会をしているだけがましであった。数えてみたらやらない分会の方が、多いのだ。大津分会のように党員が(有権者の○・一%そこそこの)八人では、総会にもならないだろう。

 分会が分会なら、分会長も分会長だ。中には選挙違反で公民権停止を喰らっても分会長を辞めない。辞めさせようにも、言い出しっぺを買って出る者がいない。そんな奇妙な困り方をしている分会もある始末だ。

 それでいて本人は、分会長会議で悪びれもせず雄弁をふるうのだから恐れ居る。尤もこんなことは、この世界では珍しいことにならない。この特殊な社会には、公民権停止を勲章だという人もいるくらいだし、警察に挙げられたからといって、新聞が一斉に金丸に筆誅を加えるようなことはしない。武士ではないが相身互い"やがていつかはわが身にふりかかるかもしれない、ある運命を観じているようである。

 このことは、どの陣営も、事務長クラスに警察OBを据えている事情と、どこかで符合している。

 二十三分会を見渡して群鶏中の一鶴は潮江分会だ。旭地区とは同じ有権者人口で、自民党員の数は五倍、しかも中身に空洞なしだ。総会にも招かれて出たが、数も数、内容も内容で、市全体の支部総会に少しも見劣りしない。

 おかしい。どうしてここだけこんな具合になるのだ?と私は幹事長の今井に頼んで、党費集めの現場を見学させて貰った。

 ここでは日を決めて一斉に党費集めをする。当日の朝になると、今井の測量事務所前の路上に人が集まってくる。今井の指図を受け、(分会費にからむ)釣銭まで用意して貰って、担当区域に発進して行く。艦隊勤務の頃の作業員整列を髣髴させるではないか。

 下手な考え休むに似たり、如かず、潮江に倣わんには。眞似るが早道ということだ。

  三、指揮官、先頭に

 うっとうしい党費集め

 それからというもの、私は議論倒れの分会長会議に見切りをつけ、第二の潮江を作ることに腐心する。
 だが今井のような人間が見つからない。そうこうしている中に、青い鳥は近くにいることが分かった。その一人が一宮地区でタバコ栽培をしている若い農家の主(あるじ)、組織委員会の元吉委員である。

 一宮地区では分会長の懲罰問題がくすぶり続けていた。前の市長選で、社、共の推すライバルに選挙事務所を供与したという廉(かど)である。

 それだけでなく、一宮地区の党務は滞っている。その一つが党費の徴収で、ここ何年か、こちらから集めに行かないものだから、党費未納で除名になっているおかしなケースが十数名に上っていることを、元吉が気づいてくれたのである。元吉は農作業の忙しい中を一緒に歩いてもくれた。一宮は希望が持てると、久々に心の晴れる思いであった。

 しかし、脱線だとも言えるが、一宮では笑うに笑えぬ、間の抜けた、私のエピソードがある。党員名簿を頼りに、一人で指揮官先頭の党費集めに歩いていたときのこと、ある町工場での出来事だ。

 「そうですか」と、始めはいとも順調に奥さんが財布から札を取出そうとするところまで行っていたのである。

 それが、党費納入伝票を彼女に記入させようとしたのがいけなかった。説明に新米のもたつきもあって、「ああ面倒くさい」と彼女がつぶやいていた。かと思うと、とうとう「やめた」とボールペンを投げ出してしまう。もうダメだ。そこを取りなすような機転の利く私ではない。こうして三千人中の一人があえなく消える…。

 何ということだ。

 一生のうちにこんな、そぞろ物悲しい思いをさせられたことはあとにも先にもない。打ちのめされたというのではない。自分の存在感が吹けば飛ぶようにどっかへすっ飛んだ一瞬なのである。

 考えてみれば新聞代や電気代の集金人に「ご苦労ですね」と声を掛ける人が十人に一人いるだろうか。何もよこさない、四千円取立てるだけ、の党費にいい顔をされるはずはない。道理で組織委員長なんかにはなり手がなくて、私にお鉢が廻ってきたのだろう。

 党員数が殖えもしない、減りもしない、安定した(?)分会というのは、分会長の顔見知りの範囲内に党員が収まっていて、党費徴収にイヤな思いなどしないですんでいる、小じんまりした感じの分会なのではないか。

 とまれ、自分でやってみた一宮地区を含め、市全体で党費徴収が完了したといえるのは、九月の末、納入期限も一月か二月かは過ぎていた頃である。その数、二九三六名分、やっと平年並みという冴えない成績だった。

 進まない党員づくり

 二九三六名、ということは新規の入党が碌にいないということでもある。その事情はこうだ。

 既に述べたように、分会長たちの動きの鈍いのを見てとった私は、自ら指揮官先頭で事に当たろうとした。入党の勧誘は党費徴収のようなものではない。普通だったら、世話になった義理であるとか、先に世話になるかも知れないという損得勘定が働かないと、容易にこちらの話に乗ってくるはずのない交渉なのだ。

 機関誌の自由新報がもっと面白ければ話は別である。だがそれはどうひいき目に見ても買って読むようなものではない。

 党員になることのメリットは何か?それを聞かれたら一体、私はどう答えるべきだろう。行政に対する陳情ごとで力になっている実例が潮江分会にはあるが、そんなことのできる実力は、ほかの分会にはない。

 だいたい、保守系の中では(市議会)議員をこんなときに使うのが定石だし、その前に高知市は当時、社、共の革新市政なのだから、自民党入党を勧めるのに陳情支援では説得に迫力が出ない。

 だがそんなことよりも、そもそも、メリットを聞く方も、聞かれてメリットがあるような話をする方も見当違いなのではないか。選挙のときの投票行為から更に進んで、政党員という形で政治に参与するのが、政党に入党する意味ではないか。

 とするなら、ケネディ大統領が言って有名になった、国があなた方に何をしてくれるかよりも、あなた方が何を国のためにできるかが問題なのだ、と切返し、そうした上で入党の勧めに入るのが、順序というものではないか。

 比較するのは乱暴に聞えるだろうが、中国共産党の場合、党員の責務は重く誇りは高かった。民衆の指導者であり、非常のときは国家の干城、率先して護国の任を全うするというエリート性が、自他ともに認めるところだった。

 それほどではなくても、明治初年はどうだっただろう。板垣退助の自由党員だった私の母方の祖父が、品川弥二郎の大弾圧に抗し、危うく命を落とそうとしていたことは、母の里、山本家の自慢話として伝えられている。

 国も違い、時代も移り変って、今の日本で入党勧誘に持ち出せる話ではないが、この現実離れのした結びつけ方に、私はこだわってしまうのであった。今の自民党ではなぜ、かくも党員であることの意味が見失われてしまっているのか。

その思いが胸中を去らないのだ。

  四、見せつけられる政党の実態

 参院選で、友軍だった社、公、民と、その協力関係の実態に驚き、一旦は保守系無所属の道を選ぼうとした私が、思いがけもなく、自民党公認にまでなっていく経過は、去年の春号で述べた。だが、その過程で私は高知市の自民党支部に入党の申込みをするというステップを踏むことになる。

 そのときである。私の申込みが半年以上も棚ざらしという全く異常な目に遭ったのは。どうやらその原因は「いやしくも自民党に弓を引いた者に…」という見解が根強くあったことにあるらしい。自民党に弓を引くという言い方は、まるで朝敵扱いだ。英国で言われる陛下の反対党という認識では全くない。それをどう考えたらいいのか。

 野党も陛下の国会を構成し、国の意思決定に参加する。賊軍ではなくて官軍の一部、とでも理解するのが英国流の考え方ではないのか。そんなに、民主主義の原点に遡らなくても、ジンギスカンの大軍の九割以上は、かつての敵であった。伸びる力は包容する生きた実例ではないか。

 もう一つ。県連に自民党を思う者なし、と思ったことがある。昭和六一年の総選挙に私が出馬休止を宣言したときのことだ。選挙は休止としても、私は陣営をかなりの程度まとめていた。伴票の行方ということもマスコミでは取り沙汰されていたし、田村良平などは早々と協力を求めてきた。

 しかし、わたしが休止してなお陣営を散らすまいとしたのは、もちろん他日を期してのことでもあったが、同時に、自民三候補中の危ない候補にまとまった票をつぎ足すためだった。さらにまた、保守票の三、四万は喰っているといわれる山原共産候補に攻撃をかけ、山原に流れている保守票を奪還する役目も考えられないでもなかった。私は県連会長大西正男の指図を心待ちにしていたのである。

 それがどうだろう、大西からは何の音沙汰もない。そして、投票日の確か四日前だ。私が田村苦戦と判断して、陣営を田村支援に向けた半日後、大西腹臣の田上県議から、大西支援(それだけ)の要請を受けるのである。

 自民党県連に指揮官なし。これでは共産山原の牙城は揺がぬ。党勢拡張そこのけで自分の選挙にみんな血道をあげていては、往年の四議席はおろか、三議席に戻すことさえ夢のまた夢だ。

 候補の支持で、例えば「うちは大西先生」という言い方がある。爺さんの代から、という調子だ。「今ここで節を曲げるわけにはいきません」という意味にもなる。「忠臣は二君に仕えず」が今もいきている。そういえば選挙で燃えていたのは、決まって候補たちの後援グループであって、自民党が党として燃えているのを私は見たことがない。

 党は空洞化している。

 では後援会グループはというと、実は君臣の義ほどの結びつきは一握りの人の場合で、大体は力士の後援会と同じだと思えば間違いない。当選を重ねている中に、いつかは大臣になる。その日を心待ちする。男にして下さいなどというセリフがそれだ。ひいき筋が大関昇進を楽しみにしているのと瓜二つ。ただ選挙にはひいき筋の人々に、自分で出ていく出番があるときているものだから、燃え方は一層激しい。

 危ないところで勝っても、小差で破れても、大の男が男泣きに泣く情景など、選挙のクライマックス、歌舞伎にでもすればいい見せ場だ。民主主義が日本の風土に根づいていく過程では、こういう日本的なものが、結構、いい肉づけをしてくれているのであろう。

 だが目を参院選に転ずると、そこは後援会の独壇場ではない。地方区の多くは定数が一である。いま問題になっている小選挙区と同じ原理が働くはずだから、政党が激突していい理屈になる。

 ところがそういう参院選でさえ、高知県の場合、候補の親衛グループは燃えても、県連が火の玉になるのを私は見たことがない。

 公認まで、即ち自民党内での公認決定戦が本番で、あとは信認投票といっていい実情が影響してもいよう。各派閥議員揃い踏みの応援風景は、見た目では絢爛たるものだが、中身になると全くお義理的だ。これはこれからの小選挙区でも、党がしっかりしないと、起って不思議のないことだ。

 いま県連は碌に選挙資金の調達をしていない。候補から供与される上納金に戦費を依存している今までの体制は、これからの県連組織成熟の大障害だ。小選挙区が折角実現しても、この情性を、公費助成をきっかけにふっ切らないと、在来型の後援会が、必要以上に色濃く残ってしまうだろう。

 最後の突撃

 新規党員獲得運動は、結局、組織委員長自らの突撃で終わることになる。自らの車を自ら運転して私と行を共にしてくれたのは、前述、潮江の雄、今井旬夫(ときお)、それも週に二回か三回、終日の強行軍だった。私には勿体ないくらいのベテランに付き添って貰ったことは、実地にうとかった私を、現実に向かって大きく開眼させる。

 この二人三脚は、惜しいかな、途中で市長選突入のため中断され、タネはまいていても刈り入れせずの結果になってしまった。尤もそのまま進めていて予測した通りの、目に見える戦果が挙がっていたかどうか。

 訪ねて歩いたのは、影響力があって世話好きで、この人に頼んでおけば一〇人やそこらはまとめてくれるだろうと見当をつけた人ばかりである。毎週一回は一緒に昼食を食っていたロータリアンもいるし、中学以来の竹馬の友もいる。

 だが、意外な、というより、秋風が身にしみる思いをさせられたのは、入党届の用紙を目の前に置いて説明しているのに「とりあえずオレだけでも」とか「私たち夫婦だけでも」と言って入党してくれた人が一人もいないことだった。

 これは秋風が身にしみるではすまされないことだ。
 私が足を運んで折り入って頼んでいるのである。

 にもかかわらず、こちらから「君だけでも」と言わなければ、その場は聞くだけですませようというのが、私が訪れた人々の心情なのだ。

 身にしみる、政党未成熟の現状

 政党に入るということは、まだ何か普通の人にはなじまないことなのだ。党員という言葉からして会員というのとは違う響きを、まだ持っている。「えっ」と聞き直す。共産党員というときの党員の語感が私の世代などには残っているのだ。まともな人がなるはずのないもの、という語感が。

 まだ、政治にかかわるということが、普通ではないのだ。政治は嫌い、と言う方が知性的に響くのだ。政治をやる人も「オレだって好きでやっているのじゃない」と弁解めいたことをウッカリ口にする。

 私はここのところに大いにこだわりたい。入党勧告とは違うが、初の出馬を励ます推せんの言葉が貰えたら、と思って三浦朱門を訪ねたことがある。青年協力隊では、「雑草の花」という協力隊小説をサンケイに連載してくれたくらい熱を入れてくれた仲だ。

 だが、その同じ三浦朱門が、こと政治になると全く別人の観を呈する。「僕は政治には一切関与しません」とピシャリ。取りつく島がない。

 いま思うのに、これを文字通り、受け取ってはいけないのかも知れない。例えば、北京在勤の三年、どう見ても礼を失していた私の筆不精を、そのまま断わるに挙げるわけにもいかなくて、こういう形での断り方になった可能性は大いにある。それだったら私が悪いのだ。

 だが、それが単に、丁寧に断わるための便法だったにせよ、政治(など)に関与しないことをさも高貴なことのように、あんなにきっぱり言い切れるメンタリティが腑に落ちない。一体何だろう、それは……。

 ド真ん中に飛び込んで直そうとはしない。自分は手を汚さないでいて、犬、畜生のように政治と政治家をこき下してばかりいる学者、評論家たちと同じなのか。打つ手は厳罰しかないかのような言論を弄(もてあそ)んでいるマスコミと同じなのか。

 実はオピニオン・リーダーたちがこれだから国民が似てくるのだ。

 政治はきたないもの。政治に出るような人間に碌なヤツはいないと決めてかかるのである。今でもそのハガキを大切に保存しているのだが、海軍同期の一人は、私の出馬を心外だとして寄付を断わってきている。海軍兵学校まで出た人間が、政治献金を断わるのに、政治がきたないことを理由に挙げて何とも思っていない。笑えないことである。

 選挙で投票にいくのでも、心中爽快で、もたつきのない人、勇んで投票にいく人は意外に少ないと思うのだが、それを更に越えて政治に直(じか)に関与するかどうかとなるとそんな(きたない、いかがわしい、品性下劣な、…)ものにまみれたくないという気持が、知識人を含めて、今の日本人を蔽っている。

 これでは政党が育つはずはない。

 選挙そのものを横におき、政党の日常活動だけを取り出して眺めてみると、これを支えているのは、自民党の場合、利権から世間通常の面倒見に亘る人間関係、ギブ・アンド・テイクの糸であって、この糸の張る網、ネット・ワークを抜き取ったら、自民党は、なめくじが塩で消えるようになくなるのではないかという気がする。

 共産国家になるのは困るという気持で自民党に投票はしても、同じ動機で自民党に入党している人は寥々たるもの、ほとんどいないのではないだろうか。

 得票率が上昇したり、世論調査での支持率が高いのも入党とは別だ。

 大前研一は九二年晩秋に維新の会の旗上げをし、一日平均一、○○○人の入会申し込みを見込んで事務体制を整えたそうだ。しかも当初はそれでは間に合わず、処理能力を急遽、増強したとのことだが、聞くところによると、その後申込みはスローダウンしているようである。自民党の破れた七月の選挙の前で五万人か六万人か、いずれにしても百万会員の夢ははかない夢に終わるかに見える。

 日本新党も、世論調査に現れる驚異的な支持率にしては入党者が少ないようで、党員数は去年七月の選挙の時点で維新の会ほどにも達していなかったらしい。どちらも党費や会費が一万円である。これは維新の会や日本新党がおかしいのではない。政治活動への不潔感に阻まれて、政党が成熟できないでいるからだ。

 個人の政治献金は、寄付の形であれ入党しての党費の形であれ、政党が成熟しない限り伸びるはずのないものである。と同時に個人の政治献金が集まらないで、本当の意味の政党が育つわけもない。今に始まったことではない、鶏と卵の関係になっているこんな中で、個人のカネが、国や理想のために動く、もっと正確に言えばまともなカネが政治資金の主流になっていく方向に、どれほど遅効性のものでもいいから、確かな布石は考えられないものだろうか。

 もう一度、今までのところを反省してみると、第一に、友情は当てにならない。ありきたりのつき合いくらいのことで、個人のカネがたやすく動くものではない。第二に、いま動いている個人のカネは、企業献金と同質、すなわち、何かして貰ったお礼か、先々世話になることを考えての、胸に一物あってのカネか、どちらかであって(しかもそれだって総量はタカが知れている)いずれも人間のさが、に根ざしている。根絶やしになどできるはずがないではないか。

 人間のさがに、さからっていてもムダだらけだ。理想論と笑われても次元を変え、人間性の高貴な部分をインスパイアすることを考えるしかない、というのが私の思いである。

 民衆はバカだ、選挙民は慾っ張りだ、として今の選挙の手法やスローガンは組み立てられている。選挙までなら、今までそれでやってこられたように、これからもそれで何とかやっていけるだろうが、政党を成熟させるという次の段階になると、それではもう、一歩も進まない。

 高知市だけではあるが、これが、政党の組織委員長なるものを自分でやってみての私の総括である。

  五、いずこも同じ

 垣間見た民社党

 初陣の一回だけで私が民社党と袂を分かったことは既に述べたが、自民党にこれだけの紙面を当てたからには、民社党が組んでくれた、そして高知を注目の選挙区にした昭和五五年当時の野党連合にも、簡単に触れておきたい。

 私が民社党が引き出しっぺで参院選出馬が決まり、初の郷土入りをしたときのことだった。全県下、党員の数が百人と聞いて先ずびっくりだったが「それなら一軒々々挨拶に廻れますね」と言うと、歓迎の地元幹部が「そんなことはあなたがなさらんでよろしい。我々が粗相のないように挨拶しときます」と私を押し止めるのである。

 選挙は足で稼ぐものだというのに、と、そのときでも不審に思ったが、いま考えると、たった百人の中に、更に名ばかりや休眠党員がいたからなのかも知れない。佐々木委員長が高知から幹部を呼んで、私の出馬のことを説明したとき、私には言いたいように言わせ制肘(ちゅう)を加えないように、と言ってくれたことは嬉しかった。私に対しても、憲法改正だけは言わんでくれ、というのが唯一の注文事項だった。

 そんな空気だったからこそ、私も出馬の決心がついたのだが、その恩義を別にして民社党の政党基盤を考えると、一般国民に向けて党勢を拡大していく政党的資質は、少なくとも高知の選挙を通じては見ることができなかった。

 ということは、選挙で社会民主主義を語ることをほとんど耳にしないのだ。また、貰った党綱領は、社会主義政党の通有性として、とてもではない民衆向けの言葉にはなっていないのだ。

 労働組合の同盟からの乳離れができないまま、という、自民党とは違った理由から、民社党もまた、政党として成熟の域には達し得ないで現在に至っているのではあるまいか。

 民社党主軸で戦った昭和五五年参院選のあと、書記長だった塚本三郎は自分の選挙区での実情を数字で説明しながら、自らの組織を主力にすることの重要性を語ってくれた。だが、それは、自民党における後援会のようなものを言っているように私には受け取れた。いま考えてみて、民社党の理念の神髄を県民に訴えていくんだぞ、と言っていた風ではない。

 思えば民社党との縁は短命なものだった。議員会館に挨拶に行って塚本の話を聴いたのが、お別れの挨拶になってしまった形である。

 脆かった野党連合の選挙協力

 昭和五五年参院選、高知地方区での社会党は大荒れだった。飛鳥田委員長までが高知入りしてやっと、立てていた江渕征香を降して伴に切り替えることが決まる。そのときフンマンやる方なき県本部長、栗生茂也が言った言葉が有名になった。

 木の葉が沈んで石が浮く。

 私の側にも、次のような事情があった。父方でいっても、母方からいっても、伴の家の人脈はすっぽり保守に納まる。民社党だけならこれを傘下に収めることができる見通しだったし、公明も中道ということで、何とかお許しを願えたと思う。

 それが社会党の参入によって総崩れ現象を起こしそうになったのである。郷土人脈がこうなると私は、全く未知の県に落下傘降下をしたのと変わらなくなる。私は急遽上京して佐々木委員長に直訴する。「何とか断わるわけにはいかないものですか」

 常識的に考えてもそうだが、それはツー・レイト、無理というものだった。

 こんなイキサツはイキサツとして、社会党が、この選挙に身が入らなかったことは事実だった。そのことを雄弁に物語るのが開票結果速報における高知新聞の当確打ちである。テレビの画面に、ライバルの谷川当確が出たのは、開票率が何と五%にもならないときだった。魚梁瀬(やなせ)の国有林で有名な馬路村の票が出たときである。

 組合員の争奪戦で、民社系労組の日林労と血みどろの闘争を続けていた、社会党系全林野の票が、敵側の谷川に流れたことが、どう読んでも数字の上で間違いないとなって打たれたのが、この異常に早い当確打ちだった。

 社会党の票が割れて、しかも自民に廻るようでは、伴の勝因は消える。党員の数でも県議会の議席でも、高知県では社会党が民社党を圧倒している。その社会党が燃えないばかりか、一部敵に廻っているのだから問題にならない。でも、実のところはそれ以前に、即ち同日選挙が決まったことで、伴の芽はなくなっていた。と見るべきなのかも知れない。   

 社会党、公明党に著しく見劣りする民社党が、選挙の全体指揮をとるには、県外から国会議員をつれてくるしかなかった。その予定の部谷衆議院議員の高知入りが、同日選で吹っ飛んだのだ。これでは、社、公、民はバラバラ。そこへ馬路村の開票で社会党の動向が数字に出てきたのだ。

 ついでに言うと、同日選挙は、公明党の伴支援をも骨抜き同然にした。それまで、全国は二宮、地方区は伴、と教え込んでおけばよかったものを、更にもう一つ、衆議院は平石、をつけ加えなくてはならなくなったのだ。これで頭が混乱しては大変だ、ということに公明ではなったらしいのだ。「伴?そんな人は知らん」という反応が創価学会系の人々の中に現れていた。二宮と平石の区別を確かなものにする上で、頭を混乱させる要因の伴の名は言わないでおく。こういう局面があちこちに出てきたものと推測される。

 余談だが、そんな苦い、野党連合の経験を持つ私であるだけに、十四年ののち、細川与党の結束が四カ月も続いていることが夢のように思えてならない。

 尤も、次の選挙まで連立与党の結果を維持するには、今以上の困難が予想される。各選挙区には、千差万別の事情があろう。候補を立てたり降したりの調整が思いやられるし、そのしこりを持ち込んだ選挙協力の難渋ぶりが、かつての私の場合とイメージをダブらせて浮かんでくるのである。

 ああ社会党

 この党もまた、日本の生きる道は社会主義しかないという信念に燃えた党では、私を支援してくれた頃から、もう、なくなっていた。総評のバック・アップに安居していたのであろう。難解な基本文書を平易に書き替えて、広く世に問うこともしないできた。

 戦争の精神的傷口の周辺で、国民の反戦、反核感情をくすぐって生き延びてきただけではないのか。社会主義思想の根幹が空洞化し、反戦、反核(と政府弾劾)だけで選挙を戦ってきた観があるのだ。

 党員数でも高知県下では昔も今も千名、全国でも一〇万人そこそこ、これが自民党に拮抗する大政党かと耳を疑う数字である。しかも一般向けに党勢拡大のキャンペーンを張ったということを聞いていない。

 それでも、第三次世界大戦の恐怖が現実味を帯びていた冷戦期には、選挙での支持票だけなら、自民党の向こうを張っていることができた。

 だが今となっては、戦争を選ぶか、平和を選ぶか、という選挙向けの選択肢を立てても意味をなさない。世界のあちらこちらでくすぶり続けている、中型、小型の戦闘行動をどう終結させていくか。そのために世界共同体は軍事力をどの程度必要とするのか、で見解が岐れていく時代である。

 「一兵も送るな」で、女性である過半数有権者の母性本能をくすぐっていれば、しばらくはかなりの集票力も維持できよう。だが、かつて世界の知性を引きつけた社会主義の、思想的威信は、見る影もないし、アメリカが核兵器の引き金を引くかも知れない相手も今や存在しない。

 社会党はいま、今までの意味での社会党でなくなることが必要ではないか。進歩的文化人たちに支えられてきた戦後平和思想と訣別する日にも備えなくてはならない。それは党として考えることであると同時に、政治全体の中での重要課題でもある。

 皮肉といえば皮肉だが、現在までのところ社会党は連立与党の中にいることによって、野党であったら容易に超えることのできないであろう障害を乗り越え、予想以上のスピードで冷戦後の政治環境に順応しつつある。そのことに対しては、自民もマスコミもよくぞそこまでと内心評価して目をつぶりこそすれ、野党時代の言動をホジくり出して変節を責めるべきではない。

 立直れ、自民党

 自民党の凋落ぶりの中でも見るに耐えないのが、その社会党いびりである。追いつめられながら変貌を遂げていく社会党をののしる、その口ぎたなさである。これが昨日まで、久しきに亘つて天下の権を手にしていた大政党か、と耳を疑うばかりだ。

 自民党に国士の気概があるなら、社会党の苦悩に配慮しながら、意外に速い(政界再編成のための)思想的土壌づくりを、更に一層加速するのに余念がない状況であって当然ではないか。

 自民党の問題はそれだけではない。社会党とは違った意味で、自民党のイデオロギーにも危機が忍び寄っている。「自由と民主主義を脅かすもの」が影を潜めたのに「自由と民主主義を守る党」を今までどおり掲げ続けていたら気が抜けたビール、政治思想欠如の集団になる。それでは何を言っているのか聞いている方で分からなくなる時が必ずやってくる。

 「自由と民主主義を守る党」で通用していた時期でも、日本の民主主義を本物の民主主義に向けて成熟させようとはしていなかった自民党である。しかも裾野の地方組織は政治思想的には全くの空洞状態で今もある。
 政権を取り戻すことに気を取られて、政府、与党につまずきを仕掛けるような小細工はやめるがよい。しばらく野党でいるのがいい。野に在ってなすべきことが山積みしている。

 野党である間に、政党としての成熟を念頭におき、明確な政治思想を掲げて党を拡大する日に備える。
 日本新党も、そんな形で党を拡大しようとする気配はまだない。政党の成熟で、自民が天下に魁(さきがけ)る道は洋々としているではないか。
                                 


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