「魁け討論 春夏秋冬」1993年夏季号
 

日本新秩序3―細川「侵略戦争発言」に思う―

    目   次
  1. 徐敦信学兄の高覧に供する書―百年、正史を書く能わず―……………………………………
  2. 書き改めた祭文の論旨……………………………………………………………………………
  3. 国への忠誠心―日本人がそんなに特殊なわけではなかった―………………………………
  4. 今日も地上には銃声が聞える―その銃声を鎮めるには―……………………………………
  5. 日本の踏み絵、人命至上主義―危険と犠牲の分担の拒絶理由なのだが―…………………

 一.徐敦信学兄の高覧に供する書―百年、正史を書く能わず―

 この間の侵略戦争発言には、細川流のサッパリした感じが出ていて「あれはあれでよかった」としている私である。だが、そうしながらも「そんなに言い切れるものではないよ」と、何か物を言いたい衝動にも駆られる。       
 その「何か」で思い出したのが、何年か前、日中教科書問題で当時の徐敦信中国公使に読んで貰った私の手記である。読み直してみて、そっくりそのまま細川発言へのコメントにもなっているので、小見出しの題だけ書き足して原文のまま引用する。

 (一)父祖の歩み

 西力東漸以降の世界史の中で明治この方の日本の歩みを見ていて、他国がそれをどう見てくれるかは別にして、われわれ自身は父祖の歩みをどう評価したらいいのかと、今さらのように思う。

 戦争に負けたときは「大それたことをやろうとしたのがいけなかった。これから先は小じんまりと自分たちの幸せを大切にして生きて行こうや」というあたりのところが、疲れ切った国民の気持だったと思う。文化国家というキャッチ・フレーズもそれにマッチした響きを持っていたように思われる。

 しかし、星霜四〇年、世の中はすっかり変ってしまった。

 ぐんぐん国力がついていく。もっと大きな役割を、と世界中から期待が集まる。小じんまり生きようにも世界がそれを許さない時勢になった。

 ここでわれわれは、大きく世界に打って出ようとした父祖の歩みを、もう一度ふり返ってみる時期に来たと思う。どこがどう悪かったのか。全体としてはよかったのかどうか。

 降って湧いたような教科書問題は、それを促す、日本国民への天の啓示かも知れない。

 (二)アジア不戦の誓い―ある戦争総括―

 父祖まで遡らない私自身の前半生のことであるが一人の海軍士官がどんな戦争観で過ぐる大戦を戦っていたかを暗示する小さい出来事がある。

 終戦の年が明けて昭和二一年二月一一日、呉軍港からの復員途上のことであった。松山近郊の三津浜港に着いた私は、リュックサックを背に、電車の駅へと歩み始めた。万斛(ばんこく)の思いである。

 陸に上る……
 これで海とも海軍ともさらばだ。

 涙が類をつたっている。大海原、数々の戦いが走馬灯のように脳裡をよぎる。そんな状況の中で心に閃いたのが、今でも忘れはしない

アジア不戦の誓い

という言葉である。

 二二才になったばかりの私であった。山城、愛宕、霜月……五隻の軍艦に次々に乗り組みながら一発のタマも魚雷も遂にアジア人には撃ち込まなかったなぁ、という思いがあったことをハッキリ覚えている。

 兵をアジア大陸に進めた、戦争の別の一面への「ノー」が重なっていた。一瞬の、直観での、私の「戦争の総括」であった。

 大きな戦争を怪物にたとえた人がいる。

 戦争全体の性格を一律に割り切るのは危険だというのである。軍紀が厳正であるか弛緩しているかによっても、戦争の様相は大きく変わる。国家指導者と戦闘要員、戦闘要員と銃後一般国民の戦争観が一様である筈はない。私が自分の深層心理の事象をあえて持ち出したのは、アリューシャンからマダガスカルまで延びたあの大きい戦争は、質の上でも、違った地層が折り重なったような複合構造を持っていたように思えるからである。

 (三)ああ史眼

 それから二十有余年の歳月が流れ、外務省技術協力課長としてアジア、アフリカなどへの政府開発援助に携わり、やがて直接、青年海外協力隊の指揮をとるようになった私は、ここで再びアジアと相まみえることになるが、自分でも会心の仕事ができたと思うその七年六カ月の間に、私の心にすっかり根づいた一つの思いがある。

 アジアのために日本は健在であらねばならぬ

というのがそれである。私は気持をこうも整理していた。

 維新この方日本は、非ヨーロッパ世界の先頭を切って来たのだ。

 一九八○年代も半ばを過ぎた今、世界は狭くなる。その中で日本の存在が大きくなる、とよく言われるが、世界が広々としていて日本の存在が碌に知られていない一九世紀中葉の頃でも、例えば維新革命の成否などは、どれだけ大きい意味を世界史の中で持っていたことであろう。

 戦前の日本に、若し、世界史の舞台で日本の歩みを把えていく史眼が育っていたら、書かれる歴史も違ったものになっていただろうし、それから先の歴史、日本の歩みそのものも大きい影響を受けずにはいなかったであろう。思えば残念なことである。

 しかし、もっと残念なことは、こんどの教科書問題でハッキリしたように、この史眼が今もってわが国に育っていないことである。

 国際政治上東京裁判は、敗者として男らしく服してよしと私は考えるが、さりとてその史観が、そっくりそのままで四〇年も、この言論自由なわが国でまかり通って来たということは異常である。国を挙げての戦い、それに至る波瀾と曲折、そして有史以来始めて受ける異民族による占領統治。これだけのすさまじい民族体験からわれわれは、何一つ歴史観の上で眼を開くことがなかったのかと思うと、国の行く末に暗澹たらざるを得ない。

 史眼は過去を把えるだけのものではない。いま現に日本が歩んでいる道をアィデンティファイする上でも不可決だ。二一世紀のグランドデザインを構想するには一層必要であろう。名前そのものにも争いのあるあの大東亜戦争が日本の歩みの中で何であったのかをしかと確かめ得ないでいて、どうして二一世紀における進路への視野が開けよう。二一世紀どころではない。現に、狭くなった世界の中で日本は、何を指針にして自らの巨体を運ぼうとしているのかさえ解明できないではないか。

 思ってここに到るとき、史眼が最も切実に求められるのは、史学に携わる人々もさることながら、それ以上に、現に歴史を動かしている人々であることを痛感する。

 一体、全体、歴史とは何なのかを問い直す時期に来ている。その試練の最たるものが、いま問題になっている近、現代史の扱いなのである。

 (四)もっと自由な学風を

 時の現代史を歴史として書き上げることは古来、至難の業とされている。中国には、このためであろう、王朝は自らの歴史を書かないという文化伝統ができ上った。対象人物の存命中は言わずもがな、それから後も王侯貴族など家門の名誉や利害が絡んでは、正史めいたものは書けないとしたのであろう。近、現代日中関係史を考えてみるがいい。その書き方のことで、つい先頃まで良好だった両国民の感情がかなり高ぶって来ているではないか。

 過ぐる戦さで中国には悪いことをしたと思い、本音でそう仲間で話し合ってきた、戦中派という部厚い親中層の存在意義は大きいが、こんどのことでその戦中派から「よその国のことに口を出すな」という言葉が出るようになって来た。

 攻め込まれた側、家を焼かれ親兄弟を殺された側には、下手をすると再燃し、燃え拡がりそうな痛憤の情が、膨大な戦争体験世代の胸奥に流れていることであろう。

 相互反応してエスカレートしなければいいが……。最近まで日中国交の衝に在った者にとってこれほど気のもめることはない。現代史を書かずにすませるものなら、と思う。

 だが世界史の中で自らの国の歩みを見つめるような史眼は、近、現代史が書かれることなしには永久に育ち得ない。そこを基軸に考えるなら、ここで発想を転換して、思い切り自由闊達な学風を育てることにしてはどうだろう。間違いだらけであり、未定稿であることを認め合って、自らの主張は盛んに行なうが他を攻(責)めるのは控え目にするという相対主義の導入であり、………(後略)

 この手記に出てくる「大きな戦争を怪物にたとえた」人とは、私がパキスタン時代に仕えた田中弘人大使である。外務省に入って数年経った頃、ネルーと並んでインド独立運動の双壁と調われたチャンドラ・ボースの秘書官を勤めた経験の持主だ。その当時のことを回想して彼が言っていたのが、大東亜戦争モンスター説で、あれだけのでかい戦争は一つの論理で律し切れないのが当り前、侵略の部分もあればそうでない部分もあったっておかしくない、というに在った。中国攻撃はどう弁解してみても侵略だが、南方のように、侵略者が何十年、何世紀に亘って居坐っているところへ、その居坐っている侵略者目がけて攻めかかるのだから解放の要素だってある、とも言っていた。

 この論理から言えば、ソ連との関係では日本は、被侵略者になるだろう。アメリカとの関係でどちらが侵略かということは、何故か彼も言わなかったし私もきかなかった。

 軍人であった私から見ると、この戦争の戦争観や戦争論の中で「軍紀」の視点が大きく脱落していると思う。どちらが侵略かということと関係なく、戦う双方が互いに国際法規違反をやらかすのは戦争の常ともいえる。軍紀は、同じ国の軍隊でも、強さ弱さと同じように兵の出身地や練度、指揮官の統率力いかんによって違ってくるもので、そのトータルが一国の軍紀の水準なのだ。それが弛緩しているかどうかは軍紀独自の基準で判断すべきことなのだ。戦争の性格を左右する、これほど重大な軍紀の視点が、侵略、被侵略とゴッチャにされているのは学問的に許し難いことだ。

 軍紀は、厳正だとして評価される場合もある。勇敢で強いことも戦陣では美、徳だ。戦友の情、占領地住民との心の通いなど、美談のたぐいも敵、味方双方にあり得ること。ノーブレス・オブリージュだって戦争のとき最も光彩を放つ。そんな現象を、一方にあって他方には何一つないとして探そうとも取り上げようともしない態度は、勝者の驕(おご)りでなければ敗者の卑屈としか考えられない。

 いままではともかく、これからは、大東亜戦争を、もっと自由な論議に委ね、複眼思考に基づいて再構築する要があろう。その尨大な知的作業が進行し始めないことには、これからの防衛論争も、偏(かたよ)った大東亜戦争史観に足を引っ張られていつまでも不毛の論議から抜け出せないことになるだろう。

 最終的に負けたからとて、またその際「非はすべて日本側にある」とするほかはなかったからとて、例えば戦いに散った人々について、立派なことを立派だと言ったり書いたりすることが憚(はばか)られるようでは困る。

 この片手落ちの世相の中で、戦没者を祭る言葉の中にもおかしいところがある。犬死とこそ言わないが、戦死の意味には全くふれずにおいて、取ってつけたように、今日の日本の繁栄はその尊い犠牲によると結ぶ。論理の上で随分ムリをしていると思うのだが、こんなところにまだ整理のついてない思想の片鱗がうかがえるのではないだろうか。

 細川発言は、一回だけならあれでいいが、下手にそれを固める発言が続くようだと、徐々に進んでいいはずの史実解明作業を束縛する危険がある。一番いいことは、少なくとも日本人からは、総理に、あるいは国会などで公権的に何とか侵略と言わせようとする質問が出て来ないことだ。世の木鐸を以て任ずる人々の心配りを切に要望してやまない。

 二、書き改めた祭文の論旨

 海軍同期、兵学校七二期、機関学校五三期、経理学校三三期の生き残りは、年一回、遺族も一緒で戦没者の祭りをする。靖国神杜に昇殿しての祭文朗読がそのハイライトなのだが、昨年(一九九二年)順番の廻って来た中から私に白羽の矢が立てられた。

 いま述べたような、因果関係のはっきりしない例年の祭文の論旨に納得できないでいた私は、この際それを書き改めることに意義を感じ、これを承けた。その難題を三カ月もかけてやっと解いたと自分で思っているのが次の祭文である。死者に手向ける言葉にあり勝ちな美化を、思い切り抑制した。それでも遺族への心配り、共に死すべかりし命を永らえた者に特有な私自身の心情があって、読む人には奇異に、あるいは美辞麗句に映る個所が少なからずあるだろうが、本音でないというところはどこにもない。
 

 祭文(前略)
 
 それから五年足らず、それは厳しい訓練の日々であり、生死を顧みぬ戦場の朝夕でしたが、いま思えば、天晴れ子々孫々に伝えて恥じぬ、精気漲る青春でありました。

 不幸にして戦いに敗れたことは、生き残った我々の誇りを傷つけ、諸兄の勲を語る言葉も、世間一般に対しては控え目なものになり勝ちでした。

 こうして星霜四十七年、確かに国土は復興し、繁栄はかつての敵国を凌がんばかりの勢いでありますが、翻って別の資質、大いなるもののために死をもいとわぬ高貴な精神は地を払い、いま以て蘇える気配もありません。

 ただその間に在って、以て瞑すべきはアリューシャンからマダガスカル、陸、海、空三年八カ月の死闘を境として世界の姿がすっかり変わったことであります。

 マレーシア独立宣言の行われたマラッカの記念館には、同国人の自覚高揚に果した日本占領時代の意義が謳われ、異民族の支配をハネのける気概がこの時期に培われたことを明記してありました。友よ見てくれ、であります。

 廟堂の風色幾変更、戦時日本の政策がしばしば、大東亜共栄の理想を逸脱したことは、惜みて余りあることではありますが、諸兄や我々の後ろ姿を見てアジアが奮起したことの世界史的意義は、これを消し去ることができません。

 花の蕾で短い生涯を終えられた諸兄の霊前にぬかずいて今更のように思うことは、諸兄が生き残った我々に託したものは何であったのか、ということであります。

 西力東漸の波の襲来この方、ここに神鎮まります先哲、そして諸兄が身を挺して守ろうとされたのは、大瀛(えい)の水がその岸を洗うこの国土だけではなかった。それは万葉この方、父祖たちが築いて来た民族の精神文化でもあったのではありますまいか。

 我々は、自由と民主主義という、敵側の価値観を、納得、評価して取り入れることになりましたが、世界三流といわれる今の政治を見れば一目瞭然であるように、我が国の精神風土にこれらの価値観を適応させるための営みはまだその緒についておりません。

 段々病歿する者も出る齢となり、目暮れて道遥けしの思いはありますが、我々は、祖国の真の再建に道を拓くべく、最後の最後まで残れる力をふりしぼり、諸兄に恥じぬ生を終えて再会の日を迎えたいと思います。………(後略)

 三、国への忠誠心―日本人がそんなに特殊なわけではなかった―

 私の青春期、日本には散るを潔しとした古来の美意識が花咲いていた。大いなるもの、なかんずく国のために、である。それがいやが上にも高揚されていたのが、まだ勝ち戦さが続いている頃、少なくとも敵、味方互角に戦っている、あるいは戦えると思っていた頃である。最終勝利の確信に支えられて果敢に戦っていた若者の中には、ファイト横溢、死と隣合せでいながら、今でいえば甲子園出場を目指すときの活気を思わせる者も少なくなかったと思う。

 やがて戦局日に不利となって、私など心中ひそかに大和民族玉粋の模様をカルタゴの滅亡に重ね合わせたりするようになる。「同期の桜」がこの頃から愛誦されるようになる。

 艦が軍港を出て行くときはいつも「生きて再び祖国の土を踏むことはないかも知れないぞ」という思いだった。その覚悟は本物だったのだろう、現に、自分を取り乱していたという記憶はない。それなのに、一たび特攻志願を踏み絵として自分につきつけてみると、同じ私が別人のように臆病になってしまう。

 一つしかないいのち

という思いに心がすくむのだ。その一つしかない命が無性にいとおしくなるのだ。

 ほかにもっとお国のためにできることがありはしないのか

と自問する。命が惜しくなったときの逃げ口上に決まっている。そうと分かっていながらそれを言訳にして死から自分を守ろうとするのだ。自己嫌悪、何と寝覚めの悪い、いやな思いだったことか。

 私が主計科士官だったため、特攻志願の踏み絵は一応架空のテーマでしかなかったが、もし私が兵科の飛行機乗りででもあったらどういうことになっただろう。五〇年を経たいま、目を閉じ、航空隊の集合で、特攻志願の有無をきかれたと想定してみる。

 志願者手を挙げろ

と言われたら私は手を挙げてはいただろう。だがそのあと残された日々、「しまった」と一度も後悔せずに出撃の日を迎え得たかどうか。絶対にそれは不可能だったと思う。もし、手を挙げる、挙げないの選択が、本当に自由だったら、例の逃げ口上を言い聞かせ言い聞かせ、私は手を挙げなかっただろうと思う。

 どれほど、散る覚悟ができていると自分では思っていても、特攻のような極限状況、確率一〇〇%の死が現実の選択肢となると、潜在意識の中に息づいていた生への執着が、意識正面に浮上してきたに違いない。

 海軍というのは、概して言えば、回想して懐かしい社会だったと思う。世間でも海軍さんというと堅苦しくなくてスマート、というのが通り相場だった。

「あいつ、天皇陛下さえ言わなきゃいい男だのに」という人物評がそんな空気を物語っている。戦争映画がよく画き出している深刻な表情の顔など、そう減多にお目にかかるものではなかった。心の中でどれだけ思索していたとしても、である。

 徴兵組や、赤紙で召集されてきた下士官兵たちは、死生の受け止め方が、また違っていただろうと思う。職業として軍人を選んだ私たちとは違って、それぞれにいそしんでいた本業というものがあり、それをやむなく中断してきた人達なのだから。いわゆる志願兵たちだって、家業のある者が殆んどだったのだから、気持は大同小異だったろう。

 彼らにとっては、戦争の結末もさることながら、死なないで本業に帰ることが一番の関心事だったに違いない。ただ、国が戦争をしているのだからということで納得がいき、死ぬかも知れない自分たちの境遇に恨みつらみを言わなかっただけのことだと思う。

 この場合も、私たちの場合も、よほどの出番に恵まれれば、ここが命の捨てどころという気にもなっただろう。だがそんなことは滅多にないことで、通常の状況なら、国に命を捧げるなどと言うほど崇高なものではなかったという感じである。

 国に残した父母や妻たちも、似たりよったりの気持で、子や夫の武運長久を祈っていたのだろうと思う。   

 これはよその国に較べてそれほど特異ではない。
 この地球上を見渡してみれば、どこでも人は国を成して生きている。

 国とは個々の人間の意思が合致して結成された、というようなものではない。いつでも解約によって解体できる、というような性質のものでもない。逃げ出すことを企ててみても行きつく先が人の住んでいるところである限り、そこには国か、国と同質の権力構造が待ち構えていて、それが他から脅かされる際には構成員の犠牲を強いる。場合によってそれは死でもある。

 国とはそういうもので、国をなして生きている以上そういう犠牲の出ることは仕方がない、というのが世界の常識、いわば公約数なのではなかったろうか。

 私の青春期の日本では、士道高揚のピークだった幕末から八○年も経っていないし、維新この方鼓吹されてきたナショナリズムの絶頂期でもあったから、大いなるもの、国への忠誠心という面では、世界でも一頭地を抜いてはいただろう。

 だが、だからといって、日本国民だけが、独り世界の常識を逸脱した全く別世界の住人だったとは思えないのだ。

 戦争が無条件降伏で終ったとき、敗戦の受け止め方では一様でなくても、「生きていた」という安堵の気持は、多かれ少なかれ、誰の心にもあっただろう。自決を選んだ人の場合でさえ一旦は、あるいは一瞬、そんな気持にならなかったとは言えないと思う。

 このあと、戦前の全面否定に近い形で、占領軍による日本の精神的武装解除は進行する。

 「大いなるもの、国」

という発想は、全体主義だとされ、国への忠誠は、徳目から外される。代わって人命尊重思想、「自分の命を大切にすること」が新しくモラルの王座に据えられ、乾き切った土に水が浸透するように日本国民に受け容れられて行く。

 夫を失い、子を失った上に、戦争末期の本土空襲で散々な目に遭った日本国民にはムリもないことだが、こうして日本の精神的武装解除は行き過ぎてしまうのである。どんな崇高な目的のためであろうと、危ない目に遭うのは真っ平ご免、という自分本位でかなり身勝手な考え方が、わが日本国の平和思想の柱として定着するのである。

 そういう時代思潮の中に起った異変がカンボジアでの中田ボランティアの死であった。

 中田君は間違いなく「大いなるもの」に命を賭けていた。その場合の大いなるものは国というより、もっと広い世界人類だったと思われるが。

 志半ばで悲運の死を遂げたことに対して父君は、厚仁にとって本望だったでしょう、と言った。

 驚くべき発言である。多くの人が息を呑み込む思いだったのではないか。それにしても、このあとどんな論評が出てくるか、私には気が揉めた。というのは、もし亡くなったのが国連ボランティアの中田厚仁でなくて、日本の自衛隊の誰かだったら、と想像してみたのだ。

 安全なはずのPKOの中から犠牲者が出るわけだから、「それ見ろ」ということで国会は騒然となっていたに違いない。PKO即時撤収の声が国会の内外で起ったとしても不思議ではない。

 もう一つ想定を加えるなら、その自衛隊員の母の、かなり取り乱す場面が、テレビで大写しになり、「息子を返して!」と泣きわめく声が視聴者の耳朶を打ったとする。「若者を戦場に送るな」の大合唱が巻き起らないですんだだろうか。

 「一人の犠牲者でPKO撤収!」

 世界の新聞とテレビがヘッド・ラインにこう書き立てる事態にならなかったと誰が保証できようか。

 あれが中田ボランティアだったから、また、お父さんがあの人だったから、日本は不名誉なイメージを全世界に流さないですんだのだと思う。

 高田警部補が亡くなったあとも、カンボジア入りした村田自治相に文民警察官の中から「何人死んだら帰れるのか」という質問が出たとか出なかったとかいう際どい話はあったが、閣議でPKO引き揚げ論をブッた小泉発言に世論は冷静だった。高田家から恨みつらみの言葉が出たという話も聞かない。

 ああよかった、と私は安堵の胸をなで下さずにはいられなかったのである。

 四、今日も地上に銃声が聞える―その銃声を鎮めるには―

 冷戦の緊張が弛んだあと、世界はいま、いくつかの重要課題に直面している。中でも重要で難しいのが世界新(平和)秩序の方向づけだ。それには湾岸戦争、旧ユーゴ動乱のような、重要案件を世界的視野で処理し、後々の模範例にしていくのが一番確かな道だと思う。

 そういう目で見ると、侵略を打ちのめすことのできた湾岸戦争は成功例であり、今様ヒットラーといわれるミロセヴィッチの野心が成果を収めつつあるやに見えるユーゴ動乱は、湾岸戦争の成果を台無しにするほどの失敗例になりそうである。

 青天の霹靂、パレスチナ問題に曙光、の朗報は嬉しいが、あちこちで発生している民族闘争の前途は予断を許さず、そのいくつかは既に戦闘状態に突入している。世界共同体として対応を誤ったり放置したりしていると、強い者勝ちの事例が重なって常識化するという最悪の事態になってしまう。隣国の侵入に脅えてオチオチ眠れない国が増えてくるようになったら軍縮どころの話ではなくなるではないか。

 平和を守るとは、世界共同体の力でそうなるのを阻止する行動をとることだ。こういう危機を一つ一つ懸命に喰い止めていくことだ。あわや戦争突入という際どい局面では、軍事介入の決意を固めて仲介に入るしかないこともある。世界共同体にはそんなときの軍事力も、知恵と並んで、必要なのだ。しかも紛争当事国を黙らせるに足るだけの物心両面での充実した軍事力が。

 そう考えてくると、世界平和の実現は、こういう精鋭部隊を世界共同体が力を合せて作り上げ得るかどうかにかかっている。そして、唯一の超大国として生き残ったアメリカの軍事力を外してそれは不可能であるし、今や、そのアメリカの軍事力だけでも不可能とされるに至っているのである。

 日本が選択するこれからの役割は、こういう世界史の真新しい展開の中でのものであって、重要なことは、平和を行動によって守ろうとする以上避けて通ることのできない危険と犠牲を、ひるまずに分担する決意を日本がするのかどうか、である。そういう決意は、半世紀前に、侵略国だった(とされる)ことから生れた平和思想とは性質の全く違ったものになること明白である。

 今までの平和思想が、二度と悪いこと(侵略)をしないという誓いに源を発する不作為路線のものだとすれば、ここにいう決意は、反対に、行動に出る決意、分かり易く言えば、紛争の止め役に加わって、間に合えば侵略行動を思い留まらせ、始まってしまったら撃退して元の線まで押し戻す、などを内容とする知恵と武力の役割を分担していこうという決意なのだ。

 日本さえ悪いことをしなければ今でも世界は平穏だ、というなら話は別だが、冷戦終了後の世界各国を見渡す限り、状況は二転、三転してきている。下手をすれば地球の何分の一かが戦国の世になりかねない状況でさえあるのだ。

 それでも日本は、海外派兵につながる惧れがあるとして憲法を理由にはするが、戦闘やテロに巻き込まれまいとする本心が見えすいている、今の路線を守り抜くのか。

 とは言ってみても、普通の国になることは、今の日本の世論からすると清水の舞台から飛び下りるようなこと、現時点でそれを言い切っている政治家は小沢一郎しかいない。

 いつの日か国論を二分し、世界環視の中で決断を迫られるときが来ようが、現下の政界再編に当って対外政策上の分岐点に取り上げるには、余りに議論が熟していない。

 そういう考えを前提にしながら、来るべき日の選択肢にもう一つ加えたいと思うことがある。イギリスやフランスをモデルにした普通の国ではなくて、世界史上まだ出現を見ていない、大いなるもの、世界のためを国是とする国家の建設である。安全保障でいうなら、その時点で国連軍ができているいないにかかわらず、世界に魁ける形で「国連に提供すべき戦力の保持」を九条の主柱に立てるのだ。そうした戦力を、副次的に自衛にも転用できるとしておけば自国単独の防衛上も心配はない。

  五、日本の踏み絵、人命至上主義―危険と犠牲の分担の拒絶理由なのだが―

 既に自民党時代、悪いことは致しませんの不作為路線から半歩、足を踏み出してはいる。湾岸戦争をキッカケに国際貢献をカネとモノからヒト、PKOに拡げるところまでは漕ぎつけたのである。

 しかし、その心はといえば、危険でないから送る、ということでしかない。不作為路線のバック・ボーン、人命至上主義にはいささかの変更もないのだ。汗は流しても血は流さない。細川の言っていることもそういうPKOの範囲を出ているとは思えない。

 絶滅寸前かと危ぶまれた、かつての日本の使命観が中田父子に生きていたことは救いだったが、中田の死はまだ日本の思想にそれほどのインパクトを与えていない。それが与、野党の対外政策形成に揺さぶりをかけるには、まだまだ長い道のりがあると見なくてはなるまい。

 無理もないことだ。

 思えば敗戦この方、憲法でその存在を否定された軍という集団の中に在った、かつての青春、その間における数多くの死は、それが何であったかを深く解明されることもなく、過ぎし日の悪夢、あってはならなかった死、と簡単に片づけられたままで現在に至っているのだ。中田の死に並べてひけをとりそうにない死までが、である。

 自民党になってからも 国とは、かけがえのない人の命を死の危険にさらしてまでも守るべきものなのかどうか

という、国への忠誠心の、一番大事な限界設定はなおざりにされてきた。

  佐藤栄作は
   国を守る気概

を口にしたが、国を守るとは、攻めてくる敵と撃ち合いをすることで、敵も殺されるが味方も死ぬ。「国を守るとは、時として死ぬことなり」という際どい極限には、故意にか触れなかった。

  福囲赴夫の
    人命は地球より重い

という名句は一世を風靡し、人命至上主義は法を越え、国家をも越えんばかりの勢いになってしまった。

 大いなるもの、国は、命をかけて守るべきものとしての思想的権威を失って久しい。

 そこへ一足飛びに、〃大いなるもの、世界〃を考えなくては平和の実現も覚束ないご時勢が到来した。

 PKOを越え、侵略軍団撃退という戦闘任務を帯びた国連軍を想定して、さきほどの「国」を「世界共同体」に置き換えた、新しい世界観の是非を考えなくてはならなくなったのである。

  世界共固体とは、かけがえのない人の命を死の危険にさらしてまで、
  守るべきものなのかどうか
  国はまた、国益概念を改めてそれを容認していいのか
 新たな大命題だ。日本では全く時期尚早の感を免れない。

 だが私には、一足飛びも捨てたものではない、という気がしないでもない。ひょっとすると、一旦壊滅的打撃を受けた国への忠誠心を今から建て直すより、白紙状態にある世界を忠誠心の対象に据える方が容易であるかも知れないのだ。

世界人類には参り易い若者に、受け入れの素地なしとは言えない。ウルサイ進歩的文化人だって、中ソをバックにして日本軍国主義を目の仇にしたようなことはこんどはしないだろう。

 その中、中田父子の投じた一石が、改めて、大いなるもの、世界を浮彫りにしてくれないとも限らない。
 大いなるもの論議は、まだ言い足りないことだらけである。今回の小冊子も何度書き直したことか。それでもムラだらけ、終りも尻切れトンボで汗顔の至りだが、最後に一つだけ結びの言葉を添えさせて頂きたい。

 豊かになった国を、更に更に豊かにする。そのこともここしばらくは一億二千万人のユメであり得よう。

 しかしそんな内容のユメが、果てしなく、いつまでもユメであり続け得るだろうか。

 その中に国民は、かつてのローマ人のように、きつい仕事を敬遠し、危ういこと、特に自分の命のかかわることには、人命尊重をタテに拒絶反応を強めていくだろう。精神的な衰えは、アメリカよりも日本に早く来そうな気がする。

 そろそろユメの内容を自分本位、自国本位のものから、世(界)のため人(類)のためのものに修正しないといけないのではないか。豊かさを脅かす、内なる腐蝕作用を、いま以上に増進させないためにも。
 


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