「魁け討論 春夏秋冬」1993年春季号
 

日本新秩序2―いままでの選挙とカネ その1―10年見つめ続けたその侮り難い影響力

    目   次
  1. 外交官よ、さらば…………………………………………………
  2. 数奇な運命…………………………………………………………
  3. 壮大な実験…………………………………………………………
  4. あとで知るカネの使われ方………………………………………
  5. カネと参謀…………………………………………………………
  6. 悲秋…………………………………………………………………
  7. 集まらないカネ……………………………………………………

 一、外交官よ、さらば

 人に相談していたら、外務省を途中で辞めるとか、進路を政治に切り替えるとかいう大転換はできなかっただろう。
 厳しい試練の道だという認識は十分持っていたし、それだからこそその厳しい道を選んだというわけでもあった。

 しかし、選挙の恐ろしさ、中でもカネのことに、もう少しまともな感覚を持ち合わせていたら、そんな危険地帯へ飛び込む決心は、とてもつかなかったに違いない。その決断ができたのは何度考え直してみても盲、蛇におじずだったというほかはない。

 一九七九年の晩夏、天山山脈の清冽な湖水のほとりで、私はその澄み切った大気に打たれ、二〇年越しの懸案に、今日という今日は何としても決着をつけるぞ、と自分に言い聞かせていた。

 既に中国在勤は二年半を過ぎていた。あと二年北京に置いてくれという山崎官房長宛ての希望が叶えられようとは、常識では考えられない。さぁその時だ。遅きに失していようとも、初志貫徹のため挂冠に踏み切るかどうか。

 ところは天に迫るユーラシアの秘境、心は放たれて空を行くが如し。啓示なるものがこの世にあるなら、定めし、こういう時とところで…と思える。それほど何もかもが澄み切っていた。

 そのさわやかさの中で思案の時が流れていく。

 こうして遂に、外務省退官の決心がつく。そしてこの決心は、これから先どんなことがあっても変えないぞ、と自分に言って聞かせる。私にしては誠にあっさりした決まり方である。成算があってのことではない。成否は本当に二の次だった。 いま当時を振り返ってみると、箸を立てて倒れた方に決めたようなものだが、違うところがあったとすれば私の美意識、―義に寄せる思い―がどこかで働いていたことだろう。

 明けて一九八○年一月一八日、すべて決心通りに事を運び得て、私は帰国の途に就いた。眼下に東シナ海の青海原が拡っている。
 三年の中国在勤は顧みて男子の本懐であった。
 これで生き永らえただけのことはした。はたちで散った戦友たちの分までやったぞ、という思いが、ゆっくり腹の下の方からこみ上げてくる。

 先々どんな運命が待ち受けているか、と思う。しかしどうなるにしても、これからのことは気が楽だ。ノルマを果して私の戦後は終り、これからは自由な気持ちで思い切りのことをやれる。取りあえず帰国したら対中基本政策の土台になるようなレポートを書く。別に一般向けに一冊本を書き上げよう。そして桜の花の咲く頃、二八年の外交官生活に別れを告げる。

 それから先のことは、郷里に帰えるということ以外、何も頭の中にない。その年の参議院選挙など、それがあるということさえ意識に上ってこない。

 二、数奇な運命

 それがフトしたはずみで私の運命は急展開する。

 キッカケは帰国の翌々日、ある席に突如フスマを開けて現れた佐々木良作。民社党の委員長から直々の参院選出馬の勧めである。春日一幸、永末英一、それに民社党の党選対、藤井委員長が一緒だ。

 公明党が支援に加わるメドはついている。社会党はこれから働きかける。選挙費用は民社持ちというわけだ。(だからといって当選の暁、民社党に入れとは言わぬ、とは後日確認)

 政治に出る、としていただけで、叶えられるものなら新党結成を、と夢のようなことを考えていた私である。(大平総理急死以前の)保革拮抗ムードを前に、一人の無所属議員によるキャスティング・ボートの重み等々、想像して血が騒がないでもなかった。だがそれよりも、神風のように思われたのがカネのことだった。まだカネの有難さが碌に分かっていない私だったが、その用意を個人でしなくていいというのだから大助かりであることに間違いない。

 この結構ずくめの、まるでウソのような話に私が疑問をさし挟まなかったのは私がウブだったからだけではない。佐々木良作一行の訪中時、大使不在のため、私が代わってケ小平会見のコーチをした思い出がある。深更までの作戦会議での語らいが、佐々木良作との信頼の下地を作っていたのだ。

 だがいかにも青天の霹靂(へきれき)ではあった。いくら何でもこれほどの大分水嶺に、これほど早く差しかかるとは思ってもみなかったこと、受けとめるだけの、そしてよく考えてみるだけの心の準備ができていない。

(JICAの前身、海外技術協力事業団の会長として、四年にもなろうか、ずっと、私が担当した青年海外協力隊の運営ぶりを見てくれていた中山素平は、これから先、私の面倒を見てくれることになるのだが、その中山素平に相談に行くと「始めから体にピッタリという着物はないだろうが、民社党は君にあっているよ」と言ってくれた。

 確かに、民社党には私もほとんど抵抗がなかった。公明党への違和感はあっても、だ。だが何といっても気懸りなのは社会党。「ここで杜会党に借りができては一生の不覚」という思いが重くのしかかる。

 この心配をしないことにしたのは、この直後、佐々木からはっきりした説明を受けたからだった。佐々木は言う。「高知区での社会党の協力に対しては、別の選挙区で民社が見返りの協力をしている。後には何も残らないようになっている。伴個人が先々、社会党に負い目を感じることは全く無用」と。

 それでも、私にはまだ踏ん切りがつかない。何回も断念しかかる。その私の迷いをフッ切って出馬に踏み切らせたのが、実はカネのこと、旧制中学で一年上で当時、高知県会議員をしていた町田守正のさりげない一言だった。 (国会に出る想定で)先々どれくらいカネがかかりそうなのか聴いてみたのだ。するとその答えがなんと「どんなにしたって月一〇〇万円」だったのだ。

 どうしてそんなカネがオレに作れるのだ!

 カネのことを軽く見ていた当時の、生娘のような私には目の前が真っ暗になるようなショックだった。外務省に泣きついて退官予定を取り下げてもらえる段階ではもうない。

 よし、佐々木の話に乗ろう。実戦でもみくちゃにされよう。考えるのはそれがすんでからだ。

 こうして私の踏ん切りはついた。

 これが後々まで「ボタンのかけ違い」と言われる、運命の決心になるのである。

 確かにボタンのかけ違いだったかも知れない。だが佐々木があのとき私に出馬を勧めてくれていなかったら多分私は、要るカネのすさまじさに度肝を抜かれて、外務省は辞めたものの政治には出られずじまいの、どっちつかずの境遇をかこち続けただろう。その可能性はかなり濃厚だったと思う。

 とまれ、こうして私は、思いがけなく早く国政選挙を戦い、爾来、選挙に明け暮れる一〇年を送ることになるのである。

 出馬を決めたあと、政局が思いがけない展開をする。よもやと思われた内閣不信任案が通って衆議院解散、史上初の同日選挙が行われる事態に立ち到ったのである。

 民社党を公明党が支援し、それを社会党が応援するというややこしい陣構えは、参院選だけのつもりで構築された多党協力方式だったが、同日選挙となってはもうズタズタである。先ず総指揮官として高知に乗り込むはずの民社党、戸谷衆議員議員が自分の選挙で山口二区に釘付けになる。また社、公は衆院選で現職同士が競う敵対の間柄になるものだから、(三党連合軍といっても自分たちはワキ役でしかない参院選はどうでもいいようなもの)、私のことなどそっちのけになったのもムリはない。

 その上、大平正芳の急死が不思議や、弔い合戦などという合言葉で保守退潮の流れを逆転してしまう。

 こんなダブル・パンチを喰らいながら、一二万八千票を初陣で得たことが見る人によっては善戦に映ったのだろうか、選挙から二カ月たつか経たない中に「田中角栄が伴なる者に会ってみたい」と言っている、という知らせが舞い込んでくる。そしてこのあと、これから述べるような、 (今の私だったら考えることのできないような)初歩的ミスをしでかすことになるのである。

 選挙の大波に(予期したように)もみくちゃにされた私は、社、公、民三野党の当時の実態をつぶさに見て、皮肉にも一つの納得をする。たとえ勝ったにしても政権担当が期待できるような状態にはない、と。

 長い将来を見すえて純粋無所属ということを考え始めていた私は、田中に会うべきか会わざるべきか迷い抜いた。その私がやっと気持ちを整理して、砂防会館の隣、イトーピア二階の田中事務所を訪ねたのが九月三〇日である。

 田中は早口でまくし立てながらも、確かにシグナルを出していた。自民党でやる気はないのか示唆していたのだ。すばやくそれに応えていたら私の運命は、今ごろ大きく変わったものになっていたはずである。

 しかし、(当時の私には無理からぬことだったが)、田中への反応は誠に鈍重、というより稚拙も甚だしいものだった。
 先ず、四カ月も回答をためらっている。秋も深まったある日、京都の嵐山でつぶやいた自嘲の言葉が思い出される。
 一週間おきにお前の考えはイエースからノーへ、ノーからイエースに、変わっているではないか。

と。政治家の勘が芽生える前とはこういうものなのだと今にして思う。その私が再度イトーピアを訪ねたのは、年が明け、田中の健康に異変ありの衝撃が日本列島を駆け抜けた、その後になってしまう。

 しかもその際、中山素平の同道を願っているのだ。天下の中山がつき添うということは田中に「カネはすべて中山」と合点させてしまう危険を伴うことに気付いていない。これから息の長い戦いに、いくらカネがかかるのか分からないというのに、何と間の抜けたことをしたことか。

 イトーピアヘはそれから、二カ月に一度以上の頻度で足を運ぶことになる。中国問題では、自分でも驚くほど噛み合った論議が交される。

 その間、どれほど本気だったかは分からないが、同じ派の田村良平を高知の選挙区から退かせようとしていたフシがあり、そのために花を持たせる方法まで口にしたことがある。

 田村を伴に替える構想は、良平の後見役だった田村元の頑強な抵抗を受けるが、面倒見のいい田中は、何とか私を派閥にありつかせようと、斉藤邦吉(宏池会)や渡辺美智雄(当時まだ渡辺グループ)に話を持ちかけてくれたものである。

 こうして私の運命は、更に二転、三転し、結局のところ宏池会が私の面倒を見ることに話がつくのである。

 再出発、一九八三年の総選挙に自民党公認で名乗りを上げるようになったのは、このような紆余曲折の末のことなのである。

 三、壮大な実験

 天山の湖畔で政治に踏み切ってからの一〇年有半は、いま振り返ってみると、(第二回出馬のとき室戸地区を担ってくれたベテラン)山本武男がいみじくも言ったように、壮大な実験に終わっている。

 外務省のキャリアを大使寸前の時点で一〇年縮めたことの対価として、この一〇年で私の得たものが納得のいくものであったかどうか、にわかに判定はできない。それはこれから先どう生きるか次第。全生涯を見渡したところで決まっていくものだと思っている。

 壮大な実験という言葉を噛みしめてみよう。それは、家庭を営んで三〇年、海軍士官、法曹、外交官のキャリアと、国士への志を持った一人の人間が、自らを、人間モルモットとして、選挙という解明されていない世界に投げ込んだと見立てることもできるし、平たく一言えば自ら胃カメラになって、外からでは見ることのできないものを見てきたとも言える。戦争用語に強行偵察というのがある。実際に攻撃を仕掛け、戦火を交え、その手ごたえによって敵の戦力を測るというやり方である。三回目の選挙(一九九〇年総選挙)は最初から目的をそこにおいて出馬したし、その前の二回も結果的には同じことになっている。

 一〇年有半の中に私は、生体実験、胃カメラ、強行偵察でなくては得られない、実に多種の観察をし、多種な実験を果たし得たことになる。

 それらをいま振り返ってみると、候補には大事なことは知らせないでおくとか、選挙が終ったら、後日の証拠になるようなものは一切合切、焼き捨てるという奇習が生まれるのも、理由がないでもないと思われてくる。現行公職選挙法や政治資金規制法による網の目がこまか過ぎて、うっかりハガキ一本出しても、出しようによっては法に触れる。これでは、法網くぐりにたけた選挙のプロたちが、被害範囲の局限や証拠の隠滅の必要性から、犯罪集団さながらの行動様式をとるようになるのもムリはない。

 こんな問題のほか、選挙には、民主主義の建前通りに有権者が動かないという厳然たる事実がある。そしてその奥には、人間が自分の力で制しきれない性(サガ)が潜んでいるように思われる。

 選挙を知る人ほど口が重くなる。考えれば考えるほど選挙は語りにくいものなのだ。

 こうして選挙の現実は、いつまで経ってもコトバにならず文字にもならず、プロ以外の人々には未解明の世界として放置されて来たのだと思う。私がこれから述べようとするのは、幸いにしてブロに近い状況で迫り得た選挙の実態であり、今回は、選挙にまつわるカネの神通力に主眼を置いて筆を進めてみようと思う。

 四、あとで知るカネの使われ方

 一回目、参院選は、無所属で、社、公、民支援の形をとっているが、実際は民社党がすべての戦費を持って取りしきる党営選挙だった。だからというわけでもないが、カネがどんなに動き、実際いくら掛ったか、候補者本人は何も知らないまま終っている。

 少々気がかりだったのは、社会主義政党にしては飲み食いの会合が多く、地方出撃の際の食事が豪勢だったことだ。尤もこういうことは全局面のほんの一部。これを以って全体を推し測ってはいけないと思う。

 ただ、これでいいのか、と思ったことの一つは、いくら累(るい)を候補者に及ぼさないためだとしても、これほどにまで候補者をツンボ桟敷にしておかなくてはならないのか、ということである。自動車労連から私に宛てた、特別の金一封なども、その赤城事務局長からそうと聞かなかったら、私は知らずじまいになっていただろう。当時のカネで五〇万円という額である。

 それを超えて、これこそ問題だと思ったのは、社会党か公明党か、今は失念しているが、「伴から挨拶がない」ということが県議団筋から聞えてくる。私はとっくに挨拶に行っているのに、である。これは前後の事情から考えてみて、私が手ブラで訪ねて行ったことに由るとしか考えられない。吉良へのツケ届けにウカツだった赤穂藩と同じだったのか。一瞬、脳裡を衝撃が走る。

 参院選は右のように民社による党営選挙だったが、佐々木委員長の勧めもあり、本来が保守という伴イメージをテコに、四万票を目標として保守層向けの別動隊を作ることになった。そして私の活動も日を追ってそちらが主になっていった。

 こんなことから伴陣営は、別動隊運営の形で、自民党型の運動展開を、カネの面も含め、かなり本格的にやったのである。

 社会党が加わったため、中道でなく革新となったことは、亡き父母がそれぞれに持っていた地元人脈掘り起こしの大障碍となる。その一つが勘定奉行にひとを得ないまま、戦争遂行を余儀なくされたことである。

 東京で、物心両面、私の後楯となってくれていた、小倉一春が、東京からの送金状況に止まらず、選挙区現場での支出状況まで目を光らせてくれていたことは選挙後になって分かったのだが、もしもそれを小倉がやってくれていなかったら、どれだけのカネが何に使われたか殆んど分からずじまいになっていただろう。

 選挙がすんだら一切の書類を焼く、という手順も決まっていたようだ。応援に帰郷していた長男の武澄が、焼かれる寸前の書類をゴッソリ、柳行李に詰め込んで脱走、高松まで運んでくれなかったら、別動隊関係書類の殆んどは灰煙に帰していたはずである。

 このほかに大量の文献を危機一髪のところで守ってくれた陰の恩人がいる。東京での岡田美智子と高知での宮崎典子だ。岡田は協力隊OB、宮崎は親戚という間柄だったこと、二人とも全くの素人でなまじっか玄人ずれしていなかったことが、この手柄のもとだった。

 それはそれとして、小倉が徴収し綴ってくれていた、会計関係のレポートや証拠書類に選挙のあと目を通していく私は、何度溜息をついたことだろう。一件当たりの飲み食いの請求が何度も一〇万円を越えている運動員もいるのだ。落選判明のとき男泣きに泣かんばかりだった心情と、ルーズなカネに群がる心理が、一人の人間の中に同居している!これが選挙というものか。浄財を寄せられた人々を思うと、悲憤の情も湧きおこってくるのだ。

 もっとひどい話もある。投票日の数日前、社会党にエンジンをかけるため七〇〇万円か八○○万円に及ぶ有り金をゴッソリ支出したというのである。後で聞いたときの断腸の思いは今も忘れることができない。本当に社会党に渡ったのか、それさえ定かではないのだから。

 五、カネと参謀

 国政選挙に出てからの一〇年は、選挙に明け暮れた一〇年と言うより、ズバリ、カネにうなされ通しの一〇年といった方が真実味がある。カネの呪縛から自由になっていた時期といえば、その一〇年の中の最後の半年だけ。自民党を脱党し、もはや勝つことのない、選挙を変える魁(さきがけ)になろうという思い一筋に戦った、平成二年の総選挙のときだけである。

 すべての戦いがすんで日が経つほどに、カネのメドがついているということがいかに重要なことであったか、思い知らされる。

 親譲りの参謀に恵まれている二世候補は別にして、新人がぶつかる最も切実な問題は、陣営の指揮をとる参謀に人を得るかどうかである。「何としてでもいい参謀を」とは誰しも思うことなのだが、後醍醐天皇のおん夢に楠の大樹が現れるようなうまい話は滅多にあるものではない。参謀の確保そのことに(本人への報酬のことではなくて)軍資金全体のメドがついているかどうかが大きくモノを言うのだ。

 国政選挙の参謀が勤まるほどの人物なら勝てるカネがどれほどか胸算用ができているはずだ。自分えの報酬はどうでもいいとする人でもこの意味で、使えるカネのメドが立ってないと選挙は請け負えない。理の当然だ。

 そんなことさえ当初は分かっていない私だった。しかし私の参謀探しが、一〇年遂に実ることがなかったのは、こういうカネのメドの立った時期が一度もなかったからである。

 選挙というもの、特に右に述べたような物事の道理が分かり始めたころ私は、かつて初陣の谷川寛三を衆議院に上げた中平博がたまらなく欲しかった。地元政界で私が指南らしい指南を仰いだ、あとにも先にもたった一人の人、岡林秀起、意中の人であり、そのことからも分かるように私に好意を寄せてくれていたことも分かっていたからである。だが、私の値ごろ感でも、億に充たないカネでは中平ほどの長老に手をついて頼みにいく訳にはいかなかった。渡辺グループから外されてからお先真っ暗の一年は勿論のこと、田中の計らいで再度宏池会に身を寄せるようになってからでも、(ホテル・ニューオータニの出版記念会で三千五百万円のカネが集まる、というホッとした時期はあっても)中平に参謀就任を要請するに充分な額を、見込みだけでいい、割り出せる状況は遂に到来することがなかったのである。

 それよりずっと前にも、本命だった町田守正をつかむチャンスがあったと思う。彼が、もたつく私の尻を叩いて再度田中の門をくぐらせたころ、誰がどう見ても参謀の本命は町田だった。私もその積りで田中に話をしたし、田中も「田村(良平)のことがあるから町田にオレからは言えないよ」としながらも、あとで早坂茂三や佐藤昭子を私に紹介するときは「高知、三人目。町田がやる」と、まるで既定事実のように言い切っていたものだ。

 その町田が田村派への義を楯に伴正一、三顧の礼に応じなかったことは予期せざる大番狂わせだった。それだけでなく、爾後、他の県議を伴派に引き込もうとしても「(あれほど親しい)町田がついてないではないか」とやり返されて話は先に進まなかったのである。

 こうして町田の不参加は、私の出直しの前途を大きく狂わせることになるのだが、時の経過とともに気付いたことは、これも、原因はカネのメドが立っていなかったためではなかったかということである。

 陣営の年々の出費や次の選挙に使えるカネがどの程度見込まれているのか町田には分からないし、伴からもその話は皆目ない。これでは町田として伴につくことは思いとどまらざるを得ないではないか。せめて全く抽象的にでも、カネを田中がみることにでもなっていれば、町田は動いたかも知れない。

 町田はこれから後も何回も小倉一春を訪ねてきている。当時はなんのためだろうといぶかしがったものだが、今にして一つのことに思い当る。一、二回両度の選挙を通じて、私のための資金集め一切は、中山素平の三羽ガラス、藤永誠一、小山健一、小倉一春が、取りしきっていたが、町田はその小倉から、伴陣営戦費調達の見通しを聞き出そうとしていたに違いない。

 打ってつけの参謀たり得たであろう町田は、こうして遂に私とのペアを組むことなしに終わり、また、私の運命も、カネのメドが立つか立たないかのこの分岐点から、帰国一年をまたず、下り坂に向かっていくのである。

 思うに今までの選挙では、タレントなみのブームが捲き起れば別だがそうでなければ、カネの用意があればあるだけ、最初から選挙を有利にスタートさせることができる。カネを使えば使うだけ、乗るかそるかの局面を巧みに切り抜けることもできる。そういう現実が厳然としてあるなら、カネの威力が衰えるはずはない。であるなら、あの手、この手、際どいことだらけのカネづくりをものともしない剛の者が、摘発で刺されでもしない限り勝ち残る。この法則を止める工夫が本当にあるのだろうか。

 一回目の選挙が終ったあと、私は青年協力隊OBの桑原晨の計らいで、既に高齢だった市川房枝を訪ねた。カネのかからない選挙の秘訣を聴きたい一心だった。だが、聴けども、聴けども市川の話が、核心に迫って来ない。

「していることを知って貰うことね」

 こちらはそんなことを聴いているのではない。それくらいのことなら百も承知だ。早い話が、過ぐる参院選で、どうやれば知って貰えたのだ。辞めて半年しか経ってないのに、外交上の秘密がしゃべれるか。こちらは真剣にカネのかからない秘訣を乞うているのだ!

「前回もおカネが余っちゃって、福祉施設に寄附したわ」

 オイちょっと待ってくれ。集ってきたカネは、清潔な政治家、市川房枝への政治献金ではないか。恐らく貧者の、心のこめられた一灯、一灯の積み重ねだ。市川が要らなければ、市川が育てようと思っている清潔な政治家の卵たちにこそ分ち与えるべきではないか。それを、何という思慮分別のないことをする!

 四〇分余りの質疑はこうして不毛のまま終わりを告げる 市川はタレント。タレントなら市川でなくてもカネは集まるし、タレントなら始めからそんなにカネも要らないのだ。

 カネにきれいなことで世に鳴る市川房枝から何一つ教われなかった私の失望は大きかった。そして市川に見習えば政治はきれいになると、一般を思い込まして来たマスコミのいい加減さ、政治とカネの問題に対する学者たちの掘り下げの浅さに駭然とする思いだった。

 六、悲 秋

 それから二年の時が流れ、来るべき総選挙に向かって、一つの部隊が進軍の途に就く。一九八二年一一月、ホテル・ニューオータニでの旗上げ、出版記念会がそれだ。

 明けて八三年一月には伊東正義、中山素平が、四月には宮沢喜一が高知入りして地元でも気勢が上る。既成政治家の地盤には比すべくもないが、組織はエンジン全開、疾走態勢に入り、私にとって一番華やかだった一時期が展開する。ホテル・ニューオータニで挙った三千五百万円のお蔭だ。

 だがその一時期が過ぎて目に青葉、参院選が近づくころになると、それほど財布の紐を緩めたとも思えないのに、さしものニュー・オータニのあがりは心細いものになっている。先々請求書がくるはずの発注ずみ金額を計算に入れたら既に赤字だ。私の出る総選挙の本番は秋からだというのに、である。

 中山と牛場信彦の計らいで宏池会の資金援助にありつくのだが、一時期のように活発な動きをしていたら忽ち息切れすることは目に見えている。大事な時期だが雌伏して永らえるほかはない。

 だが、それも四カ月続いただろうか。やがて本番の秋の訪れである。

 これから先、どうする!

 そういって考えあぐんでいる間も、再びカネは水道の栓が利かなくなった時のような勢いで流れ出始める。

 能うる限り先払いにする。多くの人が協力してはくれた。しかしやがてこれにも、ありありと限界が見えてくるのだ。

 文句ひとつ言わず先払い了承で、既に四百万円分も納入をしてくれていた印刷屋にも内ゲバが起ったらしい。社長をバイパスして奥さんから取り立て電話がかかるようになる。

 私が夜逃げをするとでも思っているかのような、そのどぎつさ。キャッシュ不要で印刷代は大助かり、最後までこれでいける、と思い込んでの大量発註が大の不覚。こんなことになるのなら、もう少し節約のしようがあったものを、今となってはあとの祭りである。

 一回目の選挙のときと違い、二回目は、財政に黄信号が点滅し始めた段階から、候補の私が自分でカネの出入りに目を光らすようになっていた。その中でこんなエピソードもある。
 参謀を求めて得なかった事情と、その資金背景については、既に述べたところだが、本番になってもまだくろうとがいない不安は、参謀代行の安岡豊松に大きくのしかかっていた。そこで高知市会議員二名を陣営に加えることになるのだが、彼らにとってわが陣営のカネの出し渋りが我慢のならぬものに映ったのは無理からぬことだった。

 財政引き締めに必死の安岡が彼らの要求をブッタ切る。「そんなことで選挙が戦えるか」と、市議の一人島崎がフンマンをぶっつける。事ある毎に激しい応酬が繰り返されていく。だが、やがてある日のこと、島崎がこんどは私に向かって要求を突きつける。

「カネのことは安岡さんに決めさせて下さい」というのだ。それは取りも直さず私に口を出すな、ということ。ここで一言「うん」と言ってしまったが最後、安岡はそれから先、マヌーバビリティを失う羽目になる。絶妙の呼吸とウィットでカネ流出の調整弁の役目を果たしてきた大黒柱、その安岡からハシゴを外すわけにはいかない。私は口が裂けても「うん」と言ってはならなかった。さあ、どう答えるべきか。

 やがて沈黙を破って出た私のコトバがこれである。

 「伴陣営にカネづくり参謀がいたら私は、それにカネのことは任せて口出しはせん。担がれる候補の座におとなしく納まっているよ。だがその募金参謀がいない。候補の私がそれを兼ねている。中山素平さんへの説明は私がせねばならんのだ」

 我ながら言い得て妙だったと思う。

 安岡はそれからも巧みに各方面からのカネの要求を値切り続けてくれた。

 それでも土佐清水市では、百万円の予定が四百万円に膨れ上っている。その話はこういうことだ。

 同市の事業家、畦地豊美は義侠的にやってくれた人で「先生にはカネを使わされん。用意して頂くのは百万円ポッキリでいい」と言ってくれた。だが実際に走り出すと、その事務方から畦地を飛び越しての熾烈な追加要求が相次ぐ。一度、二度は畦地に頼んで要求を引込めさせ得たが、やがて畦地も抑え切れないところへ追い込まれる。選挙でのカネの話というのは、始めにいくらはっきりさせていたことでも、「もうあと幾ら出してくれ。それが出せないなら勝負は負け。私も引かして貰う」などと凄まれたら、当初の約束を持ち出しても始まらない。本当に、あな恐しや、なのである。

 こんな具合の話があちらこちらにある中で入金のメドはといえば、言うを憚るようなことまで含めて、すべての試みは潰え、今や万策尽きている。ただ一つ何カ月か前耳にした「借りるしかない」という中山の寸言が、もしかしたら起死回生につながる特別のことか、とかすかな希望的観測を抱かせていた。

 しかし、一○月も末のある目、それも期待できないことを同じ中山の口から聞いたとき、万事休す、となる。

 その目の酒は悲しい思い出の酒である。

 あとにも先にも、やけ酒というものをあおったのは、私の生涯でこの日のほかはない。

 その悲憤の形相に正視し得ないものがあったのか、〃江戸家老〃の鈴木潔、名秘書の名の高かった唯野恭子の二人は、これから獅子奮迅、前年出版会での協力筋を駆けめぐって、出版会のあがりとほぼ同額のカネを(奇蹟と言うほかはない)集めてくれるのである。

 そんなことが起ろうとは知る由もない私である。翌早朝、羽田を飛び立って思ったのは、死、であった。

 この飛行機が落ちてさえくれたら、すべてはきれいに終息する。

 ルビコンを渡っておきながら兵を引く醜態を演ずることなく、
  恥さらしの決断を自分ですることなく、
  士(さむらい)の末裔のほまれを保持し得て鉾を収めることができる。

 これぞ正に、カネにうなされた一〇年のクライマックス、いま往年、孤独のときを偲んで覚えずも
    ああ星墜つ秋風五丈原
を口誦むのである。

 七、集まらないカネ

 地区、地区の運動を地元からのカネでやれたら、という悲願は、一〇年、果せぬ夢に終った。私は一番強かった宿毛市でそれを実現しようとした。そこには参院選のときから自腹を切って宿毛地区の釆配を振ってくれた竹馬の友、大井田俊朗がいる。医者で徳望家で宿毛市長やその兄、林参議院議員の後援会長でもあった。配するに選挙では玄人の長尾精がいて、これまた旧制中学以来の仲間だ。

 これだけの好条件に恵まれていて、なおかつ戦費地元調達の実践例第一号が樹立できなかったのは何故だろう。

 大井田や長尾にしてみれば「票をくれ」と言って廻るのが精一杯だった。カネまでよこせ、と言ったら票も逃げて行く。こういう際どいところへの気配りがあったに違いないのだ。長尾がどこまで大井田に迫ったのかは詮議立てを控えているが、大井田による奉加帳の筆下しは見果てぬ夢に終わったのである。

 知らず識らずの中に話が八三年総選挙を越えてその後のことに及んだついでに、いましばらくカネにまつわる思い出を綴ろう。

 新人でも勢いが出てくるとカネは見違えるように集まりがよくなる。先物買いの心裡が働くのだ。

 だが、先物心裡が働くようになるまで勢いをつけるには、通常は元手がいる。その元手のカネが、二世とか資力をバックにした場合でない限り本当に集まらないものなのだ。

 そこで少しばかりこの辺の機微を探ってみよう。

 昨今の選挙で勢いというのは上(あが)りそうに見えるということであって、上って欲しいという期待とは、似ていて違う。

 上って欲しくても上りそうにないと見たら、票(さえ怪しいがそれ)は入れてもカネは出さないのが選挙民の通有性だ。そこへ下手にカネ集めに立向うと「カネまでも?」という反応が起る。そしてこちらもつい、図々しすぎた、という気にされてしまう。

 一〇年一日の如く選挙に没頭した私の、心に焼きつけられて離れない庶民像の一面なのだ。金丸に怒る有権者の大部分もこの例外ではない!

 ところが、それも候補が上りそうだとなると、さきほど述べたように風向きが変わる。贈賄罪における請託のような具体的なことは口にしないで何分よろしくという程度の、それでもどぎつくいえばまいないの成分を多分に含有する金一封が動くのである。

 そこには、高級使い走り、何かにつけて利用価値のある国会議員、という、意外に浸透し、社会通念化したイメージが色濃く影を落しているのである。そしてその用を果たすことができ、その用を頼めるのも(選挙)に上ってこそなのだ。政治資金が有力国会議員に流れるのと同じ原理で、上りそうな候補向けに動く。それには、自然則の一つに数えてもおかしくない科学的法則性がある。

 いま見てきたところに一つだけ例外があるとすれば初回出馬のときである。二回以降には中々集まらない純度一〇〇%の浄財が、一回目には、それまでにつき合いのあった人々から寄せられるのだ。

 二万円くらいまでだとパーティ券を買って、励ます会に来てくれる。中には、出られないけれども、といって一万円送ってきてくれる人もいる。日頃のつき合いがよければ二百、三百枚のパーティ券消化はそれほど難しいことではない。

 そのほか私の場合など、海軍経理学校同期生き残りの約三〇名が一人五万のカンパをしてくれたものだ。

 だが、一度落選して二度目となると、こういう浄財組の多くが私の出馬を負担に感じ始める。またか、という気持ちになる。友人たち本人がそう思わなくても奥方たちが「いい加減になさったら」という顔つきになる。義理は一回目ですませているじゃないの、というわけだ。ましてや二回落ちて三回目ともなれば、この傾向は一挙に増幅される。私の場合、二回目に落ちてしばらくすると、海軍時代の教官から訓(さと)しの手紙が届く。国のために尽くす道はほかにもある云々、と切々たる口調で翻意を促す文言だ。海経出身者から、かなわんなあ、という声が挙っていたのだろう、と今にして思う。

 個人の浄財の多くが、政界進出に期待をかける度合よりも、今までの恩義や友情から、言ってみれば香典を包むのと同じ気持ちでのはなむけであることを、これらの事情は雄弁に物語っている。そしてこのことが、わが国における政党の未成熟と深くかかわっているのである。 (つづく)
 


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