「魁け討論 春夏秋冬」1992年春季号
 

世界新秩序3―民族問題を掘り下げようとすれば―

    
 お詫びとご挨拶

 春季号の仕上がりがすっかり遅れてしまいました。
 新秩序の世になっても、国家はその構成員としてとどまるはずであり、一挙に国家が消えて世界連邦が生まれることは今のところ考えられません。国家はどんなに変貌を遂げても世界を形づくる大切な単位であり、その研究は、世界新秩序の中で重要テーマです。
 今世界のあちこちで生まれ出で、また生まれ出ようとする新しい国々の行く末に思いを馳せながらに、民族問題という底流に探りを入れてみました。まだ試論の域を出ませんが、あえて高覧に供しご批判を仰ぐ次第です。

 平成四年五月 伴 正一勉強会


      目   次

 一、 国単位で国防を考えなくてよくなったら …………………
 二、 小さい国、連邦制の知恵 ……………………………………
 三、 大き過ぎる国、地域覇権 ……………………………………
 四、 ユーゴ問題の抱える難問二つ ………………………………
 五、 言葉、アイデンティティー、文化 ……………………………


 一、国単位で国防を考えなくてよくなったら

 司会 人の心はどの国でも移りやすいもの、湾岸戦争の勝利に沸いたアメリカが、一年後にはどうでしょう。「アメリカは、世界のことにかまっていられるような状況にはないんだ」と主張するブキャナンが勢いを得て、いっときブッシュ陣営の心胆を寒からしめました。

 もっともペンタゴン、国防省筋は意気軒昂で「アメリカの軍事的優位に何国たりとも挑戦を許さず」とこれはまた元気のよすぎる内部ぺーパーを回して物議をかもし出しました。元大統領のニクソンあたりも似たような調子で「ブッシュ!へなへなするな」と叱正の声をブチ上げる始末…。

 そんなことで、アメリカを孤立主義の方向に押しやる力がいっとき勢いを得ても、やはり歯止めが利いてバランス感覚が戻ってくる。そこがアメリカのしたたかさだと思うのですが、それにしても、世界の新しい平和秩序への論議は低調です。ひところの熱気がいまのところアメリカに見られなくなっています。

 大統領選挙の年だとはいえ、これは非常に残念なことで、これじゃ世界はどっちへ向いて進んでいくべきか不透明なまま、貴重な一月々々が過ぎ去っていきます。

 日本は、日本の論調や態度が、世界の政治面でかなり不協和音を奏でているとも気づかず今こそ軍縮、とはしゃぎ気味です。しかしですよ、国連軍であれ、多国籍軍であれ、アメリカ軍であれ、イザというとき救援に来てくれるのでなければ、どんな国だって安心して兵力を削減なんかできませんよ。「日本を見習え」と日本の評論家仲間ではよく言われますが、日本はアメリカという世界最強の国を用心棒に持っていた。経済でボーダーレスの時代が来ても、平和を維持するのに用心棒無用、という時代は、来そうにありません。

 にもかかわらず、その用心棒をどんなチーム編成にすればいいのかの論議がサッパリ盛り上がらない。こんな調子でもたついていたら、世界新秩序どころか、今地球上で燃えあがっている民族運動の火の手は燃えさかるばかり、下手をすると強い者勝ちの世の中があちこちに現出しないとも限りません。

 国防のことは国単位で心配しなくていいように、国際的な用心棒チームを作り上げる。これこそが世界新秩序の基本課題であるのに、そのことについてまだどの国からも具体的構想が出されていません。本来ならアメリカから案が出て、アメリカが中心になって検討が進められていいのに、そのアメリカが、大統領選挙の年ということがあって、もたついているわけです。

 ところで国防のことは国単位で心配しなくていいように、などとさり気なく言ってしまいましたが、そんなことになったら、いままでの国はすっかり様変わりしてしまい、国なんてもう要らなくなりはしないのか、と言う疑問さえ出てきます。

 そこで今日は、すこし先まわりをして、「そうなったときの国」についてデザインをぶつけ合ってみて頂きたい。というのも、それをやっておかないと、その中の一つ、日本という国の「国家設計」へは危なくて進めないからです。

 二、小さい国、連邦制の知恵

 板垣 以前、特に弱肉強食の時代には領土が広いとか、人口が多いとか、平たく言って図体の大きいことが国家保全のうえで大きい意味を持った。しかし国家保全の心配を国単位でしなくてすむようになれば、国が小さいことは不安材料でなくなります。国の存在意義が根底から変わってしまう。いくつかの国が、それぞれ独立して存続するか、統合して一国を成すかという選択も、安全保障以外の要因で決まるようになるはずです。

 加えて経済のほうからはボーダーレスヘの力が利いて来て、国家を成しても成さなくても昔ほどの違いがなくなってくる。インド洋上に浮かぶモルジブのような国(人口二十万人)、住民が望むならそれが一番いいという時代になるのじゃありませんか。

 大隈 そんな簡単なものじゃないよ。僕の国家論なんだが国というものは、安全保障機構そのものでもあるんだね。

 国には国土というものがあり、国土内のいかなる武装蜂起をも平定し得る(まとまった)軍事力がある。新しい国を承認するときのチェック・ポイントに国土の有効支配というのがあるんだが、この有効支配というのも、中央の軍事力が十分な抑止力となって、国土全体の平和が保証される状態になっているということに外ならないんだ。この基盤が崩れると、法秩序も文治機構も砂上の楼閣化する。国が乱れるという表現がこれに当たる。応仁の乱から秀吉の天下統一までの日本を思い浮かべてもらうとよく分かるんだが、国の中枢権力が有名無実になり、大小の群雄がそれぞれ事実上国を成す形になるんだ。

 僕の論法でいくと、国があまり細分化しないでいてくれると、この地上の平和維持のかなりの役目をいままで通り国が引き受けてくれ、世界規模の平和維持、平たくいって国連などの負担が過重にならないですむんだ。

 国が軍事力をバックにして持つ、国土内平和保持の機能を見落とすと、世界平和維持論は欠陥理論になる。だから軍縮なんていうのも簡単に考えてはいけないんで、国内の平和維持などすっかり忘れていられる日本と、共産ゲリラや部族叛乱に悩まされ続けている国とでは、国内平和保持面での軍の重みがまったく違うんだ。

 司会 そう言われてみれば、南米があんなに多くの国に分かれていなければならない必然性はなかったのかも知れませんね。ブラジルを除けばスペイン人の子孫が樹てた国なんですから。昔のインカ帝国の方がずっとまとまっていた(笑い)。

 第二次大戦後のアフリカは、原住民が国を建てたという意味で南米の建国とは大いに違うけれども、南米の轍を踏まないで、連邦崩壊の危機を見事に克服した米国史に範を求めるべきだったかも知れませんね。

 そこで大隈さんから得たヒントで頭に浮かんでくるのが連邦制の工夫なんです。これから先、みんなが知恵をしぼり、いろいろの形の連邦制が考案され、強度のものだと各州は、ボーダーレス化するこれから先の国とあまり変わらない形で運営できる、民族自決の悲願も、八割は達せられるというのであれば、五千あるとも六千あるともいわれる世界の諸民族が一つ一つ国を作らなくてすみますね。どうです、板垣さん、この妥協案は。

 板垣 国そのものを安全保障システムとして捉えるなら、これくらいしっかりした安全保障システムはほかにありませんね。確かに、国の数が増えれば増えるほど、以前は国内紛争であったものが国際紛争に転化される。内戦だったものが、国と国との戦争になり、それだけ国連軍などの出動の頻度がふえる…。やたらに民族自決を後押ししないで、連邦制という代案で収拾するというのはひとつの卓見ですね。だがこういう点はどう考えるんですか。

 世界が細分化され、国の数が多くなれば、国連軍などの出動回数がふえそうに思われますが、なにしろ国が小さいと、国連軍との軍事力の格差がそれだけ開いてくるんだから、国連軍の抑止力がよく効く。侵略行動に出る国も激減するし、出動しても平定に手間取らない…。となれば国連軍の負担はむしろ軽減されるんじゃありませんか。

 また、大隈さんのいわれるように、国の細分化を防ぎ、大きい国をたくさん存続させておくと、その中から侵略国が現れたとき、国連軍はその討伐にてこずって人命の上でも甚大な犠牲を払わなくてはならなくなる…。連邦軍のマイノリティー弾圧が目に余る場合でも、こと国内事項である間は国連もウッカリ手を出せない。この一年のユーゴのように何もかにもが、手遅れになるんじゃないですか。

 三、大き過ぎる国、地域覇権

 司会 民族主義に理解を示し過ぎると独立運動を煽り気味になる。結果的には内乱を助長するようなことになる。しかし、不自然な連邦が解体して自然な形で国家群が誕生するんなら結構な話で、それを阻止しようとするのもいけませんね。そこで、いままでのところ、国はいくら小さくてもいいのかというテーマだったのをここらで反転し、大き過ぎる場合のことを考えてみてはどうでしょうか。

 大隈 旧ソ連の中でロシアがズバ抜けて大きい。帝政ロシア時代コサックの東進で拡げた領土をスッポリそのまま手放さずに抱えている。中国も清朝の時代に拡げた領土がモンゴルを除いてそのままだ。インドはまったく事情が違うが、それでもこれだけ大きいと国というより文化圏という感じになってしまう。

 こういう国々はその巨大さ故に、近隣諸国にうっとうしさを感じさせずにはおかない。万が一にもこんな国が暴れ出したらと思うだけでもゾッとする。とても湾岸戦争みたいな収拾はできそうにない。その上、ロシアや中国のように国連で安保理常任理事国だと、いつでも拒否権を使って国連を眠らせることができるんだ。

 広大な国土の中の平和を支えるのだから、かなりの軍事力保有は不可欠なんだが、その軍事力が、近隣諸国にしてみれば不気味な存在なんだな。こうしてご本尊がそんな気はさらさらなくても、大国風を吹かしているようにとられがちになる。地域覇権の烙印を押される。

 この地域覇権というヤツなんだが、否み難い事実関係をアッサリ認めて逆にこれを活用するという構想も頭から否定はできない。グローバルベースでアメリカの特殊性を認めるのなら、リージョナル・べースで域内大国の特殊性を認めていいではないか、というのも筋は通っているからね。

 締めくくりにアメリカだが、反論はいくらでも組み立て得ようが、アメリカの強大さを外しては、国連軍でいっても多国籍軍でいっても平和秩序の基盤はガタガタになる。結論を先にいえば、アメリカの欠点は欠点でほかの国が補いながらアメリカを立てていくしかないと思うよ。

 司会 いま大隈さんが出された地域覇権の問題、これは避けて通るわけにいかないテーマだと思いますが、板垣さん、どうです。

 板垣 そもそも世界をいくつかのブロック(地域)に分けて地域安全保障システムを組むことには私は前から反対なんです。冷戦時代・グローバルには西の旗頭として通っていたアメリカでも、リージョナルに見ると地続きのラテンアメリカではすこぶる評判が悪かった。ドイツや日本にも似たようなことが起こりやすい。なまじブロック単位でまとまるようなことを考えるもんだから、地域覇権への心配が出てくるんです。だから、こと軍事力については、国連軍か多国籍軍かグローバルに一本化して、中二階みたいなシステムは一切作らない方がいいんです。そうすればこれから先、地域、地域で覇権争いが起こる心配もぐっと減る。

 一歩進んで考えるなら、鎮圧行動を任務とする国連軍や、多国籍軍は、侵略国の存在する地域以外からの軍隊で編成される方がいい。戦費が高くついても仕方がないと割り切るべきです。というのは、どちらが侵略でどちらが鎮圧側であろうと、隣同士で戦うのは後々にしこりを残すに決まってますから。この原則をさらに拡げると、旧宗主国は鎮圧軍に加わらない方がいい。昔さんざん搾取した国が今度は正義の名の下に攻め込んでくるというのは住民感情への配慮がなさ過ぎると思う。

 とにかく大きな国の大きな軍事力は、もっぱら国連軍や多国籍軍を強化する方向に投入されるのが正解だと思います。

 司会 いまのご意見は大国に限らないんで、アジアの一国を鎮圧するにはアジア以外から、アフリカで侵略行動が起こったらアフリカ以外から、というのを国連軍や多国籍軍派遣の原則にせよ、ということですね、ラテンアメリカ派兵に当たってはアメリカ軍を外す、ということにもなりますね。

 板垣 そうです。

 司会 これは注目に値する堤言ですね。PKF=国際平和維持軍は、鎮圧ではない休戦監視だけだけれども、剣つき鉄砲で哨戒するんだから、似たような配慮があってもいいんですなあ。打ちのめしたり喝かしたりする役は遠くの他人にやらした方がいい。ここに知恵あり、また一つ大きいテーマが出てきました。

 四、ユーゴ問題の抱える難問二つ

 ところでさきほど、板垣さんがユーゴ情勢に触れられましたが、これは、国とか民族問題での課題を拾う上で、言い方は不謹慎だが、まるで宝の山のようなものです。もうすこし突っ込んで意見をおきかせ願えないでしょうか。

 大隈 われわれの注目を惹くようになったのは北の方のクロアチアとスロベニアが独立を宣言したあたりからで、ほとんどの日本人が、地図の上でその所在を探しまわったんじゃないかな。

 ところが、この独立宣言は、連邦内で勢いづいた大セルビア主義の動きが、クロアチアとスロベニアをそこまで追いつめた結果のことだったようで、そこまで行く前にアメリカやECが、大セルビア主義の危険な動きを牽制し、「いうことをきかないと武力介入をするぞ」くらいの強いトーンで制止していたら、こんなにひどい流血沙汰は起こらないですんだだろうに、という見方がかなり出ている。

 しかし、ことはユーゴスラビアという国家の中の内輪もめに発しているわけだから、国連といえどもうかつには手を出せない。そのために何もかもが手遅れになった。いまの国際法秩序の仕組みの下では仕方のないことじゃなかったか。

 司会 ということになると、いままでまかり通ってきた「国内事項ルール」をそのままにしておいていいのかという問題提起にもつながりますね。その点、板垣さん、どうお考えですか。

 板垣 クロアチア、スロベニアもついこの間までユーゴスラビアという国の中にいて国家に楯ついた反乱集団でした。ボスニア・ヘルツェゴビナも然り。連邦軍の進攻は鎮圧行動という正統行動だったんです。それがいまでは、なんと連邦軍の主力だったセルビア軍が、ボスニア・ヘルツェゴビナを侵略していることになっています。

 国内事項である間は官軍だったのが、国際問題になった途端に侵略軍にされてしまう。

 そんな奇妙なことになるくらいなら、始めからユーゴ内の事態を国際問題に準じて取扱う、として取りかかったほうがよかった。そうすれば手遅れということもそれほどなしにやって来られたのではないでしょうか。 (選挙にかまけてブッシュ大統領の腰が湾岸のときのようにピタッときまらなかった、とばかりもいえません)。

 そこでこれから先のことを考えると、一国内の民族紛争が内戦寸前という状態になったときには、国連(安保理)が、「不安定国家」の認定を行って、内部紛争を国際紛争とみなすことができるように、新しいルールを設定するということです。濫用されると困るけれども、こういう新しいルールがないと、これから多発しそうな民族紛争に適時、適切な処置が世界共同体として取れそうにありません。(いままでの交戦団体理論だけでは間に合いません)。
 それだけでなく、くにの条件を洗い直して独立承認の判定基準をいままでよりもはっきりさせることが必要だと思います。

 独立のために血を流すことを辞さない、という意識が集団全体に広く行きわたっていることが確認できたら、もう国を成す素地は十分と判定して承認に踏み切る。独立戦争の戦いぶりを見届ければ、ホンモノかどうかの見究めはもっと確かなものになるのでしょうが、下手をすると互いに引くに引けない凄惨な殺りく戦になっておびただしい人命が失われる。

 司会 血を流す、そこまでの覚悟がないと独立運動はホンモノといえないんですか。

 板垣 私はそう思います。国をなすということを甘く考えてもらっては困るんで、いっときの感情に支配されやすいレファレンダムなど、宗主国がそれで折れてくれるのなら話は別ですが、国際的に、宗主国の反対を排して独立を承認する基準ということになると、もっと厳格にホンモノ性を見定める要がある。その間、かなりの混乱が続くことがあるでしょうが、その混乱は、ひとつの民族国家が生まれるための陣痛なんで、その陣痛なしですませようとしたら、安易に独立を認める方に傾斜してしまう。それではいまのロシア、中国、それに内戦の続くミャンマーやインドネシアなど民族問題を抱えた多数の国々はたまったものではない。一つの人間集団が、血を流してでも異民族支配をハネのけようとする…。そこまでの民族意識の高まりが見てとれるかどうか。ここが肝腎、要(かなめ)のところなんで、今後の世界平和を考える人々にとって、「民族にくにを成さしめるべきかどうか」を見抜く力は、不可欠の素養になってくると思います。

 司会 大変な提言が二つあったわけですが、大隈さんのご意見は…。

 大隈 第一の「不安定国家の認定」だが、いまの国連、その安保理にそんな恐ろしい決定権を与えるのは非現実的だと思う。常任理事国に拒否権を持たしたままの安保理は、その時々で決定にムラが出ると見てかからなくてはならない。分かりやすい例として、これから先、ロシア国内の民族運動が血を血で洗うような激しいものになっていっても、安保理でロシアを不安定国家に認定しようとしたら、ロシアは必ず拒否権を発動するよ。片や東チモールの独立分離運動でインドネシアはあっさり不安定国家にされてしまう。こんなチグハグなことはいくらでも起こり得る。国連を盛り立てていくのはいいが、力量以上の荷物を国連に背負わせたら大変なことになる。

 つぎが独立承認の判定基準だが、世界共同体共通のものさしを作るのは、まだムリだよ。板垣君のアイデア、たしかに傾聴に値する。世界平和を真剣に実務的に考える人々が、先回りして民族独立要件の大激論をし、国際世論を盛り上がらせておくことは是非とも必要なことだと思う。しかし現実の処理は、クロアチア、スロベニアをまずドイツが承認し、ポツポツこれに従う国が増えて潮流ができたように、いままでのやり方を、当分の間は続けるしかないと思うよ。国連の主導権、日本人は飛びつきやすいんだが、危なっかしいもんだよ。

 五、言葉、アイデンティティー、文化

 司会 じゃ、ここら辺で軽くアイデンティティーの問題に入ってみておきましょうか。といっても何から手をつけるかなあ。やっぱり言葉ですかなあ。

 板垣 異民族支配が終わり、晴れて自分たちの言葉でしゃべれる。そんなときの嬉しさは日本人なんかには分からないでしょう。アイデンティティーの中でも最大なるもの、それは言葉なりといえそうですね。

 だから公用語が二つあるなんていうのは、なにか不自然に思えてならない。アイデンティティー確立の途上にあるのか、それとも、とにもかくにもこういう形での妥協に成功したということなのか。それにしても、英仏両語を公用語にしているカナダで、カナダとは何か(Canadian identity)の論議が際限なく続いているのは興味駸々、こんな国にいると、くにを考える頭脳が冴えるでしょうね。

 話がそれますが地政学的に「なぜアメリカと別にカナダが存在しなくてはならないのか」という問題提起が古くからあるんですが、「同じ複合民族国家でも、アメリカはアングロサクソン文化の国。だが、カナダは違う。カナダが目指しているのは一つの世界文化なんだ」と私に説明してくれたカナダ人がいます。かれこれ三十年前のことですがね。

 司会 それは面白い。経済でボーダーレス、国防で平和新秩序が進行していくと、くにの存在意義は、文化上のアイデンティティーに求めることが考えられます。そのときは、芸術が中心だった今までの文化概念を思いきり仕立て直さなければならないと思います。たとえばなにが尊いもの、美しいものとして感動をよび、なにが生き甲斐、働き甲斐を支え、なにが心の安らぎを与えてくれるのか、というような内容のもの、くにを成す人間集団が、歴史の中で育て上げて来た生活の流儀とリズム、物の見方や表し方など。価値観とも重なりますね。平たく生活文化といったら一番外れがないんでしょうが。

 そういうものについて、さっきのカナダ人の言によれば、カナダはかなりはっきりした文化目標を持っているんですね。個人の場合と同じように、くにも望ましい自国の個性を描いてその達成に努力していく、なんてのは、これから先、くにの存在意義を考える上で、すごく参考になりますね。一つのモデルになりそうじゃないですか。

 平和だけは、侵すものに対して一律に秋霜烈日、あたかも一神教の如き威をもって臨まねばなりませんが、また、経済の自由競争は徐々に国家間の障壁を外し、世界をより一体化していくことが望ましいと思いますが、いま私が例示したような文化は違う。個性を持った集団が、自分たちで住みやすいと思う人間関係と自然環境を保持したらいい。それをごく自然なくにのスタイルにする。モンゴルなんかピタリの適例だと思いますよ。文化的に多彩な世界にこそ、個々の集団は安らぎの空間を持てる。先ほどの譬えでいえば、それは多神教の世界に似ていて、価値多元論、また自然体の世界でもある。

 どうでしょう、今日はここらでくに論議を中断しますが、次回はご両所からもアイデアをいただいてアイデンティティー問題をグンと掘り下げたいと思います。そのほか今日論議に出なかったECのことなども……。
                                 


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