中国を語る会研究論文
 

演題「中国は何処へ」

 どうも大変長らくお待たせを致しました。定刻を少々過ぎました。まだお客さんもお見えになっておるようでございますが、貴重なお時間、早くからお越し頂いておられる方が多いものでございますから、ただ今から始めさせて頂きます。私共、中国を語る会の伴正一顧問による講演会は今回が二回目でございます。昨年、日中友好会館の理事長に就任された時に記念講演会を致しました。今回は就任以来一年経過したということで、報告を兼ねて一つ話をしてもらおうと思い、当初は留学生問題についての講演を予定をしておったのでございます。ところが御承知のように情勢の変化が起こっております。そこで急拠、話の内容を変えまして前に書いてございます「中国はどこへ」という題で話をして頂きたい、とこういうことでございます。ご案内を差し上げた時点では、まだ北京の学生運動は大きなうねりを見せておると、このようにご案内したと思います。本当に一寸先は闇と言いますか随分急激な変化をしておる訳でございます。この一力月、中国の情況は非常に多くマスコミで報道されております。いろんな学者の方が解説を種々なさっておりますけれども、今日は、豊富な現場体験に基づいた伴顧問の状況分析、それをじっくりうけたまわりたいと思います。尚、後半にコーヒータイムをはさみまして、質問の時間をかまえておりますので、御不審の点、お聞きになりたい事がございましたら、後半のその時間にお願いしたいと思います。では、伴顧問よろしく。

 中国を語る会代表世話人 植野克彦


 皆さん、お忙しいところ、今日は、お越しいただきましてありがとうございます。

 今、植野君からお話しがあったように、当初は、私が日中友好会館で接している中国人留学生の言動の端々から、彼らが何を考えているかと言うことをお話しして、中国本土での学生運動がどっちへ行くんだろうと、そういうような予測をしたいと、こう思っておった訳であります。

 と、申しますのは、うちの寮生、大学院生が多いんですが、やはり、留学してきたからには、日本の学生と本当に友達になりたいというわけです。パーティーに呼んでもらうのもいいが、ああいう行事ものじやなくて本当の友達がほしい。というような事で、今年の初め頃ですけれども、日本の学生と中国の学生の引き合わせの世話をしておる時のことです。雑談の中で私が、こんなことを言ったんです。「去年の六月に中国に行ってみたら教育委員会で頭かかえていたよ。外へ行った留学生が期限が来てもさっぱり帰って来ないんだそうだ。日本も終戦直後、アメリカヘ随分留学生が行ったと思うけれど、どうやって皆、帰って来たのか、秘訣を教えてくれと、こういうことを聞かれたよ」と、こう言ったんですね。

 そしたら、非常な興奮、中国人は滅多に興奮しませんよね。日本人とか韓国人は興奮するんですけれども。その中国人が突如、興奮気味に「政府はよくもそんなことを言えた」こういうような言い方なんです。「帰ってくる留学生の就職の面倒もみないでおいてよくもそんな事が言えた」という調子でえらく興奮気味に語るんです。私が中国にいた頃、十年前のことで三年間おりましたが中国人が政府の悪口を言うなんて聞いた事がない。みんなが口裏を合わせたように「おかげ様で我々幸せです」という。心にもないことだということが見えすいていたけれども、政府の悪口は言わなかった。そういう中国人に馴れておったもんですから、自分の膝元の留学生がそういうことを言ったもんでドキンとした訳なんです。しかも輿奮して言いよる。

 それから一カ月位して、胡耀邦が死にました。四月十五日です。胡耀邦の追悼デモというのが十七日にありました。それから、胡耀邦の国葬みたいなのがあった訳ですけれども、その国葬の時期に胡耀邦の名誉回復を要求するというデモが又あった。その頃のデモは、千人位のデモです。胡耀邦の罪状を取り消せという訳ですね。

 その時、私は「ちょっと待てよ。そのデモを政府が今、鎮圧しないでほっといたら大きくなるんではないか」そう思って、友好会館の私の部下になっておる中国人の館員、これは中国の政府筋から出向している人ですけれども、その中国人館員に「妙に気にかかるなあ」と言ったんですね。ところが「いつもやってることで大した事はありません」とこう言う返事なんです。そうしている内に、何千になり、何万になり、「おいおい、ちょっとおかしいぞ」と重ねて言ったんです。

「デモというものは広がり出すと、ある線を越えた途端に、抑えれば抑える程、反撥して逆に拡がる。収拾がつかなくなる、私はデモというものはそういう性質を持っていると思う」という話をして、パキスタンでアユブカーン政権が崩壊していく過程をずうっと説明したんです。ほんの二、二十人の学生デモだったのをほったらかしとった。やがてまずいことに途中で銃撃をやってしまった。ほんの二、三人だが血を出したんですね。血の色を見て一挙に反撥が高まる。それでもまだデモをみくびっとったんです。

 その内にいくらやっても収まらなくなって、パキスタン全土で暴動みたいになったんですね。こうしてアユブカーン政権は倒れた訳で、その話をしたんですけれども、依然としてその中国人館員は「いやあ、ご心配は要りませんよ」とこう言う訳でしてね。それでまだあるんです。五月十九日、北京大使館にいる私の後輩が休暇を取って東京へ帰って来ていて、日中友好会館へ遊びに来たのでその後輩をつかまえて、「俺はどうも心配でしょうがない、俺のとこの理事は大丈夫、大丈夫と言うんだがどうだろうね」すると北京から帰ったばかりのその後輩が「あんなの、大した事ありませんよ」て言う訳です。

「そう言われるとやっぱり自分の取り越し苦労かな」と言って別れた。その夜中の一時ころに、共同通信へいってる私の息子にたたき起こされまして、「大変だよ、戒厳令だよ。二時からニュースがあるから聞きなさい」ということなんです。真夜中のことです……………。

 それでこの一連の出来事は、まず何であったかを考え、これから中国はどこへ行くんだという方へ移って行きたいと思います。物語みたいにお話ししてもいいのですが、なかなか複雑で上手に言えそうにありませんから、その代わりに疑問点を五つ六つならベ、その疑問に対して一つ一つ考えて行くことにしたいと思います。

 最初は軍。軍と軍が撃ち合ったかもしれないと言う話が随分出ましたね。二七軍というのは、ろくに北京語も話せないような地方部隊で、それが乱暴なことをしたとか、やがて三八軍という北京軍区の精鋭が来てこれを追い払っているとか、タンクがどんどん東へ逃げていっているとか、また三八軍が迫って来ているとか、そういう種類の話が、まことしやかに報道されました。

 しかし毎日のように状況が変わっていった。今それらの事はどうなったのか、誰も言ってくれない、マスコミもさっぱり確かなところは伝えていない。そこで軍が本当に撃ち合ったのかどうかという点から考えて見たいと思います。

 最初に三八軍が出動を拒否したとのニュースが大きく出ました。本当に拒否したのかどうかはわからないけれども、軍隊が撃ち合ったかどうかとか言うことだったらアメリカの宇宙衛星で絶対わかるはずだ。宇宙衛星はバレーのボールぐらいでも写せると言うことですから、アメリカはしっかり見ていたはずです。それでアメリカの情報を得ようと思って、アメリカ出張から帰ったばかりの外務省高官に、あれどうなんだと言ったらですね、「どうも撃ち合った形跡はない、しかも二八軍がやった、そんなことじゃないらしい」というんです。

 天安門というのは皆さんの半分くらいの方が広場の光景を御存じだと思いますが、北が故宮になっていますね。南がチェンメンといって店舗なんかがある。西に人民大会堂、東に歴史博物館、その東と西と南から同時に三方から攻め入った、それをアメリカの衛星がとらえた、そしてほんのちょっと東側に逃げ道があいていたらしいけれども、ほとんど逃げる余地なしという状況で進撃が行われたというのが真相のようでありまして、軍はその意味で分裂はしなかったらしい。

 少し脱線しますけれども、東京にいる色々の中国人に話を聞いてみましたら、こんな話をする人もいました。二八軍が弾丸をほとんど撃ちつくしてあと半日分の弾丸しかなくなった、弾丸のない軍隊は軍隊でない、それで三八軍に弾丸を分けてくれと言ったら三八軍が拒否した、そこで無理やりに三八軍から弾丸を奪おうとして、競い合いが起ったと、そういうことを言うのです。中国人が言うのだから本当だろうと思っていたんですか、今考えて見たら香港情報がそうであるように、想像したことが情報みたいに扱われる傾向が中国にはある。中国人仲間には多少そういう傾向があると言う気がしているわけです。

 ところで今朝の七時のニュースを皆さんお聞きになりましか、北京のマスコミを全部集めて軍が説明しております。軍は一発の弾も天安門広場では撃たなかったと、はっきり言い切りましたね。

 そこら辺が私にとっては全く解せない。いくら何でも、特派員たちはホテルの窓から一所懸命、取材しようとしていた、そして銃声はみんな聞いているわけですよ。そして天安門広場の真ん中に、英雄記念碑というのがありますが、あれに弾痕があるわけですよ、弾痕を今修理している。それなのに一発の弾も撃たなかったと言うこの状況は私には想像ができない。今もって考え続けているわけであります。ケ小平がこんなことを言えと言ったとは考えられない。三年にわたって接して来た私には、ケ小平がそんな小細工をする人だとは到底考えられないのでありまして、どこか別の段階でこんなレポートができ上がっているに違いない。説明に当たっている軍隊の将校もですね、新聞記者がウソ言えという顔をして聞いているのがわかっていながら上からの命令通り言っているのですね。どうして、こんなことになるのかというのが今だに私のナゾでありますが、ともかく軍が撃ち合ったというのは、報道の中で大きな要素でありましたけれども、それはどうも事実ではないらしいのでありまして、この点が、今後の政局を占う上でどういう意味を持つか、考えてみましょう。

 軍が割れるという状態になりますと、いくつかの方向が想定できる。一つは、われ方が三対七くらいの割れ方。七の方が三を圧倒して元の一体に復元する。でも、始めは三と七だけれども、三の方に民衆がついてしまうと十億の気持ちを代弁している三の方が勢いづいて、弾圧する七よりも強くなってしまうという形で、これ又時間をそれほどかけないで一つの軍に戻ることも考えられます。

 大正時代、昭和初期、中国全土が群雄割拠でしたね。軍がバラバラで誰が中国を代表するのか分からんというような混乱状態でした。そんなことになる可能性も絶無ではありません。ですから、軍同士の撃ち合いがなかったということを確認できたことは、われわれが、これからの中国を占う上で一つの重要ポイントをクリアしたことになります。

 それから次の疑問ですけれども、学生は何を欲して動いたのか、あれだけの事をやったのか。どういう訳であんなに民衆が支援したのか、という点です。人民日報の記者まで出ていった訳ですからね。あの盛り上がりはどういうことなんだということが、非常に大きな疑問点であります。不思議なことに「今日のインフレを起こしたのは、ケ小平だ」という調子の経済政策失敗の責任を問うスローガンはなかったですね。そんなスローガン、皆さんテレビなんかでごらんになりましたか。私は気がつかなかったなあ。あれだけインフレで困っていながら、インフレ問題を掲げてみんなが動いたという形となってない、民主化ということは、非常に言いましたねえ。民主とか自由とか、それから「官倒」(官吏の腐敗)とかは大いに言いました。

 しかし、この種の叫びもマルクス・レーニン主義、共産主義の枠内で、もっと自由に物を言わせろ。新聞がもっと自由に報道できるようにしろ、というような、枠内のスローガンが多いんですね。だが本当のところはどうなんだ。もうこれだけ世界を見たら、マルクス・レーニン主義のこの四十年はいったい何だったんだろう。腐敗、堕落の筈の台湾、国民党政府の台湾で生活水準が、我々の五〜六倍にも達している。これはどういうことなんだ。

 絶対に正しいはずだった共産党治下の中国が台湾の五分の一の生活水準に現在ある。一体この四十年は何だったんだろうという思いは、口に出したら初めから銃撃されることが分かっているんで、口にこそ出さなかったけれども、心の中にはあったんではないかと思います。

 学生は何の為に、何を求めて動いたのか。これは一番大きな疑問点であります。

 一番最初ははっきりしてます。胡耀邦の罪状を取り消して名誉回復しろということですから。四月十九日に人民大会堂でお葬式があって、趙紫腸の弔辞の中で、今は亡き胡耀邦同志に下した一九八六年の決定は誤りであったという事が読まれていたら、恐らくそれで済んだんではないでしょうか。大きな底流が別にあるにしても。ところが名誉回復はなかったわけです。そして、そうしているうちにハンガーストライキになる。

 念のために、胡耀邦の罪状はどんなんかと言いますと、第一が学生を扇動したこと。それから国家機密をもらしたこと。そして第三番目が集団指導制にそむいて勝手なことをしたことであります。胡耀邦は日本人学生を三千人呼んだりしましたね。戦後、中国に現れた国家指導者の中で、胡耀邦くらい親日的な人はいなかったのではないか。周恩来を超えるほど、もうずばぬけて親日家であった。それが勝手に日本から三千人も呼んで国家の貴重な金を湯水のごとく使ったということになり、集団指導制に反したことの一つに挙げられたわけです。

 今度も趙紫陽が恐らく、その罪状の一つとして集団指導制に反したとされることでしょう。党中央が動乱と決めつけているのに、北鮮から帰って来るやいなや、愛国的な行動だと党中央の方針に反したことを放言した訳ですからね。まあ、趙紫陽の失脚は多分胡耀邦と同じような理由によることになるんだと思います。

 ところで、いま世界の大勢というものを見てやっぱり共産主義はよかったなどと言える場所がありますか、共産主義の国で日本人がうらやましいと思う国がありますか。共産主義にも追い風が吹いているのは日本だけですよ。千葉県知事選のように共産党が勢いを伸ばしたなんていうのは。共産主義はもうやがて地上から消えるであろうし、社会主義もだめだというようになりよるわけです。

 そういう目でケ小平の今までの歩みを見てみましょう。どこかの席で言ったことがあるのですけれども、中国共産党が貧しい中国をともかく健康で飯が食える所まで持ち上げたという功績は絶大である、インドとくらべたらすぐわかる、インドのような国を現在の中国みたいな国に持って来たその功績、業績はすばらしいものである。けれども、さてこれから先、共産主義のままでいつ日本、アメリカ、イギリスに追いつけるか。追い越せるか。その可能性の全くないことにケ小平は気づいていたのではないか。

 だからケ小平が復活してから今日にいたるまでやったことはほとんどイデオロギーを度外視することばかりだった。香港をイギリスから取り返す交渉をやったときなど、一つの国の中に資本主義と共産主義が共存してよろしいと言った。随分思い切った事を言ったものですね。他の人が言ったらそれこそ暴動が起こるところですが、今から五年前のケ小平はそれを言ってのけて問題にならなかった。

 大変開明的な独裁者だった。ケ小平は今学生が求めているような方向に向かって先頭を切って走って来たわけです。ただ、日本人はあまり気がついてなかったのですけれども、ケ小平が断固として譲らなかったのは、プロレタリア独裁だったんです。経済はどんどん自由化するけれども、資本主義そっくりになってもかまんと言わんばかりだったけれども、政治権力だけはプロレタリア独裁という形で持っておらねば、十億が勝手気ままなことを言いだしたら国はもうバラバラになってしまう。いいにつけ悪しきにつけ十億をひとまとめにする強大な権力がいるんで、丁度いいことに、マルクス主義にはプロレタリア独裁という柱がある。これを過早に手放したら大ごとになる。

 多分こういう信念でケ小平は聡明に独裁権力を行使し、ここまで見事に自自化を押し進めたわけです。学生側もそこはよく心得ていて、急にマルクス主義打倒などと言ったら大混乱になる。下手をすると大弾圧を招く。徐々に自由を、という配慮が当初はよく利いていたのではないでしょうか。

 この式で、以心伝心で行けぱ共産主義から自由な国への、至難の技ともいえる過程を見事に踏破し切ることができたんじゃないかと思います。しかし、それは今度の事件ですべておしまい。万事休すだという感じです。中国人民の心の中にあった、共産党、ケ小平への期待とか、人民解放軍への信頼とかはこんどの事件ですっ飛んだのではないでしょうかね。

 経済をどんどん自由化していったら当然政治も自由化しなければならなくなって独裁体制というものはくずれざるを得ないように学者はいっているけれども、私はそんな事はないと思う。シンガポールを見てごらんなさい、リクアンユーの独裁でシンガポールは隆々として来ました。独裁は悪いとみんな思っているけれど、ある時期、国が興隆する過程で、いい独裁者がいると助かる。そのことはシンガポールを見ればよく分かります。韓国だって軍事政権のもとで、あれだけ発展していったわけですよ。

 台湾だってほんのこの間まで国民党の独裁でした。日本の明治でもそうかもしれない。薩長藩閥政府というのがあって、自由民権運動を抑圧もしましたが、あの独裁政権のもとに明治前半の富国強兵は効率よく遂行されたともいえます。自由民権があったから明治はあんなに急速に近代化し得たんだとは必ずしも言えない。

 だから、ケ小平が考えた独裁の必要性というのは、私はわかるような気がする。学生が事件の後半になって早々とそれを倒そうと考えたとしたらそれは学生のあせりすぎだったと私は思います。天安門事件最後のくだり、血の六月四日のことは世界中だれも弁護する人はいないでしょうが、ただ、私はあえて一つ権力側の事情というものにも触れておきたい。百万の群衆が動きだした状況のもとで、やっぱり党中央がギリギリに考えたことは、このまま妥協を続けたら中国全土は無政府状態になる、ということではなかったでしょうか。

 辛亥革命で清朝が倒れるんですけれども、そのころは何といっても孫文という人物がいて受け皿があった、その受け皿が充分強固でなくって袁世凱や、蒋介石や毛沢東が出て来るわけですが、とにかく孫文という、それまでに五回も六回も武装鋒起しては失敗しているけれども、最後に武昌で成功した辛亥革命命の受け皿があるわけです。今学生の中に政権の受け皿とおぼしきものはないわけでしよう。強いてあるなら趙紫陽かなと、ということになるんですけれども、しかし一歩外れたら無政府状態になってしまう。国が国としての体をなして行く以上は弾圧も必要なのかなあと、私は思うわけです。

 皆さんデモというのを色々見られましたね。昭和二十年八月十五日以来今日まで四十四年間の日本のデモ参加者で死ぬるという予感を持って参加した人がいますか、命は安全なんですよ。樺美智子という人が一人死んだことがありますけれども警視庁が発砲したり無差別銃撃をする、そんなことは全く考えてもいない、精々ホースで強烈にやられるとか、催涙弾で目がくらむとか、こん棒でなぐられてコブが出るとか、そんなところでして、日本のデモは命の危険がない安全なデモなわけです。

 中国でも、百万人にふくれ上がろうと、それ以上になろうと命に心配がないとなったら、そりぁどこでもかしこでも、デモはやれやれということになる。そうなったら、その全国的波及はそれこそ大変な事になったかもしれません。で、何としても国家の体をなさねばならないということなら武力行使もやむを得ないということになったのかもしれません。そこら辺は李鵬あたりが考えた最後のギリギリの所ではなかったかと思います。その意味では学生がもうちょっと手前で、百万がデモしても一人もケガ人がでなかったという所で止めていたら、自由への澎湃たる動きが全土に起こったであろう。いずれはいつかの時点で銃撃される破目には陥ったでしょうが、この場はああいうことなしに済んだかもしれません。

 次に第三目の疑問点です。学生たちの目的はなんだったか、ということに続いて、相手の政府や党側はいったい誰が主役だったのか、これがサッパリわからない、人工衝星でもわからない。党とか政府がこれから先、真相はこうだったということを発表していくでしょうが、本当のことを言うかどうか。

 ここはいつまで経っても想像をたくましくするしかしようのない部分だと思います。今の学者や評論家はほとんどが大筋ではケ小平ご乱心というシナリオで物を言っています。先ほど申しました通り私はケ小平びいきかもしれませんけれども、ケ小平が終始事態を掌握しながらこんなことになってしまったとは到底思えない。ケ小平に異変ありというのが私の直感であります。異変というのはやっぱりケ小平がなんらかの意味で判断力がガタ落ちになったとか、あるいは実際上の権力を失って、もう誰かがケ小平を動かしているとか、ケ小平異変という形でしか私はこんどの事件を理解できない。ここで非常に思い切った、探偵小説じみた推論になりますが、私の推理はどういうことかと言いますと、こういうことであります、私が北京にいた十年余り前ころからケ小平にとって誰を後継者にするのかということは大きな課題でした。

 やっばり華国鋒だろうか。しかし華国鋒はどうも凡庸で、これからの荒波を取りしきって行く器ではない。すると誰になるだろうか。ケ小平が何年も考えぬいたあげく、持ちだした駒が胡耀邦と趙紫陽のコンビだったわけです。

 この二人を育ててそれから世を去る。自分で総理とか党主席にならないで、実権だけを持ち二人を育てて行くシナリオだったと思うんです。ところがその胡耀邦が少し勇み足過ぎた形になりまして、さすがのケ小平も、その足を引っぱるあまたの長老たちに押し切られて胡耀邦を切らざるを得なくなった。

 切るには切ったけれども「泣いて馬ショクを切る」という心境ではなかったでしょうか。だから失脚させたとはいいながら政治局員の中においておったわけです。何かの時にいつでも元にもどせる。そしたら胡耀邦、趙紫陽という、かねてからのシナリオがいつでも生き返るわけです。そしたら自分は安心してあの世へ行けると思っていたのではなかろうかと思うんです。ところが、その胡耀邦が突如として死んだ。死に方がまた壮烈でして四月八日に党中央政治局拡大会議というのがあって、その席でもう熱血漢ですから、ものすごい議論を闘わせる。そのあげく興奮のあまり卒倒してしまって十五日には死ぬる。

 それがほぼ間違いない事実のようです。中国には「気死」という言葉がある。カンカンガクガク、興奮のあまり倒れて死ぬる。それを「気死」といって昔からあるそうなんです。誠に壮烈な死なんですね。学生たちがあんなに盛り上がるのも無理はない。しかしそれ以上に他ならぬケ小平がそれで気落ちしないはずがない、以前のケ小平だったら、デモのような治安にかかわることでは、ちょっとあぶなかしいものは早く芽を、双葉のうちにつんでいました。非常に慎重に扱って、すぐに押さえていた。その代わりにあまり治安に影響のない分野で徐々に自由を伸ばすということをやっていた。

 そのケ小平が気落ちの結果、判断力がガタッと落ちて「李鵬、お前がやっておいてくれ」そういう感じになったのではないか。李鵬と学生の会談がありましたでしょう。あの李鵬の物の一言い方なんですか。日本の大蔵省あたりの役人みたいな言い方ですよ。何が言いたいんだろうと相手の真意を見極めようとするような姿勢が全くない。ハンガーストライキはよせ。俺は君たちの命を心配しているのだぞ、というような調子ですわ。あれじゃ全然学生との対話にならん。

 李鵬については、色々な人の人物評が出て来るわけですが、彼はやっばり政治家ではなくて、すぐれた官僚である。毛並がよいということでトントン出世したという所ではありますまいか。私は李鵬が日本に来た時、総理官邸で一回だけ握手はしましたけれども、ケ小平のように何回も、長時間観察したわけではありませんのでよくはわかりませんけれども、人民の信望を得て動乱の中国を率いて行けるようなタイプではどうもなさそうだ。

 そんなことで私は、ケ小平の判断の鈍りが、一番大事な時に出てしまってこういうことになったのではないかと想像をたくましくしております。例えば党、政府が事件を動乱と決めつけたのは四月二十六日ですが、その三日前に趙紫陽は北鮮へ行っています。もう二日待てば党の最高地位にある趙紫陽は帰って来るのに、それを待たずに、事態を動乱と決めつけるような重大決定をして、党の機関紙である人民日報に載せてしまったわけです。こういうのはちとおかしいんですなあ。事の重大性をよくわきまえないで、事務的裁決をしてしまったのか、ケ小平まで決裁が上がっていながら気落ちしていたケ小平が彼らしくもなくうかつにも判を押したということなのか、そこら辺は今のところ五里霧中です。

 最後にケ小平が六月九日に現れて軍人と握手して行きましたね。あのときの言葉もまともにケ小平から出てくる言葉じゃないという気がする。国家の秩序を最低限維持するためにはそれもやむを得ないと思ってああ言ったのか、読まされるようにして言わされたのか。とにかく五年前までのケ小平では全くない。どう考えても違うというように思えてなりません。今中国で行われていることを見ていても、ケ小平がいてどうしてこんなことになるんだ、と不可解なものを私は覚えるわけです。

 先ず政府の発表内容がどう見ても見えすいている。大げさな死刑宣告の場面や処刑場に引っ立てて行くところをくり返しくり返しテレビで放映する。密告を奨励する。恐怖政治というか暗黒政治というか、こんな事を堂々と世界の前でやってのける。昨日今日、オランダとドイツは死刑執行をせんように申し入れをしていますね。中国もやっぱり共産主義やなあと言われると中国びいきの私にも弁護の仕ようがない。

 胸が痛むだけです。本当はこういう時に伊東正義さんあたりが、アメリカやヨーロッパ諸国が中国を弾劾しているさ中に飛んで行って「やめなさい、中国のためになりません」といさめる。「見せしめというのはある程度必要だろうけれども、こんなにおおっぴらに世界に吹聴するのはよくない」と親身になって言ったらいいのになあと思うわけであります。

 で、ここまで来ましたので日本の対応のことに触れますけれども、その前に申し上げておかなくてはならないのは、今度のことを日本と中国の問題として考えたら全然ダメなんです。今度のことは、地球サイズでの議論にしないと判断が出て来ないんですね。先程のようにマルクス・レーニン主義の行方は心ある人はみんなわかっている。どういう形で消えて行くか、血が流れたり人命が失われたりしないで静かに時間をかけて消えて行くことができるかどうかということが本当のこれからの世界の課題なわけです。

 そういう状況の中で一昨日、NHKの磯村さんが東京ロ−タリーで面白い話をしておりました。学生の知恵というものは大したものだと思った、というのです。あれだけ三十年、不倶戴天、宗教戦争のようなはげしい対立をしていた中ソが、和解の総仕上げに入る。ところは北京ということで北京が全世界の注目をあびる。世界中の新聞記者や報道関係者が北京に集まって来てるそのド真ん中で、やったんですね。

 それはもう拡声器を世界のすみずみに向けて、その中で叫んだようなもんです。数倍の影響を世界に与えた訳です。考えようによっては、命を落としたとしても落とし甲斐がある。それ位、効果的に中国で自由の叫びがあるって言うことを世界に知らせた訳です。その又、皆が見ている前で大弾圧をやる訳ですから中国共産党というもの、中国政府というものはどんなに野蛮かということを、これ又、世界中ヘピーアールする、という恰好になったんだと思います。

 さてその中で、日本の宇野首相は施政演説で中国のことに一言も触れなかった。それで大分マスコミに叩かれましたね。しかし私は、宇野さんはあれで良かったんだと思いますよ。アメリカがジャンジャン言うのは、アメリカは人権問題になると、ソ連にでも言うし、韓国にでも言う。人権となったらカッカするという定評がある。ヨーロッバも大同小異です。ところが日本は、かなり誇大に言われてるきらいはあるけれども、何と言ったって五十年前に中国で多くの人を殺しとる訳です。その日本が言ったら、アメリカと同じ事を言ったって十倍の反感が中国から返ってくる。おそらく、今ごろ日本は中国側からの反撃の標的になってですね、ひどい事になっておったと思います。

 日本人の胸中はあの沈黙が物語ったんで、そういう意味で沈黙は金だったんだと思います。

 ただ、中国に対してはそれでよかったんだと思いますけれども、サミットのようなところへ行ったらそうはいかない。「やっぱりアジアの国は」という見方をされる。口では言わないかも知れないが、中国と同類項視される。

 他の国の首相のそんな視線が宇野総理に注がれる可能性が大いにありますね。これからの対応というのは非常に難しい。日中関係はチョッとおかしくなったら大変な事になるし、それかと言って世界の中で中国のあの残虐と同類項みたいに見られても大変な事になるし、日本のこれからの外交の前途は終戦後初めて厳しい哲学の課題を包含するに至ったのではないかと思っております。

 私は高知へ帰って来て九年になりますけれども、その間、ケ小平が健康な頭脳のままで健在である限り、中国に大地震は起こらない、中地震、小地震はあっても、中国はケ小平路線で大きな所は見事にやって行くだろうという予想を皆さんに申し上げて参りました。しかしこれは、もうダメになりました。ケ小平に異変ありですね。息はしとっても、ケ小平に異変ありで、今度の事は大地震、しかもこれ一回で済む大地震でなくて、連続型の大地震になる可能ありと見ていいんではないかと思います。

 それから、中ソの和解問題ですけれども、中ソがよりを戻すと言うことは、私の目の黒いうちは絶対ありえないと公言してはばからなかったのですが、これは半分は間違っていて半分は合っていたと思う。昔のよりが戻ったということでは全然ないんで、普通の国同士の関係になったということであります。そう言う状況ですから、ソ連がどのような反応をしていくか興味のあるところです。

 ソ連も実は、銃口を人民に向けなきゃいかんハメにこれから何回も直面していくと思います。中央アジアの民族問題一つ取り上げても、大変厳しい情況であります。それから公平に見て、経済では中国はよくやったんです、インフレの手前までは。というのも、中国人の方には、制限を緩和したら、すぐ動きだす素質が温存されていたのに対し、ソ連人と言う人たちはもう七十年マルクス・レーニン主義でやってますから、自由にしてみたって何をやっていいのか分からん。

 マルクス・レーニン主義になった時、赤ちゃんだったのが七十すぎですから、だれも企業精神など分からん訳です。そこは、中国が上でして、天賦の才もあったし、解放後まだ四十年、企業精神の火種は消えていなかった訳で、この十年、生活水準も随分上がったのであります。ただ、行きすぎがあってこんな事になったんですけれども、そういう事から考えるとソ連の前途も中国と同じ、ドッコイドッコイだと思いますね。だから、中ソが手を繋いで我々に脅威を与えるなんてことはもうあり得ないと思います。

 ポーランドで選挙をやったら連帯が九〇%をとったんですが、今の共産圏の国で、ソ連でも中国でも、全く自由に政党を作らせて、全く自由に選挙をさせたら共産党は有効投票の一割以下、高知市の共産党得票よりずっと低い票しかよう取らんでしょうね。九割は反共の票になるでしょう。今すぐそんな事をしたらおおごとですから、そんな事は有り得ないと思いますが、もし、自由な政治活動を許し、自由な投票を行えばそうなるだろうと思う訳で、これから、中ソ両国の歩む道というものは非常に厳しいものがあると思います。

 最後に、さて、日本はどうすればいいんだという問題に触れたいと思います。非常に難しい。友好というが、誰との友好なんだということが問い続けられるに違いないからです。孫文が革命運動を起こした時、日本人が本当に少数であるけれども援助しましたね。これは明治の気概が感ぜられる。ところが昭和はどうでしょう。昔の気概いずこにありや。どうしたらいいというところまでは行かないにしても、せめて十億の民と憂いを共にするという心情が持てないものですかねえ。それなくして、アジア主義だとか、世界に貢献するだとかそんな言葉を口にする資格はないと思います。ちょうどコーヒータイムになりましたので、やや中途半端ですけれどもこれで私からの話は打ち切りまして、あとは皆さんのご質問を受けながらお答えして参りたい、と思います。ご静聴ありがとうございました。


 一応休憩ということになっておりますが、折角の時間でございますので、コーヒーを飲みながらでもお聞きになりたいことがございましたら、どうぞ。トップバッター中村さんどうぞ。

中村−−今から、十三年前、伴先生が中国にいらっしゃった時、つまり、毛沢東、周恩来の末期からケ小平へ変わっていく、といってもまだケ小平の権力の確立してない時、伴さんに、北京飯店で、ケ小平体制が強固なものになり、これが長期に政権を維持していけるだろうかという質問をいたしました。そのとき伴さんからこういうお答えが返って来ました。ケ小平が総理とか党主席という最高の地位に就かずに、一歩下がった地位で政局を見ていけば彼の時世は続くだろう。こういうご返事だった訳です。ケ小平が頂点に立って号令せず、後見役として後におり、最高の地位をかち得ようとしない場合には、続くだろうと、こういう風に言われました。なるほどその後の情勢を見ておりましたら伴さんの言われた通りになりました。軍事委員会という一部門の主任にすぎないが、それでいて実権を掌握する。これがケ小平さんが中国を治めていく一つの方法で、非常に賢い生き方だと、このように思っておりました。このケ小平さんが、今のお話で頭に少しビビが入ったらしい。こうした場合に、今後、ケ小平に代わって主導権を取る方が現在の中国に誰か若い方でおありですか、それともいわゆる群雄割拠になっていくんですかあるいは集団体制になっていくんですか。

伴−‐私はケ小平級の人はしばらく現れないと思います。中国共産党の威信は、もうこれで地に落ちた。これは私がいま中国の為に悲しむ所です。今のような引締めが早くすんで、もうちょっと自由な情況になっても、とてもじゃないけれどケ小平ほどの力をもって十一億を治めていく人はない、学生サイドにも大きな迷いがあるのではないかと思いますが、マルクス・レー二ン主義というものを存続したままで、その中における民主とか自由だとかを求めていくのでは学生の方が収まらないのではないか。もっと過激というか、もっと大きいものを要求する。そうなりますと学生サイドに聡明な指導者が現れでもしないと見通しは全く不透明です。まあまあという形で五年、十年大混乱に至らない状態で持っていくとすれば、軍の中から誰か強い、信望のある人が出て来て、その下で中華人民共和国が維持される。そういうことが関の山だというのが私の見通しでございます。

A−−そういう事であれば、国としての方針を立てていくのも大変でしょうが、経済界としてはどうでしょう。中国への進出がこれまで盛んに行われていますが、この辺にもかげりが出てくるでしょうか。それとも、何とかやはり中国への進出は図っていくということになるんでしょうか、その辺はどんなもんですか、いわゆる易世革命の国だと達観した上で今後ともに資本主義的な考え方の下にこれからの進出が続いてよいものでしょうか。

伴−−その点からいいますと、カントリーリスクという言葉が日本語になっておりますけれども、出ていって大丈夫であるとか、危ないとか、その度合を探る。そんなときにカントリーリスクといいますが、今度のことで中国のカントリーリスクはものすごく増大したと言えるのではないでしょうか。

そのカントリーリスクの増大した中国と経済的にも付き合っていくという事に成らざるを得ないと思います。その点につきましては、香港を見ていると中国のカントリーリスクの度合が、当たらずといえども遠からずという程度に分かるんではないでしょうか。香港の場合、英国から中国への返還協定ができたとき、よもやこんな事が起ころうとは思ってもいなかったに違いない。

ところが現実には、それが起こった。一度こういうことがあると、五年後にやっぱり共産主義なんて何が起こるか分かったものではないという想念が心の深層部分に生じ何かにつけ香港人の脳裏を去来するに違いない。その香港人が中国へヨリを戻していくようであればこれはかなりカントリーリスクが少なくなったと判断できるでしょうね。しかし香港資本がジッとして様子を見ている間はとてもじゃないけど安心できる状態ではあり得ない。むしろそういう時がチャンスだと考えるような強い日本の企業があれば、それは確かにチャンスでしょうけど、一般からみれぱ危険度の高い進出になるでしょうね。

伴−−先程、甲木君から書いたものでの質問がありました。中国大使館員の亡命問題が日中関係に及ばす影響いかんいうことです。いい影響がある筈ありませんが幸か不幸か、今、中国当局の反撥的言動の標的になっているのはアメリカです。けれども、よく考えてみると政治亡命に関連してアメリカほどではなくても、もっと積極的に亡命希望者の世話をしていいのではないか。そんなことで日中関係が阻害されるようでは日中関係も大したことはないと思います。そこで馬さんという人ですが、なぜ日本へ亡命すると一言わなかったんだろう、亡命先を選択するに当たって日本じゃなくてアメリカを選んだという事は、馬さんにはやっばりアメリカの方が信頼できるんだなあ。

日本は経済に強くても何かアメリカには及ばないところがあるんだなあという感を深くします。もし、そうでなくて、日本へ亡命したいと言ったのを日本側が困って、日本はきちんとした形で亡命出来ないから、アメリカへ行ったらどうですかと言ったとしたら、それは日本が大国としての姿勢が出来上がってない証拠です。亡命者が日本を目指して来るという状況になってこそ、経済だけでなくて心の中まで大国になるんです。亡命先の選択の中からはずされているようでは、日本もまだ精神面では軽べつされているじゃないですか。余談になりましたけれども。今の質問これでよろしいでしょうか、他にご質問。どうぞ。

B−−事務的な問題かも知れませんが、日本人は過去、中国へ七千億円あまりの金を貸し、竹下総理大臣が行ってまた、八千億円を貸す。合計、一兆五千億円を貸そうとしておる。その内容ですが大きな点は新聞報道等で知っておるけれどもその金はどういう金であるのか、税金であるのか、あるいは世の財政投融資の金であるのか。国が貸すとすれば相手は李鵬という首相か、総書記か、楊尚昆のような国家元首であるのか。契約書はどうなっているか。

それから過去貸した七千億はどこへ使われておるのか。フィリピンではマルコス大統領の懐へ相当入っておるという話もありますが、中国はどうなっているんでしょう。伴さんは過去の円借款について事務的にタッチしたと聞いておりますが、そういう金がどういう風に使われておるか。又その金は返してもらわないといかんわけで、どういう形で中国から日本へ返ってくるか。金利はなんぼか。そういう問題について教えてもらいたい訳ですが。

伴−−金は税金です。その七千億も今度の八千億もほんの一部分協調融資ということがありますけれども、まず全部日本国民の税金であると考えて間違いありません。それから、誰に誰が貸すんだということですけれども、貸す相手は中華人民共和国政府。政府のトップは国務院総理ですねえ。実際に扱っているのは対外貿易省です。マルコスの懐へ行ってしまったようなことは中国については全くありません。きれいな形で使われてきました。主な使い先は中国の経済の中で一番困っている運輸、通信、それから電力などのエネルギー。そういうものが経済の発展に追いつかない現状ですから、日本の円借款はそういう方面に有意義に使われています。鉄道とか港湾向けが随分ありますね。皆さんご存じのように中国の港湾は本当に遅れておりまして、荷上げに一月も沖侍ちをしなくてはならんようなことが多発しています。私なんか、中国への援助は今の倍にしてもいいんだと言いよった最中に天安門事件が起こったのです。それから返すことですけれども、まだ返す段階になっておりませんが、中国の返済については誰一人心配していない。それくらい確かだということであります。人民に銃を向けることがあっても、密告政治をどれ位やることがあっても、この点までが崩れるということはないと言うことを、私、断言してはばかりません。そういう中国だったから、今度のことが益々惜しいと思うんです。付帯して申し上げますが、かねがね日本の中国に対する経済関係の中で、民間はアメリカの方が元気よく出ていったんですね、日本の方がどうしてもモタついている。ところが政府と政府の関係では、日本が圧倒的によその国をリードして、現在、一兆五千億です。こんな事件が起こらなくてもよそから見るとですねえ、日本ばっかりが中国へ勢力伸ばしよるというひがみというか、しっとを起こさせやすい状況だった訳です。日本の援助政策については私も委員をしておりますけれども、日本の援助を倍増するにしても、アメリカを語らい、ヨーロッバを語らい、彼らにも、もっと出させる様にする。日本が機関車になって全部の援助額が大きくなるように持って行く。そういう方向にいかないと、日本だけが突出してやっていたらろくなことがないよ、と言っていたところだったんです。それがこうなって来るともう他の国々は援助を止めるとか、大使まで召喚するとか言っている。

その中で日本だけが何か中国といい関係にあるということだと、予想外の所で日本が孤立する心配があるのです。今までは日本の経済力が強くて、それで日本が孤立しとった訳です。ところが、何か西洋人にはよく分からない形で日中が癒着しているように見えると、アジアに対する欧米の偏見、不信という別の新たな孤立要因がプラスされてくる心配が出てくる訳でして、これは誠に困った事態と言わなければなりません。そこでお前ならどうすると聞かれれば私は、当面、人間が行く技術協力は続行すべし。円借款はこちらが約束しておったものは、約束通り。新しいものはちょっと見合わせ、という形を選びます。

C−−難しい事は分からんですけれども、伴先生が先程申されましたように、今度の中国の学生の暴動に対し、ああいう尋常の手段を越えた方法がとられたということ、また、そのいきさつについては私の想像をしておった通りでした。伴先生は、日中友好会館の理事長でございますので、これから中国とはうまく展開するようにどうしても神業のような力を発揮して頂かなければいけないと思います。これから中国と友好を深めていく為にも誰かが何らかの陰の力を発揮していかなければいけない。又、中国は近代化の為には日本の技術、日本の経済というものに相当期待を持っていると思います。今はあまり手をつける時ではなかろうと言うようなご意向でございますけれども。そこで質問の一つ。

今度の学生の暴動に対して首魁者を引っぱり出すという動きがあると聞いております。そういうような時に友好会館として打つ手がございますか。伴先生は長らく財界、政界の方と接触をなさって今日におよんでおられますが、誰か陰の、意向を打診したり意見を交換する相手が見つかっているのでしょうか。言いにくいことも、この席では言って頂きたいと思います。それから、中国は一応の粛正をやって収まるとしても、日本政府は何らこれに対して発言しなかった。その方が、賢明だったということも考えられますが、今後は何かの意志表示をし、世界的にさしさわりない上手な方法で問題を解きほぐしていくということも肝要ではないか。その辺の心根を聞かして頂ければ有難いと思います。それが一つ。それからケ小平は、解放、近代化という事を言っておりますので、いずれ近代化をせんことにはどうにもならぬ。改革をせにゃいかんということは将来誰しも考えておるとは思います。けれども、これで一時、火が消えたというような期間があまり長く続くと、中国にとって残念な事であるし、日本としてもだまっていたのが良かったということばかり繰り返している訳にもいかんと思いますがその辺、先生の胸の内をお聞かせ頂ければ有難いと思います。

伴−−中国の政界、財界の要人の中でだれか目あてを決めて、それに直言して行くという発想は、先ほど伊東正義さんを引きあいに出して言ったんですが、残念なことに日本のそれだけ高い地位、伊東さんぐらいの地位でそこまで考えている人がどうもなさそうだ。日本側にも今アクションを取れる人がいないということが一つあると想う。私の現在の地位はまだトップヘものが言えるというところじゃございません。かなりの所までは言えますし、今までも言って来ました。教科書問題、光華寮問題等でかなり言って来ましたけれども、とても、今の中国政府の行為を是正するほどの影響力を、現在の私はまだ持ちあわせていない。と言うことで第一の質問についてはお先真っ暗であります。

第二番目ですが、確かに沈黙ばかりしておったのでは、不見識を問われるのが落ちです。世界の国々がどう中国を非難しようと、日本はオープンにあまり中国を非難をしない。実質的に、「こんなことをしよったら世界の孤児になりますよ」と、オープンじゃない形で言い続ける、これは可能でしょうね、外務省でも言える訳です。外務省だからオープンにする必要もない。そういう意味では秘密外交の中で対中秘密外交は大いに期待すべきとこだと思うのであります。そういう点については私も何らかの仕事をしていきたいと思っております。現に私にですね、政府は言いにくいので民間人の伴さんのような人がこういう時に大きな声を立ててくれと、言われもしました。私はやっばり声を立てるだけでは所詮は気休めで、中国政府が良くなるためには、オープンに声を立てずに、秘密裏に中国だけにこっそり正論を説き続ける。それが正しい道だと思っております。

D−−先生から、中国はどこへ行くか、又、対岸の火災と見ておってはいけない、というようなご発言があった訳でございますが、同時に、日本よどこへ行くと、いう点にも疑問を投げかけられた訳でございます。しかし私は、対中政策はもとよりでございますが、今や我が国政全体が、正常性を失った狂犬のごときリーダーの口調にまどわされ、国民は全く人形のごとくかり立てられ、もてあそばれている。その現状を私は深く嘆く訳でございます。時間もあまりございませんけれども、先程、先生は中国政府や党の首脳に直言できる人材が望まれると言われました。そこで私が国士として尊敬している先生に、対中問題と日本の国政をいかに正常化させるかということについて先生の決意と御発言を求めるしだいです。

伴−−非常に難しい、本当に大事なところのご質問になりましたが、実は中国の人々がこれだけの犠牲をはらいながら求めているところのものを我々、日本人は現に持っている、持っていてほったらかしているというのが現状だろうと思います。言論の自由から始まって。国内問題を考える時の私の発想からすれば、日本人にはやっぱりアジア人としての、アジアの共感というものが心になくては長続きしない。アジアの共感でなくて人類の共感でもかまんわけですけど、とりあえずアジアの共感、お隣がこんな目に逢っているときに、胸にささって興奮したり激昂したり憂えたり、そういう感情が日本人の心の中にわき起こってしかるべきであると思う。中国の今までの四十年は何だったかという問題もありますけれども、日本の民主主義の四十年は何だったのか。マッカーサーが来た日から今日までの、日本の民主政治がたどった道は何だったのかと言ったら、人のことは笑えないほど何にも進歩してないじゃないか。しかもそれを、政治家の責任にしている。今こそこういう隣国の悲しみに端を発して、日本国民が自分たちの力、自分たちの運動で世直しをして、そして中国がいつの日か日本のような自由を勝ち取った時に、さらに政治のあり方についての模範が中国に示せるように、そのくらいに日本の政治をりっぱにしておく必要があると思います。明治の気概と言いましたが土佐の気概ともつながるわけです。日本が植民地化しようという状況を見て土佐の青年が決起する。明治以降は自由民権運動という違った形で土佐の青年が決起する。そういう土佐の気概、今いずこにありやという思いがするわけです。今日は講演会でございますから、ここで止めておきます。深く日本の前途についても思うところがありますが、それは日を改めて申し上げることに致したいと存じます。


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