中国を語る会研究論文
 

大平スピーチの初原稿


 昭和54年(1979年)大平総理初訪中のスケジュールが決ったのは年の瀬、円借款の合意と並んで注目されていたいたのが、政治協商会議ホールで行われる総理の基調演説であった。この行事が終わり次第、退官のため帰朝命令が出ることになっていた私には,実質上、演説下書きの一番手という、時の境遇にふさわしい役目が与えられた。その知遇に応えるべく四半世紀にわたる外交官時代最後の情熱を振り絞って起草したのが,今度のコラムに載せる「大平スピーチの初原稿」である。

 十年後、日中友好会館理事長時代(一天雲なく晴れ渡ったような北京在勤当時の両国蜜月時代を回想しつつ)小冊子に要約して旧友に送ったのが今回配信するコラムである。

 うっかり筆をいれては温度差を拡げる心配もあるので、今回はあえて堅い原文そのままで載せることにした。

 1.

 中国が安定した足取りで経済・社会建設を進め、それによって、世界に向かって開かれ、かつ、世界の中で中国にふさわしい地位を占める。それは中国の人々の願望であろうし、かつ、われわれ日本人の期待でもある。

 ただ中国がそのような国になっていく過程は、中国にとって苦難の道であるのみならず、すぐ隣にあるわが国にとっても試練の過程である。

 多くの面で日本と中国とが相互補完関係を築き上げる可能性は大きい。だがそういう相互補完の関係を実際に打ち立て、維持、発展させていくためには、苦難の道を歩む中国と、試練にさらされる日本の双方が、時には身を削るような激痛に耐える覚悟が要る。洋々たる前途は必ずしも担々たる道ではない。

 その上、日中両国はこうしたそれぞれの歩み方を二国間の視野でみているだけではいけない。両国関係の変化と発展が世界でどういう意味を持つことになるかを常に念頭に置いていなければならないのである。

 日中双方はそれぞれ違った意味においてではあるが、何れも大きい影響力をもった国である。それだけに、その影響力の善用について語り合う要があり、このことは日中関係の中で、これから作り出していくべき一つの重要な局面だと言わなければならぬ。そしてこのような次元に日中関係を高めることは実に容易ならぬことである。通常の意味での両国関係を維持、発展させながら、その上更に苦心に苦心を童ねて築き上げるものであろう。

 2.

 これからの日中関係構築の上で先ず留意しなければならないのは双方の平和関係が、国家の理念や政治的イデオロギーに従属する戦略手段などであってはならないということである。日中両国は政治、社会体制を、相容れないまでに異にしながら、そのことを認め合った上で、「どんな遠い将来のどんな場合にも、その相違がモトで平和が決潰するようなことはあり得ない」ことを確認し合っておく必要がある。

 次に余りにも当然のことながら、何を考え何を行うに当たっても、礎となるのは両国民がそれぞれ相手をよく知ることである。

 この大切なことが忘れられ、その時々のムードや漠然たる近親感で日中関係を築き上げようとする安易な風潮がわが国では今もって支配的である。しかし相手を知るということは、実は安易な業ではない。2000年の繋がりということも、見方によってはかえって互いに知ろうとする努力を安易なものにし勝ちであり、このことは論より証拠、過去一世紀の日中関係が何よりも雄弁に物語っている。ついでながら、この不幸な時期を忘れることは、前に進むという意味においては正しいだろうが、そういう時代を生んだ真の原因を追求しようとする努力を棚上げにしてしまう危険がある。

 よく知らないでいて、知っていると思い込んでいる状態ほど危険な状態はないが、中国のことについて日本人はよくこの錯覚に陥るのである。日中関係が対等な関係に到達し得たこの時期に胆に銘ずべきことは、お互いがまだ殆ど相手を知っていないということである。相互の間のすべての施策をこの原点に立ち戻って考えることが肝要と思われる。

 3.

 日中関係を経済中心に把え、例えば経済上の相互補完性を基軸にものを考える風潮が見受けられるが、補完性を言うなら精神的な相互補完性にこそ先ず目を向けるべきではなかろうか。広大にして大陸的な環境風土の中に大集団として育った中国人と、海洋的な環境を持ちながらも、狭小な国土と比較的小規模な集団として育った日本人とは、自ら人間形成の環境を異にし、一方の長所は他方の短所という関係にあると言うことができる。殆ど見境のつかない顔立ちをし、一衣帯水の間柄にある両国民の間にこのような認識が出来上がれば、これは互いに尊敬し合い互いに助言を与え合う益友の間柄、永続的な真の対等関係をもたらすのではなかろうか。

 国力には長い歴史の中で互いに消長がある。このことは日中二千年の間にもこれを見ることができ、これからの歴史の中でも生ずるであろう。そういう国力の消長がその時々に或る程度優越感や劣等感を起こさせることは避け難いが、真の対等感が定着していればいるほど、一時期の国力の消長に起因する優等感や劣等感の発生は最小限に抑えることができよう。

 互いによく知っていないことを認め合い、互いに知ろうとする努力を重ねて行く。それをこれから先どういう形でやっていくか。それがこれからの実践課題になるのであろう。

 4.

 百聞一見に如かず。そんな気持ちでいい、とにも角にも人間の往来を盛んにしなくてはならないが、幸いにも日本人の方は、生活水準の上昇に支えられて海外旅行熱が益々旺んである。

 ただ、その中で危ぶまれるのが、十億の人間が住む中国という大陸国家を感じとる力が、現代日本人に備わっているかどうかである。その参考までにここで、近世に入ってからの日本人の中国感の変遷を辿ってみよう。

 中国が遠い遠い存在であった江戸期には中国は孔孟の国、当時の識者の崇拝ぶりは往々にして常軌を逸するものがあった。ところが明治になって直に中国を見る機会が兵士を含むかなりの日本人に開かれてくると、日清戦争での勝ち戦ということも加わって〃シナ〃への侮蔑がそれまでの日本にあった唐土へのあこがれを圧倒し去った。

 それがどうしたことだろう、敗戦による四等国思想と裏腹の面もあろうが共産革命によって中国大陸への視界が竹のカーテンに遮られてしまうと、日本人の潜在意識にある〃中国への弱さ〃が表に出てきた。ハエー匹おらぬ、といった類の誉め言葉はわれわれの記憶に新しい。

 そして国交回復。十数年の間に中国はすっかり近い国になったが、こうなればこうなるで気懸りなのが生活水準の落差からくるコンプレックスの発生である。富に驕った日本人の目に、設備の不備、品質の劣りなどがどう映るか。貧しさからくるそういう現象だけで国と国民を評価してしまったらどうなるかが心配なのである。かつて武力で格差をつけたときに踏んだ撤を再び踏むことのないように、いま経済力で優位に立ったわれわれは自戒しなくてはならない。このことは、特に戦争を知らぬ世代の人々に力説したいのである。

 人間往来に附随するいま一つの問題は中国の側にある。日本の場合のように誰でも彼でもが好きなところを目指して海外旅行に出ることなど、今の中国では民衆の資力を越える。人間往来と言うと聞こえはいいが、実際は日本人の一方交通であって、〃十億の民いづくにかある〃の感を禁じ得ないのである。この跛行状態はかつて日米間にも存在した現象であってつまるところ生活水準の格差に基因し、抜本的な解決の道はその格差を縮めて行くことにしかない。

 ただ人間往来の中には、いままでに述べたような大きい流れには至らないけれども、工夫の仕方いかんで夫々に絶大な影響力を持ついくつかの形の往来がある。

 その一つは学術、文化交流である。その中で往来する人々は学者、文化人、留学生といった選ばれた人々に止まるが、そういう人々の影響は往来する人の数では測ることができない。特にその中のかなりの部分が、長期に亘って相手の国に滞在し、生活するということは、互いに相手を知るという意味で重要な意義を持つであろう。

 それに類似したものに開発途上国援助の一つとしての技術協力がある。無数の職業分野において専攻、専門を同じくする者同志の人間交流が行われ、しかも、その中の相当多数が長期間相手国に滞在することは、深く相手を知る方法としてうってつけの形態である。長い歴史の中で見るならば、援助の側面は技術格差と経済力の格差のある間の一時的なものでしかないが、相互理解、人間交流の側面はそういう変遷を超えた子々孫々までの意義を残すものであると言うことができる。

 このような考え方を押し進めていくと、貿易その他の経済関係も、物的側面のみから把えるべきではないことが分かる。物的側面が人間生活に占める比重は、確かに両国関係でも圧倒的である。しかし、キレイごとの通用しない、損か得かの打算が幅を利かしている経済関係に於いても、商業倫理と言うべきものはでき上がっていい。そして、そういう過程において得られる相互理解はそれ故に、その意義がなおさら深いと言わなくてはならないのである。

 5.

 日中双方は、両国関係の上で、或いはアジア情勢、世界情勢の中でどのように厳しい局面を迦えても、両国関係発展の洋々たる前途に対する希望を捨ててはならないと同時に、両国関係の前途が平坦な道を辿るだけではないことを覚悟しなければならない。

 子々孫々の友好は、厳しい試練の彼方にあるものであり、不撓不屈の努力によってのみ築かれるものである。
 


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