Sakigake Touron
Shoichi Ban   
 

魁け討論春夏秋冬

ご意見


 

「魁」8号 さきがけ運動に立ち上がろう(2)
1996年02月26日 


 有権者というからには、政治のよしあしを自らの責任だとしなくてはならない。そのツケは自業自得で自分たちに廻って来ると覚悟しなければならない。

 日本が中ぐらいの国である間は、その自覚だけで十分だった。だが、これだけの経済大国にノシ上がってしまうと、自業自得だけではもうすまされなくなって来た。アメリカがおかしくなると世界中がえらい目に遭うと言われるが、日本もアメリカなみの国になって来た感じである。日本の国際化の中で一番大切な個所はここであって、大国の有権者にはそういう感覚の持ち合わせが必要なのだ。

 ところが、有権者全部にそんなことを言っても、全部がそんな意識になってくれることは先ず望めない。大多数は、真面目に働いて家族を守って行くだけで精一杯であり、また実際問題としてはそれでよしとしなくてはなるまい。

 となると、デモクラシー、デモクラシーと美辞麗句を並べ立てているだけでは甚だ心細いのであって、この仕組みならいい政治家が出せるという、有権者中の「有志の組織」が考案されないと、民主主義政体は名ばかりのものになってしまう。

 途方もないカネが選挙にかかるというのも、こういう仕組みがまだ出来上がっていないからだと断定できよう。

 一つの発想なのだが、日本の政治をよくしようという動機で、仮に5000人が力を合わせ得たらどうなる? 5万人や6万人の一般有権者を動かすことは、予想以上に障害はあるだろうが、できない相談ではない。

 同志の数を5000人にするまでには、専従、半専従、ないしそれに近い形で動き廻る献身的な世話役が何人か要るだろうし、その一人一人には、やがて十人かの周辺協力者が現れなくてはならないだろう。5000人になり、それが優れた運動体に仕上がるまでに通らねばならない関門は、このほかにも沢山あるだろう。カネだってなくてすむものではない。

 デモクラシーを作動させていく上で政党の必要性が強調されてきたのは、もともとこれまで述べたような発想からだと思われ、昔の中国流の表現に従うならば、士が、優れた運動体を組織して、庶(一般有権者)の導き手になることが、期待されていたのではなかろうか。

 今の日本の現実がそうなっていないことは誰の目にも明らかである。

 いま国政選挙は、殆ど「玄人」がとりしきっている。玄人を用いない選挙で勝とうなんて「そりゃムリだ」と良識派の人々は口を揃えて言うようになった。そして玄人の請負価格に「〇当〇落」といって億単位の相場がつけられるのである。

 この玄人の世界で戸惑うことを挙げれば際限がない。

 通常ならば人々のひんしゅくを買う不自然な愛想笑い、人を小馬鹿にしたような深々としたお辞儀、誰彼の見さかいもなく半強いする握手……。そんなこんなの異常な行動がここでは是認され、推奨されるだけでなく、練習、習熟を求められる。

 ウソや出しゃばりも然りで、正直、謙虚の美徳などは、知性や気品と共に邪魔ものとされ、政治家たらんとする者の失格条件にさえされている。

 今の選挙のノウハウは、戦後だけといってみても40年という長い経験から、苦心の末に編み出されたものであることに違いない。何十万人という有権者を相手に、15日やそこらで政治家的確の判定を求めるのにそもそもムリがある。平素は平素でマスコミの支援が得られないことになっていて、葬儀参列がその適例であるように、体力にモノを言わせ、考えられるあらゆる原始的方法を駆使するほかはない。そんな中で編み出されたのが、いま大体慣行化している選挙の手法なのである。カネもなくては選挙にならないことも、やってみてよく分かることだ。

 しかし、そうしてそんなに巨額のカネが要るのかを含めて、玄人請負方式の中にある異常な現象を正視し、斬り込んでいくことを、無駄で無謀なことと決めつけることができるのであろうか。

 いかに国士の心情の持ち主であっても、仲間同士、時勢を慨嘆し合っているだけなら、申し訳ないけれども趣味、道楽の域を出ない。相互に研鑚を積むことは欠かせないことだが、これも一般有権者の導き手となるのが目的であって、自ら高くとまって国士気取りをするためのものでは断じてない。

 政治をよくするという動機が本物なら、ひるむ心に鞭打って一般有権者に向かって行動を起こすことだ。その実践活動の中で一つ一つの現象を自らの目で確かめ、どこでどうすれば正常なものが育ち、異常なものの異状部分が圧縮できるか、に挑戦して行くことだ。

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