「随想録」
 

私の随想録 第2集

 第二集に寄せて

 昨、昭和56年の半ばから今年の春にかけて書いたものの中から6編を選び出して「私の随想録・第二集」と致しました。

 全体としては、第一集と同じように伴正一の政治理念を述べたものになっておりますが、若干、政策の領城に近づいている部分もあります。

 それぞれに忙しい方々が読んで下さる訳ですから、少しでも分かり易い表現にしなければならないと一生懸命に努力しましたが、文章は一朝一夕に上達しないもののようでして、硬い表現があちこちに残っております。

 しかし、私なりに精魂を傾けて文字にしたものばかりですので、是非ポケットに入れて頂いて、何かの待ち時間にゆっくり目を通して下さるなら、私にとってこれほど有難いことはありません。読後感など頂けたら、それこそ望外のしあわせでございます。 昭和57年6月



 目次
  1. 防衛論の現状に異議
  2. 私のシルクロード
  3. 回想の中国 その一
  4. 回想の中国 その二
  5. 土佐の大地に立って
  6. 政治を考える会発足について

 一、防衛論の現状に異議あり

 海軍経理学校に入校のため生い育った土佐の山河を後にしたのは昭和15年11月の末、ふるさとはまだ秋色の頃であった。

 昭和21年2月11日復員。山城、愛宕、霜月、満珠、乗り組んだ四艦は既になく、各艦での私の後任者は4人とも戦死していた。生きてふるさとの土を踏むことの〃うしろめたさ〃がその時からずっと尾を引くことになる。
 一旦、当時の山内侯爵家に奉職した私は、間もなく大学に入る。その頃、友人に宛てて「ワレ大学二在リテ天下ノ形勢ヲ観望セントス」と書いたことを覚えている。状況によっては今で言うゲリラに転身しようとする気持ちが若干残っていたのである。しかし実際にはそういうことにならないで追放解除の翌年外交に身を投ずることになった。

 そして28年という歳月が流れ、今度はまた違った感懐をもってふるさとの住人に帰ったのである。

 物心ついてからが人生とするなら、私の人生は満州事変の出征兵士を宇和島で送った頃から始まり、駐中国公使として日中平和友好条約の締結に携わったという形で仕上がっている。戦争と平和の大きなうねりがその中にすっぽりはまる。その上、貧しい時代から豊かな時代、権威の過剰から権威の喪失といった社会の地殻変動までが〃おまけ〃についている。

 これだけの体験を体験のままで自分の体と一緒にあの世に持って行っていいものだろうかと思う。戦中派の使命未だ終わらず、この豊かな体験を咀嚼しこれからの日本の滋養分となるものを残すべきではあるまいか。こう考えながら論議渦巻く防衛問題について私なりの思いを綴ってみようと思う。

 第二次大戦を刀折れ矢尽きるまで戦った戦争体験を持つ者にとって、ヴェトナムやソ連の進攻に立ち向うカンボディアやアフガニスタンの兵や民衆の戦いの日々、被占領の日々を他人事として考察の埒外に置くことはできぬ。強い国が弱い日本に攻めかかって来ないと断言はできないし攻めかかる瀬戸際の状況が作り出されないとも言えない。守り切れなかったらどうなるだろうかくらいのことは想定しておかなくてはならない。脅威が顕在化してから物を考えて間に合う筈はない。私が提唱したいことは脅威のあるなしやそれが潜在的であるとかないとか議論をする前に、守り切れないで、或いは守らないで、占領されたとしたら、世の中がどんなに変わるだろうかという点を先ず大いに議論すべきだということである。その例を一つ二つ取り上げてみよう。

 占領軍が国民から占領費を取るかどうか。

 形の上ではともかく、占領費を本国国民の税金だけで賄うことはあるまい。下手をすると、と言うよりも多分、現在日本が使っている防衛予算の何倍かを占領軍は日本国民から取り立てるだろう。少なくともそう考えておく方が先になってホゾを噛むことがない。

 生活氷華。

 本国国民の生活水準の何倍も高い生活水準を日本国民に許すとは常識で考えられない。占領軍本国並みのところまで切り下げられる。その国の民衆が自家用車を持てないようなら、日本からマイカーは消える。そう思っている方が見当て外れの危険がない。

 工業力の軍用転化。

 日本占領の魅力は何といってもこの巨大な工業力を手に入れることにある。その工業力を日本国民のしあわせだけのために機能させておくだろうと思うのは甘いにも程がある。日本の労働者の何分の一かは武器の生産に携わり、彼等の生産した武器は世界のどこかで人を殺すのに役立つことになるだろう。

 自由。

 今までに述べたような状況下で抗議ができるだろうか。命がけでやるならそれは何一つできないことはないが、今の日本のように何の危険もなく、総理であろうが誰であろうが公然と非難できる世相ではなくなるに違いない。泣き寝入るか、命を捨てて立ち上るしかないと見てよかろう。

 進攻し占領する側がどの国であるかによって事情が違うから、上に述べたように必ずなると断言はできないが、それくらいの可能性を想定してかかる方が賢明だと思う。

 今のままの経済や社会環境が保持され、違うのは国家権力が外国人の手に握られるだけ、という漢然とした感覚が一般国民の中にあると私には思える。国を守る気概と言ってみても何かまた勇ましい論議が始まったように受け取られ、大西郷を始めとする先輩たちのことも懐旧談の域を出ないで終わっているように思えてならないのである。

 大東亜戦争の追憶、しかも負け戦になってからの追憶だけから戦争と平和の問題が考えられ勝ちになるのも無理はない。国民の大部分が目のあたり見たのはその部分だけなのだから。しかし、もうそろそろあらゆる面、あらゆる角度からの将来予測の上に立って問題を論ずる風潮が出ていい頃ではないか。さしずめ論議を進める段取りとしてどの辺を最初に取り上げたら分かり易いかをよく考えねばならぬ。私は、占領下の日本の状態をどうするかを最初に論し合うのが一番いいと思っているのである。
 

 二、私のシルクロード

 (1)天山の雪
 NHKのシルクロード番組を見ているとたまらなくなつかしい。一昨年の晩夏、何か予感めいたものがあって三人の子供を北京に呼び寄せ、そこから家族揃って、シルクロードヘの旅に出た。蘭州からはずっと汽車だった。砂漢や、雪、氷、そして遺跡と壁画……。私たちの受けた印象は新鮮だった。番組がそれを思い出させてくれるのだ。

 シルクロードの旅には、もう一つ、もっと心に残る思い出がある。

「中国公使。28年のキャリアにここでお別れを告げよう」。正直言って清水の舞台から飛び隆りるのに等しかったが、こう心に決めたのが天山の山並みの中だった。澄み切った、そして雄大極まりない大自然の中だった。私を見下ろすように雪の山頂が連なっていた。それを映す「天池」の水は心をすき通すように清冽だった。

 シルクロードの旅がなかったら私は土佐に帰って来てはいないだろう。勿論、外務省も辞めていないに違いない。それまでの蓄積された素地はあったにしても、生涯的な選択を私に決行させたのは、シルクロードのあの天山山脈の壮大さだったのである。

決意は5カ月の後に実行される。帰国が年明けての1月、退官が翌2月、郷土に帰って来たのが桜の咲く少し前だった。

 私の選んだ道は政治であった。それからの私は政治に焦点を当てながら、更めて自分の国日本を見つめ直している。今まで私にとって当り前のことだった世の中のことが不思議と新鮮に映る。そして興味をひく。そんな中でひときわ私の興味をひいてやまないのがこの文の題にした、日本におけるシルクロードのブーム現象である。
 何故こんなにシルクロードがブームを呼んでいるのだろう。しかも長続きしているではないか。

 こうしてあれこれ考えている中に私は、これはひょっとしたら、えらいものにブチ当たるかも知れないぞ、と思うようになった。日本人の心の中でかすかに動き始めている〃何か〃があって、我々はまだそれに気付いていない。けれども、ひょっとしたらブームの謎を解く中に〃何か〃を探り当てることができるかも知れない…、いささか希望的観測めいてはいるが、そんな予感が心をかすめたのである。

 (2)幻のシルクロード

 日本人の場合、仏像と壁画を外してシルクロ‐ドは語れない。そこで思い起すのがパキスタン西北、タキシラの仏像とアフガニスタンの大遣跡、バーミヤンである。私がまだ、40歳そこそこ、参事官としてパキスタンに在勤していた頃の思い出である。

 仏教は、釈迦がなくなった後も何百年かの間は仏像というものを持たないままでインドを西へ西へとひろがっていった。それが西からのギリシヤ文明と出会って、彫刻としての仏像が生まれる。異説もあるようだが、その仏像発祥の地が、ヒマラヤの山麓、今はパキスタンのタキシラで、私の住んでいた首都イスラマバードから25キロのところにある。そこで、すっかり仏像マニアになっていた私の家族は、ひと夏インダス河を越え、さらに英露角逐時代の要衝として世に名高いカイバル峠を越えアフガニスタンに入った。僧玄奘やアレキサンダー、ジンギスカンの通ったであろうアフガニスタンを訪れた。岩山を刻んで立つ高さ数十メートルの巨大な立像に、圧倒された私達は頭部の背後にある壁画を見て二度びっくり。あっ!法隆寺。その連想に思わずかたずを呑む一瞬だった。
「仏教伝来の道は日本の歴史家によって解き明かされねば……」。思わず天の啓示かと疑うくらい強烈に、その思いは心を突き抜けたものだ。しかし当時、大部分は中国領。「その道を日本人が行ける日が果して何時の日に来るだろう?」と切ない思いに駆られる程、14年前、シルクロードは、私にとって、まだまだ遠い幻の道だった。

 (3)野性への開眼

 外務省入省間もない昭和28年の春、アジア局勤務から、米国在勤となった。その頃、私を魅了してはなさなかったのは、ニューヨークやサンフランシスコではなく、シェラネバタ山脈から東に広がる広大な砂漢の景観だった。

 行けども行けども、果しなく続く黄昏の道。まだかまだかと人里の灯を待つ気持ち。長途の山岳ドライヴでは、私の中古シボレーは、オーバーヒートに悩まされるのが常だった。こんなところでエンコでもしようものなら…、心細い限りで、日本が貧しかった頃の駆け出し外交官の不安は高まるばかり。だが、私は思い直した。「このわずか一、二世紀前、ホロ馬車を駆り、妊婦や乳飲み児を交え、インディアンの襲来を恐れながら、西へ西へと長い旅を続けた当時のアメリカ人。その頃は道なき道だった筈」と。そう思うと黄昏の心細さから一転して、果てしない砂漠の向うに、かつてのアノリカの野性と、その逞しさに人間精神の荘厳さを感じ取った。戦前の日本人はアメリカに戦いばかり挑みそんなところを見落していたんだとも思った。

 そういう訳で私は日本へ帰ってからも、これからアメリカヘ行くと言う友人たちに「砂漢を走らないと、本当のアメリカは分からないよ」とよく言ったものだ。だが、私の言う通り砂漢を走った友人は、どうやらいなかったようで、ましてや私の着想に心から共鳴してくれる人もなかったようだ……。

 大砂漢を越える!それは安易を捨てて困難に挑むことだった。アメリカ創業期のウエスタン・ムーヴメントには文字通り砂漠を行く人間の野性が漂っていた。砂漠は単に草木のない土地の拡がりだけではない。大国と呼ばれる国の国民性形成に砂漠の与えた影響は大きいのだ。その砂漠は日本にはない!

 そう思って見ればNHKのシルクロード番組から野性の調べを聞くことができない。

 砂漠の朝、辺りを支配する鮮烈の気が漂って来ない。諸行無常の響きはあっても雄心勃々たる張騫や班超の気概が扱みとれない。

 ああ、やっぱり駄目か。日本人に砂漠の意味は分からないのか……。

 (4)大海原

 ふとしたことから私の失望が消えた。それは、この文章を書きながら「失望でピリオドを打ってしまおうか」と半ば、サジを投げかけているときであった。

 ナニ、絶望することも、不感症呼ばわりすることもないよ。
 日本人は大海原を持っているではないか……。
 そんな感慨が湧いて来たのである。

 仏像もお経も砂漢ばかり通って来た訳ではない。東シナ海の荒海を越える長い潮路の旅があったではないか。そして仏教史の上でこの潮路の果てに日本があったことが、どれだけ重要だったことか……。

 海のシルクロード!

 私は思わずそう叫んだ。そして、こうも考えた。

 日本文化は干何百年も前から、遠い租先の時代から、何と雄大なものに育まれて来たことか。多彩な背景の上に成り立っていたことか……。

 シルクロードブームは、日本人が潜在意識の中でそのことに気付き始めていることの兆候かも知れない。

 遠い先祖から何十世代もなじんで来た仏像の由来を、今、日本人が見つめ始めたのかも知れない。その心の奥底には、ひょっとしたら、豊かな社会の次に来るべきものを模索する気持ちが、かすかに働いているのかも知れない。−と。

 わが土佐。それは果てしない大海原を眺め続け、その渡に洗われ続けて来た土地柄なのだ。
 

 三、回想の中国 その1

 (1)暗示 そして深まる関心

 昭和28年、講和条約発効の翌春、米国に赴住する私を海軍仲間が送別してくれた。

 伴が外交官と聞いてびっくり。「アレもアメリカだって???」「驚いたなあ」「北京駐在武官なら似合うしやないか」「ワッハッハ」。散々皆にからかわれ、ひやかされたあとは歌になったのだが、その北京駐在武官なる言葉が、後々私への暗示となることになる。顔立ちやら動作ののろい輩が、スマートを標榜する往年の帝国海軍では変わり種であった。その伴が、事もあろうに外交官になるというのだから皆があきれたのも無埋はない。伴のイメージに結びつくのは中国しかなかったに違いない。自分でも、その場は苦笑いで終わるのだが、やがて駐在武官が暗示になって、私は中国づいてくるようになる。それは、十年以上も経って後のことではあるが……。

 昭和40年から44年にかけて私は、バングラディシュが分離独立する前のパキスタンに在勤する。ボス(大使)は田中弘人。この人がまた変わった人で、若き日チャンドラ・ボースの秘書官をしていたという経歴の持主。チャンドラ・ボースとは、今でもインドではネールと並ぶインド独立運動の英雄で、田中弘人さんが仕えた頃、チヤンドラ・ボースはシンガーポールでインド国民軍作りをやっていた。

 弘人さんが大使で私が次席、二人とも、ナイフ、フォ−ク嫌いの酒好きときていて、それほど忙しくないヒマラヤ山麓の夜を二日にあけず酒の相手に呼び出されたものだ。

 その頃、私の中国熱はかなり本物になっていたし、弘人さんも弘人さんで毛沢東を語り出したら終わりがない。両々相俟って話は何から始まっても落ちつく先は中国論、何時も夜がしんしんと更け、時折遠くで狐のなき声がする午前一時、二時まで腰が上がらなかった。因みに、やがて田中内閣の日中国交正常化に陰の立役者となる橋本恕君(阿波の鳴門の産、旧制高知高校。外務省では私と一期違いで現在情報文化局長)が中国謀長になったのもこの頃である。

 これもパキスタン在勤時代のこと、休暇を貫って日本に帰ったとき、私は司馬遼太郎、東畑精一などのお歴々から中学時代の友達まで、約1カ月にわたって同じ質問をして歩いた。「10年後の中国はどうなるでしょうか?」と。その中で松村謙三氏(戦後農地改革当時の農林大臣、周恩来と親交あり)は、「分かりません。しかし、せっかく来られたのだから私が分からんとしか答えられない理由をお話ししましょうか」と言い、私の請いに応じて約一時間その理由を述べてくれた。最も印家的なのは、この松村さんに会ったことであった。

 その次に印象に残ったのは誰かと聞かれたら、私はためらいなく光森正君(現在千代田化工建設取締役)の名を挙げる。中学で私より三つ下、当時会社で人事をやっていた彼はこう言う。「7億、8億というのがみんな中卒まで行ったら、どえらいことになりますな」。大きなポイントだと感心したものである。

 考えたり、自由奔放に推測したり、仮説を立てて談論風発する点、私の中国熱は大したものだったが、原典はおろか本をロクに読まないでいたのが当時の私の中国研究?の一大欠陥であった。

 (2)晴れて中国に使する

 その私が多年の念願叶って駐中国公使を拝命したのである。難航する日中平和友好条約交渉をめぐって朝野の関心が中国に注がれている時期……。男、冥利につきる!胸中深く期するところあってか。

 北京に客死するとも可なリ―と言って長男を驚かせたのもこの頃だ。

 昭和53年2月、北京に着任。7月には初代小川大使が離任して、私が臨時代埋大使となる。そう言ったら恰好がいいが、大使館の中では〃中国スク‐ル〃と呼ばれるベテラン書記官たちが、着住早々の私を見つめている。彼らの該博な知識と分析力は、とうてい私の及ぶところではない。なめられないようにするのに青息吐息の数カ月であった。

 そして、将にその時期がケ小平の復活をめぐって世界の耳目が北京に集中している時期でもあったのだ。臆測が乱れ飛ぶ。どの国の大使館もそのことで緊張の連続。北京駐在特派員に至っては、社の名誉を一身に担って鎬を削る。

 (3)中国いずこへ行く

 それを占うのがケ小平の復活だった。

 そういうなかで、わが〃大日本帝国大使館〃が安開としていられる訳がない。

 7月何日かという日がやって来た。小川大使離任。それから1、2カ月の間、私が大使館の指揮を取ることになる。ケ小平はまだ復活しない。日中平和友好条約は宮沢四原則(先方が勝手につけたもの)に中国側が反発したまま交渉再開のきっかけがつかめないでいる。

 私の前にあるのは、パキスタン時代のような、飲みながら語る中国でもなければ、人から聞く中国でもない。まがいもない中国そのもの、状況の掴み難いことで世界をてこずらせていた中国なのである。

 (4)空耳の話

 空耳の話というのがある。

 当時の中国で大物がやられたり復活したりするのを数日も前に予知することは、外交団でも特派員でも、まず不可能とされていた。「壁新聞」が出、党中央の決定を支持するドラの昔や太鼓が聞こえ始めたと思ったら、数時間もたたないうちに、天安門広場や長安街は気勢を上げる人波で埋まるのである。どの大使館も、どの社の特派員も、聞き込みは聞き込みとしてこの「壁新聞」を早く見つけ、ドラ、太鼓の音を他より先に聞きつけるのに腐心していた。

 今から考えるとウソのような話である。当時でもバカバカしいと思わないでもなかった。党中央の決定を30分早く知ることが重大なのは、それに即応する手を一分でも早く我が国として打つ必要がある場合のことだ。そういう必要もないのに大使館が第一報目当てのマスコミの先陣争いに加わる必要があるだろうか。

 しかし、当時はまだ、わが大使館は実務上の交渉案件の極めて少ないいわゆる観測ポストと目されている時代であった。観測ポストなら、それなりに情報のキャッチの速さも重要であろう。しかし、それよりも何よりも張り切っている(大使館)政治部の諸君に対して「そんなことに血道を上げんでいい」と言えるような雰囲気ではなかった。そうなると指揮官先頭の海軍精神が頭をもたげて来て、私も何時の間にか張りつめた伴になってしまったのである。鳴りもしないドラの昔が聞こえて外に飛び出してみたら、どうやらそれは空耳。こんな笑えぬ話も3、4回はあった。

 ちなみに、皆の涙ぐましい努力に神が感応してか、1977年7月23日、ケ小平の歴史的な復活を告げる第一電は、わが日本大使館の手で打たれることとなった。香港から出張中の佐藤嘉恭(後に大平総埋秘書官)、大和滋雄の両君が頤和園見学の帰途、天佑とも言うべき状況下で見つけた貼紙が、世界の誰よりも早い発見だったのである。

 (5)男子の本懐

 しかし、それはそれとして実質的に重要なことは、やはりそれから中国がどうなるのかという事であり、それを見極めには大使館でも論議に論議を重ねなければならなかった。

 日改まって8月の下旬、党大会の結果発表を見て最終論議を行い、大臣宛電報が起案された。私はそれに加筆した。「実質、ケ小平時代の幕明け」という容易ならぬ予測である。6カ月の粒々辛苦をこの数語にしぼり切ったという感慨があった。それだけに、外務次官から転じて着任間もない佐藤正二大使がこの加筆部分をそのまま通してくれたことには今も感銘を禁じ得ない。

 以来、私はこの判断を持ち続けた。どんな局面にも「自分がケ小平だったらどうする」という立脚点から仮説を立て、それと実際とを照合する形で情勢判断をして来た。恵まれてケ小平会見に立ち合う回数7回、延時間十数時間、その肉声と表情が「仮説」を立てる上で、どれだけ私に自信をつけてくれたことか。

 やがて、北京の日本大使館は忙しい実務型の公館に急激に変貌して行く。中国について語りたいことは数限りなく出てくるし、それは追い追いこれからの機会に托することにするが、本稿を終わるに当たって、私は男子本懐の思いで三年の中国在勤を終えたということだけを記しておこう。

 四、回想の中国 その2

 私にとって外交28年の中でのハイライトは、何といっても駐中国公使として北京の大使館に在勤した3年間である。9億という気の遠くなるような人間。それがマルクス・レーニン主義の国ときている。手近な人間交流から、といってもそんなにたやすく事が運ぶとはとても思えなかった。

 北京在勤中に私が手掛けた仕事の中で、年々数百という留学生の受入れ、鉄道分野を皮切りとする研修員の受入れ、専門家の派遣などは、日中関係展望の上で確かに画期的な意味を持つものであったが、下手をすると交流が却って相互不信の種をまく、あるいは戦前のように反日感情を育くむ可能性が大いにあり、先々のことを考えて気の重くなることが少なくなかった。

 国の体質の違いがひどい。豊かな国と貧しい国という生活氷準の落差がある。規模の感覚でも、東海に浮かぶ日本列島とユーラシアに蟠居する大国とでは尺度が合わない。一衣帯水と言い二千年のつながりと言うが、民族体験の差からくる流儀の違いときたらまるで話にならない。

 大東亜戦争のあの惨たんたる幕切れも、元をただせば日本が大陸政策を誤ったことから始まるが、中国に在勤してみて、そうした誤りを冒したのも無理はないと思うようになった。当時の日本の為政者を責める資格が今の我々にあるだろうか。それほど日本人には分かりにくい国なのだ。これからでも、戦前の対中国政策と同程度の大間違いをしでかす危険はいっぱいある。中国人に接する姿勢がまだまだ日本人にできていないし、その手前の〃中国をはかる物差し〃もまだ出未上がっていない。

 日本が太平洋を渡って米大陸の方へ引っ越す訳にいかないし、逆に中国がユーラシア大陸を横断して西方に移ることもできない。それならば我々は腹をすえて、アジアの巨人である日中両民族が、これから兄弟とまではいかなくても従兄弟くらいの感じで間合いをとった方がいいのか、お互いに他人として折り目正しくした方がいいのか、双方の間柄なるものを篤と思案するのがいいと思う。

差し当り我々としては中国、中国人と相対する時、思い切って落着き気味に呼吸を整えてかかるべし。我々の態度がはたから見ていて危な気ない感じのものになるには、どちみち長年月の修練が要る。バタ臭くなるだけが国際化ではない。考えようによっては、中国人と相対して見劣りがしなくなるまでの域に達したら、日本人もかなり成長を遂げたことになる。

 大平総理訪中の時、人民大会堂でのある席で周恩来夫人のケ頴超さんから珍しく声をかけられた。

「伴公使、日中間で一番大切なこと、何だとお思いですか」

とっさのことで一瞬ためらったが、私はこう答えたものである。

「中国人の長所は日本人の短所、中国人の短所は日本人の長所、お互いが益友ためになる友人―と相手を認識することではありますまいか」

と。その考え方は今も変わらない。

 3年の中に出来上がった私なりの人脈を手懸かりにし、これから政治家として、真に意味のある役割を日本と中国の間で果そうと心に期している私である。

 五、上佐の大地に立って

 戦後日本の復興と繁栄が、恵まれた国隆環境の賜物であることを疑う人はもういない。しかもそうした国際環境の半分は自然に開けたものではなく政治の決断によって切り開かれたものである。ということは吉田茂さんが内閣総理大臣として、国の舵取リを誤らなかったということ。吉田さんの選択が適切だったことは今になって万人が認めるようになったが、当時、大新聞で吉田コキ下しをしなかった新聞は一つもなかったと記憶する。そんな猛反対の嵐の中を悠然と、葉巻をくゆらせながら自由諸国との片面講和をやってのけた。勇気というより人間の大きさに打たれるではないか。

 爾来星霜30年、日本は吉田路線を走り続けている中に、こんな経済大国になってしまった。国の舵取りとか外交路線の選択とかいうものは、その時には不評でも後になって〃大英断であった〃と分かり、年とともに大人物の評価が定まることが多い。

土佐の人材にはそういう意味で、非常時型でスケールの大きい人が目立つ。浜口雄幸さんの場合もそうだった。だからこそ維新この方、総理と名のつく人は二人しか土佐から出ていないのに、その二人が揃いも揃って、ズバ抜けて偉かった政治家として昨今のようなブームを喚んでいるのである。今こそこんな大人物が出て欲しいと言わんばかりに、「男子の本懐」が本になりテレビ化され、〃吉田もの〃が花ざかりとなる。

 何だか土佐の出番と言われているような気がするではないか。

 国の前途容易ならず、さしも良好だった国際環境に異変が続出し、先進国病が日本を襲う危険がいっぱい、土佐もその例外ではない。幕末の行きづまり打開に躍動した土佐人の血がもう一度たぎり得るかどうか。郷土史研究や史跡保存熱が人材発掘、人材育成の行動的熱情へと燃え移り得るかどうか。

 土佐はそれどころではない。今の後進性から脱け出すのが精一杯だという考え方もあろう。その面で、高知県に利益を誘導して来る責任をもっと国会議員も担うべしとする主張には賛成である。県も国の大事な一部分、県を一つ一つ外して行ったら国はなくなってしまうではないか。同じことが国民と県民の関係についても言える。国政に携わる者がこの大切な部分を「それは県政の問題」と言って避けて通ることが許される筈がない。国会議員が〃地元の面倒を見る〃ことは正しく且つ必要なことと言わなければならない。

 ところでこれから述べることは何れも私の印象であって、調べ上げた上での結論ではないが、高知県の後進性ということは一言で言うと、高知県が国全体の中で適切な位置づけをされないまま時代の進運に取り残されているということだと思う。困っているからどうかしてくれ、隣に出すならウチにも出せ、という式の主張は物乞いの論理、せびりの論法に通じ、外務本省時代の予算折衝経験にかんがみても決していい戦法とは思えない。

きく方からすれば甘えの構造、少しくらいならくれてやれと出て来れば上々の方である。現にそうなっているなら結構だがこれからの主張は、土佐人の性格に合った姿のものにしたいもの、土佐が国の中で果す役割を先ず明確にし、その役割との見合いで国からの給付の質と量が決まるという基本構造を考えたいものである。

勿論何もかにもこの論法で通せといっているのではない。世の中のこと、「何とかしてくれ」でスンナリ話の通ずることもあるし、常識的な公平論で充分という場合もある。しかし末端はそういう事例に取り囲まれていても、中心部にはどっしりとした政策方向が国の信認を得た形で立っていて欲しいものである。

 具体的にこれから柱を立てて行かなくてはならないが、私が真先に取り上げたいのが教育立県の構想である。

 私はこの十年未、江戸時代の見直しを強調している。この時代に、王仁(わに)来朝以来の大陸文化を日本人が日本人なりに消化し切った。その上で日本独自の風格を形成しおおせた。それが世界で殆んど唯一ともいうべき形で欧米の世界制覇に「待った」をかけ、爾後の国運を隆昌ならしめる力の源泉となったのである。

 土佐と土佐人が果した重要な役割についても、江戸期における土佐の学問水準と学問の性格に触れないで話を進めることはできない。土佐は武の国でありなから同時に優れた学問の国でもあった。学問の中心であった儒学で、上方や江戸―今日でいう中央―との落差は驚くほど小さかった上に、知性と行動力が分解分離していなかった。暮末以降数十年の間に輩出した人材は、そういう苗床で育ったのである。

 これは郷上史を語るに似ているが、私は全く今日的な問題提起をしている積りである。

 先ず今日の土佐に、武の要素、剛健の気風がどれだけ残っているだろうか。利を顧みず義に就く、その義を学問的に裏づけ、世界の進過につなぐ気風や如何に。今はそれどころではなく、基礎教育の水準さえ全国で低位を競う有様だときく。

 しかも一番問題なのは、そういう郷土の現状を見て奪起する動きがそれほど目につかないことである。インテリが実力行使に踏み切らないでいつまでも総論的な論評を続けている。ここまで落ち込んだ高知県の教青水準を建て直すには、泥をかぶること覚悟で内々にでもいいから実践計画の策定に踏み込まねばなるまい。

 この点で、まだ思いつきの城を出ないが私の考えていることは、一隅を照らしている勇者―高知県といっても広い。そういう教師がきっといる筈だ―の支援活動をオーガナイズすることから始めたらどうか、ということである。そしてその一人を守リおおせたら、それで元気づく第二の勇者を盛り立てる。こういう飛び火を続けている中から新しい風が県全体に吹き始めはしないだろうか。その新しい風にはためく旗じるしが「教育立県」の大旆(たいはい)である。

 私には元来プロジェクトよりもプログラム、施設よりもシステムという考え方が強い。開発途上国援助の問題に専念した7年間にも、やたらにセンターと名のつくものを作って自分の功績にしたがる相手国政府の要人に苦言を呈し続けたものである。教育立県という場合にも現在私の念頭にあるものは、大学や学部の誘致よりも今ある初中等教育の充実であり、校舎の気風の再建である。
 

 六、政治を考える会発足について

 何が原因で若い人達が政治離れ現象を起しているのでしょうか。

 立派な見識を持った人が論評だけして政治の実践には足を踏み入れない。それどころか足を踏み入れようとする人をさげすむ傾向さえある。それは何故でしょうか。

 選挙演説をきいている限り自民党侯補から共産党侯補まで防衛と外交と相手攻撃の部分以外ではそれほど違ったことを言っていないのに驚きます。本当は増税論者でも本音を言うと落ちるのですから仕方がないといえばそれもその通りです。結構づくめの話ばかりを並べ立てるからといって責める訳にもいかないではありませんか。

 どこかで大きく狂っている。常識や通常の道理感覚で合点のいかないことがまかり通り過ぎています。

 本日発足した政治を考える会は、誰の心にも浮かぶ素直な疑問を、放りっぱなしにしないで常識で納得のいくところまで考え合ってみようという会です。成果が挙れば空洞化の一途を辿っている日本の民主政治を危険な道から散い出すキッカケにならないとも限りません。

 下記アピールにもお目通しの上、大方のご参加を期待してやみません。
 

アピール
  1. 民主政治を成育させるのはこれからです。先ず高知県の精神風土に合ったものを開発し、日本における本物の民主主義の萌芽たらしめようではありませんか。自由民権発祥の地土佐です。
  2. 日本にさきがける土佐。その気風は他の分野にも押し広めましょう。そして地方の時代の一つの模範例を郷土に築き上げてみせようではありませんか。
  3. 良質の檜を出すのと同じように偉材を国ヘ、世界へ。失いかけているプライドを生き返らせましょう。先見と気骨、土佐伝来の精神を守り続け、更に一層高めることを真剣に考えようではありませんか。
伴正一高知事務所 (0888)22−9442(代)
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